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芭蕉の俳句(199)

■旧暦9月1日、月曜日、

(写真)朝顔

土曜日は、詩人の鳴海英吉研究会だった。ここで、詩の朗読を久しぶりに行う。鳴海英吉の詩vsパウル・ツェラン、鳴海英吉vs芭蕉、鳴海英吉vs自作の三部構成で試みた。ツェランのドイツ語の朗読では、少しとちった。この研究会は、今回が4回目。「宮沢賢治と曼荼羅」など、興味深い講演も聴くことができた。コールサック社のホームページに近く会の内容がアップされると思う。帰りのバスで主催者のSさんから、ドレスデン爆撃について詩を書いてみないか、というお誘いを受けた。ドイツ人でもない者が、連合軍のドレスデン爆撃を詩にできるのかどうか。そもそも、ぼくの詩のテーマは、俳句から学ぶ、ということで、こういうアプローチで空爆を詠めるのかどうか。仮に書いたとしても、答えがあらかじめ見えてしまうような詩になってしまうのではないか。何重にも困惑した感情が渦巻くが、あるいは、この「困惑」という感情こそ、詩の端緒のひとつなのかもしれないと思い始めている。そんなこんなを考えていて、デイビッド・ボウイの「ヒーローズ」が聴きたくなってYouTubeで探してみた。詞は確か、ベルリンの壁がテーマだったと記憶する。

David Bowie - Heroes (live)




朝露によごれて涼し瓜の泥   (笈日記)

■元禄7年作。瓜で夏。「瓜の泥」には驚いた。「朝露によごれて」という措辞も新鮮に響く。「泥」の側から朝露を観ている。この「泥」の肯定的な使い方に惹かれた。

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ドイツ語の俳人たち:Beate Conrad(2)

■旧暦8月28日、土曜日、

(写真)三人

叔母がリハビリより戻り、ケアマネージャーを呼んで介護プランを作成してもらうことにした。中でも栄養面から、配食サービスは助かるのだが、市に申請してから認可されるまでに時間がかかる。介護認定が下りるのに40日、その上、まだ待たされる。食という緊急なサービスである。一食400円は助かるが、もっとなんとかならないのか。このほかにも、家事の補助をお願いしたのだが、時間枠があり、一回1時間半までだという。これだと、買い物を頼んでほぼ終わりになる。介護保険だけで、すべてをカバーするのは無理で、やはり、間隙は身内などが埋めるしかない。難儀なことである。




Dichter Nebel -
Mit meiner Mutter warten
auf mich.


dense fog -
waiting with my mom
for me


濃霧
母がわたしを
待つ辺り


■これは印象的な作品だった。待ち合わせの場所に急ぐ作者は霧に包まれたお母さんを見たのだ。夜の霧だったように感じた。街灯の下あたりだったのだろうか。英語のバージョンは、「my mom's waiting for me」になるように思うが。

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Richard Wrightの俳句(65)

■旧暦8月24日、火曜日、、秋分の日

(写真)芭蕉

今日は秋らしい一日だった。鱗雲、秋の蝉、こほろぎ。

ちょっと、調べ物をしていて、ハンナ・アーレントがユダヤ教と真理について、語っている箇所を見つけて、少し考え込んでしまった。

プラトンにおける絶対的真理の語りえないものは、ユダヤ教の像の欠如に完全に対応している。ギリシャ人はあらゆる感覚のうちで視覚の優位から出発し、ユダヤ人は聴覚の優位から出発する。見られた真理は、見えた家と同じように言葉では完全に十分捉えることはできない。同じことは聞かれた言葉にもあてはまる。それを像に移すことは不可能である。そのためギリシャ人ではロゴスが真理を損ない、ヘブライ人では像が真理を損なう。
『思索日記』(2)p.183

真理。われわれは感覚を入れ替えることはできない。聞こえたものは(映像にして)目に見えるようにすることはできない。目に見えたものは(言葉で)耳に聞こえるようにすることはできない。それゆえ、真理が―ギリシャ人では形姿(エイドス)として経験されたように―何よりも目に見えたものとして経験される場合には、真理は語りえないものにならざるをえない。真理が―ユダヤ人では神の言葉として経験されたように―何よりも聞こえるものとして経験される場合には、真理は目に見える形で表すことは禁じられざるをえない。こうした入れ替えようのないことは、われわれが真理を超感覚的なものと捉えがちである理由を説明してくれる。―それは単に、五感を媒介できる感覚がわれわれに欠けているためにすぎない。
  『思索日記』(2)pp.192-193

この二つの断章が語るものは、視覚と聴覚の非互換性である。見られた真理は、ロゴス(言語)に変換できない:ギリシャ人。聴かれた真理は像に変換できない:ユダヤ人。これを五感すべてに拡大して、その互換性はありえないと述べている。これは、非常に面白い話で、ユダヤ教が偶像崇拝を厳しく戒めている理由が理解できる。だが、ひとつ、疑問なのは、「言語」の位置で、五感と言語は、相互媒介的な関係にあるんじゃないだろうか。つまり、そもそも、言語にないものは、聴き取れないし、見ることができない。聴き取られたり見られたりしたものは、伝達を志向し、その文化的・歴史的・社会的文脈の中で、徐々に言語化されていく。たとえば、歳時記を見るとそれがよくわかる。虫時雨という言葉のない世界では、虫の声は「存在しない」。ただの雑音であり、価値は付与されない。英語とドイツ語(フランス語も?)では、虫の声と鳥の声は同じ動詞で表す。情報化が伝達を前提にした行為だとすると、情報化とは、実は、五感の言語化ではなかろうか。言語と五感の弁証法こそが、情報化の本質なのかもしれない。見られたものは、言語化できない。聴かれた言葉は視覚化できない。この永遠のジレンマが弁証法のエンジンである。




Like a fishhook,
The sunflower's long shadow
Hoves in the lake.


釣竿のように
向日葵の長い影が
湖に伸びる


(放哉)
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ

■ライトの句、実は釣竿じゃなく釣針(a fishhook)である。釣針だと、向日葵の長い影の比喩として、不適切に感じたので勝手に直した。ライトがどういう考えで、釣針を持ってきたのかわからないが、俳句としては、静まり返った湖畔の夏の午後の景色が浮かんで惹かれた。放哉の句は、影が人間のものなので、少し動く。茶を注いだ後は、やはり影は静かなままだろう。
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飴山實を読む(81)

■8月23日、月曜日、

(写真)風にそよぐ薄

時間のあるときに西東三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫)を読んでいる。読ませる。たとえば、次の箇所など、戦中の貴重な記録ではあるまいか。

このホテルの隣組は中国人、台湾人が大部分であったから、防空演習の騒ぎは珍妙を極めていた。彼等は勿論日本語を解したが、日本語の号令を解する程、愛日本的でなかったから、腕章をつけた市役所の役人がいくら地だんだを踏んでも、戦闘帽かきむしって癇癪を起しても、北京語、上海語、福建語、広東語で笑うだけであった。 (『同書』p.33)

愉快、愉快。

次の個所などは、この波子の凄味がまざまざと迫ってくる。

疲れてウトウトしている波子は、私が二時間毎にゆり起こして目薬を挿すたびに、かまわないでほしいと言った。かまわないでいれば、君の眼は明日の朝までにつぶれてしまうと医者が言ったではないかと言うと、「恩を受けたくないのです」とつぶやいた。

この言葉はひどく私を驚かせた、私に賤しい下心が無いとは言い切れないが、それよりも、今一眼を失うか助かるかの瀬戸ぎわで、男の親切が自分の苦労の種になるかも知れないという、その本能的な保身と、たとえ眼がつぶれても男とのトラブルから逃げたいという経験とに驚いたのである。
  (『同書』p.21)

戦時中の話である。1940年、京大俳句事件で特高に検挙され、42年、妻子を捨てて単身東京を出奔。神戸のトーア・アパート・ホテルに移る。



水の香をしるべにしたりあやめ宿  (『花浴び』)

■「あやめ」で夏。非常に詩的な俳句で近代的。ポエジーに惹かれた。英語かドイツ語の俳人が書いてもおかしくない作品。
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芭蕉の俳句(198)

■旧暦8月21日、土曜日、、彼岸入り

(写真)百日紅

朝、散歩。いつもの喫茶店で若きマルクスを読む。元気が出る。秋の蝉の声も透明になってきた。みんみんと法師蝉。




夕顔に干瓢剥いて遊びけり
   (杉風宛書簡)

■元禄7年作。「夕顔」で夏。江戸の寿貞死去の知らせを受けてからの作。「軽み」とは何なのかを示す句として惹かれた。「軽み」と「俳句の笑い」はどこか通底するものがあるように感じた。
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ドイツ語の俳人たち:Beate Conrad(1)

■旧暦8月19日、木曜日、のち

(写真)鉄道おじさん

サイバーは、どうにか、11章に入る。この本はネイティブじゃないヨーロッパの学者が書いているので、とにかく、英語が素直じゃない。残りの2章は、香港とオーストラリアの事例なので、英語は比較的わかりやすい。

ドイツ語の俳人は、ダーヴィット・コッブ氏に一区切りつけて、ベアテ・コンラートさんの俳句を選んでみる。1961年、北ドイツ生まれ、現在、米国在住。充実したホームページがある。彼女の場合も、ドイツ語・英語の両バージョンで俳句を作る。


Sandbank -
ein Delphin springt ins
Unendliche


outer banks -
a dolphin leaps to
the infinite


砂州―
イルカが一頭
無限へと跳ねる


■「Unendliche」と「the infinite」という表現に惹かれた。最初、「bis ins Unendliche」という意味(「無限にジャンプする」)かと思ったが、英語版を見て、「無限へと跳躍する」ということだと考え直した。湾に砂州がかかり、空には真夏の太陽が輝く。その空に向けて一頭のイルカが跳躍する。無限に向かって。ダイナミックな俳句だが、その一瞬は時が止まったようで、あたりの静けさが身にしみる。
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Richard Wrightの俳句(64)

■旧暦8月18日、水曜日、

(写真)猫と蜂

かなり涼しい朝である。今度読む鳴海英吉の詩を探していて、シベリア抑留を経験したこの詩人が、なかなかのユーモアの持ち主であったことを改めて思った。

うるせーいと 怒鳴ったら
女房と子供は 床からとび上がり
屋根をつきぬけて 宇宙のかなたに消える
俺は仕方がないから
冷飯に にがいお茶をたっぷりかけて
タクアンをかじり
ザクザクと飯を食う
見上げると
女房と子供が とび去った屋根の穴から
水のような月の光が入ってきて
ポチポチした星が 光っているのが見える

俺の子供だった頃 叱られると大飯を食った
貧乏人の家では 飯を食われることは辛い
たかが おかずのことで言い争う
怒りをこめて 宇宙のかなたに飛び去った
たましいの尻軽い奴を とっつかまえ
ずらり三つ 俺の前に正座させて
俺はそういうことを話してやろう
三つの屋根の穴から流れ込んでくる光
青い海の中 ダボハゼのように
泳ぎ去りたいのは俺の方だ
重みに耐えている 俺は屋根の梁
そのなかでぬくぬくとタダ飯を食っている
ぐちゃ と十九坪の家が吸盤になり
俺を吸っている
気持ちが悪いったら ありゃしない
けれど宇宙の方はどうだったと聞くと
寒くって風がビユビユ吹くしゴミだらけ
澄んでいるけど ガランポ
月も木星も本当はないんだ
ちょうど 秋みたいで
早く帰って お風呂に入りたかった
女房と子供は 言うのである


「秋」全




The cat's shining eyes
Are remarkably blue
Beside the jonquils.


猫の光る眼は
びっくりするほど青い
黄水仙のかたはら



(放哉)
どろぼう猫の眼と睨みあつてる自分であつた


■ライトの句、「remarkably blue」という言葉と「Beside the jonquils」という表現に惹かれた。青と黄色の対照。放哉の句は、句の中に自分が登場していて、ユーモラス。

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飴山實を読む(80)

■旧暦8月17日、火曜日、

(写真)秋夕焼

朝から、大雨。昼には止むと言うが…。下旬に、久しぶりに詩の朗読の機会がある。いくつか、工夫を凝らすつもりなんだが、その中で、鳴海英吉の詩に芭蕉の「軽み」の句を何句かぶつけてみようと考えている。どういう効果が出るか、楽しみにしている。




拾はれぬ骨まだ熱し麦の秋
   「花浴び」

■斎場の遺骨を拾う場面だろうか。「麦の秋」という季語が効いている。生前親しかった人が、焼かれて出てくると、骨だけになってしまう。そのときの人々の反応が実にさまざまである。母親の骨を見て泣きながら走り去った少年。親しかった女性詩人の骨を見て「人間もこんなになるんだねえ」と感慨深げに話した老詩人。父親の骨を前に、係りの人のささいな言葉に切れて逆上した男。若い妻の骨を前に、呆然と立ち尽くす若い夫。自分が身内の骨を前にしたときには、さっぱり実感がわかず、骨を拾うのとは別の作業をやっているような気分だった。
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芭蕉の俳句(197)

■旧暦8月16日、月曜日、

(写真)秋簾

名月は、東の空にあるときには赤く、天心近くなって、ほの白く。日曜は、先生が出席される句会だったのだが急な仕事で行けず。今日も終日仕事。

『悪党芭蕉』読了。芭蕉の発句の発想と自在な表現のありようは、一つは、生死が浸透した旅から得たものだろうが、もう一つは、歌仙の興行が大きいと思った。今、歌仙をどう考えるべきか。今の俳句とどこが異なるのか。どこを継承できるのか。そのあたりを具体的に検討してみる価値があるように思った。




清滝の水汲ませてやところてん
   (泊船集)

■元禄7年作。「ところてん」で夏。清滝は高尾・嵯峨の清滝川清滝川景観。野明への挨拶として吟じられた句。「ところてん」という身近な素材を通じて、深く透明な清流に思いをめぐらせ、亭主に対するよき挨拶になっているところに惹かれた。

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ドイツ語の俳人たち:David Cobb(3)

■旧暦8月13日、金曜日、

(写真)忘却

嵐山光三郎の『悪党芭蕉』を読んでいる。なかなか面白いと思う。表題を見たとき、どうせ、また、売らんかなの本だろうと思ったが、読んでみると、さまざまな資料にあたって書いているのでなかなか勉強になる。芭蕉の弟子たちのプロフィールや人間関係がわかって、頭の整理になった。ただ、この本は、政治的な観点から、芭蕉周辺を描いているので、穿った見方や大げさな表現もある。芭蕉や西行の神格化は、著者の考えているほど、社会的な害はないだろうと思う。それより、自民党や多国籍企業のイメージ戦略、メディア戦略の方が遥かに罪深いだろう。

ツェランの詩とその感想を少し、ドイツの掲示板に書き込んでみた。ユダヤ問題は、今でもタブーのはずだから、一般のドイツ人からどういう反応があるのか、興味を持って見ている。今のところ、10人程度が読んだだけで、コメントはない。




schäbiges Hotel-
der Schatten hat keinen Platz
sich auszustrecken


a poky hotel-
no space for my shadow
to stretch out


しがないホテル
ぼくの影が伸びる
場所がない


■わびしい場末のホテルの印象。若いころの貧乏旅行の回想だろうか。山頭火や放哉につながる感受性を感じた。

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