verse, prose, and translation
Delfini Workshop
往還日誌(289)

■4月13日、日曜日、曇りのち花の雨
午前中、ルソー読書会。
Essai sur l'origine des languesを読む。面白かった。
「社会操作論」に言語論を組み込むことをモチベーションに、準備に励む。
午後、花の雨を見ながら、買い物。
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ドイツ文学者の三枝紘一先生から、『トラークル研究21号』が届く。
21号には、「詩作における記号の使い方と朗読について」という題で、詩を書く立場から、エッセイを寄稿させていただいた。
『トラークル研究』発行元のトラークル協会も会員減に悩んでいる。
昨年5月に、トラークルの詩の普及のため、三枝先生は、『青き憂愁の詩人トラークル 人と作品』を刊行されたが、なかなか、売れ行きは厳しいという。
出版の大不況は、私のお付き合いのある出版社K社からも、5月に、この件で、プレゼンテーションをしなくてならないと、社長から言われるほどひどいものである。
一時期、もう30年前になるが、翻訳や翻訳学校が流行った時期があった。
古典の新訳が、団塊世代など、昔、本をよく読んだ世代に受けると言われた時期もあった。
しかし、その世代も、退場を始めている。
本を読まない若い世代が愚かか、と言えば、そういうことはなく、本とは異なったメディアによって、独自の知性を磨いている人も散見される。
そういう人は、必ず、本も読む。
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数ヶ月前に、NHKオンデマンドに加入したが、なかなか、忙しく観る機会がなく、ここ数週間前くらいから、「光る君へ」を観始めた。
かなり面白い。
NHKの報道局は、現代日本の大本営発表であり、「社会操作」の総本山だと私は認識している。
しかし、ドキュメンタリーやドラマなどに、観るべき価値のあるものが多くあるのも、事実である。
昔、世界的な社会哲学者だった故石塚省二先生が、助手のT氏が所用があり、日曜の夜8時に自宅に行くと、大河ドラマが終わってから出直して来なさいと言ったというエピソードがある。
この30年、私はテレビをほとんど観ていないので、大河ドラマの面白さも、わからなかったが、かなりアクチュアルであり、いろいろ考えさせるものがある。
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往還日誌(288)

■4月6日、日曜日、花時雨。
京都は、花時雨とでも呼びたい天候だった。一時、花の雨が強く降るが、すぐに、晴れ間が見える。それが繰り返される天気だった。
午前中、ヘーゲルの『精神現象学』を原典で読む会。
今年度から、<入念な準備・議論・まとめ>というサイクルを、読書会では、廻したいと思っている。
こちらが、笊しか用意できなければ、水はこぼれる。
午後、若宮へ。
東京駅で、特に急いだわけでもないが、新幹線から、5分で乗り換えられたので、夕方には到着。
高崎線のホームへ上る階段の一番上に座って、大柄なアフリカ系の人が眠っていた。携帯を見ながら眠ってしまったようだ。
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きのう、瑞松園で、京都の俳人、雅山氏と知り合った。
雅山氏より、西日本で使われる季語「櫻まじ」を教えてもらう。
これは、櫻の季節に吹く南風あるいは南東の風を言う。
関東の俳人がこの季語を使うのは、私は見たことがない。
たいへん興味を持った。
★
若宮へ戻り、ひとわたり、中学校と西口公園の櫻を観て回る。
満開で、散り始めている。
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往還日誌(287)

■3月31日、月曜日、曇り・晴れ。
きょうも、タイトな1日だった。
早朝から、『社会操作論』の概要を執筆して『季報唯物論研究』へ送る。
今回の京都滞在の大きな目的の一つは、これだった。
これまで、仲間内で発表してきた『社会操作論』を、3500字という短いものだが、その理論的な骨子を、初めて、外部の雑誌に送った。
字数制限があるので、具体的な事例は極力削って、その理論的な骨子をまとめた。
『季報唯物論研究』編集長で、哲学者の田畑稔先生から「早速拝読、実践的に練られ、成熟度の高い理論構築で、じっくり勉強させてもらいます」という返信をいただき、一定の評価を得たと思っている。
私の『社会操作論』は、今後、1年かけて、「構造操作分析(ラカンとフロイトの構造操作分析への応用)」「社会操作の再生産を「主体的に」に果たす<確証バイアス>の構造・機能の分析」、「制度と無意識と言語の関係の分析」といった、テーマと取り組む。
これらは、相互に関連している。
構造・無意識・言語といったところが、ポイントかもしれない。
いずれにしても、きょう、一段落したので、あとの京都滞在では、ニコの新著の翻訳と、詩の執筆の条件が整った。
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午後から、夜遅くまで、六本木の仕事。
迷宮にゐるようだ。
一人用の電気圧力鍋は、まだ箱から出せていない。
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往還日誌(286)

■3月30日、日曜日、晴れ。北風強く、真冬のように空気が冷たい。
きのうは、午前中、船岡山の第一回探索。途中、千本えんま堂と上品蓮台寺に寄って、櫻を観察。
えんま堂の普賢象櫻は、まったく咲いていない。上品蓮台寺の枝垂れは満開。
★
船岡山の私のイメージは、火葬塚が多くある、全体として、一つの墓所というものだった。
京都市の立て札の解説を読むと、どうもそうではないようだ。平安時代は、貴族の祭祀・遊宴の場だったという。若菜摘みや「子(ね)の日の遊び」、和歌などを詠んでいたようである。
枕草子で清少納言(966-1025)は、船岡を称揚して「岡は船岡」と言っている。
ちなみに、その234段は、短いのであげると「岡は船岡(ふなおか)。片岡。鞆岡(ともおか)は、笹の生ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。」となっており、京都の5つの丘の名前が出てくる。
そのトップが、船岡山なのである。
この当時、ここは、支配層の遊び場であり、その丘の形の美しさから船に喩えられた、いわば、美的鑑賞の対象でもあった。
ただ、この周辺には、後冷泉天皇の火葬塚や一条・三条天皇の火葬塚が残り、この丘の周囲には死の領域が広がっていたらしいことを確認している。
生と死は、この岡の周辺で、かなり浸透しあっていたのかもしれない。
天皇の火葬塚は、残るが、そのほかの上級貴族や上級武士の火葬塚は見当たらない。
庶民の火葬塚に至っては、まったく存在が消されている。
むしろ、いのちは土に還るという意味では、これが自然の摂理で、今に痕跡が残る方が不自然かもしれない。
船岡を詠んだ、清原元輔(908-990、三十六歌仙の一人で清少納言の父)の歌が残っている。
「船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ」
子の日の松とは、正月の行事「子(ね)の日の遊び」で、松の木の下で長寿を願って行う儀式。この松は「長寿・繁栄の象徴」。「君」とは、youではなく、君が代の君で、emperorのこと。
中世後期になると、この岡の社会的な性格は、変質する。
船岡山の平安時代と中世・戦国時代の社会的性格の違いは、貴族社会と武家社会の違いに対応する。
つまり、船岡山は、中世以降、軍事的な価値を武士によって見出されていくのである。
実際、船岡山に登ってみると、西・南・東が一望できる。これは、御所が、船岡の南にあったことを考えると、戦いの上で、場所の利を持っている。
軍を船岡山に駐留させれば、南・西・東からの敵軍の進軍は、一望できる。
ここを、山城のように城塞化すれば、ここを拠点に南方面へ攻め込むことができ、食糧さえ確保できれば、籠城も難しくないだろう。
しかし、現実は、そうはならなかった。
応仁の乱(1467-1477)のときには、大内政弘、山名教之らが、ここに拠点を築いた。
ここは、西軍の拠点となったので、このあたりは、「西陣」と後に呼ばれるようになった。
1468年9月に、西軍の拠点のこの岡を、東軍の細川勝元が、三方から攻めて、攻め落としてしまうのである。
戦国時代の1511年11月には、室町幕府の政権を奪い返すため、丹波から入京した、足利義伊、細川高国、大内義典らの軍を、船岡山に陣を敷いた細川澄元と細川政賢の軍が迎え撃つが、戦いに敗れて敗走する。
その後、船岡山は、大徳寺に寄進され、1931年に都市計画により、船岡山公園となり、現在は、国の史跡に指定されている。
一見、この船岡山は、軍事的な価値が高そうに見えるのだが、ここに陣を敷いた軍が、勝ったという記述は、京都市の立て札にはなかった。
いずれにしても、船岡山も一回ではマスターできない。何度か探索に行くことになるだろう。
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夕刻、大学のクラブの先輩で、京都女子大で中国経済や金融論を教えるT氏と三条で飲む。
いろいろ、話したが、印象に残っている話の一つとして、中国とアメリカは、経済学的に見て、「対称性」を持っている、という話だった。
中国のメジャーな経済学者のほとんどは、アメリカ留学組だからである。
このアメリカ経済学=新ケインズ学派というのが、興味深い。
これは、「ケインズ」を名乗っていながら、新古典派経済学の(古典派経済学より)強くなった「レッセフェール」の子孫にすぎない、からである。
アメリカ経済学=新ケインズ学派は、「ケインズ革命」のラディカルな核心(資本主義そのものの不安定性を認め、それに「制度的・公共的」に介入する政治的経済学を打ち立てようとした点)を、数理モデルと中央銀行主導の政策設計に還元することで、ケインズ経済学を、「市場に任せるのが一番効率的」という議論へと、変質させてしまったのである。
要するに、アメリカ経済学の主流は、レッセフェールの世界を、古典派経済学のアダム・スミスなどよりも「悪い形で」反復しているということである。
Tさんは、中国経済学が、この新ケインズ学派と同じだと指摘しているのである。
Tさんは、経済学に新しいものは、もう出てこない、と以前から言っている。
ケインズのアクチュアリティを現代に救い出す努力をしてきたポスト・ケインジアンに、私は関心があり、その代表的論客である、ポール・デビッドソンの著作『Interpreting Keynes for the 21st Century』を読み、次の機会に専門家のTさんに質問してみたいと考えている(ただし、ポスト・ケインジアンは、MMTへと連なる面もあり、その点は、評価を保留したい)。
ニコも、以前から、ケインズを社会実践知のモデルとして考えているので、ずっと、ケインズは気にはなっているのだが、なかなか、機会がないと読むことはできない。
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きょうは、午前中、ルソー『Du Contrat Social』を読む会。
Kさんが、3月で当会を卒業。
Kさんに、ネイティブが朗読する『Du Contrat Social』や『Essai sur l' origine des langues』のサイトを教わった。
4月から、『Essai sur l' origine des langues』へ。
午後、少し、昼寝。
その後、近くの千本釈迦堂と平野神社へ、櫻を観に行く。
枝垂櫻は、京都は、どこもほぼ満開。
平野神社の染井吉野は、2、3分咲。
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往還日誌(285)

■3月25日、火曜日、曇り。
日曜日、老眼鏡が出来上がったので、Kさんのところへ取りに行く。
今回も、ラインアートという東北大学金属材料研究所とシャルマンの共同研究ででき上ったフレームにした。
これをかけると、他のフレームは掛ける気にならない。
私の場合、凸レンズではなく、普段のものよりも、辞書や本などを見るときの、手元作業用に度数を低くしたもので、正確には老眼鏡とは言えない。
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日曜日は、夕刻に京都着。
今回の若宮滞在は、収穫が多かった。
母や弟、叔父にも会い、墓参も3ヶ所済ませた。
家族には2回、夕食を作ることができた。
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月曜日は、千本通りを北上し、仏迎山瑞雲院、千本えんま堂、上品蓮台寺を経由して、衣笠へ向かう。
上品蓮台寺の枝垂れは一分咲だった。千本えんま堂は、普賢象櫻が有名だが、これは、まだ咲いていない。
衣笠は、佛教大学の裏手の道を北へ向かい、目的地は、紙屋川の砂防ダムの内部に立地した集落である。
紙屋川を東へ渡ると、一条天皇と三条天皇の火葬塚がある。
この千本通りは、船岡山周辺に貴族や上級武士の墓所や火葬場(鳥辺野、蓮台野などと並ぶ葬地)が存在し、古来、生と死が浸透しあう場所だった。
そもそも、千本の地名の由来は、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。
千本えんま堂、引接寺(いんじょうじ)は、おもしろい寺院で、現在、独立系寺院であるが、もとは真言宗の寺院だった。
もともと、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いてきた。
開基は、小野篁(802年~853年)である。
篁は、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之庁に仕えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したという。
篁は「お精霊迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場としたとされる。
「千本卒塔婆」の伝承はここから来ている。
この小野篁は、多面的な要素が伝えられており、一面は、このように、生死の世界を往還する能力を持っていたとされ、他方、関東の鎌倉幕府の武士団の横山党が、自らのルーツを篁に求めるといった、弓馬に長じた面が伝わっている。
横山党は武蔵国(現在の埼玉県・東京都多摩地域)を中心に勢力を持った武士団である。
小野篁は、関東においても、信仰され、上野の小野照崎神社や多摩市の小野神社(場所的に、横山党との関連があると思うが、主神は篁ではない。天下春命(あめのしたはるのみこと)又瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)。社名は小野の郷という地名に由来) などで、文武両道・冥府との往来をした人物として、祀られている。
小野一族を祀った神社に、滋賀県大津市の小野神社がある。小野一族のスーパースターである、小野妹子(小野一族の祖)、小野篁、小野道風(篁の孫)が勢ぞろいしている。一説によると、小野小町もこの一族だという。
さらに、当時の貴族社会を反映して、異母妹を妊娠させた学生(がくしょう)として、自伝的な『篁物語』が伝えられており、これを基に、谷崎潤一郎が、『小野の篁妹に恋する事』を書いている。これは、なかなか、面白い。
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月曜日の探索の目的は、衣笠開キ町の砂防ダム内に建てられた集落だった。ネットでは、「ディープ京都」や「不法占拠が続いている」と記述されている場合が多い。近くには廃校になった朝鮮学校がそのまま残っている。おそらく、ここは、朝鮮人の集落だろうと思われる。
廃屋になっている家屋もあるが、まだひとが生活している家屋もある。紅白の梅が庭に植えられていたり、河川際には畑もあり、花などが植えられていた。
これは、砂防ダムの中に家を建てるという考えられない事態だが、これは、そのように、強いられたものだろう。そのようにしか、生存できなくさせている社会的諸力や排除・差別構造が存在し、それが可視化されたものが、この砂防ダム内の集落だと考えるべきだろう。
紙屋川がダム中央部を大きく蛇行して流れている。ここに住むということは、自然災害による生命の危機と、河川の際まで迫っている、加害民族の日本人の建売住宅という二重の圧迫を受けるということで、精神的にも物理的にも、非常に苦痛だろうと想像される。
「不法占拠が続いている」というのは、京都市が、この二重の圧迫を解決する手をなにも打っていない、ということに他ならず、おどろくべき行政の不作為ではないだろうか。
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この集落に行く途中で、不思議な筺に出会った。
「衣笠瑞祥筺」と命名した、鷹と牡丹と鶴の浮彫の施された不思議な木箱を抱えて、死者と精霊の道を南下して帰路に就いた。
その晩、この不思議な木箱や小野篁や精霊や閻魔大王や砂防ダムなど、あまりにも、多様な世界を通ったため、よく寝付かれなかった。
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往還日誌(284)

■3月20日、木曜日、晴れ、彼岸の中日、春分の日。
朝、家族は墓参に。私は仕事。
仕事の後、「アンチ金閣」1番、2番を書く。
先週末から多忙で、ようやく一区切り。
★
15日、土曜日は、朝から国立まででかける。
国立市公民館主催の「近現代詩講座」。
河津さんの講演で、はじめての詩人、戦前のシュールレアリスト、楠田一郎を知る。
歌人の加部洋祐さんの講演で、はじめての歌人、藤田武(1929-2014)を知る。
この他、水島英己さんによる黒田喜夫に関する講演。
私は、前衛歌人、藤田武に、もっとも衝撃を受けた。
藤田は1929年4月29日、竜ケ崎に生まれている。父の転勤により、5歳で常陸太田へ移る。
たとえば、こんな歌。
掌に暗く涸れたる亀裂の河ありてはくてうなど翔立つこともなく(1953)
一条のひかりにおよぶもわれはいまわれへの他者となりて黙しぬ(1975)
修羅を越えほほえみあれよ降りくる黒き棺にひとり歌神(1995)
前衛歌人たちの言葉の使い方と問題意識に関心持った。
★
その後、夕刻から、公開講座『ルカーチの存在論』32周年最終講義「Chat GPTとは何か」
きわめて、面白い講演だった。
『Knowledge Capitalism』翻訳の参考文献もたくさん知ることができた。
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往還日誌(283)

■3月13日、木曜日、曇り。
きょうは、午前中、暖かく、シャツ一枚ですごせた。
朝、沈丁花が強く香った。と洗濯物を干した妻が言っていた。
翻訳の方が一段落したので、どこか、温泉宿にでも行って、のんびりしたいと思っていたが、どうも、そうもいかないほど多忙である。
妻と娘が、先日、熊谷の「花湯スパリゾート」という、面白いリゾート施設に行き、一日ゆっくりできたと言っていた。
ここなら、近い。よさげである。
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若宮において、電気圧力鍋で、「ブリ大根」は、ほぼマスターした。
「ほぼ」と言ったわけは、レシピでは、水150ccを使うところを、うちの出汁を使用するという柔軟な発想の転換がまだ出来ていないから。
電気圧力鍋は、時短にはなっている。この間、別の料理を作ることができる。
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心身の老化現象を観察している。
現在、歯と目と嚥下機能に老化が出ている。
この中で、対応がもっとも困難なのは、歯である。歯科医では、右奥歯が「動揺1」と記録されている。
この動揺を止める手立ては、今のところない。
これらは、身体の部分ではあるが、その機能不全は身体全体に影響を与えている。そうした点を、その対策とともに、記録している。
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往還日誌(282)

■3月11日、火曜日、曇り、3.11原発忌14周年。
現時点で、原発を見る視点は少なくとも3つある。
戦争と原発、地震と原発、エネルギー源としての原発。
原発への直接攻撃の問題(ウクライナ紛争の場合、西側メディアスクラムによるプロパガンダが見られる)と、能登地震・南海トラフ地震、第7次エネルギー基本計画(「原子力依存度の可能な限りの低減」という言葉の削除。2040年度電源構成に占める原発の割合を2割と記載。これは、既存原発の大半に当たる30基以上を再稼働の想定)などを、少なくとも踏まえないと、原発をアクチュアルな問題としては語れない。
アクチュアルな問題意識を失った地点から、問題の風化が始まる。
★
10日の午後3時に、突然、one driveが復旧し始めた。
こちらの個別パソコンの設定等の問題ではまったくなく、ひとえに、マイクロソフト側の問題である。
2日には、one driveはavailableと公式に発表しておき、こっそり、個別の問題解決を図ってきたことがうかがわれる。
この一件があり、バックアップ体制を3重に取ることにした。
また、この件で、ニコの『Knowledge Capitalism』の翻訳に着手することに決めた。
この新著は、まさに、こうしたビックテックによる知識独占の問題を扱っているからである。
昨日から、グーグルのマイドライブに、まずは、書籍pdfを全面的に移管している。
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西口公園には、白梅が6本あることを確認した。
すべて、今、満開。
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往還日誌(281)

■3月9日、日曜日、晴れ、北風あり。
ニコと連絡を取って、新著、400頁強を訳すことにして、若宮へ戻る新幹線の車中で、ひたすら読み、コメントを書き込む。
ばたばたに、忙しくなってきて、心身調整を第一にしないと、倒れる。
結局、京都では、電気圧力鍋を試す時間がなく、妻に呆れられる。
きのうは、同志社の新町キャンパスまで、先輩の小林さんの、教授退官の最終講義を聴きに行く。
いろいろ、面白い話を聴くことができた。
今まで親しくさせてもらってきたけれど、こうやって、まとまって、知的背景や研究史を聴かせてもらうと、いろいろ、発見や驚きや、感慨がある。
小林さんの知的な出発点が、タルコット・パーソンズの『行為の総合理論をめざして』(1951年、Toward a General Theory of Action)の読み解きから始まっており、それを行った「場」が、計量社会学の大家、安田三郎先生のゼミだったということが大きかったように思った。
つまり、経験的な社会調査と理論的な概念整理が、理想的に出会う場だったということが言えると思う。
小林さんの経験的な社会調査から導き出された結論の一つが、世界の人々の大半は、理性ではなく、感情や慣習で行動している、というもので、これは、20世紀に起きた、理性から感情へ、という哲学的なテーゼと木霊している。
「構造操作」について、今、考えている、私の問題意識に引き寄せると、ある意味で、理性的に、あるいは合理的に、設計された構造が、「無意識の操作」となっていくプロセスには、この感情と慣習あるいは習慣が強く関与している。
このプロセスが、すべて悪いというわけではもちろんない。
一般論で語ると、たぶん、間違う。
具体的な「無意識の操作」システムごとに、問題を分析・指摘することが必要なんだろう。
そして、これは、言語論とも関わっていると思っている。
パブロフは、実験生理学の研究を通じて、動物も条件反射を形成できることを示したが、人間は言葉を用いた抽象的な思考が可能であるため、より高度な学習や社会的交流ができると考えた。
これを、動物と共有する「第一の信号システム」(直接的な刺激や感覚に基づく反応)とは異なり、言語という抽象的な記号を通じて現実を認識し、思考し、行動する能力「第二の信号システム」と概念化した。
人間において、この「第二の信号システム」が、記号の理解や抽象的思考、文化の継承において重要な役割を果たすとした。
「第一の信号システム」が言語非媒介(無意識)の領域に属しているとすると、「第二の信号システム」は、言語媒介(意識)の領域に属している。
さらに、重要なのは、「第一の信号システム」と「第二の信号システム」の関係性、言い換えると「2つのシステムの間の距離の問題」だろう。
いずれにしても、意識・無意識と操作・操作批判といった問題領域に、言語(言語論は、記号論や数学基礎論、図表論なども含むべきだろう)が、中心的位置を占めていることがわかる。
小林さんの最終講義で、よくわかったのは、経験的研究の成果を取り入れないと、現実からズレていく危険性があるということだった。
小林さんには、新著『基礎社会学講義』をいただいたので、じっくり読んで、検討させていただきたいと思っている。
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きょうは、朝から、ヘーゲル『精神現象学』を読む会。
終わって、ただちに、掃除して、ごみを捨てて、若宮へ向かう。
きょうは、新幹線の中で、ニコの仕事が進んだ。
帰宅途中、駅ビルの丸善で、この1月に出た『良寛和尚歌集』購入。
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