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一日一句(853)








天高し風の旨さは馳走なり






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一日一句(852)







あるときはこの名で呼ばれ天の川






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一日一句(851)







柱時計新蕎麦啜る音低く






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一日一句(850)







身の上を話したあとの秋の風






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一日一句(849)







秋の石ながめゐたれど動かざる






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一日一句(848)







玄関の向かう半分虫の闇






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高木仁三郎の言葉(62)




高木仁三郎の言葉 #64

政府の統計によると、1987年度(87年4月‐88年3月)に日本の36の原発で放射線作業に従事した労働者の数は56360人で、単純平均すると1原発あたり約1600人である。詳しい作業内容は明らかにされていないが、過去の例から考えて、大半は「定期検査」期間中の原子炉周辺の作業である。

高木仁三郎セレクション pp. 90-91


The words of Jinzaburoh TAKAGI (1938-2000), people's scientist against nuclear power#64

Workers in a nuclear plant

According to government statistics, the number of workers is 5636 engaged in radiological work at 36 nuclear plants in Japan in 1987 year (April, ’87-March, ’88), simply averaged, 1600 workers per plant. The detail work descriptions are not given in it, but given precedents, most of them are works around a nuclear reactor during “regular testing.”

Jinzaburoh TAKAGI selection pp. 90-91




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一日一句(847)







聖堂の秋オルガンはしづかなり






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金曜デモの本質




金曜デモの本質

デモンストレーションという言葉が、集会や抗議行動を行ったり、政治的な課題に対して意見を表明したりするという意味で、用いられるようになるのは、19世紀半ばからである。日本で始めて、この言葉を、この意味で使ったのは、平民新聞で、1907年のことだった。それ以前は、英語でこの言葉は、何らかの存在や真理を立証するという意味だった。もともとの語源から考えると、デモンストレーションは、それを行っている側に「真理」があり、それをプラカードやデモ行進、シュプレヒコールなどの行動で、立証しようとしていると解釈することができる。では、どんな真理を証明しようとしているのだろうか。

思うところがあり、官邸前の金曜デモに参加するようになった。もともと「行動派」でないわたしが、デモに参加していると言うと、友人たちは一様に驚くが、わたしも参加してみて、驚くことがいろいろあった。その1つが、参加者の多様性である。わたしが直接知り合ったり、間接的に聞いたりしただけでも、元大学学長、サラリーマン、元高校教師、ヘア&メイクアップアーチスト、大学講師、主夫、映画評論家、デザイナー、翻訳家など、さまざまな職業の人たちが、自発的に集まってきている。70年代から反原発運動をしてきたという杖の老婦人までいて多士済々なのである。こういう人々が、既存の組織に動員されてではなく、自らの意志で集合している。考えてみると、感動的な光景が毎週官邸前で繰り広げられているのである。もう1つ、特筆すべきなのは、デモの秩序正しさである。まるで「通行の自由」が「表現の自由」より上位にあるかのような交通規制を受けながらも、人々は指定ゾーンをはみ出ることはない。衝突が起きれば、デモが分断され社会的支持を失うことを知っているのである。

手作りのプラカードを持参し、仲間たちと一緒に声を上げていく中で、気がついたことがある。それは、「命はお金よりも大事だ」という価値観を参加者が共有しているということである。「命はお金よりも大事だ」という真理をデモで示そうとし続けている、と言ってもいい。これが、金曜デモの本質である。デモでは、女性たちが非常に元気であり、命に近い分、切実感も強い。命の本質はお金で買えるものではなく、他者との感情的なつながりの歴史であることを、身をもって知っているのである。

一見、ナイーブなこの命題は、現存社会のあり方に根本的な反省を迫っている。命は唯一のもので、代替不可能な質的な存在である。科学技術が存在を数量化し、マーケットが存在を商品化していくそばから、こぼれ落ちてゆくものが命である。命の唯一性は本来、数量化も商品化もできない。そのことを毎年、日本中で確認しているのが、広島・長崎の祈念式典であり、8月15日の敗戦記念日である。戦争の経験が風化した果てにフクシマが起こったと言ってもいいのではないか。金曜デモは「お金よりも命が大事だ」という命題が実現するような新しい社会関係を求めている。その意味で、1つの文化を形成しつつあると言ってもいいのである。

初出「埼玉新聞」2013年9月23日

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高木仁三郎の言葉(61)




高木仁三郎の言葉 #63

もう八年も前のことになるが、敦賀原発の一般排水路を通じて原発内の放射性物質が流出するという事件があり、大きな社会的関心を引いた。そのとき明るみに出たことであるが、最初に同原発内の放射性廃棄物建屋で発端となる事故が起こったとき、所員たちはポリバケツやぼろきれを用いて、床に流出した放射性廃液を拭き取ろうと奮闘していたのである。

「なんと前近代的な事故隠し」と新聞に書かれたりしたが、そのようなぼろきれによる拭き取り作業などは、とりたてて事故隠しのための非常手段ということではなく、あの近代的な外見を装う原発の内側で日常的に行われていることなのである。

高木仁三郎セレクション p.90

The words of Jinzaburoh TAKAGI (1938-2000), people's scientist against nuclear power#62

Workers in a nuclear plant

This case took place even eight years ago. An accident happened in the TSURUGA nuclear plant that contaminated water discharged through a general drainage from the plant, which aroused great public concern. The staffs- this was perceived firstly at that time- strived to wipe up radioactive wastewater on the floor, using polyvinyl buckets and rags, when a prologue accident began in its nuclear-waste building.

Newspapers said then,” What a pre-modern cover-up!,” but such wiping-up by rags is not a special measure for hiding an accident, it is one of everyday-life jobs inside such nuclear plants with superficially modern appearance.

Jinzaburoh TAKAGI selection p. 90



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