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古典的韻文を読む:神楽歌(3)

■旧暦3月3日、日曜日、だが、部屋の中はやけに寒い

(写真)働くおじさん

今日は、知事選に行く以外、何もせず。風邪で調子悪し。森田健作が当選確実のようだ。投票所に行くと、候補者名簿は全員無所属となっている。政治に関心のない無党派層は、政策ではなく、政党名・推薦団体ではなく、その場で、候補者の名前で投票することになる。「おれは男だ!」の森田健作は好きだったが、政治家の森田健作には、自民党とのつながりやいかがわしい複数の宗教団体との関係など、疑問符がいくつも付く。とくに、気になるのが、その思想の右翼的な色彩だ。右翼になるタイプには一つの共通点があるように思う。それは、強面のイメージとは裏腹に、己が確立できていないことだ(あるいはしようとしない)。だから、外部の支配イデオロギーに無反省に凭れかかる。道徳教育の推進という公約が、いかに短絡的で危険な解決策かまでは思い至らない。道徳教育にふさわしいのは、『大空襲詩集』のようなテキストを中学高校の副教材にすることだろう。ここには、「愛国心」という観念に対する愛ではなく、具体的な人間に対する愛・哀があふれている。




すべ神の 深山の杖と 山人の 千歳を祈り 切れる御杖ぞ


■あたりの自然に神が宿っていた気配が濃厚に感じられて惹かれた。

※小学館の日本古典文学全集「万葉集」と「神楽歌」を図書館で3回延長したら、一度、返却してまた、借りなければならないという。めんどくさくなったので、このテキストを使うのは止めた。代わりに、古本屋のラックで500円均一だった『日本古典文学大系 古代歌謡集』(岩波書店 1957年)を使用。



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フランス語の俳人たち:Silvaine Aravo(7)

■旧暦3月1日、金曜日、

(写真)黄水仙

今日は、朝から、介護保険法の3年ごとの見直しに伴う料金変更について、ケアマネから説明を受ける。このケアマネは、すぐに、デイケア・デイサービスに行かせたがる。当人にその気がなくても、である。厚労省の通達と程度の低い政治的な意図があるのだろうが、そういう画一的なシナリオを捨てて、個人の志向に合ったリハビリプランを組むように言った(集団でリハビリする刺激と効果もあるのだろうが、なんでも集団でやればいいわけではない。たとえば、風船などを使ったゲームとしてのリハビリもあるようだが、小学生ではないのだ。老人を一人の人格をもち長く生きてきた人間として尊重する発想がない。生産関係を離脱したら、人間は有用性を失い「物」になる(この場合、日本語のモノではなく、thingやDingであろう。VerdinglichungのDingだ)。そんな風潮が社会のどこかにないだろうか。ホームレスや派遣労働者も同じ問題を共有していると感じる)。「訪問リハビリ」というのもあるようなので、その業者リストを送るように指示した。




Être ce passage
Embouchure et océan:
Éclats dans le soir.


この道は
川が大海へ注ぐところ

夕日の中の輝き


■Embouchure et océanは河口と海。アラボさんの俳句は、どれも抽象的で茫漠としているために、焦点が定まらない。フランス語でも、もっと別の詠み方があるように思う。
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フランス語の俳人たち:Silvaine Aravo(6)

■旧暦2月30日、木曜日、

(写真)家族

朝起きたら、風邪の神に捕まっていた。二年ぶり。喉が痛くて体が重い。目が覚めた瞬間、風邪だなとわかる感じだった。夜更かしが悪かったか。そんな体調でも、昨日は、雨の中、行きつけのパン屋に玄米ブールを買いに出かける。根がくいしん坊なのである。

今日は、コンサートイマジンに、アファナシエフ詩集に使う資料をいただいきに行く。担当プロデューサーのHさんから、いろいろ面白い逸話を聞いた。6月に行うポエトリーリーディングの簡単な打ち合わせもしてきた。アファナシエフと行うのだが、今から、非常に楽しみにしている。




Échos d'autrefois
Parmi le silence blqnc
Et l'qube endormie.


過去からの谺

白い静寂と
しづかな夜明けの光


■表現が抽象的でわかりにくいが、雪山の風景だろうか。「Échos d'autrefois」(昔日の谺)という表現が面白いと思った。ぼくなら、昨日の谺としたいところ。



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ドイツ語の俳人たち:Udo Wenzel(8)

■旧暦2月26日、日曜日、、春荒れ

(写真)立ち食い

朝から仕事。原稿送信。これで、アファナシエフは、一段落した。明日、簡単な打ち合わせ。今日はひどい天気で、一日、籠っていた。キリマンジェロは浅煎りでないと、苦くなってしまって、ちっとも酸味がしてこない。自家焙煎と称する店は、意外にも、珈琲の味に鈍感なケースが多い。苦味と雑味に本来の味わいが隠れてしまうのだ。

昨日は、詩集の出版記念会と哲学塾。いささか疲れた。出版記念会では、批評をして詩を朗読した。朗読の機会があるときには、可能な限り行うことにしている。朗読は身体による作品批評なので、大変興味深い。このとき、NHKラジオで放送された拙詩のCDをSさんよりいただく。人さまがぼくの詩を朗読するのを聴くのは、これが初めて。朗読と解説を早乙女勝元さんがしてくれた。自分で書いておいてなんだが、この朗読を聴いて落ち込んでしまった。朗読が悪いのではなく、詩のテーマ性による。

哲学塾では、疲れてしまって、よく話が頭に入らない。フッサールの弟子のインガルデンが面白そうだという感触を得た。二次会の居酒屋で、Sさんと数学史の話。ガウスがすでに非ユークリッド幾何学の可能性に気づいていながら、カントの権威の下で、論文の発表を避け、弟子たちだけに話していたという話が面白かった。弟子の一人がリーマンである。




Am stillgelegten Gleis
sammeln sich
Zugvögel


廃レールは
渡り鳥が
群れている


■ヴェンツェルさんの俳句は、打ち棄てられたものへのまなざしがある。レールは有用性を失うが、まだ、モノとしてオーラを放っている。それに惹かれるように渡り鳥が群れている。そんな気がして惹かれた。

昨日、英文学者のK先生に面白い話を聞いた。英語の俳句では、シラブルは5/7/5より2/3/2の方が言葉が短く決まって俳句が締まるというのである。英語のシラブルは、appleで2拍。日本語にすれば、アップルで4拍(下手をすればアップルウで5拍)。日本語の5・7・5に英語のシラブルを合わせると、単語が多くなりすぎて締まらない句になるというのである。なるほどなあと思った。ドイツ語の俳句も理屈は同じはずである。



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Jack Kerouacの俳句(10)

■旧暦2月22日、木曜日、

(写真)花柊(と思うのだが、歳時記では11月)

午前中、叔母を病院へ。

午後から仕事。風呂の黴取り。雑用で外出。オーダーを受けてから豆を煎り上げる店を見つけて、初めてキリマンジェロを頼んでみた。夕刻、いつもの喫茶店で、パウル・ツェランの詩を検討する。夜、久しぶりに一人なので、夕食を作って、しばし、ぼーっとする。




Sunday―
 the sky is blue,
The flowers are red


日曜日 

 空は青く
花々は赤く


■何も言うことはないが、日曜日という音の響きの持っている幸福感が平凡な事柄で言い表せられていて惹かれた。なんとなく、ジャック・プレヴェールの詩のようでもある。しかし、日曜の幸福感は、少年時代の幸福感と深く結びついているように感じる。今となっては、日曜日もずいぶん色褪せてしまった。しかし、その幸福感を思い出すことはできる。



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飴山實を読む(100)

■旧暦2月20日、月曜日、

(写真)梅撮る人々

確定申告を済ませて、ミスドーでしばらくぼーっとする。久しぶりに入ったが、ドーナツが一回り小さくなって味がかなり落ちた。さして旨くもない珈琲をお代りして、ツェランの詩を考える。帰宅して、3週間ぶりに掃除して、風呂を付けて、夕食を作る。淡々と日が暮れる。




水馬鳳凰堂をゆるがせる
  「花浴び」

■宇治の平等院だろうか。池に映った鳳凰堂があめんぼうの動きで揺らいでいる。ユーモアを感じて惹かれた。



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近江商人と芭蕉(2)

■旧暦2月18日、土曜日、のち

(写真)苔

すきっ腹で健康診断に出かけて、帰宅したら、なんだか疲れてしまった。午後、昼寝。確定申告ができなかった。明日、やらんとしょうがないな。メガネを10年ぶりに新調したら、やけに視野が明るい。今までのレンズは相当くたびれていたな。しかし、ずいぶん、メガネは安くなった。隔世の感あり。

埋火や世をくつがへす謀りごと   長谷川櫂

という先生の句がある。ここ数日の小沢一郎をターゲットにした東京地検の動きとマスコミのいっせい報道を見ていると、「政治的意図」を感じるのは、ぼくだけではないだろう。いくつか、こうした動きの裏が考えられると思う。

1.この「事件」で一番の利益を得るのは、与党であるから、当然、与党の延命を図りたい勢力がシナリオを描いた。マスコミのキャンペーン効果を前提に、麻生の首を入れ替えて戦えば、衆議院選挙では拮抗できるというのがその勢力の計算なのではないか。この場合、この勢力と検察、マスコミの三者関係が問題になる。どのように、この勢力は検察とマスコミに影響力を行使できたのか。また、この勢力とは具体的に何のか。実体あるグループなのか、ネットワークのような不可視的なものなのか。

2.検察が、外部勢力の圧力ではなく、何らかの独自の政治的判断で、今回の「事件」を、このタイミングで事件化した。この場合、検察には強い確信と独自の見通しがあるはずだから、やがて、事件の核心が明らかになるはずである。この場合、なぜ、小沢から始めたのか、なぜ、このタイミングなのか、自民党への切り込みは、どのタイミングで行うのか、あるいは行わないのか。そして、それはなぜなのか。こうした一連の疑問が残される。

いずれにしても、結果的に、今回の捜査は、国民の生活に直結した政権交代に重大な影響をもたらすのだから、国会が、検察の捜査方針について、説明を求めるのは自然ではないか。今回、奇妙なのは、マスコミで、とくに、新聞報道を見る限り、権力や権威に批判的に対峙するというマスコミ本来の機能が、ほとんど果たされていない。まるで、ヤジ馬かチンドン屋、さもなければ、にわか「正義の味方」である。これは、産業マスコミの本質とも言えるし、メディアコントロールの成功事例とも言えるのではなかろうか。



「近江商人と芭蕉」というテーマで、ぼちぼち、調べているのだが、「近江」という土地は、風光明媚で吟行に最適、くらいの認識しかなかったが、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを読んで、ずいぶん、目が開かれた思いがする。


・叡山をひらいて天台宗の始祖になった最澄もこのあたりの渡来人の村の出身である。最澄のうまれは称徳女帝の神護景雲元年(767年)だから、半島からの渡来人がこの湖岸をひらいて村をつくってから二世紀ほど経ってからの出生であろうか。「湖西のみち」p.12

・中世では近江の湖族(水軍)という一大勢力がこの琵琶湖をおさえていて、堅田がその一大根拠地であった。…織田信長は早くからこの琵琶湖水軍を傘下に入れ、秀吉は朝鮮の陣に船舶兵として徴用し、かれらに玄界灘をわたらせた。「湖西のみち」p.14

・「安曇」という呼称で、このあたりの湖岸は古代ではよばれていたらしい。この野を、湖西第一の川が浸して湖に流れ込んでいるが、川の名は安曇川という。安曇はふつうアズミとよむ。古代の種族名であることはよく知られている。かつて滋賀県の地図をみていてこの湖岸に「安曇」という集落の名を発見したとき、(琵琶湖にもこの連中が住んでいたのか)
と、ひとには嗤われるかもしれないが、心が躍るおもいをしたことがある。安曇人はつねに海岸にいたし、信州の安曇野をのぞいて内陸には縁がないものだとおもっていた。「湖西のみち」p.22

・かれら(安曇族)は太古、北九州にいた。
そのもっとも古い根拠地については、
「筑前糟屋郡阿曇郷が、阿曇の故郷であろう」と本居宣長がその著『古事記伝』でのべたのがおそらく最初の指摘であろう。『古事記』にある安曇系(海人系)の神話をみてもごく普通になっとくできるところで、かれらが種族神としてまつっていた神が、宇佐、高良、磯賀という九州の大社に発展してゆくことは周知のとおりである。ひょっとすると、蛋民はアジア全体にひろがっていたのかもしれない。「湖西のみち」p.23


※司馬遼太郎のエッセイを読むと、心が落ち着く。歴史のもつ力なのだろうか。



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一茶を読む:七番日記(3)

■旧暦2月16日、木曜日、

(写真)絵を描く人々

アファナシエフの翻訳原稿、終了。あとは、短いエッセイを書いて、初出一覧などを作成する。今年は、本を書かないか、というありがたいお誘いを頂戴しているので、テーマの設定や資料収集、調査の方向性などを検討しながら、翻訳の仕事を進めることになる。今までのように、産業翻訳に追われて、出版翻訳が後回しになることがないだけ、仕事としてはやりやすくなった。




花さくや欲のうき世の片隅に


■今の社会そのもので惹かれた。一茶を読んでいると、社会風刺の眼差しを感じることがある。今に通じる、というより、今だからいっそう鋭さを増した風刺。一茶の頃から人間は、ある面、変わっていないのかもしれない。物がよく見えている人は、例外なく、対象社会圏でマージナルなところにいるが、一茶もこの例に漏れない。



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蕪村の俳句(17)

■旧暦2月14日、火曜日、

(写真)蔦

日曜日は、句会。久しぶりに出られた。先生は見えられない句会だったのだが、20人集まった。句会の後の居酒屋はビールと飯が旨い。窯の炊き立てを売りにしている。昨日は、コロッケが面白かった。千切りキャベツの突き出しはめずらしくないが、コロッケの中にも、大ぶりの春キャベツが入っている。甘かった。

『大空襲310人詩集』発売! 今日の天声人語が取り上げている。日曜の句会の後に、この話題になったとき、懇意にさせてもらっている俳人から、こんな意見をいただいた。きみたちは、パレスチナの視点から詩を書いていれば満足かもしれないが、イスラエルを擁護する詩が書けるか。周り中から叩かれるが、その勇気があるか。イスラエルだって、ハマスにさんざん家族を殺されているじゃないか。イスラエルが、あんな化け物国家になったのも、元はと言えば、アウシュヴィッツ体験があるからではないのか。

この意見は、いろいろなことを考えさせてくれる。一つは、イスラエルを擁護する詩とはなんなのか、ということ。これは、イスラエルの攻撃を正当化する詩のことであり、端的に言って、戦争に協力する詩のことだろう。これは逆も言える。ハマスを擁護する詩を書けば、ハマスの自爆テロに協力した詩になる。これを行えば、先の大戦のときに、多くの詩人、俳人が行った戦争協力となんら変わらないことになる。戦争の経験がまるで生かされないことになる。イスラエルのエージェントでもなくパレスチナのエージェントでもない地点にしか、詩はないだろう。この議論を理論的に敷衍すると、国家であれ、集団であれ、個人であれ、殺人はいけない、という立場に行きつく。この一つの具体化が死刑制度廃止論である。殺される側の人間が、大量殺戮を行った人間でも、自分の家族を殺した人間でも、どんな人間でも、である。つまり、反戦の詩を書くなら、自分のもっとも大切な人間を殺した人間でも、「殺すなかれ」と言えなければならない。安易な気持ちで書けない詩であることがわかる。




梅咲きて帯買(かふ)室の遊女かな
  安永五年

■室は播州室津。遊女発祥の地。帯を買う遊女に春を見ていて惹かれた。



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芭蕉の俳句(219)(220)

■旧暦2月11日、土曜日、

(写真)氷川神社

やっと晴れたが、北風が凄い。アファナシエフは、一篇一篇訳していた時には、そうでもなかったが、40篇まとめて相手にすると、相当、危険を感じる。精神的なバランスを崩さないように、俳句を詠み・読み、ながら、仕事をしている。



病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 (笈日記)

■元禄7年作。有名すぎるほど有名な句。風雅への執着と安心(仕官や仏門など、精神的に安定した暮らし)との相克に引き裂かれた想いが現れている、というのが、一般的な理解だが、「軽み」の延長線上に捉えると、死に際まで、俳諧に執着する己をどこかで笑っているような気配がある。人間、まともに生きようとすれば、既存のイデオロギー集団や既存組織、金儲けに疑問を持つのは、当たり前で、結果的に不安定な生活を強いられる。芭蕉は、そういう風にしか生きられず、それがゆえにアウトサイダーだったのだろう。また、そういう人でしか詠めない境地があると思う。


清滝や波に散り込む青松葉
  (笈日記)

■元禄7年作。これも物凄い。死の直前まで、推敲していた句である。自分の句との類想を避けたいという一念だったようだが、ストイックさもここに極まった感がある。死の床で作られたとは思えない清涼かつダイナミックな句で惹かれる。なぜ、ここまで、芭蕉は俳諧に執着したのか。芭蕉ほどの人が、後世の名声を気にして、幼稚な名利の奴隷になっていたとは思えない。むしろ、逆に、本当の意味で歴史に連なりたいという必死の思いがあったように思う。この一筋に連なる。

※ これで、芭蕉の発句はすべて検討した。220句がぼくの感性に引っ掛かってきた。「連載」という概念は、おそらく、新聞・雑誌の誕生と係わりがある。本ブログは、インターネットという新メディアの特徴を最大限引き出すために、商品・消費の論理から逸脱していくことをモットーとしている。したがって、芭蕉の発句の検討は、「終了しない」。「反復・展開」する。一つは、歌仙の検討という形で、もう一つは、テキストを替えて発句を一から検討し直すという形で。「反復・展開」は、面白いことに、古典を読む論理と通底している。



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