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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(8)


■旧暦

(写真)geneve at an ungodly hour

朝から仕事。午前中、外出。午後、仕事。夕方、ウォーキング。江戸川河畔が工事中なので、家人が開発したBコースを歩く。戸定館の紅梅は8分咲き。寒いので、人がほとんどいない。夜も仕事。6時起きなので、少々疲れた。




Sleep on. What am I doing
Here, at this ungodly hour?
This hour was striking six as I went
Into the church. Another hour: this hour was
Over. What hour was striking? No
Idea. An hour was striking, a minute,
A second. Something was
Striking, I don’t know what. But
I listened to the sound.



眠れない ここで
わたしは何をしているのだろう こんな夜明けに
この時が6時を打ったとき
わたしは教会に入った もう一つの時
この時は終わった
どんな時が時を打っているのだろう
わからない
一つの時が一分を一秒を打っていた
何かが打っていたのだ
それが何のかわからない だが
わたしはその音を聞いた


■まだ、まだ試訳レベルで推敲の余地を残している。非常に興味深い詩で、時そのものをテーマにしている。どうやって日本語に写すか、しばらく思案したい。






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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(7)


■旧暦12月16日、水曜日、

(写真)the Rhein

第一詩集『耳の眠り』の2校を戻した。詩壇では、ごく一握りの理解者しかいないが、その一握りが、強力に応援してくれているので、心強い。

pattern poetry(図形詩)というのをご存じだろうか。日本では、この運動は、50年代から70年代に、北園克衛が主宰したVOUと新国誠一が主導したASAが中心であった。古くは、その前史を、ステファン・マラルメの「骰子一擲」の語の配列の空間性やアポリネールのカリグラム、ルイス・キャロル、ガートルド・スタイン、エズラ・パウンド、E. E. カミングス、あるいは未来派のタイポグラフィックな表現やダダのコラージュ等に見出すことができる。

pattern poetryについて、原稿を書く関係上、調べているのだが、言葉のデザインなど、視覚を中心にした詩は、詩とは何のか、といった根源的な問いを発している。詩と音声は切り離せない。もともと、「詩」なるものは、口誦性が本来的であり、文字による表記は、二の次で、いわば、文字で書かれた詩は楽譜のようなものだったはずである。一行の長さは一息の長さであり、口誦する速度を表している。空白は息継ぎ、あるいは、沈黙である。縦書きや横書きの由来はわからないが、漢字やアルファベットなど、文字のつなぎ具合の良さから自然に発生したのではないだろうか。pattern poetryは、詩のテキスト性をいわば、物象化したもので、音声とは切れている。pattern poetryを朗読しようとしても、撥ねつけられてしまうだろう。これは、詩が音から完全に分離した象徴的事件、言いかえれば、詩が、口誦性からずっと以前に離れてしまったことを、詩自身が確認した事件ではなかろうか。また、聴覚重視から視覚重視への変化は、社会の近代化と密接に関連すると思う。pattern poetryが音声と切れているとは言っても、クレーのような画家の絵に音楽があるように、pattern poetryにも音楽がある。それは、耳の音楽ではなく、眼の音楽である。眼で見たものすべてを言語に変換することはできない。pattern poetryは、この不可能性をどれだけ豊かに持てるかに、賭けているように思える。

参考:北園克衛オンラインアーカイブ




A dream, another dream.
Reality.
An ordinary woman.
Not a goddess. An ordinary
Woman. I don’t
Want you. I’m not Michel, nor
Yesterday, nor Sergeant Pepper, nor
Friday.

An old man who listens to
Himself.

I have a lot to say: Helen of Troy,
Berenice, the Sleeping Beauty ―
Beauty tout court, tout short. Just Beauty,
Nothing else in plain English.



夢また夢
現実
平凡な女
女神ではない 凡庸な女
わたしにはあなたが必要ではない
わたしはミッシェルでも
イエスタデイでもサージェントペッパーでも
フライデイでもない

自らの声に耳を澄ます
老いた男

わたしには言いたいことがたくさんある
トロイのヘレン べレニス 眠れる美女―
一瞬の まさに一瞬の美 まぎれもなく美
簡単な英語で言うならこれしかない


■この詩は、青年期の初々しい感じさえする。作品の中の美女に惹かれ現実の女性には惹かれない。こういう女性観は、わかる気がする。しかし、現実の女性の中に、一瞬、女神が現れるのであろう。





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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(6)


■旧暦旧暦10月11日、火曜日、

(写真)Lac Léman

6時起床。12時前に寝られると、だいぶ体が楽である。外で体操。オールブラン+バナナ3本+キリマンジェロの朝食。今日は、即、仕事に入る。

最近、叔母の様子は比較的安定しているが、以前よりもさらに、物忘れがひどくなってきた。11月上旬に介護保険の認定更新があり、現在、要介護2である。かなりきびしい。来週には担当者会議を開いて、今後の介護の方向性を定めることになっている。認知症と言っても、原因はさまざまであるから、一度、専門病院で、原因を検査してもらべきだとケアマネは言う。確かに、それによって、改善された例もあるのだから、近いうちに、専門病院へ連れて行こうと考えている。

気分転換に写真を撮っています。ここから>>>




Lights are so rare.

We all just woke up one morning
And saw a light. The people
With whom I saw it disappeared.

So did the lights.

It could be read as allegory.
It wasn’t.



光はとても稀なものである

だれでもある朝めざめ
そして光を見る
光といっしょに
消えた人たちに気づいた

光とはそういうもの

アレゴリーと受け取ってくれてもいい
だが 事実だったのだ


■光を詩にしてしまう卓越した感性に感嘆する。日常の中に、ふかぶかとした深淵がのぞく。かねがね、詩人の価値は、「危険性」にあると信じているが、マエストロの詩には、それが底流にいつも流れている。



Sound and Vision













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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(5)

■旧暦10月9日、日曜日、

(写真)Lavaux

早朝から、作業開始。朝、江戸川ウォーキング。気分良かった。今日は終日仕事。

BernのBerner Muenster近くの小さな書店で、Hans Magnus Enzensberger詩(1950-2010)インタビュー・講演集(1970-2005)を入手したので、日本語にできないか、と考えている。Enzensbergerは、晶文社から1970年に『意識産業』が邦訳されているが、その後、あまり日本で読まれている気配はない(今調べたら、ベンヤミン、ブレヒトの研究で著名な、独文学者の故野村修さんが、さすがに、批評を多く訳されている。野村先生訳のベンヤミンには驚嘆した覚えがある)。アドルノが、「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ」と述べことはよく知られているが、この言葉を撤回させたのが、Enzensbergerの詩だったことはあまり知られていない。知人の独文学者に、Enzensbergerの消息を聞いたことがあるが、近年は批評に専念しているとのことだった。しかし、Bernの書店で、2009年にも詩集が出ていることを知ってとても嬉しかった。現在、80歳。今だからこそ、もっと読まれるべき詩人の一人だと思う。



Growing, growing.
Death is better.

A few stunted trees
Are the only vegetation
I can see from my room.

There are trees on my chair,
On my windowsill,
Over my roof.



伸びる 伸びる
死こそ善きもの

ちらほら発育不全の木々
わたしの部屋から見える
唯一の植物

椅子にも
窓枠にも
屋根にも
木がある


■「stunted」という言葉が面白かった。こんな例文を見つけた。He's emotionally stunted. 例文は、あくまで例文だが、なかなか、人物評として語られると面白いなと思った。

朗読が批評なら翻訳も十分批評だと思える。なので、翻訳した上で、批評するのは、蛇足に思えてくるときがある。翻訳には、解釈の要素と朗読の要素がもともと含まれている。ただ、翻訳の仕方を問題にすることは意味があると思う。多くの場合、翻訳詩は、翻訳のみ提示される。日本語を読んでいるうちに、これが作者の詩だと、勘違いする瞬間がある。だが、それは、作品批評なのだと思う。なので、詩を翻訳する場合、原詩を併せて提示することは、必要なことだと思える。対訳という方式ではなく。



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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(4)


(写真)Bernの精神分析医、ゲオルク・ルカーチ博士

ついにジェルジ・ルカーチまで、つぶやきはじめたか。アメリカ発というのがなんとも可笑しい。




A candle, overhead,
Under my feet.

The city lights
In the distance.




頭上のろうそくを
足元へ

街の灯が
遠くに




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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(3)


(写真)Bernの雨





A courtyard. I was born
Nearby. A flower
I must have seen in my
Childhood.



中庭
わたしはそのそばで
生まれた
子どものときにきっと見た






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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(2)


(写真)Lausanneの日曜の光




Landscapes. A bambino
Cries in Italian.

I boarded a train in
Florence.

Sixpence, sixpence. My keys
Jingle in my pocket.

Another eternal truth.
Another pain.

Another vein
I’ll never cut open.



光・空・風・街
赤ん坊がイタリア語で泣いている

フィレンツェで
列車に乗った

6ペンス、6ペンス
鍵がポケットで ジャラジャラ

もう一つの永遠の真理
もう一つの痛み

もう一つの静脈
わたしはそれを切り裂くことはしない





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After Dry Silence : Valery Afanassievの詩(1)

■旧暦10月1日、土曜日、、新月

(写真)Lavauxの墓:この明るさは…、死ぬのが楽しくなるような。

朝から、クリーニング、床屋、図書館、本屋と回って帰宅。午後、昼寝。仕事に入る。夕食作りを久しぶりにシェア。茄子の鴫焼きと焼甘唐辛子。




Staccato or tenuto―the way you play
The violin or the piano. You don’t
Play; you listen to what’s being played.

No point in listening; no point in
Standing where you stand. You walk round
And round. There are squares
On the floor. There’s a triangle and a face you’ll never
Know.



スタッカートかテヌート
ヴァイオリンやピアノを弾くときの
おまえのスタイル おまえは演奏しない
演奏されているものを聴くのだ

聴いてもしかたがない
そこに立っていても無駄だ
おまえはぐるぐる歩きまわる
床にはいくつもの四角形
おまえにはけっして見えない
三角形と面


■ある種のユーモアを感じた。「a face」をどう理解するか、迷ったが、squares、a triangleと数学の言葉が出てくるので、「面」としたが、まだ、未決定。

※このシリーズは、詩集『乾いた沈黙/Dry Silence』以降、マエストロが書いた英語詩を日本語に翻訳する試みである。各詩篇には表題がついていないので、日本語版でも、そのまま無題とする。詩篇はいっそう短くなり、俳句の影響が感じられる。日本語版は、完成版ではなく、一つの試みと位置づける。この訳稿を基にして、詩誌『コールサック』に順次発表していく予定。全部で56篇。書かれた期間も短い。9月に送ってくれたのだが、過去10カ月に書いたと言っている。あくまで平均してだが、月に、最低でも5,6篇は書いたという勘定になる。このペースは詩を書く上では相当速い。この意味でも、直観的にできあがる俳句との類縁性が思われるのである。
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