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ドイツ語の俳人たち:Udo Wenzel(16)

■旧暦6月10日、金曜日、

(写真)霧の熊野

さて、熊野というところは、面白いところである。今回の旅は、家人に引っ張られるようにして、たいして、準備もなく、ぶらっと出かけたのであるが、熊野には圧倒された。俳句を作ろうと思ったが、いまだ一句もならない。天候が激変する中を、最初に熊野川、本宮大社、那智の滝、那智大社、速玉大社、花の窟神社といったルートを二日で回った。何に圧倒されたのか、考えてみるに、<言語の外の存在>を強烈に感じたからだろうと思う。それは、たとえば、スコールの後の熊野川のきらきらひかる岩の上に止まった鴉であり、雨でできた普段は見えない滝の音であり、杉林からふいに日の中に現れた鹿であり、土砂降りの中を荒れ狂う那智の滝であり、しんと静まり返った古道であり、中洲の中に立つ旧社の鳥居の古びた風合いであり、杉で覆われた山々の上空に逆巻く雲であり…。ベンヤミンがアウラと名づけたものに近いかもしれない。こうした存在が放つ何かは、言葉で言ってしまうと、もう、別のものになってしまう。だが、確かに存在していることは感じられる。霊気とも神とも言うしかないのだろうが、そこでは時間が脱臼しているような感覚に襲われる。無心になる以外に、人間にできることはないのではないか。



杉山



スコール直後の熊野川



奇岩



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

at the thicket's edge
blooming on the sly...
plum trees

yabu waki ni kosori saki keri ume [no] hana

藪脇にこそり咲けり梅の花

by Issa, 1807




Wie schwierig es ist
den Menschen auszuweichen
am Jahresende!


なんて難しいのだろう
年の市で
ひとをよけるのは


■Udo Wenzel大丈夫か、と言いたくなるような句。もうちょっとなんとかならなかったのか。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(9)

■旧暦6月9日、木曜日、、住吉祭

(写真)高野山、清浄心院にある句碑「我が国の山は仏よ明易き」作者不明(達筆で読めない)

高野山・空海・金剛峰寺というのは、中学生のとき、受験知識として、比叡山・最澄・延暦寺と混乱しないように覚えた記憶がある。だから、金剛峰寺は本堂を持った一つの寺で当然、空海が創建したものと思い込んでいた。ところが、実態は、違うらしい。金剛峯寺という名称は、高野山と同じように、伽藍全体の総称として使われていたというのだ。秀吉が、金剛峯寺という寺(別名青巌寺)を高野山内に実体化したという。つまりは、秀吉創建になるのだ(この寺で、甥の秀次が秀吉に言いがかりをつけられて切腹している。このとき高野山は、生命の尊重という観点から、再三、秀吉の差し出せという要求を拒んだが、引き渡さなければ、高野山を焼き討ちにするとの一言で、秀次は切腹を決意したという)。空海が生きていた頃の高野山は、複数の庵と根本塔と呼ばれる密教の概念を実体化した塔、修行の建物などからなっていたという。



金剛峯寺(別名青巌寺)



大門横の弁財天鳥居



高野山は今が紫陽花の盛り



根本塔



浄土宗の寺(熊谷直実開基による。「奥の院」には直実、敦盛二人の墓がある)



高野山大門(二匹の犬が空海を高野山に導いたとの伝説があり、高野山の神の使いとして、神社の狛犬になっている。もちろん、高野山内に、高野山の神を祀るその神社はある)



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

are you mad
at the human goblins?
face of the pufferfish

hito oni wo ikido^ru ka yo fugu no kao

人鬼をいきどほるかよ鰒の顔

by Issa, 1813

Issa spells fugu ("tetrodon" or "pufferfish") using the Japanese character for awabi ("abalone"). Commenting on a different poem that captures the perspective of a mother bird, Shinji Ogawa explains that the phrase, hito oni can mean, "the goblins called men." Issa seems to be playing the same perspective game in this haiku. From the point of view of the pufferfish, humans are the ones who look ugly and monster-like.




下京や雪つむ上の夜の雨
   凡兆

なが〱と川一筋や雪の原
  凡兆

■有名な二句。二つとも、水に関連しているが、一句目は、沈黙の音が聞こえてくるよう。二句目は、広大な風景が広がるよう。写真との親縁性も感じた。



Sound and Vision

どうも、元気が出ないので、インターナショナルを聴いて気合いを入れる。ドイツ語版とロシア語版を続けて。



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フランス語の俳人たち:Jean-Louis Bouzou(6)(7)

■旧暦6月8日、水曜日、

(写真)「奥の院」の地蔵

高野山を経由して熊野へ行ってきた。たまたま、家が真言宗なので、空海には、前からなんとなく関心があって、高野山は、今回が二回目になる。一回目は、中学二年のときで、あまり面白くなかったが、一つだけ僧侶に言われて記憶に残ったのは、「困難や危機に直面したら、南無大師遍照金剛と唱えよ」というものだった。「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と同じ発想である(ただ、真言宗は、空海という人が神になっているという意味で、神道(原始神道ではなく)にとても近い気がする)。今回は、非常に面白かった。一番おもしろかったのは、「奥の院」、すなわち、大師の墓所である。ここ一帯は墓域になっていて、さまざまな人々の墓がある。墓のカーニバルと言ってもいい。宗旨宗派を問わないから、信玄、謙信、信長、秀吉、光秀、正宗など諸大名から親鸞の墓(一時、高野山で修業した縁らしい。だが、面白い事に、高野山の真っただ中に、浄土宗の寺が堂々とある)まである。江崎グリコなど、関西に本拠のある企業の墓も多い。たいてい、事故で物故した従業員も祀ってある。宗旨宗派は問われないが、経済力は大いに問われる。墓一つ建てるのに、最低1,000万だそうである。大師廟は、非常に地味でこじんまりしている。「奥の院」一帯の雰囲気は、空海のカリスマ性が、高野山という大自然、土着の神道的な宗教性と融合して、神が存在するような厳かな感じを受ける。



「奥の院」参道(藪蚊は多いが不思議に刺さない)



「奥の院」の情景(武将の五輪塔)



「奥の院」の杉林(墓石の代わりなので切れないらしい)、樹齢300~400年



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

geese landing--
the farmer's field too
a famous resort

kari orite hata mo meisho no hitotsu kana

雁おりて畠も名所のひとつ哉

by Issa

This is an early haiku written in the 1790s. The common field, for the geese, is a "famous resort" (meisho).

■なるほど。初め名所の訳「a famous resort」は、「a famous spot」じゃないかと思ったが、これは、雁が舞い降りるから畑が人間にとって名所になるという人間中心主義の俳句になり、、雁から見れば、畑はa resortということになるのだろう。これは、どちらが適切なのか、わからない。




Aujourd'hui
quelques bulbes sales
demain de jolies fleurs.


今日は
汚らしい球根だが
明日は美しい花



Ennemis juré
des châteaux de sable
-les pieds des enfants.


砂の城の
天敵
―子どもたちの足


■面白いとは思うが、説明しない俳句、すなわち、論理に乗らない俳句をフランス語で書くとどうなるのか、大変興味がある。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(8)

■旧暦6月4日、土曜日、

(写真)朝顔

午前中、歯医者。午後、掃除。

リフレッシュすることの英語表現は、一般に「to re-charge one's battery」と言うようだ。これは、若い人だけが使うわけじゃく、一般的な表現だという。これを聞いたとき、のけぞってしまった。これじゃ、サイボーグになったような気分になるではないか。そう言ったら「get re-vitalised」という言い回しがあると言う。これは、「命の洗濯」に近いかもしれない。環境を変えることで気分を変えるという意味では、I'd like a change of scenery.がいいかもしれない。これは、今の環境を逃げ出す、というニュアンスもあるらしい。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

cricket on a frosty
night...
bragging!

ko^rogi no shimo yo no koe wo jiman kana

こおろぎの霜夜の声を自慢哉

by Issa, 1820




水底を見て来た貌の小鴨哉
   丈艸

鳥共も寝入てゐるか余吾の海
   路通

■やはり丈艸はいいと思う。味がある。路通の句は、夜の余吾の海を見ての感慨だろう。昼間は、鳥の楽園なのかもしれない。蕉門では路通はずいぶん評判が悪いが、人間としては、興味を惹かれる。友人には遠慮しておきたいが。


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フランス語になった俳人たち(14)

■旧暦6月3日、金曜日、、河童忌

(写真)トマト

午前中、O君と会う。フロストの詩について話し合う。午後、仕事。夕方、デジカメの電池と粗大ゴミ処理券を買いにゆく。

週に1回以上は、病院へ行くので、いろいろ、見えてくる。整形外科と脳神経外科は、大半の患者が高齢者。病院の職員と高齢者の会話は、かなり、シュールな展開を見せることがあって、不思議な空間にいるような気分になるが、一時、よく見られたような合理的で事務的一点張りの対応は、職員もしなくなり、男性職員がしゃがみ込んで老人と話し込んでいたりする。めでたいものに触れているような顔つきで。それでも、突然、老人が、激怒することがある。対応のまづさや勘違いからである。人にもよりけりだが、老人ほど、生のニュアンスに開かれた存在はないように思える。

先日、娘が大学の成績がいいということで、学校から賞状をもらってきた。成績は、もちろん、人の優秀さの基準の一つでしかない。だが、この10年、ぼくの取ってきた方向性は、良い環境を形成できたという意味で、大枠正しかったと思える。事情を知らない人が読めば、ただの親ばかだが、ぼくには、感慨深いものがある。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the cherry blossoms fall--
I apologize to a dog
in passing

chiru sakura inu ni wabishite to^ri keri

ちる桜犬に詫して通りけり

by Issa, 1813




愚案ずるに冥土もかくや秋の暮
 芭蕉


Ce couchant d'automne―
on dirait
le Pays des ombres


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


この秋の暮は
まるで
黄泉の国のよう


■on diraitは、「まるで~のよう」という慣用表現だが、on(people)が主語になることで、芭蕉の個人的な感慨が後退したように思う。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(7)

■旧暦6月2日、木曜日、、大暑

(写真)赤い花

午前中、バタバタ。午後、病院へ。帰りに買い物。久しぶりに俳句を作る。今日は、オクラの夕食となった。オクラ2パック20本が駅ビルの八百屋で100円である。2パック仕入れる。うちの夏の定番でぼくの定番のオクラ料理を2品作る。

ロース薄切り豚肉の内側に塩コショウして、よく塩もみしてケバケバを取ったオクラに巻いていく。これを20本程度作って、皿に並べる。よくラップして電子レンジで5分。まあ、蒸すわけである。これだけ。肉巻を作る前に、大根おろしをたっぷり作っておく。電子レンジでチンしたオクラの肉巻に、大根おろしをかけて、かつをぶしをさらにふりかける。これをポン酢で食する。ビールのあてに良し。安くて旨くて速くできる。もうひとつは、オクラをゆでて、輪切りにしたものに、山芋をかける。これにかつをぶしをかけて、ポン酢または醤油で食する。これも旨くて、安くて速くできる。

昼近く、今年初めて、みんみんを聴く。一声高く鳴く声を聴くと、夏も本番になったな、という気分になる。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

at the sound of the sunset
bell...
wildflowers

iriai no kiku tokoro nari kusa no hana

入相の聞処なり草の華

by Issa, 1820




寝ごヽろや火燵蒲団のさめぬ内
  其角

門前の小家もあそぶ冬至哉   凡兆

■豪放磊落の代名詞みたいな遊び才人、其角が、こういう句を詠んだところが面白かったが、考えてみると、遊女のところかもしれない。凡兆の句は、冬至の説明とも取れるが、「あそぶ」が面白く、のんびりした情景が浮かんだ。結果主義、成果主義が当たり前の社会だが、なにも生み出さない「あそぶ」は、ぼくは好きですな。なにも生まないことはなにも育たないことじゃない。
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ドイツ語の俳人たち:Udo Wenzel(15)

■旧暦6月1日、水曜日、、皆既日食・新月

(写真)ラーメンに並ぶ人々

朝日新聞が、バカバカしい権力のチンドン屋になり下がったので、毎日に替えているのだが、日曜の書評で、花田清輝を特集していた。この批評家のイメージは、近代主義者・前衛主義者といったものだったが、どうもそんな単純なものじゃないらしい。周辺へのまなざしや笑い・諧謔への志向など、今のぼくには、とても響くものがある。さっそく、読んでいるのだが、柳田國男を単純に反近代主義者に括ってしまうことへ批判など、柔軟で先見性に富んでいる。毎日新聞は、サイバラの「毎日かあさん」を連載しているのだった。この漫画は笑える。ただ、絵のタッチが少し荒くないか。ま、あれであの味が出るのかもしれないが。

諸星大二郎の『壁男』読了。「カオカオ様が通る」は「遠い国から」シリーズの一作だったことを初めて知る。現実逃避がしたくなると、読みたくなる。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

harvest moon night--
instead of the moon
leaking rain

ju^goya ya tsuki no kawari ni ame ga moru

.曙ワ夜や月のかはりに雨がもる

by Issa, 1822




Sinkende Sonne.
Die lezten Strahlen reichen
tiefer in den Wald.


落日
最後の日の光が
森の奥深くへ


■ドイツ語を見ると、美しく簡潔に書いてあると思うが、日本人のぼくから見ると、内容的には、あまり面白くない。だが、ここまで、自然に密着してドイツ語で俳句を書くのは、大胆なことなのかもしれない。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(6)

■旧暦5月28日、月曜日、、恐山大祭

(写真)道際の底紅

いろいろいろしんどいが、7月一杯は、一気に翻訳と校正作業に集中する。

寝る前に、諸星大二郎の短編集『壁男』を読んでいる。癒される。中でも「壁男」と「夢の木の下で」が秀逸。

中井久夫先生の『治療文化論』(岩波現代文庫)に面白い記述があった。「…しかし人間とは何であろうか。その位置づけを見るに、医師(別の理由によって哲学者)は、「人間/動物/植物」という分割を採用する傾向にある。しかし、カビ学者は「動物/植物/カビ」という分割を採用する…「境界は必ず「人間側(「自」の側ということだが)からなされ、境界を両側から確定することはできないから、切断(したがって分類)は任意である」という立場を私はとる。禅僧のごとく「石」まで人間にふくめる立場があってもよく、一部の人種を人間から除くことは現に行われた。もっとも、おすすめできない分割とまあよろしいであろうという分割は、判断(価値)概念として存在するのであって、「人間/ユダヤ人・動物/植物」や「人間/こども・未開人・分裂病者/動物/植物」はおすすめできないし、「イルカ/人間/動物/植物」は私の好みである…」(『同書』p.167)

当然、人間にカウントしないという意味で、「人間/動物/植物/自民党」という分割はありえるし、「人間/動物/植物/多国籍企業」ということも、ありえるだろう。この場合、人間じゃないという意味だけでなく、人間を支配する上位者という響きも帯びてくる。

ポルトガル語で俳句を作っているma grande folle de soeurのブログ。なかなか面白い。フランス語訳やケルアックの英語の俳句もある。フランス語を読む練習にたまに行く。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

over one thicket
a custom-made shroud...
evening mist

hito yabu wa betsu no yu^giri kakaru nari

一薮は別の夕霧かかる也

by Issa, 1805

■原句にはないが、「a custom-made shroud」(特別あつらえのとばり)を「evening mist」の比喩として用いていて、一つの解釈として、効果を上げていると思う。




尾頭のこヽろもとなき海鼠哉
   去来

住つかぬ旅のこヽろや置火燵
   芭蕉

■「猿蓑」巻之一。去来の句は、つとに有名だが、初めて見たとき、そのユーモアのセンスと的確な対象把握力に驚いた。芭蕉の句、漂泊の思いが、断ちがたくあるのだろう。日常生活の象徴である火燵を前にしての感慨。日本語の「漂泊」は、今の言葉では、「自由」に近いような気がする。ただ、かなり、自己否定や負い目を伴い、ひっそりと語られる。


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フランス語の俳人たち:Jean-Louis Bouzou(5)

■旧暦5月24日、木曜日、

(写真)朝顔

朝から、久しぶりにOくんに会う。京都・大阪方面を旅行してきたという。神戸の話をすると、興味を持ったようだった。ひとしきり、関西の話をする。その後、フロストの詩について議論する。8月には、帰国するという。その後、仕事に入る。今日は、暑い。黒の日傘をさしている男性を見かけた。夕方より、兼業へ。かなかなは、お互いに鳴き声を聴き交わしているようだ。鳴き声が重ならない。一匹が鳴き止むと次が鳴き始める。

一見、どうでもいいようなことだが、実は非常に大事だと思うのは、「ニュアンス」への感受性、「ニュアンス」の構成である。「ニュアンス」は、アファナシエフの概念と言っていいが、生活や事態、言語の「ニュアンス」を感じ取り、それを救い出すことは、現在進行中の諸事態―一言で言ってしまえば、生活世界の合理化あるいは科学主義に基づいた管理化―への抵抗の一形態となりえるのではないか。詩や俳句の存在する理由の一つはここにあると思う。

Udo Wenzelが応募俳句をすべて公表している。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

in a thorn patch
some paper, to and fro...
a long day

bara yabu ni kami no bura-bura hi naga kana

茨薮に紙のぶらぶら日永哉

by Issa, 1814




Médiant
sur l'éternité
je n'ai pas vu le temps passer:


永遠
について考える
わたしは時が過ぎるのを見たことはない


■あまり面白くない。底が浅い。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(5)

■旧暦5月23日、水曜日、、昨日は那智の火祭、今日は出羽三山花祭り

(写真)夏のおじさん、いい味。

なんだか、やけに忙しい。新しく始めた仕事が早くも座礁。立ち上がりのこともあり、内容的にも最先端のこともあり、かなり苦戦。並行して、サイバーの校正を始める。これまた、アクチャルな仕事なので、少しでも、いい日本語にしたい。また、アファナシエフ関連で8月くらいから、一本動かしたいと考えている。売れないかもしれないが、当面、その問題は、考えない。小説は、今、成立するのかどうか、ということに関心があり、その意味で、現代小説を知り尽くしているアファナシエフが、いったい、どんな小説を書いているのか、大変興味深い。ここまでは、人さまの作品を、変奏する仕事だが、ここからが、自分で書く仕事になる。今のところ、心身と社会と情報という問題圏で書けないか、いろいろ模索している。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

faces looking like
they've been to Zenko Temple
baby sparrows

zenko^ji e itte kita kao ya suzume no ko

善光寺へ行て来た顔や雀の子

by Issa, 1816




古寺の簀子も青し冬がまゑ
  凡兆

雑炊のなどころなれば冬ごもり
  其角

■凡兆という人には興味を惹かれる。その際立って近代的な精神はどこから来ているのだろう。その人生の軌跡も、時代に翻弄された感がある。この句が、どこかの結社誌に掲載されていても何の違和感もない。其角の句は、芭蕉への挨拶を含んだ温かみを感じて惹かれる。この句が現代に出てきたら、逆に、新鮮なのではないだろうか。

いずれにしても、俳句には、「共同性」や「社会性」の痕跡が色濃くあり、それが、現実の社会や共同体の歪みという問題を超えて、理念的に、あるべき社会の方向性を示唆している。ぼくが30歳で心の病を経験したとき、確信したのは、認識は純客観的で科学的なものではなく、社会的なものであるということだった。この「社会」あるいは「共同性」が、何らかのストレスで破壊されたとき、出現するのが、病としての狂気である。それは、具体的には、聴覚・視覚の変容という形で現れる(味覚や触覚も、あるいは変容するのかもしれない)。伝統系の俳句と新興系・前衛系の俳句を、その志向性で区分すると、正気を志向するか、狂気を志向するか、とも言えると思う。もちろん、ここには、前提になる「社会」をどう見るか、という問題がある。依拠する「社会」がそもそも狂っているのだから、正気への志向は、逆説的に狂気への志向となる。おそらく、新興・前衛系俳句の内的ロジックはこうだろう。この点は、よく理解できるが、それだけでは物足りない。マルクスの言う意味での共同性の復権、そのためのヒントとしての、俳句の中にもともとある「共同性・社会性」への着目、ということがあってもいいように思うのである。
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