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Cioranを読む(82)


■旧暦12月7日、土曜日、

(写真)大晦日

今日も慌ただしく暮れた。風呂の床と玄関ドアの掃除、買い出し、年賀状作りなど。プリンターが故障するというアクシデントあり。やっと、年賀状作成終了。明日投函。今日は、年越し蕎麦のゆで担当。明日は、お雑煮担当。すでに、焼酎が入っている ^^



Périr! ― ce mot que j'aime entre tous et qui, assez curieusement, ne me suggére rien d'irréparable.      Cioran Aveux et Anathèmes p.105 Gallimard 1987

滅びる! 格別好きなこの言葉。不思議なほど奇妙に、もう取り返しがつかない、という感じを抱かせない。

■新年にふさわしい断章。徹底的に批判して、最後の紙一重のところで、楽観的でいたいと思う。



Sound and Vision







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Cioranを読む(81)



■旧暦12月6日、金曜日、

(写真)無題

今日は、午後から、買い出しと掃除。あまり人は街にもスーパーにも出ていなかった。賀状の俳句を決めて、明日、印刷の予定。さすがにおめでたい俳句は一つも書けない。

環境省が、22日、「千葉県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの測定結果について」を発表した。添付資料のpdfファイルを見ると、近所の江戸川や坂川の河川敷の放射線量は、0.4μSv/h強とかなり高い。江戸川河川敷は、土手に遊歩道が整備され、そこで、今でも、若い人たちがジョギングを熱心にしている。ご老人はウォーキングをしている。ウェブに関心がない人々は、ほとんど、こうした情報は入らないのだろう。テレビでは、まったく報道されない。市役所が、危険性を告知するしかないと思う。松戸市に注意を喚起するようメールは送ったが、迅速に動くかどうか。江戸川は、ぼくの散歩コースで、息抜きの場所、作句の場所だった。改めて憤りを感じる。



Le doute s'insinue partout, avec cependant une exception de taille: il n'y a pas de musique sceptique.     Cioran Aveux et Anathèmes p.112 Gallimard 1987

疑いは、どこにでも、入りこんでくる。だが、重要な例外が一つある。音楽だ。懐疑的な音楽というのは存在しないのである。

■とても面白い考えだと思う。クラシックで言えば、バロック、古典派、ロマン派あたりまでは、確かに、懐疑的な音楽はないように思えるが、現代音楽になるとちょっと違うような気がする。たとえば、ナチの収容所で初演されたメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」は、人間存在そのものへの疑義を含んでいるように感じられるし、ヴェーベルンの短く高密度の作品群は、ときに、音楽そのものへの懐疑を感じさせることがある。
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一日一句(287)






あをあをと空一面の年が逝く





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Cioranを読む(80)


■12月4日、水曜日、

(写真)無題

今日、明日をクリアすると、年内の外での仕事は、一応、終了。正月は、翻訳作業と批評を進めたいのだが、どこまで、進むか。

先日、長谷川真理子著『科学の目 科学のこころ』をパラパラ見ていたら、「コンコルドの誤り」という考え方が目にとまった。あの航空機のコンコルドの開発から生まれた言葉らしい。商業的に採算が合わないとわかっていながら、英仏両政府は、それまでの投資を考えて、コンコルドの開発を中止できず、結局、開発しても、運行ができなくなったことから、それまでの投資額を考えると、途中で、判断を変えて、別の選択肢を取れなくなることを指すようだ。投資は、一つの比喩で、お金だけでなく、行動や精神的なエネルギーまでも指す。ある意味、人間的な現象だが、対象が戦争や大規模開発になると、問題は深刻だろう。

この話を読んだとき、まっさきに浮かんだのは、「八ッ場ダム問題」だった。コンコルドの開発は、英仏両政府が当事者で、損害を被るものがはっきりしているが、「八ッ場ダム問題」の場合は、地域住民の生活や感情が関わる。中止から一転して継続に決まったが、その判断基準をもっとオープンにして、広く議論の対象にすべきだったのではないだろうか。政治が主導すべきところと、広く議論すべきところの区分がいつもトンチンカンなのは、裏に利権が絡むからなのだろうか。そう思えて仕方がないのだが。



La musique une illusion qui rachète toutes les autres.
(Si illusion était un vocable appelé à disparaître, je me demande ce que je deviendrais.)
Cioran Aveux et Anathèmes p.80 Gallimard 1987

音楽は、あらゆる幻想の罪をつぐなう幻想である。
(幻想も、やがて消えてしまう言葉なのだとしたら、自分は、どうしたらいいのか、さっぱりわからない)


■今の世界、音楽がないとやってられないが、そして、Youtubeをはじめ、コンサートやウェブからのダウンロード、CDなど、音楽産業が隆盛なのは、たしかに、人間の何かの罪を償っているような気がする。「幻想の罪」は、イデオロギーと考えると、この断章は、意外に幅広い対象をカバーするのかもしれない。




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Cioranを読む(79)


■旧暦12月3日、火曜日、

(写真)無題

今年は、全然、年賀状を書く気にならない。時間がないせいもあるが、新年を寿ぐ気分になれない。そのくせ、Merry Christmas!という挨拶はするのだから、われながら、現金なものであるが、クリスマスは、どこか、借り物という意識があるせいかもしれない。



F/Bで八木重吉の詩を読んでいるのだが、今さらながら、その詩の凄味に感じ入っている。


人を殺すような詩はないか     八木重吉「病床無題」


八木重吉は、よく知られているように熱心なクリスチャンだが、本来、キリスト教は、それ以前の宗教と違って、理神論的な合理主義の色彩が強い。だが、八木重吉の場合は、非合理な存在への感性が、もともと、豊かという気がする。


ながいこと考え込んで
きれいに諦めてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色の空が
つめたくはりつめた
雲の間に見えてほんとにうれしかった

同「冬」


キリストにすがりつく詩も多く書いている。結核で30歳で死去した八木重吉の状況を考えると、理解できなくもないが、個人的には、そういう詩は好きではない。それよりも、自然や四季に寄せる神道的とも言える鋭い感性に惹かれる。八木重吉の詩を読むと、以前、星野富弘美術館で見た絵を思い出す。星野さんもクリスチャンだが、とても日本的なものを感じる。


風はひゅうひゅう吹いて来て
どこかで静まってしまう

同「木枯し」




Faute de savoir vers quoi se diriger, affectionner la pensée discontinue, reflect d'un temps volé en éclats.     Cioran Aveux et Anathèmes p.137 Gallimard 1987

どこへ至るのかわからないが、わたしは、不連続の思考がとても好きである。そこには、盗まれた時間がこなごなになって輝いている。

■この断章は、ベンヤミンとの類似性を感じる。ベンヤミンも、断片や引用が好きな思想家だった。歴史は、瞬間的に放電されるという信念があったのだろう。そもそも、歴史という構成物にも起源があるのだから、その連続性は、はじめから、存在しない。歴史の連続性を謳う言説は、一種のイデオロギーであり、その言説の機能と、それを必要とする社会的存在を考えてみるべきなのだろう。






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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(24)


■旧暦12月1日、日曜日、

(写真)無題

年も押し詰まって、歯痛になってしまった。ロキソニンでごまかしていたが、切れると激しく痛みだすので、日曜も開業している新しくできた歯科医院に行く。レントゲンで患部の様子を確認してから、いきなり、歯の神経を3本抜かれた。その後、根の膿を取りだす処置を施してもらった。年末年始は、歯医者も休みになるから早くしてくれたのだろう。歯科医に行って、診察ベッドに横になって、目のまえを見ると、15インチほどの可動式パソコンモニターが備え付けられている。これで、レントゲン写真をすぐに見られるようになっているのだが、ネットにもつながっている。マウスが、ドリルの歯が並んだ台の上にちょこんと置いてある。インターネットは、歯の治療の最前線にも入ってきていることを実感した。レントゲン以外では、どう使われているのかはわからないけれど。今度、聞いてみよう。手早くて、痛みも収まったので、助かった。



漫画家の長谷邦夫さんから、新著『桜三月散歩道』を送っていただく。この本には、このブログで紹介した、スイスの詩人、ロミー・リーさんのが、印象的に引用されている。原文のドイツ語と日本語版の両方を引用していただいたので、彼女も喜んでいるものと思う。長谷さんは小説も執筆され、これがとても面白かったので、この自伝も期待できる。赤塚不二夫や手塚治虫、石ノ森章太郎、山下洋輔やタモリ、筒井康隆や井上陽水らと交友関係がある長谷さんの、貴重な同時代文化史ともなっている。



Ich will etwa sagen: Wenn auch der bewiesene mathematische Satz auf eine Reralität außerhalb seiner selbst zu deuten scheint, so ist er doch nur der Ausdruck der Anerkennung eines neuen Maßes(der Realität).   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 162-163 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

わたしは、こんなことが言いたいのである。たとえ、証明された数学命題が、命題の外にある実在を指しているように見えても、その命題は、(実在性の)新しい一つの基準を認めているだけなのである。

■数学命題の<外>に、実在はない。数学命題の<内>にあるわけでもない。数学命題を離れて実在はありえない。数学命題のゲームが実在を作りだしている。そういうことだと思う。実在は、本質あるいは真理と言い換えてもいい。







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一日一句(286)






数へ日は歯を抜く仕儀となりにけり





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(23)


■旧暦11月30日、土曜日、

(写真)無題、あるいはサンタ

あ、また酒飲んでしもたやん。なんや、こいつ。酒、飲んでるだけやんけ。あかんあかん。もっと文化的芸術的にいかな。酒ばっかり飲んどったらあかん。そや、映画見たろ、映画。これやったら文化的やろ。そいで安かったので、洋画のポルノ三本だてがかかっている小屋に入ったった。ああ、ちょっといいにくいような映像美だ。全然おもろない。金を倹約したのが失敗だったな。

『へらへらぼっちゃん』(町田康著)P.102

思い当たるフシありw

イブか。やけに冷え込んで来た今宵であった。



原発問題の中心には「因果律原理」と「確率論」があるように思う。少し、この二つを根本的に考えてみようと思っている。手がかりは、タキオンなど。




Bedenken wir, wir werden in der Mathematik von grammatischen Sätzen überzeugt; der Ausdruck, das Ergebnis, dieser Überzeugtheit ist also, dass wir eine Regel annehmen.

Nichts ist wahrscheinlicher, als dass der Wortausdruck des Resultats eines mathematischen Beweises dazu angetan ist, uns einen Mythus vorzuspiegeln.
     Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 162 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

よく考えてみよう、数学で納得させられたのは、文法的な命題なのだということを。つまり、納得を表す言葉やその帰結は、ある規則を受け入れたということなのである。

数学的証明の帰結を言葉で表すのは、神話を本当だと信じ込ませることによく似ている。


■証明も、言語が媒介する以上、文法(規則)と無縁ではないということだろう。そして、その規則は、神話に似た性格を持っている。



Sound and Vision


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一日一句(285)






柚子風呂や遊びを一つ覚えたり





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一日一句(284)






酒断つたある日のこころ冬瓜に





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