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一日一句(1264)







十月や地はいつぞやの子どもたち






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一日一句(1263)







職人が背中向けたる良夜かな






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一日一句(1262)







名月に神代のときの深さかな






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一日一句(1261)







足うらをしづかに洗ふ良夜かな






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一日一句(1260)







ゆくへなきこころをひとつ月見かな






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一日一句(1259)







名月に神代のひとのこころかな







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一日一句(1258)







五百羅漢五百の秋気ありにけり






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西行全歌集ノート(42)







ゆくへなく月に心の澄みヽてはてはいかにかならんとすらん   西行
  

■あした27日の日曜日は、中秋の名月。月にちなんだ西行の歌をパラパラ読んでいて、この歌に引き留められた。「澄み澄みて」という強調に「いかにかならんとすらん」という恐怖に近い不安。普通、心が澄むのは良いことである。「澄む」は、もともと、「水が澄む」という意味で使われ、それが「心が澄む」、「空が澄み渡る」などと使われるようになった。月を観ていると心が澄みに澄んでくる。その結果は、どうなってしまうのだろう。この不安は、狂気の不安のように感じられる。月に心を乗っ取られる不安。心が月のものになってしまう不安。その結果は、狂死である。水が澄むというのは、水中の生物活動の低下も意味する。なにかが澄むというのは、清らかであると同時に、活動の低下、死を意味している。心が澄みに澄むのは、危険なことだと西行も感じていたのではないだろうか。





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一日一句(1257)







秋雨に色はありけり夜の街






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一日一句(1256)







深蒸茶秋の一日を区切りたり






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