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ケインズの『説得論集』を読む:「孫の世代の経済的可能性」(1930) (2)

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「孫の世代の経済的可能性」の後半は、ケインズの時代から100年後、2030年の世界のありようを予測している。マルクスの経済学哲学草稿にあるような革命後の社会を思わせる描写が繰り返し出てくる。

「結論として、大きな戦争がなく、人口の極端な増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるといえる。」(『同書』p.212)


「百年後の2030年には先進国の生活水準は現在の4倍から8倍になっていると予想される。」(『同書』p.211)

「天地創造以来はじめて、人類はまともな問題、永遠の問題に直面することになる。切迫した経済的な必要から自由になった状態をいかに使い、科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇をいかに使って、賢明に、快適に、裕福に暮らしてゆくべきなのかという問題である。」(『同書』p.214)

「余暇が十分にある豊かな時代がくると考えたとき、恐怖心を抱かない国や人はないだろう。人はみな長年にわたって、懸命に努力するようにしつけられてきたのであり、楽しむようには育てられていない。」(『同書』p.214)

「富の蓄積がもはや、社会にとって重要ではなくなると、倫理の考え方が大きく変わるだろう。過去二百年にわたって人々を苦しめてきた偽りの道徳原則を捨てることができる。人間の性格のうち、もっとも不快な部分を最高の徳として崇める必要がなくなる。金銭動機の真の価値をようやくまともに評価できるようになる。」(『同書』pp.215-216)

「社会の習慣と経済の慣行のうち、富の分配や経済的な報酬と罰則の分配に影響を与える部分には、それ自体ではいかに不快で不公正であっても、資本の蓄積を促す点できわめて有益なために、どのような犠牲を払っても維持しているものがあるが、これをついに放棄できるようになる。」(『同書』p.216)

「しかし、注意すべきだ。その時期にはまだなっていない。少なくとも今後百年は、自分自身に対しても他人に対しても、きれいは汚く、汚いはきれであるかのように振る舞わなければならない。汚いものは役立つが、きれいなものは役立たないのだから。貪欲や高利や用心深さをもうしばらく、崇拝しなければならない。これらこそが、経済的な必要というトンネルから光の当たる場所へと、わたしたちを導いてくれるのだから。」(『同書』pp.218-219)

「経済的な至福の状態という目的地への歩みは、四つの要因によって決まる。人口の増加を抑制する能力、戦争と内戦を回避する決意、科学の世界で決めるのが適切な問題については科学の世界に任せる意思、資本蓄積のペースである。このうち資本蓄積のペースは生産と消費の差によって決まり、前の三つの要因があれば自然に解決される。…しかし、何よりも、経済的な問題の重要性を過大評価しないようにし、経済的な問題の解決に必要だとされる点のために、もっと重要でもっと恒久的な事項を犠牲にしないようにしようではないか。経済は、たとえば、歯学と同じように、専門家に任せておけばいい問題なのだ。」(『同書』p.219)

こうした文章を読むと、複雑な気分になるとともに、違和感を覚える。それは、ケインズが楽観的だから、というのではない。事態に対する両義的な感受性が欠如し、まなざしが、西欧、広くて、先進国内部にとどまっているせいである。たとえは、極端になるが、「良い戦争」という議論がある。ヒットラーやムッソリーニ、ヒロヒトといったファシストを排除し、民主主義を打ち立てる目的があるのだから、これは「良い戦争」だという議論がある。実態は、トップを排除するまで、何百万人もの人々を殺戮した。アフガン、イラク戦争でも、まったく同じ構図が繰り返されている。ケインズの議論は、全体として、この議論に似ているところがある。「光のあたる場所」へ出るまでに年間三万人以上もの、自殺者がでるような社会で、20年後には経済的な至福の状態になると言われても、なかなか、受け入れられないのではないだろうか。1930年当時の予測ということは考慮しなければならないだろう。しかし、上記の文章で、問題だと思うのは、第一に次の点である。「科学と複利の力で今後に獲得できるはずの余暇…」科学は、問題を解決するが、同時に新しい問題を引き起こす。原爆・原発問題が典型であり、環境問題が良い例である。また、複利は、あるいは、ひろく金利は、資本の蓄積に寄与するが、投資行動を前提とし、投資行動には、賭け的な要素がある。その要素が洗練されて暴走すれば、バブルでありサブプライムローンになる。第二に、1930年当時と違う状況が生まれている点がある。それは、社会主義が崩壊し、新自由主義とグローバリゼーションが世界中を席巻しているという事態である。経済的な相互関連の密度と危機の伝播の早さは、これまでに例がないほどになっている。しかも、危機は世界中の経済的な弱者が、そのダメージを吸収させられる構造になっている。

両義的な感受性を持つことは、現実的になることと同義だと思う。Lassez-Faireの諸前提の非現実性をあれだけ見事に批判したケインズが、百年後の世界の予測では、非現実的になってしまっているように思える。

また、まなざしが、西欧世界、広くて、先進国内部に向けられているように思える。貧富の問題を地球レベルで考えると、資本の蓄積が進むことを単純には喜べなくなるのではなかろうか。

「資本主義には普遍的なものは一つしかない。市場です。普遍的な国家が存在しないのは普遍的な市場が存在するからに他ならない。……そして市場とは普遍化や均質化を行うものではなく、富と貧困を生み出す途方もない工房なのです。……人類の貧困を生産する作業に加担して骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しないのです。」(ジル・ドゥルーズ)

いずれにせよ、本書は、さまざまなことを考えさせ、また、学ばせてくれるという点で良い本だと思う。


ケインズ 説得論集
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ケインズの『説得論集』を読む:「孫の世代の経済的可能性」(1930)(1)

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ケインズの『説得論集』の中の「孫の世代の経済的可能性」(1930年)を読んだ。非常に面白いエッセイだった。訳文はさらに明晰さを増し、一読して意味がわかるという、訳としては、理想に近い仕事ではなかろうか。このエッセイから感じたのは、ケインズの「社会的責任」の感覚だった。ケインズは、将来の社会のありように、責任を感じているし、責任を感じることが経済学者の義務だと言っているかのようである。もっとも良質的な意味で、政策科学として経済学を位置づけているように感じられた。マルクスに思想的源泉をもつ理論家たちの議論は、実に深く根源的だが、「社会に対する責任」という点でみると、社会的には、芸術家のような役割を果たすと思われる。理論としては、実に示唆的だが、具体的な政策枠組みの話になると、粗野な議論になるか、理論と媒介する努力を始めから放棄してしまう場合が多いように思えるからだ。しかし、これはこれで、芸術家が社会にとって重要な存在であるように、非常に社会的な意味は大きいと思う。個人的には、ぼくは、どちらかと言えば、こちらの思想系譜にシンパシーを感じる。もちろん、ケインズの議論の重要さは理解できるつもりだけれど。

さて、このエッセイを読んでいろいろ考えるところがあったが、一つは、近代の現実的な基盤に関する議論をケインズは、明晰に、ここで行っているな、という感想だった。

「近代が幕を開けたのは、十六世紀に資本の蓄積がはじまってからだと思う。ここでは議論を簡単にするために理由は述べないが、資本の蓄積がはじまったのは当初、物価が上昇し、それに伴って利益が増加したためであり、物価上昇はスペインが金と銀を新世界から旧世界に持ち込んだ結果だと考えられる。その時点から現在まで、複利による蓄積の力が長期にわたる休眠から覚め、強さを回復している。そして、二百年にわたる複利の力は想像を絶するほどである」(『同書』p.208)

ここで、ケインズは、非常に重要なことを述べていると思う。一つは、近代の現実的な基盤は、資本の蓄積であること。第二に、資本蓄積がはじまったきっかけは、コロンブスにはじまる旧世界からの富の略奪であること。第三に「複利」という制度が、歴史的なものであること。

ケインズ自身も「経済の近代」が一つの教義、つまり、イデオロギーにすぎないことに気がついているが、近代という大きなイデオロギー(社会哲学者石塚省二)を成立させた現実的な条件の一つに資本の蓄積をあげている点が注目される。しかも、これは、旧世界の富の収奪がきっかけになっている。この点は、西欧世界の歴史学者が触れたがらない点ではなかろうか(ハワード・ジンのような優れた例外はあるけれど)。資本蓄積のメカニズムは「複利」制度だとケインズは述べている。複利、あるいは、そもそも、利息・金利という存在は、自明のように前提されているが、これは、歴史的産物であり、その意味で社会的存在であることをはっきり指摘している。それはたとえば、次のような個所によく出ている。

「おそらく偶然ではないのだろうが、霊魂不滅の約束を宗教の核心と本質に組み入れることにとくに熱心な民族は、複利の原則にとくに大きく寄与し、人間が作った仕組みのうち、とりわけ目的意識が強い複利をとくに大切にしている」(『同書』p.218 太字は引用者)

彼岸での永遠の生という目的に沿って、行動を再編するキリスト教的世界、これを時間の観点から言いかえれば、単線的に未来に伸びる時間意識と、複利の思想とが親和性が高いのは理解できる。ここで、面白いのは、キリスト教と同じ思想的源泉をもつイスラム教が、利息という仕組みを否定していることである。ここには、興味深いロジックの違いがあるに違いない。宗教社会学的なテーマとなりえるのではないか。

「目的意識」ついて、ケインズは非常に興味深い指摘をしている。

「『目的意識』とは、自分の行動について、それ自体の質や周囲に与える短期的な影響よりも、はるかな将来に生み出す結果に強い関心をもつことを意味している。『目的意識』が強い人はつねに、自分の行動が不滅のものだという偽りと見せかけを確保しようと、自分の行動に対する関心を遠い将来へと押し広げていく。大好きなのは自分の猫ではなく、その子猫である。いや、実際には子猫ですらなく、子猫の子猫であり、そのまた子猫であるという風に、猫族が果てるまで先に延ばしていく。ジャムは今日のジャムであってはならず、明日のジャムでなければならない。こうしてジャムをいつも将来に伸ばしていくことで、ジャム作りの行動を不滅のものにしようと努めるのである。」(『同書』pp.216-217)

この個所は、ぼくには、現在の行動を不滅のものにしようとして、意識を先延ばしにするのではなく、時間的に見た「現在の未来への疎外」の現れなのだと思える。ここでは、「現在」はつねに虚ろで、人間は今ではなく遠い未来を生きるように強いられる。この「現在の疎外」の背後には、キリスト教の単線的な時間意識と科学による予測可能性の拡大、これらと親和性の高い制度である資本主義という三位一体がある。

(続く)



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ケインズ『説得論集』を読む:「自由放任の終わり」(4)

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「自由放任(Laissez-Faire)」は、英国生まれとばかり思っていたが、この言葉がフランス語であることからわかるように、現在の意味で初めて使われたのは、フランスだった。これは、この本で始めて知った。

「自由放任という格言は一般に、十七世紀末ごろ、フランソワ・ルジャンドルという商人がジャン・バチスト・コルベール財政総監に語った言葉が起源だとされている。しかし、疑いもなく、この言葉をはじめて使い、しかもこの思想にはっきりと関連づけて使ったのは、1751年ごろのレネ・ルイ・アルジャノン侯爵である。政府が商業に干渉しないようにすることの経済的利点を熱心に主張したのは、侯爵がはじめてだった。侯爵はこう論じている。良い政府は小さな政府だ。フランスの工業が衰退した真の原因は、政府が過度に保護していることである。人びとが開花されれば、自由に放任しておくべきだ。どの政府も、この点を肝に銘じておかねばならない」(同書p.180)

さて、パート4と5で、ケインズは資本主義の改革案を述べていく。それに先立ち、パート4のはじめで、「自由放任(Laissez-Faire)」イデオロギーを基礎づけている前提をことごとく批判する。

「個人が経済活動に関して、慣行として『自然な自由』を与えられているというのは、事実ではない。もてるもの、取得せるものに恒久的な権利を与える『社会契約』は実際には存在しない。世の中が、私益と公益がつねに一致するように天上から統治されているというのは、事実ではない。現実に私益と公益が一致するように地上で管理されているというのも、事実ではない。洗練された自己利益がつねに公共の利益になるように作用すると言うのは、経済学の原則からの推論として、正しくはない。自己利益がつねに洗練されているというのは、事実ではない。」(同書p.193)

ただ、興味深いのは、国家社会主義を批判するときのケインズで、知らないうちに、「自由放任(Laissez-Faire)」イデオロギーを擁護するようなスタンスになっている。この意味はなかなか深いのではなかろうか。

「わたしが教条的な国家社会主義を批判するのは、人間の利他的な衝動を社会に役立てようするからではないし、自由放任の思想から離れるからではないし、巨額の金を儲ける自然の自由を奪うからではないし、大胆な実験を行う勇気をもつからでもない。これらの点にわたしは拍手を送る。わたしが批判するのは、現に起こっていることの重要性を見落としているからだ。国家社会主義はじつのところ、、百年も前の誰かの主張に対する誤解に基づいて、五十年前の問題を解決しようとした計画がほこりをかぶって残されているのと大差ないからである。」(同書p.197)

旧ソ連や旧東欧社会主義の現実が広く知られるようになった現在、国家社会主義を本気で復活させたいと考えるひとはほとんどいないだろう。問題は、資本主義そのものの望ましさを問題にしたとき、単純に、「お前は国家社会主義を是としている」と短絡してしまう想像力の貧困さにあるように思う。

ケインズがここで、「自由放任(Laissez-Faire)」イデオロギーを擁護しているように見えるのは、「改革」という思想の特徴とも限界とも思える。つまり、改革は、改革する対象を前提として認めない限り実現しない。

ケインズの改革案は、この論文自体が、大学での2つのレクチャー原稿を元にしているために、いくつかの例を挙げるにとどまっている。その改革案とその特徴を検討してみたいと思う。

・独立した自治組織の復活:みずからの分野で活動する時に、みずからが理解する公益だけを基準にし、私益に基づく動機を除外するべきである、とケインズ述べている。これに近い実例として、大学やイングランド銀行、ロンドン港管理公団、鉄道会社などをあげている。

この話を聴くと、誰しもまっさきに思うのは、独立した自治組織のパラドックスではなかろうか。当初、漢検のように、公益をめざしたものが、私益追求に転じる例は、いくらでもあるし、特殊法人に至っては、始めから公益の搾取であろう。ただ、NPOなどで、面白い活動している団体も多くあり、方向性としては、今も有効な提案ではなかろうか。

ケインズは、株式会社も、公益を重視する方向へ向かうという議論をしている。鉄道や電力・ガスなどの公共性の高い企業を例としてあげている。現在から見ると、この議論は、JR西日本の大惨事や頻発する原発問題に見られるように、公益性は大きく腐食されている。これは、社会主義崩壊後の新自由主義とグローバリゼーションの枠組みの中で、考える必要があるのだろう。

・政府が、民間がまったく手を着けてない活動を行うこととして、以下の例をあげている。

・通貨と信用を中央機関で慎重に管理すべきである
・事業活動に関連するデータを大規模に収集して公開するべきである
・社会全体の貯蓄の望ましい規模について、社会の貯蓄のうち対外投資の形で国外に向けられる部分の望ましい規模について、国にとって生産的な部分に貯蓄が配分されているかどうかについて、しっかりした判断を協力して行う仕組みが必要
・適切な人口規模を検討すること

現在からみて、この提案の中では、とくに、貯蓄の適正な配分に関する判断システムを構築するべきだという提案が、重要ではないか。巨額の財政赤字と、アメリカ国債への過度の投資は、社会にとって望ましいと言えるのだろうか。

当然のことながら、ケインズの提案はすべて、近代のnation stateを前提にしている。EUのような連合国家は想定していないし、社会主義崩壊後にnation stateの民族性が矛盾として噴き出している現実も踏まえていない。また、nation stateの企業ヴァージョンである多国籍企業(メーカーだけでなく、国際金融・証券やヘッジファンドを含む)の陰惨で醜悪な活動実態についても、想定外だったろう。

ケインズは、この論文の最後の方で、こんなことを述べている。

「いずれ時期がくれば、資本主義が効率的かどうかという技術的な観点での議論と、資本主義そのものが望ましいか望ましくないかという観点での議論とを、現在よりもはっきりと区別できるようになるだろう。わたし自身の見方をいうなら、資本主義は賢明に管理すれば、現時点で知られているかぎりどの制度よりも、経済的な目標を達成する点で効率的になりうるが、それ自体としてみた場合、さまざまな点で極端に嫌悪すべき性格をもっていると思う。いまの時代に課題になるのは、効率性を最大限に確保しながら、満足できる生活様式に関する見方とぶつからない社会組織を作りあげることである。」(同書p.201)

久しぶりに良質な知性が書いた良質の本を読んだ読後感があった。この本を編集・翻訳した山岡先生に感謝したい。ケインズは、デフレの本質についても、この本の中で議論しているようなので、タイミングを見て、検討してみたいと思っている。



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ケインズの『説得論集』を読む:「自由放任の終わり」(3)

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パート3は、ケインズの「自由放任」イデオロギーの批判になっている。それは、次のような言葉で始まる。

「経済学者は、他の分野の科学者と同様に、議論の出発点とする仮説、初心者に提示する仮説を、単純だという理由で選んでいるのであって、それが事実に近いという理由で選んでいるわけではない。」(同書p.186)

ケインズは、続けて、「自由放任」を支える二つの経済学上の想定を取り上げる。一つは、生産手段の配分に関する想定。もう一つは消費対象の配分に関する想定。

「多数の独立した個人の試行錯誤によって、そして、その過程で正しい方向をとったものが競争に勝ち、間違った方向をとったものを破滅させることで、生産資源の理想的な配分が達成されると想定する」(同書pp.186-187)

「各人は『限界部分で』試行錯誤を繰り返すことで、消費対象になりうる各種のもののなかから、とくに望んでいるものを見つけだす」(同書p.187)

まさに、これは、小泉内閣のときの「自己責任論」にほかならない。今も、自民党を支えるイデオロギーの一つだろう。ケインズは、さらにもう一つの「自由放任」イデオロギーの想定を指摘する。それは金銭愛である。

「個人に無制限の金儲けの機会があることが、最大限の努力を引き出すために有効であり、必要でもある」(同書p.188)

この想定は、シャイロックの例に見られるように、ユダヤ的商売の根底にあるものだろう。ユダヤ的なビジネスモデルの世界化が資本主義である一方、ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理や日本の近江商人に見られるように、思想・理念と経済活動が、初期の資本主義では一体だった面も見逃せない。同時に、ソ連の崩壊や中国の「国家資本主義化」にも、金銭愛が二重に関わっていると思える。ケインズは、上述の3つの想定を非現実的だと批判している。ただ、三番目の金銭愛については、金銭愛が金銭愛を生む側面があり、いったん、資本主義化が開始されると、理念や思想を食い破って増殖するファクターのような気はする。

続けて、ケインズは、別の角度から、自由放任イデオロギーの非現実的想定を指摘していく。「個々人が自己利益を追求してそれぞれ独立して動いたとき、全体的な富が最大限に生み出されるという結論には、…さまざまな非現実的想定に基づいているという問題がある。生産と消費の過程がどちらも有機的なつながりをもっていないという想定、状況や条件に関する十分な知識が事前にあるという想定、事前に知識を得る機会が十分にあるという想定」(同書p.189)

経済学者のこうした想定の背後に、仮説を単純化したいという経済学者の側の理論的な志向性を指摘している。

「この単純な仮説が現実を正確にとらえたものではないと認識している経済学者でも、これが『自然』であり、理想的な状態だと考えていることが多い。つまり、単純化した仮説が健全なのであり、複雑な現実は病的だとみなしているのである」(同書p.189)

こういう個所を読むと、経済学者は、複雑な現象をできるだけシンプルな原理で説明しようとする数学や物理学に自分のモデルを見ているように思える。

最後のところで、ケインズは次のように述べる。

「優れた才能をもつ人物がみなそうであるように、自分の目的を追求することで、社会の役に立っている。しかし、こうした企業家も、今では落ちた偶像になっている。企業家に任せておけば、手を取って天国に導いてくれるのかどうか、みなが疑問をもつようになってきた」(同書p.192)

「以上で、わたしは怪物が眠っている穴に入り込み、その主張と系譜を調べ上げ、怪物がわたしたちを支配してきたのは、世襲してきた権利があるからであって、実力があるからではないことを示してきた」(同書p.193)

この個所は、「世襲してきた権利」ではなく「世襲してきた利権」としたいくらいである。「自由放任」という怪物イデオロギーは、今も、地上を彷徨している。それは、地上の側に彷徨を許す理由があるからだろう。社会主義崩壊で「社会」を失った「自由放任(Laissez-Faire)」が、個人の自由を標榜する自由主義に帰れとする「新自由主義」の色彩を強めたのは、いわば、当然の成り行きだったのだろう。奇しくもケインズは、80年後の「新自由主義」に対しても、一つのイデオロギーにすぎないという宣告を下したことになる。それは、とりもなおさず、「経済の近代」自体がイデオロギーだったことを示している。「経済の近代」が個人の自由という点で歴史的な意味を持っていたにしても、それがイデオロギーにすぎないと理解しておくことは、「経済の近代」のいたずらな物神化を防ぐ意味で、重要ではなかろうか。逆に言えば、現在、「自由放任(Laissez-Faire)」や「新自由主義」的な言質を述べる政党や個人は、その現実認識を疑ってみる必要があるということになる。


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ケインズ『説得論集』を読む:「自由放任の終わり」(2)

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パート2で印象的だったのは、自由放任の考え方が、19世紀半ばには、教育機関にも浸透し始めたという指摘で、ケインズは、こんな表現でそれを述べている。

「この政治哲学(自由放任)は、17世紀から18世紀にかけて、国王と聖職者を放逐するために鍛えられたのだが、19世紀半ばには乳幼児用のミルクになり、文字通り子供部屋に入り込むようになった」(同書p.184)

19世紀後半になると、はじめて経済学者の方から、自由放任を正面から批判する人が出てくる。ジョン・エリオット・ケアンズである。

「ジョン・エリオット・ケアンズは、1870年、…正統派の経済学者としてはじめて、自由放任の教義を正面から批判した。『自由放任の格率は科学的な根拠がまったくなく、せいぜいのところ、実務上の原則として便利だというにすぎない』これが過去五十年、主要な経済学者の一致した見方になっている。…とはいえ、代表的な経済学者が教条に陥らない慎重な姿勢をとっていても、個人主義的な自由放任論こそ、経済学者が教えるべき点だし、現に教えていることでもあるという一般的な見方は変わっていない。」(同書p.186)

この個所は、いろいろ考えさせる。一つは、自由放任が一つの教義、イデオロギーであることを明快に述べている点。自由放任は、「経済の近代」の核心部分になるが、ここがイデオロギーにすぎないと、経済学の立場から科学的に否定している、ということである。二つは、経済学が科学であるという自覚が明確に現れている点。このときの科学は、自然科学をモデルにした科学であろうと思われる。さらには、科学と教義(イデオロギー)はほぼ同時に発生し、科学がイデオロギーを否定する道具として現れている点。これは、現在も同じ構図が見られる。第三に、微妙な言い回しで、そうは言いながらも経済学者は、自由放任を教えるべき点と考え、現に、教えており、しかも、「一般的な見方」もそれを肯定している点。

実は、第三の論点こそが、重要だと思う。なぜ、「一般的な見方」が、科学的には否定された自由放任イデオロギーを支えているのか、なぜ、経済学者は、一般的な見方に従っているのか。この点の解明こそが、重要だと思う。ケインズは、この点は突っ込んで議論していない。そもそも、この「一般的な見方」とはだれの見方なのか、経済学者の行動をどのように規定しているのか。その論理的な解明が必要なのではないだろうか。


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ケインズ『説得論集』を読む:「自由放任の終わり」(1)

■旧暦3月30日、木曜日、

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山岡先生の訳された『ケインズ説得論集』(日本経済新聞社 2010年)を少しづつ読んでいる。翻訳は、明晰でわかりやすい。今回は、「自由放任の終わり」を検討してみる。この本の表題『説得論集』は、聞きなれない響きがあるが、原文は、「Essays in Persuation」である。この表題を見てまず感じたのは、ケインズの現実へのコミットメントの意志である。具体的には、政策立案者、行政、中央銀行など、国家の経済運営に直接関わる人々を説得の対象にしているように思われる。今日読んだ、「自由放任の終わり」も、やはりそうだが、これは、広く企業経営者、一般読者も想定されているように思った。この論文「自由放任の終わり」は、全部で、5つのパートからなっている。全体を読んで感じたのは、ケインズの改革志向であり、大陸の革命志向とは異なる英国の伝統的な思想系譜の一つ(社会哲学者、石塚省二)に思われる。

パート1は、「自由放任(Laisez-Faire)」の思想的な系譜が検討されている。非常に明確に、「自由放任(Laisez-Faire)」の思想的な源泉を分析している。ぼくが思ったのは、「自由放任(Laisez-Faire)」という考え方は、「経済の近代」の本質的な部分を構成している、というものだった。「自由放任(Laisez-Faire)」の源泉の一つである、「個人」あるいは「個人の自由」、「個人の権利」といった考え方は、国王、教会、人間の義務の後ろ盾だった神の権威の否定からはじまっており、こうした共同性に埋め込まれていた個人が、析出されていくプロセスでもあったと思われる。ケインズは、この近代的な自由を、18世紀の成果として、肯定的に評価している。この点は、すとんと腑に落ちる。

「個人」という発想とほぼ同時に、「社会」あるいは「公共の福利」という考え方が出てくるという指摘は、興味深い。一つの主要潮流が出てくると、必ず、対抗潮流が現れ、やがて、その二つが統合されていく。「社会」あるいは「公共の福利」という考え方の背後には、「平等」の重視がある。この代表的な思想家として、ケインズは、ベンサム、ルソーをあげている。「社会」の重視は、社会主義の系譜にもつながってゆき、「全体」あるいは「総体性」の重視といったヘーゲルやルカーチの概念とも関連してくると思う。

「個人」と「社会」という正反対の見方を統合したのは、ケインズによれば、経済学者である。つまり「自然の法則が作用して、個人が自由な状態で洗練された自己利益を追求すればかならず、同時に公共の利益を増進する」という経済学者の考え方である。
面白いのは、実務家がこの「自由放任(Laisez-Faire)」を支持した現実的な理由で、ケインズは次のように述べている。

「だが、何よりも、公共の立場に立った当局者が無能だったために、実務家は自由放任を支持する強い感情をもっていた。いまの時代になっても決して消えない感情である。十八世紀に政府が最小限の機能を越えて行ったことは、ほぼすべて逆効果になるか不成功に終わっているか、少なくともそう思えた」(同書p.176)

「個人」と「社会」の統合に重要な役割を果たしたのは、経済学者のほかに、ダーウィンがいる。自然淘汰による生物の進化という理論は、「自由放任(Laisez-Faire)」を強力に支えるものだった。ケインズは、次のように述べている。

「適者生存の原則は、リカードの経済学を極端に一般化したものだともいえる。この大きな綜合の観点では、社会主義の立場からの干渉は、得策でないというだけでなく、不遜な行為だとすらいえるようになった。」(同書p.177)


「自由放任(Laisez-Faire)」の考え方が、進化論と進歩史観と結びついていることを示す指摘だと思う。パート1の最後でケインズはこんなことを述べている。

「思想の歴史を学ぶことは、精神を束縛から解放する条件を整えるために不可欠である。現在しか知らない場合と、過去しか知らない場合で、どちらが保守的になるかは分からないと思う」(同書pp.178-179)

非常に興味深い指摘ではなかろうか。


思想の系譜の検討というケインズのアプローチは、今も、クルーグマンなどの経済学者のエッセイに見ることができる。有効な方法であることは間違いないが、このアプローチには、一つの前提がある。それは思想が社会的存在を規定する、あるいはリードするという前提である。この源流は、マックス・ヴェーバーだろう。だが、逆のベクトルも見る必要があるのではなかろうか。社会的存在が思想を規定する側面である。ケインズも思想の現実的な基盤への視点はあるが、思想家の所属する社会集団や社会的空間を突っ込んで議論することはない。思想の系譜というアプローチは、改革という思想とセットで現れ、それは、国家運営者を想定したものになるという特徴があるように思われる。もちろん、改革が悪いという話ではない。

(続く)


ケインズ 説得論集
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