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飴山實を読む(78)

■旧暦8月1日、日曜日、、夕方、雨と秋雷。こんな日が一週間近く続いている。夏バテなのか、この頃、疲労が甚だしい。八月の「一日一句」、どうにか、提出。普段の投句分が冴えない。

(写真)鎌倉のおばあちゃん

時間があるとき、三鬼の随筆『神戸・続神戸・俳愚伝』を読んでいる。三鬼のような生き方はできないし、する気もないが、これを読むと、気が楽になる。短編小説のようなこの随筆は、戦中戦後の一つの興味深いエピソードでもあるから、ドラマ化や映画化すると面白いんじゃないだろうか。




茄子苗を買うて機嫌の立ち話
  「花浴び」

■これもいいなあ。ささやかな日常の至福が切り取られている。平凡な日常の中に地獄も極楽もある。「機嫌の立ち話」という措辞。簡単には出てこない表現だと思う。實の俳句を読むと、感性をバランスよく開いて、生活を楽しむことの大切さを思い出させてくれる。一言で言うと「心の余裕」だが、なかなかこれが持てないのは、不徳の致すところか。茄子苗で、初夏。
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芭蕉の俳句(195)

■旧暦7月30日、土曜日、

(写真)秋のクルマ

非常に涼しい朝。昨日は遅くまで秋雷が鳴っていた。冬に、某大学で話をすることになっているのだが、いったい何を話すべきなのか、ちょっと迷っている。「世界の情報化」、「世界の散文化と韻文化」といったキーワードは出ているのだが…。



雪芝亭
涼しさや直ぐに野松の枝の形
  (笈日記)

■元禄7年作。野の松の枝のまっすぐなところに涼しさを感じている。そこに共感した。何気ない句だが、涼しさの視覚的表現になっている。
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飴山實を読む(77)

■旧暦7月29日、金曜日、

(写真)朝顔

さっきから秋雷が鳴っている。シーツを二枚洗うが干せない。さて、鎮魂の八月も終わり、季節は又三郎の待つ九月へ。




もろこしの苗にもつとも風青し
   「花浴び」

■なかなかできない表現だと思う。ある程度、俳句を書いていくと、表現が型にはまっていくのが自分でもわかるが、實の句は常に自在であり、その柔軟性に惹かれる。「もろこしの苗」で初夏。実際に畑仕事もしていた人らしい実感がある。「もつとも風青し」という言い回しには驚いた。
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Marxを読む:「経済学哲学草稿」(3)-1

■旧暦7月27日、水曜日、

(写真)青い柿の実

朝方、江戸川を散歩。草に昨日の雨粒が露のように残っていた。ここでも塩辛蜻蛉を見た。しばらくぼーっとして、ペットボトルの茶を喫し帰る。



訳文で意味のわからない箇所が、マルクスの先の引用で2か所ほどあるので、検討してみた。

1)コミューン主義

「コミューン主義はその最初の形態においては私的財産の普遍化と完成であるにすぎず、そのようなものであるがゆえに二重の形態であらわれる。」

Kommunismusを『マルクス・コレクションⅠ』では、「コミューン主義」と訳している。通常は、「共産主義」あるいは「コミュニズム」とされる言葉である。「共産主義」のマイナスイメージを払拭する意図もあったのかもしれない。「共産主義」という言葉から受ける印象は、財産の共同化であるが、粗野な財産の共同化こそ、マルクスが批判したものではなかったか。「Commune」という言葉は、共同体を意味し、人間の暮らし方をトータルなものとして社会的な側面から見つめるニュアンスがある。たとえば、男女関係を含む人間関係、自然との関係、伝統との関係の仕方や生活の質感、居心地の良さなどを含んだ人間の暮らし全体へと視野が開かれていく。1844年段階で、マルクスの考えたKommunismusの内実はどうだったのか。これは、テキストを全部読まないと何とも言えない。また、後の著作『共産党宣言』(1847年)などとの比較も必要だろう。「『経済学哲学草稿』を読む」では、マルクスの「来るべき社会のイメージ」をテキストに即して見てみたいが、できるだけ、マルクスのKommunismusのポテンシャルを検討してみたい。

2)「粗野なコミューン主義者とは、想像上の最小限からのこうした妬みと平均化の完成でしかない。」とはどういう意味なのか。

Der rohe Kommunist ist nur die Vollendung dieses Neides und dieser Nivellierung von dem vorgestellten Minimum aus.


(岩波文庫版)粗野な共産主義者は、頭の中で考えた最低限から出発して、こうした妬みやこうした均分化を完成したものにすぎない。

(国民文庫)粗野な共産主義者は、表象された最少限からのこの嫉妬とこの水平化との完成にすぎない。

(試訳)粗野なコミューン主義者は、頭で考えた最低限の妬みと平均化から出発して、これを完成することしかできない。

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芭蕉の俳句(194)

■旧暦7月26日、火曜日、、秋雨

(写真)月

風が寒いくらいである。昨日、川端で今年はじめて蜻蛉を見た。



荷兮方にて
世を旅に代掻く小田の行き戻り
  (杉風宛書簡)

■世を旅に送ってきた自分の境涯を眼前の代掻く農民の姿に重ねているところに惹かれた。一見、代掻く農夫の行きつ戻りつする動きが、流転する旅人の自分に似ているとも読めるが、定住者の農夫も自分も旅人だという思いが、その背後に滲んでいるように感じた。「代掻く」は田植前に田へ水を入れ、土を砕きかきならして、田を柔らかく平らにして、田植えの準備をすること。夏。
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Marxを読む:「経済学哲学草稿」(3)

■旧暦7月24日、日曜日、、秋雨だった

(写真)吾輩

今日は、掃除して、雑用して終わった。この季節、黴がけっこう生えるので、風呂の掃除を念入りに行ったのだった。



マルクスを少しずつ読んでいるが、二つ問題意識が出てきた。ひとつは、どういう社会をマルクスがイメージしていたのか、ということ。マルクスがめざした社会のイメージを経哲草稿のテキストに即して検討してみるということ。もうひとつは、類的存在とは何なのか、ということ。マルクスの経哲草稿を読んでいると、「人間とは類的存在である」というテーゼがアプリオリに出てきて妙に浮いて見える。これを前提に疎外が考えられている。おそらく、類的存在は、ヘーゲルの「人倫」やアリストテレスの「社会的存在」といった概念を踏まえているのだろう。この「類的存在」の内実とその根拠・説得性を検討してみる。

前期マルクスがアプリオリに理想の社会像を前提にして、そこからの疎外を語ったのに対して、後期マルクスは理想社会を語らずに批判というアプローチで理想社会のありようを象った。こんな言説もよく行われている。マルクスを前期・後期に分けて、思想の断絶を述べる言説も併せて検討してみたいと思っている。




コミューン主義はその最初の形態においては私的財産の普遍化と完成であるにすぎず、そのようなものであるがゆえに二重の形態であらわれる。まず、物的な財産の支配があまりに大きく立ちはだかっているので、コミューン主義は、私有財産として万人に所有されえないすべてのものを否定しようとする。コミューン主義は暴力的なやりかたで才能などを無視しようとし、肉体にかかわる直接的な所有を生活と生存のただひとつの目的とみなす。労働者という規定は放棄されるのではなく、むしろ万人に拡張される。私有財産というありかたは、共同体が事物の世界をみんなで共有するというありかたにとどまっている。私有財産にたいして普遍的な私有財産を対置しようとするこの運動はついには、結婚(これはもちろん排他的な私有財産の一形態だが)に女性共有を対置し、したがって女性を共同体の共有財産にしるような動物的な形態であらわれるまでになる。女性共有というこの思想こそは、まだまったく粗野で没思想的なこのコミューン主義の公然たる秘密であるといえよう。女性が結婚から脱して普遍的な売淫に入り込むように、富の世界全体、つまり人間の対象的本質の世界全体は、私的所有者との排他的な結婚の関係から脱して、共同体との普遍的な売淫の関係に入り込む。
『マルクス・コレクションⅠ』経済学哲学草稿 第三草稿「私有財産とコミューン主義」2005年(筑摩書房)pp. 346-347

■この箇所を読むと、中国の文化大革命やカンボジアのクメール・ルージュが行ったことがまさに「粗野なコミューン主義」でしかなかったことに思いいたる。こうした歴史的な経験があるのにも関わらず、いまだに、左翼的な人々の中には、肉体労働に対する根深いコンプレックスが見受けられて、唖然とすることがある。ぼくは、こうしたコンプレックスに、文化大革命やクメール・ルージュと同じ匂いをかいで、危険性さえ感じるのである。

このコミューン主義は、―人間の人格性をいたるところで否定するのであるから―ほかならぬこの人格性の否定である私有財産の徹底した表現でしかない。力として組織されたこうした普遍的な妬みは所有欲をつくりだす隠れた形態にほかならず、ただそこでは所有欲がある別のやりかたで満たされるだけである。すべての私有財産をそのようなものとして考えるような思想は、すくなくともより豊かな私有財産にたいしては妬みと平均化の要求として立ち向かうので、それらは競争の本質をなすものにさえなる。粗野なコミューン主義者とは、想像上の最小限からのこうした妬みと平均化の完成でしかない。彼はある限られた尺度しかもっていない。私有財産のこうした廃棄によって現実に得るところがどれほどわずかであるかは、教養と文明の世界全体が抽象的に否定されてしまい、私有財産を超えるどころか、いまだかつて私有財産に到達さえしていないような貧困で無欲な人間という不自然な単純さへ立ち戻ってしまうこところに、まさしく示されている。『マルクス・コレクションⅠ』経済学哲学草稿 第三草稿「私有財産とコミューン主義」2005年(筑摩書房)p. 347

■こうしたマルクスのアプローチを見ると、「批判」というものが初期から一貫して方法論的な基礎になっていたことがわかる。ここでは、「粗野なコミューン主義」を批判して、なにか実体的で理想的な社会を語るのではなく、「粗野なコミューン主義」との差異を際立たせるにとどまっている。そのため、この箇所を読む限り、どのように私的所有を廃棄するのかは、あるいは、そもそも廃棄するのかどうかさえ、語られていない。

ここで述べられている嫉妬と平均化というのは、戦後の日本社会が歩んだ歩みそのもので、現在、「嫉妬」の方がやや前面に出てきていると感じる。そして、平均化の方向性は今も根強くある。戦後日本の政策は「社会主義的」と言われるが、「粗野なコミューン主義」との関わり考えると面白いのではないか。

私有財産という現象は、非常に根深く、まるで、人間の業のように感じられるし、社会で何年も生きていれば、それだけ、自分も含めて、そう思えてくる。しかし、必然的に思える現象も、社会的・歴史的に見れば、必ずしもそうではないはずである。インディアンやアボリジニには土地所有の観念はない。日本の場合は、どうなのだろう。律令制や荘園制が確立する以前の太古の日本は。



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飴山實を読む(76)

■7月23日、土曜日、、処暑

(写真)秋の川

この二三日、半袖じゃ寒いくらいである。夏期講習も残りわずか。9月からは、週4日、外に出て、週3日は、自宅で翻訳に専念する体制を組んだ。塾の日は、翻訳をやるには、まとまった時間が取れないので、いっそ創作に専念してしまおうかと思っている。

英国の社会派監督のケン・ローチが、新作を撮ったという記事を夕刊で読んだ。搾取されてきたシングルマザーが派遣会社を立ち上げて、移民労働者を搾取するストーリーで、搾取される側だけではなく搾取する側も、システムに翻弄されている状況を描こうとしたインタビューで述べている。システムに問題があるのは、マルクスの時代から自明であり、よほど、欺瞞に鈍感で金に執着のある人間以外なら、だれでも気がついている。問題は、システムをどう変えるか、ではないだろうか。そのプランはだれも描けない。ソ連、中国の国家社会主義は失敗だった。社会を根源的に批判し告発する映画も意義はあると思うが、システムをどう変えるのか、という視点からの映画があってもいいように感じた。




蚕豆に莢のかたちの生まれそむ
   「花浴び」

■蚕豆で夏。蚕豆の動きを詠んでいて惹かれた。対象をよく見つめていないとできない句だと思う。蚕豆という季語を使っていながら、蚕豆の変化・成長を詠んでいて、季語が常に時の変化の相の中にあることを思い出させてくれる。
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芭蕉の俳句(193)

■旧暦7月18日、月曜日、

(写真)秋の海

叔母が退院しリハビリのめどが立って、やっと仕事に専念できる。一二ヶ月リハビリして、介護保険を使って夕食の配達や家事補助などの体制を整える予定。

近所に街中を流れる川がある。昔は生活物資を舟で運んだ歴史ある川らしいが、今は、生活排水も流れ込む平凡な川である。その川の近くの風呂屋の主が「坂川のおじさん」である。午後、通りかかると、たいてい、川を見ている。おじさんとぼくは友だちで、よく川について話をするのだが、今日は、面白いことを聞いた。おせいじにも清流とは言い難いこの坂川に、鰻がいると言うのである。二三日、泥を吐かせて蒲焼にすると、脂が乗っていて、伊勢丹で買ったものより旨いと言う。意外な話で驚いた。そもそも鰻は清流を好むのかどうか、わからないが、鰻について調べてみると、

「ウナギは淡水魚として知られているが、海で産卵・孵化を行い、淡水にさかのぼってくる『降河回遊(こうかかいゆう)』という生活形態をとる。従来、ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の深海ということもあり長年にわたる謎であった。しかし、2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授などが、ニホンウナギの産卵場所がグアム島やマリアナ諸島の西側沖のマリアナ海嶺のスルガ海山付近であることを、ほぼ突き止めた。これは孵化後2日目の仔魚を多数採集することに成功し、その遺伝子を調べニホンウナギであることが確認されている[1]。冬に産卵するという従来の説は誤りとされ、現在は6~7月の新月の日に一斉に産卵するという説が有力である。」(ウィキ

養殖鰻しか知らなかったので、かなり驚いた。




撓みては雪待つ竹のけしきかな
   (真蹟自画賛)

■元禄7年作。俳句も表現の一つであるから、その俳句の何に惹かれたのかという点を具体的な表現との関わりから再考してみるのは俳句を書く上で参考になると思う。この句の中には、雪という言葉はあるが、実際に竹に雪が積もっているわけではない。眼前にはない雪の情感に惹かれた。この情感を出しているのは、この句全体の意匠だが、「撓みては」の措辞が効いているように思う。
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飴山實を読む(75)

■旧暦7月15日、、敗戦忌

(写真)長谷寺

ここ数日、クーラーなしで寝ているのだが、起きると、汗びっしょりである。残暑は厳しい。雲はもう完全に秋のものだが。




群青へ島から花のながれだす
   「花浴び」

■一読惹かれた。海の群青と花のピンクの色が鮮やかである。實の句を読んでいると、ひらがなの使い方が巧みなのに驚く。動詞は二つ重なると、一つはたいていひらがなで書かれている。このことによって、句全体に柔らかい雰囲気を醸し出している。
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芭蕉の俳句(192)

■旧暦7月14日、木曜日、

(写真)Untitled

数日前から、英語版の日本語だけが文字化けして読めない。英語版の一部の記事だけで、ドイツ語版には今のところ見られない。原因は不明。ハッカーの仕業かとも思うが、一日、10人も来ないような辺境のブログである。書きかえるのもめんどうなので、ほおってある。




五月雨の空吹き落とせ大井川
  (真蹟懐紙)

■気分がそのままストレートに出ていて、景が大きいところに惹かれた。足止めを食った芭蕉の焦りも感じられる。
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