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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(9)

■旧暦9月14日、土曜日、

(写真)殺人事件

今日は、なにもせず。毎日リハビリに通いながら仕事をしていたので、さすがに疲れた。ただただ、ぼーっと日を過ごす。椎間板ヘルニアの激痛は、10日経って、収まりつつある。しかし、リハビリ療法士は(あるいは医師は、と言っても、同じことだが)、ヘルニアの理解があるのか、と疑いたくなる。仰向けのまま、一気に起こすので、最初は、稲妻が走るように痛かった。クレームをつけたら、とくに指示がないときは、こうしているのだと言う。ちょっと、信じられない。腰痛があるときは、横から起きるのが基本である。どこかに、患者を速くさばくという発想があるのだろう。


マスクしてたちまち心隠れたり

行く秋や美しかりし耳一つ

高らかに鯨は吼ゆる虚空界





初時雨名もなき山のおもしろき


■微笑があると思う。名のあるなしという人間の側からの分割を超えたところに時雨は降っている。そこに生まれるのは、存在の深いところから出てくる微笑であるように思える。
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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(8)

■旧暦9月13日、金曜日、、十三夜

(写真)秋の光

今日は、十三夜。仲秋の名月よりも、十三夜の方が趣があって好きである。午前中仕事して、午後からリハビリ。帰宅途中に十三夜を観る。


十三夜昼のうちよりめでにけり

この道にこゑ残りけり十三夜

秋天や道の真中を金太郎

空つ風悪太郎とは俺のこと



松岡正剛さんが本を売る新しい試みを始めた。本が売れない理由は、複合的なものだろうが、制度的な改革と同時に、こういう売り方の改革があってもいいのではなかろうか。丸松本舗



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

wind blows--
lots of rips, yet still
my mosquito net

kaze fuku ya ana darake demo waga kacho^

.風吹や穴だらけでも我蚊帳

by Issa, 1803



焚くほどは風がもて来る落葉かな

■自然に近いところで生きていると、上機嫌や笑いの境地に近くなるのではあるまいか。この笑いが高いところから降ってくるのは、欲望と切れた生き方がありえる、という瞬間を垣間見せるからではないだろうか。それは、個人的な生き方としてありえるばかりか、社会のありようとしてもありえる。言いかえれば、欲望を刺激し続ける現存社会とは異なった社会のありようがありえる、ということ示唆している。俳句が理念を媒介する文学である所以である。俳句の歴史があるわけではない。歴史の中の俳句があるのである。

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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(7)

■旧暦9月12日、木曜日、
(写真)無題

午前中、リハビリへ。トータルで1時間弱かかる。その間、仕事する。買い物して帰宅したら12時である。リハビリ後は、腰が軽くなるが若干、足がしびれる。

この秋はリハビリといふ旅の中

リハビリの老婆にぎやか渡り鳥

鰯雲人に不徳のあればこそ




デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

the child
clutches them tightly...
plum blossoms

osanago ya nigi nigi shitari ume no hana

.幼子や掴々したり梅の花

by Issa, 1810

Issa suggests that the love of Nature's beauty is part of the human soul, not taught or learned. He also reveals, in this haiku, a connection and affinity between innocent child and fresh spring blossoms. We see in this clutching child a future poet.




いく群れか泳いで行や鰯売り


■これも飄逸な味わいがある。鰯売りの身になってみれば必死に売り歩いているはずだが、どこか、可笑しい。笑いの句は、一般に、自らを笑う。他者への配慮からである。この句が、鰯売りを詠みながら、笑いを誘うのは、「泳いで行く」という動詞によると思う。魚の本能的な運動に苦役の様相はない。鰯売りの労働に鰯の運動を重ね合わせ、動物と人間社会という対比を背後に隠していることが、この句の笑いの本質だと思う。このとき鰯売りは、われわれの姿に重なる。
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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(6)

■旧暦9月11日、水曜日、

(写真)無題

さて、今日も一日、終わった。痛みは、徐々に引き、自転車の乗り降りと電車の階段がきついが、動作の遅いのを除けば、ほぼ、日常生活ができるようになってきた。さっそうと歩く中高年のおっさん、兄ちゃんを見ると、むかっ腹が立つのは、不徳の致すところであろう。

むかつ腹立つて見る世も秋日和

曼珠沙華夜は来し方語るべく


今、翻訳を検討している本は、著者独自の言葉をどう日本語に置き換えるか、が一つのポイントになると思っている。わかった気分にさせる漢語の組み合わせをできるだけ排除して、やまと言葉に近い日本語で理論的な著作を翻訳するには、どうしたらいいのか、試行錯誤することになると思う。『サイバープロテスト』を訳出したときには、次の3原則を立てた。1.一読了解:一読して文意鮮明であること。2.反権威的な日本語:わかった気分にさせる抽象語の排除。3.高度な日本語の散文:著者が日本人だったら、こう書くはずという日本語をめざす。

これがどのくらいクリアできたかは、読者が判断することなので、なんとも言えないが、今度の仕事も、基本的には、この線を守りながら、これに、哲学的な言葉をどうやさしい言葉で訳出するか、という用語の問題が加わる。山岡洋一先生が訳したミルの『自由論』や中山元さんが訳したカントの『啓蒙とは何か』には、目の覚める思いをしたので、参考にさせていただこうと考えている。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

honeybees--
but right next door
hornets

mitsu-bachi ya tonari ni kaseba arare-bachi

.みつ蜂や隣に借せばあばれ蜂

by Issa, 1824




手を振て泳いでゆくや鰯売り


■これを初めて読んだときには、かなりの衝撃を受けた。鰯売りが鰯になって海を泳いでゆく幻想が見えた。しかも、全体から立ち上るユーモアは、命というものが、もともともっている、意図せざる可笑しみに通じているような印象を受ける。
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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(5)

■旧暦9月10日、火曜日、

(写真)無題

今日は、朝から腰のMRIである。その後、整形外科で診察。椎間板の軟骨が二か所、神経を圧迫している。そのうち一か所の突出が大きく、今回の激痛の原因になった。軟骨も、色が黒っぽく、すでにゲルが出てしまっていることがわかる。手術まではいかないが、毎日、牽引のリハビリをしなければならなくなった。毎日である! 現実的には不可能だが、当面、それに近い頻度で行わなければならないだろう。いやはや! リハビリは、毎日やって、半年後から効果がでてくる長期戦らしい。原因はなんですか、とやぼなことを聞いてみた。積年の腰へのストレス、加齢、遺伝的要因の3つを指摘された。ところで、椎間板ヘルニアは直らないので、リハビリは、突出した軟骨部分に血管を形成し、養分・水分を軟骨に運ぶことを目的としている。痛みが取れたら、今度こそ、筋トレだ、と考えていたのだが、半年間は、運動を禁止されてしまった。運動をやるなら、背泳とウォーキングが有効だそうである。今日は、一挙に3年は年取った気分である。

今回の件で、一気に持病が3つに増え、これらとお付き合いしなければならなくなって、さすがに、気が滅入ってきた。帰りに、真っ赤なシャツを購う。


秋深む真紅のシャツに袖とおし

秋の川巫女の一団もの言はず

黄金の時満つるまで梅酒かな

行く秋や無垢なるものに魚の目

秋ある日笑まひの中の仏かな


やはりこうなると、「身体と社会」といった問題圏に関心を持たざるを得なくなる。今度訳そうと考えているのは、身体がデジタル環境をどう経験し、これにどう適応しているのか、といったテーマの本で、著者によれば、われわれの身体はすでにバーチャル化されているという。振り返ってみると、思い当たる節はある。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

tree at the gate--
morning to evening
a mountain cuckoo

ki no kado ya asa kara ban made kankodori

.木の門や朝から晩迄かん子鳥

by Issa, 1822




きませきみいが栗落ちしみちよけて


■これは、良寛の父、以南の作とも言われている。毬栗という言葉の中に、友だちに対する友情とユーモアが混然一体になってきて惹かれた。毬栗は、確かに草鞋には危険なものなのだろうが、それを避けて歩くさまは、どこかユーモアである。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(42)

■旧暦9月9日、月曜日、、旧暦重陽

(写真)無題

台風の風雨。今日は終日、自宅で仕事。

颱風の力まかせや鬼瓦

世を遠く南瓜一つのたたずまひ

けふ一日パンプキンパイを焼くために


『サイバープロテスト』の最終原稿は、昨日のうちに、何回か、メールでやりとりして、満足のいく形に仕上がった。こういうことが可能なのも、情報通信技術があればこそ、である。もちろん、わがままなぼくの要求に応えてくれる編集者の存在が大きいのだが。これで、6月から続いた翻訳は完全に一段落した。今後、新しいテキストに取りかかる予定。ちょっと、わくわくしている。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

tree by the gate
the year's first bird song
a foolish crow

kado no ki no aho^ karasu mo hatsu koe zo

.門の木のあはう烏もはつ音哉

by Issa, 1814




痩骨のまだ起直る力なき
   史邦
隣をかりて車引こむ
   凡兆

■この二句にも、驚いた。『風狂始末』によれば、これは、恋の場面だという。源氏物語の「夕顔の巻」の乳母見舞を口実に隣の夕顔に源氏が会いに行く場面を面影にしている。まったく趣向が変わってしまう言葉の力に驚いてしまう。次々に場面が替わり、その度に、古い物語などが呼び出されてくる。共通の教養がなければ、到底成立しないだろう。蕉門の教養の範囲と深さは、どのあたりなのか、興味あるところである。また、現代で、連句を巻くとして、いったい、共通の教養は成立するのだろうか。おそらく、しないだろう。世代が下がれば、古典的教養は、ほぼ壊滅している。今も連句は試みられているが、この問題をどうクリアしているのか、非常に興味深い。
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フランス語の俳人たち:Patrick Blanche(3)(4)


(写真)無題

今日は、やけに寒い。体調は、かなり回復して、そろりと仕事に入る。




Une festin de graines!
Ces petites mains des rats
si semblable aux nôtres


木の実の饗宴
このネズミたちの小さな手は
ぼくらの手によく似ている


■ぱっとしない。間が機能していない。


Une limace ivre
parmi le raisin pourri
Pluvieuses vendanges


酔ったなめくじが
腐った葡萄の隙間に
雨の収穫期


■面白いと言えば面白いが、くだらないと言えばくだらない。「切れ」がなくべったりしているからだと思う。
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柴田三吉詩集『非、あるいは』

■旧暦9月8日、日曜日、

(写真)無題

柴田さんの第5詩集『非、あるいは』(2009年 ジャンクション・ハーベスト)を読む。まず、本詩集の中の最高傑作を紹介したい。


つるん

                        柴田三吉

人が脱糞している姿を見た
うすい日が差し込む 午後の公園
落葉の積もった
ふわりとした土の上

男が脱糞している姿を見た
木枯しの吹きぬけるなか
お尻をつるんとむきだしにし
手にはくるりと丸めたペーパーを持ち

ジョギングの女性はあわててピッチを上げ
わたしは立ち止まって見入った
樹木のように尾骨の張った
堂々としたお尻

はずかしいのは
はずかしがるおまえたちだとばかり
悪びれた様子もなく ハウスの横で
男は脱糞している

きょうはいいものをみたなあ
わたしは妙にうれしくなり
とてもきれいなお尻だったよと
だれかに報告したい気分だった

「出生入死」
―出づれば生、入れば死*

ああ出すのが生
出さぬが死


*老子 第50章

「つるん」全

■鑑賞も解説も不要だろう。諧謔と深々としたユーモア。柴田さんにはいい詩がたくさんあるけれど、これは最高傑作のひとつだと思う。

この『非、あるいは』という詩集は、物語の気配にあふれている。物語が詩になる、ということはどういうことなのか。そもそも、物語の方が古いのだから、そこに未分化の形で詩が埋め込まれている、と考えた方が正確かもしれない。たとえば、


道ばたに老婆がすわっている
これを買ってくれないかとこぶしを差しだし
古い花びらのような指をひらく
ちいさな実がひとつのっている
夢の実だという

これを食べて眠りなさい
しゃぼん玉の夢をみるよ
いちどきり そっと息を吹きこめば
あんたのたましいが
姿をあらわすよ


「しゃぼん玉」部分

一位の實しづかに息を吹き込めり


■この二重の語りは、どこか、遠いシルクロードの砂塵の中の町角か、平安時代の都の裏通りに連れて行かれるようだ。


また、柴田さんには、叡智の詩人としか言いようのない側面がある。たとえば、


わたしとは 明滅する細胞のあいだを飛びつづける蜂鳥のようなものらしい。ぶんぶん羽音を鳴らして心を終え 非へと 跡形もなく消えてしまう存在なのです。

「非、あるいは」部分

蜂鳥の音止みにけり昼寝覚


■「非、あるいは」の「あるいは」。これをめぐって、あるいは、これのために、人類は生きてきたようなところがあるが、トランスヒューマニストによれば、ナノテク・情報テクノロジー・バイオテクノロジー・ロボットテクノロジーといったテクノロジーの発展いかんでは、死が先へ先へと延びてゆく時代が来るという。


五十年生きると百年の意味が分かるようになり 千年の意味もうすうす感じ取れるようになる。つらいこともむごいこともあったのに ひとはこんなにもけなげに遠くまでやってきた。

「時間」部分

年寄るもさうわろくなき柚味噌かな
百年は意外に軽き木の實かな



たずねても旅人は目のまえの風景を語ることができない。それを語るにはひとのことばではない けもののことばが必要だ。


「果てへ」部分

色鳥や無何有郷にことばなし
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芭蕉の俳諧:猿蓑(41)

■旧暦9月7日、土曜日、

(写真)無題

腰の調子は徐々に回復。起きて歩けるようにはなった。長時間の作業はまだきついが、週末、完全に休養すれば、回復してくるだろう。

一昨日の近火は、殺人事件に発展した。21歳の千葉大の女の子が、刺殺されて放火された疑いが強くなった。なんとも痛ましい事件である。ワンルームマンションの玄関には施錠はしてあった。出窓から侵入したらしい。


たましひのそこだけ軽き火事の跡




この数日、ベッドに横になっていたので、何冊か、本を読んだ。その一冊、長谷川櫂著『和の思想』(中公新書)は非常に面白かった。「和」を異質な物(者)どうしを共存させる運動と見なしていて、これを日本文化の特徴ととらえている。先生の他の本を読んでも感じるのだが、先生は、建築になみなみならぬ関心を持っている。これは文化を考えるときに、非常に正しい着眼で、マンハイムも言うように、「空間のあり方が考え方を規定する」からである。

異質な物(者)どうしを共存させる原理を「間・沈黙・余白」のコミュニケーションに求め、俳句や絵画、華道、多神教などの日本の文化に広く見られるコミュニケーションの特質と考えている。この本を読むと、俳句が、まさに、「間・沈黙・余白」を表現する文芸であることがよく理解できる。逆に言うと、俳句の饒舌さが、社会の近代化・グローバル化と軌を一にしていることも了解されてくる。

先生の本を読んで思ったのは、先生は、言葉の正しい意味で、愛国者なんだと思う。その意味で、共感できる点は多くある。ぼくがこの本を読んで感じたのは、おもに3点ある。一つは、戦後の「和」とくに、バブル期あるいはそれ以降の「和」は、われわれの周辺から見えなくなった「和」への郷愁があると先生は述べられている。これは一面当たっていると思うが、このときの「和」は西欧をいったん経由して日本人が再発見した「和」であり、ブーメランのような逆japonismeの面もあるのではないか、という点。第二に、「間・沈黙・余白」のコミュニケーションを起動させる土台に、先生は、兼好の言う「夏をむねとすべし」という日本の風土の蒸し暑さを上げられている。この点は、説得力はあるのだが、兼好の空間思想もまた、空間に規定されている。つまり、兼好は宮廷に近い京都人であるという点。関西の空間的(物理的なだけでなく、政治経済的な空間という意味も含む)な特質から、この「夏をむねとすべし」は生まれている。たとえば、日本海側や東北、北海道などの豪雪地帯では、異なった空間思想があり得る。もちろん、京都は政治文化の中心であり、これが日本建築のスタンダードになった可能性は十分にある。ただし、地方の空間特徴から生じた空間のありようと中央のスタンダードとの間で「和の運動」が起きた可能性を見逃すことはできないだろう。第三に、芭蕉のついての評価がある。これは、先生の議論の大筋からは外れるのだが、ぼくが、興味を持っている点なので、触れておくと、芭蕉以前までの俳諧は、ただの言葉遊びだったが、芭蕉が心の世界を俳諧に持ち込んだことで、千年の歴史のある和歌に俳諧が匹敵する文芸になり得た、というのが先生の芭蕉評価の大筋である。まったく、そのとおりだと思う。芭蕉の発句をすべて検討してみると、鮮やかに、変化の跡を辿ることができる。このとき、ぼくが思ったのは、芭蕉は、俳諧の歴史で画期をなしたことは確かだが、別の面から言えば、和歌に戻ってしまった面もある、ということだった。言葉遊びを俳諧がしていた時代は、ただ、和歌をパロッておちょくっていたのではなく、これまでの美意識に対する強烈なアンチテーゼがあったはずである。その中核にあったエネルギーは笑いだったように思う。蕉門の俳諧はもちろん、単純に和歌の美意識に戻ったわけではなく、俳味を意識して、和歌の美意識をずらそうと試みている。ただ、当初の俳諧が持っていた野卑な笑いのエネルギーは、洗練とともに薄められていった面があるのではなかろうか。このとき、芭蕉の「軽み」を「笑い」と関連付けることはできると思うが、笑いの強度という点で言うと、言葉遊び時代よりも後退した感は否めない。もちろん、今さら、言葉遊びの時代に戻っても、ペラペラのくだらない軽薄な俳句しかできない。ここには、芭蕉の「軽み」以降の「笑い」をどう考えるかという問題が潜んでいるように思える。一つ、ヒントになるか、と思っているのが、芭蕉の俳諧の検討である。発句だけを読んでいると見えない笑いの諸相が、蕉門の俳諧に見受けられるからである。




ほとヽぎす皆鳴仕舞たり
   芭蕉
痩骨のまだ起直る力なさ
   史邦

■この二句で、作られている世界は、先の上皇たちの島流しの世界を継続しながらも、断ち切っている。病人が杜鵑の声を聞かなくなった、というのは、冥土の鳥との異名を持つこの鳥の声が止んだということで、病人が危機を脱したということも意味するようだ。どうも、歌仙は、ペアで一つの世界を構成するらしい。それでいて、前のペアとは、断絶と関連という二重の関わり方をするものらしい。
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フランス語になった俳人たち(19)

■旧暦9月6日、金曜日、、霜降

(写真)無題

昨日は、近くで火事があった。この二カ月で、近所が焼けたのは3件目である。今日も、終日、ベッドに横たわり、本を読み、音楽を聴くだけ。少し良くなってきた。

皓星社の情報通信シリーズの2冊目になる『サイバープロテスト』が11月下旬に発売!  


秋の空えい脱糞をわるびれず

海に出て北の山火事収まらず

秋深き背で物言ふ男かな





デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

not falling
on the insincere village?
Rain of the Tiger

makoto naki sato wa furanu ka tora ga ame

.誠なき里は降ぬか虎が雨

by Issa, 1822

According to tradition, if it rains on the 28th day of Fifth Month, the raindrops are the tears shed by Tora ("Tiger"), the wife of one of the Soga brothers of medieval times. Yuasa explains: "In the twelfth century Sukeyasu was murdered by Kudo^ Suketsune, and the murdered man's sons Tokimune and Sukenari had vowed from childhood to avenge their father's death. When the elder brother Sukenari parted from his wife Tora before setting out with his brother to kill Suketsune, her tears were so copious that ever after rain fell on that day." The Year of My Life: A Translation of Issa's Oraga Haru (Berkeley: U. of California Press, 1960; 2nd ed. 1972) 75. In this haiku Issa may be referring to his own home village of Kashiwabara, where he was living at the time--making this one of many unflattering portraits of his native town. This haiku appears in Issa's journal immediately before a similar poem: ki ni iranu sato [mo] aran wo tora ga ame this village lacks the spirit of the day... Rain of the Tiger




身にしみて大根からし秋の風
   芭蕉


Dans le goût mordant du radis
je sens
le vent d'automne


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002


大根の刺すような辛さを
感じる
秋の風


■日本語の「身にしみて」という措辞がいかに効果を上げているのか、フランス語を日本語にしてみるとわかる。
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