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飴山實を読む(48)

■旧暦1月23日、金曜日、

前から石川淳に関心があって、上田秋成の雨月物語と春雨物語をベースにしたものを読んでいる。雨月物語は、溝口健二の映画でも観たし、以前、オリジナルで読んだこともあるので、新釈春雨物語から読んでいるのだが、面白いですねえ。朝廷の歴史もどこか可笑しい。

(写真)白梅の深空




らつきように籾かけをれば小鳥くる


■「らっきょう」で夏。らっきょうの育て方に詳しくないので、どういう状況なのか、よくわからないが、肥料の一種として、籾をかけたのだろうか。なにか他に意味があるのだろうか。この句に惹かれたのは、「らっきょう」も「籾」(籾米なのか籾がらなのか、わからない)も「小鳥」も小さい生き物で、ささやかであっても確かな命へのまなざしを感じたからである。こういう句を読むと、畑仕事をやってみたくなる。

※コメントをいただいて、籾がらは、寒さ避けの保温のためとわかりました。らっきょうの植え付けは、8月下旬から9月上旬ですので、冬を前にした、保温対策と思われ、季語は「小鳥くる」で秋になりますね。
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芭蕉の俳句(166)

■旧暦1月18日、日曜日、春嵐

昨日は、強風の音でよく眠れず困った。諸星大二郎の『私家版魚類図譜』を読み終わる。これは、先に出た『私家版鳥類図譜』と対になっている。諸星さんの作品は、単行本になったら、即、購入して読んでいる。80年代に出た『無面目 太公望伝』を古書店で入手して読んでから、元になった「荘子」に関心を持って、当該箇所を読んだことがある。コミックの想像力に舌を巻いた。原作は、たったの4行なのである。これが、神と人間の想像力豊かな物語になっている。雨月物語や百物語のような日本の古典に取材した作品も読んでみたいものである。



白露もこぼさぬ萩のうねりかな    (真蹟自画賛)

■元禄6年作。萩のうねる様子が目に見えるようで惹かれた。このうねりは、秋風がかすかに吹いているためかもしれないし、もともとの萩の形かもしれないが、その程度は、わずかなものなのだろう。白露をこぼさぬ萩のうねりかなの形も伝わっている。この「も」と「を」の違いは微妙だと思う。楸邨は、「を」であれば、焦点が「白露」に当たるが、「も」であれば、萩のうねりに当たるとしている。この場合の「も」は、白露以外にもなにか列挙できる可能性を言外に示すというより、うねりかたの程度を表すために使われているように感じられる。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(21)

■旧暦1月14日、水曜日、

(写真)良寛の金屏風。漢詩が書かれている。書体は自在で明るい感じ。

日当たりのいい坂の白梅が満開。相変わらずバタバタと生活に追われて日々過ぎていく。少しずつ、「笑い」について調べたり考えたりしているんだが、「笑い」には、グレードがあると思う。下等な笑いから上等な笑い、至高の笑いまで。下等な笑いは、他者を貶める笑いで、笑っている当人の心性がもろに出てしまう。上等な笑いは、自然にこぼれる笑みで、話芸などに受け継がれている。至高の笑いとは自他を救済する笑いである。ところで、出典はわからないのだが、ショーペンハウアー(1788-1860)が次のようなことを言っている。

All unser Übel kommt daher, dass wir nicht allein sein können.
われわれは一人きりではいられないということが惨めさのすべての原因だ。

これには大笑いした。真実はえてして、人を笑わせるものではないだろうか。理性とは論理的になんらかの真理に迫る運動を言うのだとしたら、もともと、理性には「笑い」の要素が含まれていたんじゃないか。今まで、あまりに狭く理性を考えすぎたんじゃないだろうか。

ある英文学者に聞いた笑い話。

アインシュタインとその運転手。

運転手(クルマを運転しながら):先生、先生の話は、もう何十回も聴きましたから、すっかり憶えてしまいましたよ。
アインシュタイン:ほう、そうかね。そりゃいい。今度行く大学は、わたしの顔が知られていないから、どうかね、きみ、一つ、わたしの代わりに講演をやってみんかね。
運転手:面白そうですね。

(講演当日)

運転手:…というわけで、諸君。一般相対性理論は、加速や重力を想定した一般的な状態を扱ったもので、その意味で、特殊相対性理論を拡張したものと言えるわけです。なにか、質問はありますか。

学生:先生、その数式の意味がさっぱりわからないのですが、説明していただけませんか。

運転手:きみ、つまらん質問をするね。それは、初等数学の問題だよ。わたしの運転手でも答えられる。おい、運転手君、きみから説明してあげたまえ。




(Original)
die Hecke am Zaun
wächst blickdicht...nur noch Nachbars
Stimme lässt sie durch



(japanische Fassung)
生垣がみっしり
生い茂って…お隣さんだって
声しか通さない


■生垣を通すのがお隣さんの声だけという視点は面白いと思った。ただ、少し、常識的に過ぎる。たとえば、「お隣さんの声も遠くに」だったら、もっと面白いのではないか。
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RICHARD WRIGHTの俳句(50)

旧暦1月6日、火曜日、

(写真)枯菊

昨日は、ドイツからのコメントに返事を書いていたら、朝になってしまった。家内と娘に呆れられてしまった。返事は2、3行のものを3つなんだが、なんせ、元のコメントが長い。これを読み解くのに時間がかかってしまったのだ。俳句の作者本人からコメントが来たのは、これがはじめて。いずれにしても、ドイツの俳人は、真面目であるね。ぼくの鑑賞(かなり稚拙なはず)に返事を書いてくれるんだから。

その昔、友人がオーストラリアに住んでいたとき、70歳くらいのドイツから移住してきた老人一家と知り合った。老人は、「日独同盟」の時代を経験している。老人は、日本人と見ただけで、肩を抱き、食事やピクニックに誘い、英米の非道を説いたのである。日独同盟など知らない世代の友人は、どう対応していいか、困惑したらしい。こういう話を聞くと、ドイツが妙に懐かしいような、おいおい、この懐かしさは危ないぞ、というような、複雑な気分になる。ヒットラーは、国民のことは最後までまったく考えていなかった。残ったのは屑ばかりだ。ヒットラーの言葉である。

日曜日は、句会だった。10ヶ月ぶりに先生の指導を仰いだ。冴え渡っている。言葉の繊細な使い方の違いの解説は大変勉強になった。芭蕉の句をスタンダードにすることの意味が少しわかった気がする。これから、春にかけて、能や狂言の新作も発表されるらしい。観にいきたいものである。師弟関係というのは、どうあるべきか、いろいろあるのかもしれない。ぼくは、先生が切り開いた俳句の地平を豊饒化することが弟子の役割ではないかと考えている。




(Original)
One magnolia
Landed upon another
In the dew-wet grass.



(Japanese version)
木蓮が木蓮に
散る
濡れた草



(放哉)
木蓮一日うなづいて居て暮れた


■ライトの句、木蓮で春。詩の映像として鮮やか。放哉の句、だれかと話していたか、自然の風物の動きにうなづいていたか。ユーモアが漂う。

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北と南(13):緋寒桜

■旧暦1月3日、土曜日、

(写真)Untitled

旧暦の正月は、中国では「春節」。この日は、沿海部に出稼ぎに出ていた人たちも大勢故郷に帰る。それが、今年は、大雪で交通機関が麻痺して、政府も対応に追われたらしい。そこで、単純な疑問があるのだが、どうして、旧暦の正月に今なお価値を置いているのか。中国の生活には陰暦が隠然と力を持っているのか。新旧の暦の使い分けなど、どうやっているのだろうか。

ここ数日、たて続きにDVDをレンタルしてきた。三谷幸喜の「みんなの家」、同じく「笑いの大学」、「ヒットラー最後の12日間」。三谷幸喜の映画は、これで、全部観たが、もっとも面白かったのは「ラヂオの時間」、次に、初監督作品の「みんなの家」だった。「笑いの大学」は世評は高いが、そして、確かに、面白けれど、ほのぼのしすぎている。そのほのぼの感は、「みんなの家」のような作品にはうまくはまるが、「笑いの大学」は、もっと社会や歴史と切り結んでも良かったんじゃないか。せっかく、「戦時下の検閲と笑い」というテーマなのだから、もっと笑いと社会の根源的なところにまで触れられたはずだと思う。検閲官を人間的に設定したのは、お茶の間向けにはいいけれど、その分、映画としての批評精神は低くなってしまったと思う。

「ヒットラー最後の12日間」は、去年だったか、一昨年だったかの「ドイツ映画祭」で始めて知って、ずっと観たいと思っていた。元秘書の証言を元に実にリアルに最後が描かれている。ブルーノ・ガンツが、ヒットラーその人になりきっている。この映画はいくつも衝撃的なシーンがあるけれど、谷崎潤一郎が戦国時代の悲劇を描いた「盲目物語」をしきりに思い出した。ヒットラーとその臣下の関係は、封建時代そのままの主従関係で、忠誠心がいくつもの死を招く。この関係は、部下の家族関係にも当てはまり、両親が絶対の権力を持っていて、自死するときには、子どもの命までも、当然のごとくに奪っていく。この辺りも戦国時代の落城史のように感じられた。



緋寒桜

真冬に咲く沖縄の桜。寒緋桜とも。地元の人は緋寒桜と呼んでいた。沖縄人が桜と言えば、これを指す。本土の彼岸桜と音が似ているので、寒緋桜に改められたという。でも緋寒桜の方がいい。沖縄本島の北では一月中旬に開き始め、十日から二十日かかって徐々に咲き、満開は下旬。南の石垣島では二月上旬が満開となる。花の色は桃の花よりも濃く、臙脂色。釣鐘状に下を向いて咲く。花は五弁。散り際に特徴があり、房ごと落ちる。

寒緋桜岐路に立つ身の透きとおる   久手堅倫子

※ 宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より
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飴山實を読む(47)

■旧暦12月29日、火曜日、

ぼくの俳句や詩や、あるいは、ぼく自身に一番欠けているものは何か、と問うたとき(まあ、金は別にして)、「笑い」だろうと思う。そこで、「笑い」について、いろいろ調べているのだが、なかなか奥深く興味が尽きない。もともと、笑いは神様を笑わせるところから始まっている。「をかし」という言葉も平安朝の「趣深い」という意味から現在の「おかしい」という意味へと変わっていくのだが、この二つは二重らせん構造のように表裏一体みたいなところがある。それは、俳句が、もともと、風流と笑いを二重に備えていることと対応している。

噺家の柳家小さんは、お客さんを笑わせちゃダメだ、と常に弟子に語っていたという。小さんの落語を聴くと、客の笑いを取るという感じはまったくない。こっちが思わず笑ってしまうのである。俳句の笑いも、これに似たところがあるのではないだろうか。自然に読み手が笑ってしまう句が上等なのではないだろうか。ところで、噺家/客、俳人/読者という二元論を取っ払ったとき、笑いはどうなるのだろうか。笑いは一つの運動となり、苦悩や悲哀、辛さといったネガティブなもの総体を昇華する働きそのものになるのではないだろうか。

芭蕉の俳句に感じるのは、この種の笑いである。これは、静かな微笑となって、自らを救済すると同時に他者を救済する。

(写真)とある駅舎




たはやすく谺する山たうがらし


■「たはやすく」は「たは(接頭語)+易く」。この音のなんとも言えないやわらかさに惹かれる。「たうがらし」で秋。少しの声でも容易に谺する深山が想像される。この唐辛子は山家の軒先に干されているのだろうか。紅葉にはまだ早いが、確かな秋の気配が唐辛子の赤に感じられる。
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