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RICHARD WRIGHTの俳句(4)

■昼間、耳鳴りがひどくて何もできず。家の中では、いたたまれず、外の公園のベンチに横になって、流れる雲を見るが、まったく心晴れず。帰宅後、運動に行く気力出ず、風呂を沸かして、耳にシャワーマッサージを施すが、効果がなく、絶望的な気分になる。昨日の夜は効いたのだが、なぜ、今日は効かないのだ。マイスリーとリスミーを服用して、一時間くらいうとうとする。起きると、またしてもひどい蝉時雨。1時間半ほどすると、徐々に耳鳴りが収まってくる。やはり、睡眠が不可欠なんだろう。耳鳴りになってから、以前より長く眠るのが難しくなった。頭の調子が若干良くなったので、喫茶店で、ライトとアーレントを読む。



(Original Haiku)
Sweep away the clouds
And let a dome of blue sky
Give this sea a name!


(Japanese version)
雲を吹き払え
青空の天蓋に
この海の名を授けさせよ


■スケールの大きなHaikuだと思う。一読、思ったのは、命じている相手は誰か。命じている者は誰か、ということだった。単純に作者ライトとは言えない原初性・神話性がある。これは、神話の神が大自然に命じて、海の名づけを行っている瞬間のように思えてくる。

眼前の海は雲に覆われた空を反映して灰色なのだろう。本来の姿は青空を映して紺碧なのかもしれない。こういうHaikuに日本語の季節を問うのは、あまり意味があるようには思えない。季語の世界あるいは季題の世界は、(翻訳された)日本語の中にあるのであって、日本語の言語ゲームと切り離せない。英語には英語の、ドイツ語にはドイツ語の、フランス語にはフランス語の季語あるいは季題がありえるだろうし、あっていいのではないか。ちょうど、沖縄や北海道に独自の季語があるように。英語やドイツ語で季節を表す言葉に留意していくとどういう世界が現れるか、興味のあるところである。

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飴山實を読む(3)

旧暦、4月15日、木曜日。のち

実質4時間睡眠。起きると、やはり調子悪い。家人が出かけてから、昨夜効いたシャワーマッサージを試してみる。耳に直接熱いシャワーをかけ、マッサージする方法である。しかし、今朝は効かない。おそらく、風呂で体全体を暖めておくことが必要なのだろう。仕事部屋にいると、耳鳴りで気が狂いそうになるので、キッチンで、本を読む。こどもが起きてきたので、少し、気が紛れる。

しかし、心療内科というのは、どこも大変込んでいる。近くの病院を2件、予約したのだが、一方は2週間後、もう一方は、20日後の診察である。このときまでに、質のいい睡眠8時間を確保したい。8時間眠って、風呂+耳のマッサージ、運動その他のリラクゼーションという組み合わせで、生活を再編することをめざす。心療内科が込むのはどう見ても、良い社会とは言えまい。



木から木へこどものはしる白雨かな  『次の花』

■一読惹かれた。なぜ惹かれたのかを考えみるに、自分のこども時代を思い出すというのが第一にある。近所の林で木登りをして、手を滑らせて、背中から地面に落ちたときの痛かったことや、木の匂い、林に差し込む午後の光の感じなどが、甦ってくる。第二に、「白雨」との取り合わせがいい。白雨が夕立だったら、この雨の明るい感じが出てこない。漢字の「白」、音の「hakuu」という響きが、軽やかで明るい感じを出している。だが、よく読むと、この句は、不思議なのである。木から木へこどものはしる白雨かな 木から木へ、いくらこどもでも走れない、すくなくとも、ぼくにはそういう経験はない。飛び移ったりはしたが、走ることはない。走っているのは誰か? こども? こどもの姿をした神のような気がしてこないだろうか。そんな不思議な雰囲気の漂う句である。
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RICHARD WRIGHTの俳句(3)

■今日は睡眠不足で、調子悪かった。昼間何もできず。午後、雨。夕方、遅い昼飯を食って早めの風呂に入ると、かなりリラックスできたようで、調子がいい。ライトの俳句を読めた。

(Original Haiku)
Keep straight down this block,
Then turn right where you will find
A peach tree blooming.


(Japanese version)
この道をまっすぐ行って
右に曲がってみなよ
一本の桃の木が満開だから


■blockはareaあるいはstreetsだから、ある一定の広さの街並みが浮かんで来る。<このブロックをまっすぐ行って>としても良かったが、音の関係で「道」にした。where you will findは気づきを表しているので、もっともぴったり来る日本語は、「けり」だろうと思う。「けり」がうまく全体にはまらなかったので口語的に訳出してみた。非常に美しい三行詩だと思う。暗誦したくなる。以上を踏まえて、ライトに触発された詩を書いてみた。

(Inspired version)
旅人はこの道を行け
右に曲がれば
一本の桃は咲き満ち
ことごとく今歌の中
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飴山實を読む(2)

旧暦、4月14日、水曜日。

7時間眠ったが、途中、目が覚め、5時間程度しか実質眠れていない。そのため、調子は悪い。もう少し、強い睡眠薬にした方がいいかもしれない。明日病院に行くことにする。江戸川に散歩に行く。土手で横になって、しばらく、風の音を聞いていた。空から、雨粒が落ちてきたので引き上げる。緊急の課題は、「睡眠障害」の改善であろう。この局面のコンセプトは、2つある。「質のいい睡眠の確保」と「身体のリラクゼーションを通じた精神のリラクゼーション」午後は、軽く運動して、風呂に入ってくるつもり。

しかし、元気が出ない。川原で、新緑を眺めながら思うのは、歴史と社会の罪深さと自然の無垢さである。ぼくの中の自然がプロテストしている。悲鳴を上げながら。



わが畑のはしりの胡瓜もまれをり  『次の花』

自分の畑で慈しんだ胡瓜は、さぞうまいだろう。食を詠んだ俳句は多くあるが、いいなあと思うのは、そこに食に対する愛があるときである。命をいただく感覚が底流にあるときである。この句は、丹精込めて育てた胡瓜を、奥さんが胡瓜もみにしているのだろう。その様子を、作者が、おそらく無言で見守っている。二人の間には、夫婦の歴史があり、言葉はないが、言葉を越えたコミュニケーションがある。そうしたなんともいえない落ち着いた空気がこの句には漂っている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(2)

旧暦4月13日、火曜日。

今日は、調子がいい。途中、何度か目が覚めたが、無理やり8時間眠ることに成功した。海外に医療奉仕に行っている友人が、たまたま心療内科が専門なので、メールで今の状況を書いて、医学的な意見を求めてみた。その結果、いくつか、有益な情報が得られた。

・水分を多く取ること。耳鳴りは三半規管の中のリンパ流の増減と関連している可能性がある。
・筋緊張をほぐすこと。耳の中にも細かい筋肉がある。食事の租借運動やマッサージなどによって身体全体がリラックスすると症状が改善する。
・運動はストレッチや柔軟を基本にする。
・有資格者からのアロマセラピーがいい。匂いとアロマの浸透による薬理効果、マッサージ効果で、身体のリラクゼーションを促進する。身体のリラクゼーションは逆に精神的なリラクゼーションを招いてくれる。
・心身両面のリラクゼーションのための「自律訓練法」がある。これは、心療内科で指導している。習得に少し時間がかかるがコストは抑えられる。

■以上の情報とぼくの耳鳴り経験を踏まえると、耳鳴りは2段階で考えられるように思う。第一段階は、耳鳴りがはっきりある段階。これは、ぼくの経験で言えば、起床直後の、意識が覚醒していない段階から、猛烈な蝉時雨のような耳鳴りが生じ、自分の何ものも、これに関与していない、関与できない感覚がある。この状態が10日続いた。このとき共通していたのは、睡眠時間の短さである。今日は、無理やり8時間眠ったところ、かなり治まっている。この段階では、無理やり眠ることが基本になるのだろう。耳鳴りの第二段階は、耳鳴りがあるとも言えるしないとも言える段階で、いわば、「耳鳴りの物象化」が起きる状況である。このときの特徴は、耳鳴りを特定しようとして、逆に耳鳴りの増殖を招く。耳鳴りの残響があるような感じがする。このとき耳鳴りはセイレーンの声と同じで、耳を傾けないことが重要だろう。忘れてしまうことが大事だ。精神科の安定剤や身体のリラクゼーションは、この局面で有効になると思う。

今の状況では、とにかく睡眠時間を毎日8時間確保することがすべての前提だと思う。その次に現れる「耳鳴りの物象化」に対抗するために、身体リラクゼーション、アロマ、運動、自律訓練法などを試してみる。今後、セイレーンの声を忘れ去るために、調子が良ければ、この話題には触れなくなると思う。



For you, O gulls,
I order slaty waters
And this leaden sky!


お前たちのために、カモメよ
灰色の海と
鉛色のこの空をあつらえてやろう


■色彩が印象的だった。海と空が同系色で一つの世界になったその中に、カモメが飛んでいる。カモメの色彩は白を基調に黒あるいはグレーであり、灰色の海と鉛色の空に溶け込むような感じになる。こうしたグレー系や黒系の色彩は実に寡黙であるが、カモメの声はにぎやかである。その対比が面白い。

Haikuを読むと、季節と地域性の問題を考えざるを得なくなる。このHaikuの季語はどう考えればいいのだろうか。全体から受ける季題は冬である。季節の言葉はないが季節感は感じられる。ただし、この季節感は、日本(のある地域)の四季を前提に想像したものである。この想像力の限界が、地域性なのだろう。それがどのあたりに出てくるのか。今後、この点に留意してみたい。
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飴山實を読む(1)

■午後から、トレーニングジム。もう、半年以上、行っていなかったので、メニューは廃棄されていた。腰痛に苦しめられたとき、通い始めて、当時は、週に3回から4回は通っていた。それから、徐々に、間遠になり、今や、1年に2回という有様。今週の土曜日に、カウンセリングをして、新しく、メニューを作ってもらうことにした。マシーンも2台、新しいのが入っていた。

トレーナーに、僧坊筋を鍛えるダンベルトレーニングを2種類教わる。肩の筋肉を鍛えて、脳への血流を増強しようというわけだ。今日、わかったのは、睡眠時間が短いと、いくら、運動しても耳鳴りに対する効果は出ないということ。今日は、4時間しか寝ていない。再び寝ようとしても、耳鳴りで眠れず、そのまま、朝の散歩に出たのである。血流(量と質)と睡眠(時間と質)が、耳鳴りと相関関係があるらしい。したがって、ストレス要因を排除した上で、よく寝て、よく運動すれば、効果が出るはずなのだ。まあ、この辺を心療内科の先生と相談しながら、進めたいと思っている。

耳鳴りになって悟ったことが一つある。それは、平均70点でいいのだということ。なんでもかんでも100点取ろうとしすぎた。そんなの無理なのだ。100点取ろうとして0点なんてことも多々あった。強弱を考えるべきだった。



飴山實は、5つの句集を出している。それを逆から読んでいる。最後の『花浴び』を読んで、今『次の花』を読んでいる。句の検討は、『次の花』から初めて、『花浴び』に進み、その後、遡っていくパターンにしたい。

ま空よりこぼれて石へ秋の蜂   『次の花』

■「ま空」という措辞。秋のまったき空、晴れ上がって一点の曇りもない。「こぼれて石へ」という措辞。能動的で意志的な動きではなく、モノがごぼれるような、何か受動的な動き。ふいに空の一点から、この世に現れたような印象がある。そして、その石は秋の日に照らされて暖かい。「秋の蜂」は、「秋の蚊」や「秋の蝶」、「秋の蝿」と違って、まだよく動き回るようだ。そういう動を秘めた静が「石」の質感と響き合っている。


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RICHARD WRIGHTの俳句(1)

旧暦4月12日。月曜日、

昨日運動したせいか、4時半に起きてしまった。目覚めると、その瞬間から、耳鳴りがひどい。ゴッホが耳を切り落とした気持ちがわかるような気がする。ウィダーインゼリーを食して、散歩に出かける。家人がとても心配している。江戸川周辺を一時間半歩く。水門近くに毛布に包まったホームレスの人が二人、離れたところで眠っていた。朝の川面はブルーグレーで美しかった。今日は、風が冷たく、トレーナー一枚では寒い。帰宅後も耳鳴り収まらず。仕方ないので、野鳥のCDをかける。この病気になって、1週間経過した。その間の経験から、脳に供給される血流の量と質が耳鳴りと関係がある、というのが、現時点での、「ぼくの耳鳴り」に関する仮説である。この仮説を柱にして、日常を再編成したいと思っている。午前中は、散歩と雑用、軽い作業、午後は、じっくり運動だけ、夜は軽い作業。複雑なロジックの散文を静かに読むという、たったこれだけのことができなくなった。今のささやかな希望は、回復して、ヴィトゲンシュタインとマルクスをじっくり検討すること。



そういうわけで、この間の作業は、脳の負担にならないことで、しかも、気分を変えたいので、新しいことをしようと思っている。一つは、RICHARD WRIGHTの俳句(というよりも美しい三行詩と言うべきか)を翻訳・検討する。もう一つは、飴山實の俳句を検討する。



I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.


俺は何者でもない。
秋の赤い落日が
俺の名前を奪ったのだ。

■出典は『HAIKU This Other World』(ANCHOR BOOKS 1998年)。著者のリチャード・ライトは、1908年ミシシッピ州の地方部に生まれ、1960年パリで死去。1940年発表の『Native Son』(邦題「アメリカの息子」)は、アメリカ文学を代表する作品。他に、『The Outsider』(邦題「アウトサイダー」)、『Black boy』(邦題「ブラックボーイ―ある幼年期の記録」)、『Black Power』、『White Man, Listen! 』(邦題「白人よ聞け」)など。

『HAIKU This Other World』には、ライトの娘、ジュリア・ライトが序文を寄せている。それによると、俳句をライトが書いたのはフランス亡命中で、最晩年の18ヶ月のことらしい。死の数ヶ月前に数千句も作ったという。ライトは、片時も句帖を話さず、カフェ、レストラン、ベッドの中まで、四六時中どこでも俳句を書いていたようだ。

いくつかライトの俳句を読んでみたが、どれも、自然を詠んでいて、興味深い。西欧の文学は、たいていが人間中心で、息が詰まるときがある。掲句を一読したとき、映画パピヨンを思い出した。主人公のマックイーンが、何度目かの脱獄に失敗して、夜、監獄に戻ってきたときに、仲間の囚人に「Who are you? 」と聞かれ、「Nobody」と答えるシーンがある。このとき、ぼくが感じたのは、監獄の中では、「Who are you? 」という問いは、無意味だということだった。そこでは、娑婆の名前も職業も意味がない。ここから言えることは、名前も職業も、その背後には、程度の差はあれ、「人間」がいるということだろう。ライトのこの句に戻ってみる。どうだろう。監獄か収容所にいる人間のつぶやきに聞こえてこないだろうか。

ここまでは、ライトの文学的・社会的背景を考えてみても、妥当な理解だろう。ぼくは、名前が奪われたことのもう一つの面にも注目してみたい。それは、ハイデッガーが人間は石や木とは違って、地上に住まうものだと言った言葉に関連する。ライトの句では、詩的にこう詠われている。

I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.


赤い秋の落日が
俺の名前を奪ったのだ


むろん、「俺の名前を奪った」のは、社会であり歴史である。しかし、名前を奪われたことで、地上に住まう「人間」のあり方を止めて、自然と一体化するのである。このとき、A red sinking autumn sunとライトは一体化している。社会的な疎外が自然同化に向わせたとも、自然と一体化したとき、俳人は何者でもなく、詩になるとも言えようか。

Nobody

― 映画『パピヨン』
    あるいは三十年の歳月へのオマージュ

Nobodyと答えたとき
男は神になった
脱獄を繰り返した末の誰何
風のように
Nobodyと答えたのは正しい
紙一重の自由を
椰子の実の小舟に乗せて
男はその日 
大西洋の白波に消えた

三十年
男を駆り立てたもの
あるいは狂気
あるいは愛
男はひたすら求めた
己自身からの自由を
Nobody
それは大いなる眠りである

脱獄は夢を見ることに似ている
塀の向こうも
監獄なのかもしれない
塀のこちらはすでに
エデンなのかもしれない
舟はもう見えない
Nobody
男は
米国風の発音だけを残した

Nobody
男でも女でもなく
Nobody
生でも死でもなく
Nobody
ただ
冬の青空がある
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北と南(6)

旧暦4月11日、日曜日、

朝起きた瞬間から耳鳴りがひどくていたたまれず、発狂しそうになる。江戸川に行き、しばらく風に当たる。土手のゴミ拾いのボランティアグループがやってきたので、引き上げる。昨日は、比較的落ち着いていたのだが、今日になって、また、ひどい耳鳴りで、とくに朝、起掛けと就寝時にひどくて、身の置き所がない。昼間、仕事部屋にいるとひどくなるので、なるべく、家族と一緒にいて、気を紛らわせるようにしているが、それでも、仕事部屋にまったく入らないわけにもいかず、パソコンから、四六時中、野鳥の声を流している。

生活構造の中にストレス要因が複数あったところに、納期の厳しい仕事を連続的にやらざるを得ず、それが引き金になったものと思う。思い切った療養と生活パタンの変更をしてみるしかないかもしれない。

朝と就寝時に、耳鳴りひどくなるのは、朝晩は、脳へ行く血流・リンパ液の量が減るからではないだろうか。確かに、散歩から戻って、何か口に入れると一時的に耳鳴りが収まるのである。マッサージ・指圧の効果もこれを証明している。この仮説が正しいとすると、対応策は2つ出てくる。一つは、脳へ行く血流・リンパ液の量を一定量確保するために、バランスの良い食事をして、毎日運動してみるということ。二つは、もともと、生活構造にストレス要因が組み込まれているのだから、当該のストレス要因を排除する。この2つを、この一ヶ月実践してみようと考えている。



ハーリー

沖縄で旧暦5月4日に行われる豊漁祈願の船レースが「ハーリー」である。男たちはサバニという漁船を競漕に使う。船腹に波模様を描くなど化粧を施した船が、三艘で勝敗を争う。糸満など沖縄本島南部の漁村に伝わる。糸満では「ハーレー」と呼ぶ。那覇では、龍の彫り物に飾られた爬龍船を「ハーリー」と呼ぶ。琉球王朝の伝承が残る那覇だけのものであるが、那覇では子供の日の5月5日に42人乗りの大型船が繰出す(『語りかける季語 ゆるやかな日本』宮坂静生著 岩波書店から)。

爬龍船ゴールにかざす櫂そろふ   安次富哲

爬龍船(ハーリー船)
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北と南(5)

旧暦4月9日、土曜日、。早朝に起きて、江戸川で雲雀と葦切りの声を聴いてくる。ジョガーやウォーカー多数。その後、喫茶店に籠もって、アーレントの新刊『責任と判断』を読む。以前なら、うるさくて、込み入った散文を読むには不適切だった喫茶店が、逆に、今では集中できるのは皮肉である。耳鳴りは、昨日、指圧を受けて、だいぶ回復してきた。指圧師のおばちゃんが言うには、肩のあたりにリンパ液と血流が停滞すると、耳鳴りは起きると言う。今日も指圧を受けて、一気に、回復まで持って行きたい。



立ち雲

沖縄の入道雲、雲の峰を言う。夏の季語。

立ち雲のこの群青を歩みけり   渡嘉敷皓駄

■立ち雲という季語は面白い。「雲の峰」が横に長く峰を連ねている連想を呼び起こすのに対して、「立ち雲」は縦に長い印象を受ける。
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北と南(4)

旧暦、4月9日、金曜日、。朝、散歩に出ると、突然、どしゃぶりになった。しばらく、江戸川の川面を見て帰る。体調は悪い。朝と夜にひどい。頭の中が蝉時雨のようだ。昼間も自宅作業はできず、図書館で、少し読書するくらいしかできない。しばらく、すべての予定をキャンセルして、療養に専念したい。



南十字星(サザンクロス)

南天の代表的な星座の一つ、南十字星は、北緯27度より南に行かないと見られない。沖縄の夏の季語。「はいむるぶし」とも言う。「はい」は南、「むる」は群れる、「ぶし」は星の意。沖縄で見ることができるのは、一月中旬から五月中旬。



潮満つる兆しや南十字星   正木礁湖

南十字星(サザンクロス)草を塒に春鷗   宮坂静雄






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