verse, prose, and translation
Delfini Workshop
飴山實を読む(209)
2010-06-28 / 俳句
(写真)祭
今日は、蒸し暑かった。午前中、仕事、午後から、病院で打ち合わせ、そのまま、外で仕事継続。夜は夜で仕事。退院の日取りが決まり、ケアプランも具体的に詰めてきた。後は、実際に回してみてどうか、である。今宵は、靄の中の夏の月がきれいである。
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蓬摘むそのほかは世を忘れをり 「古志」平成十二年五月
■こういう状態を至福と言うのだろう。生が経済に支配され、豊かであるべき生活世界が道具的理性に浸食されている現実は、なかなか、変わらないが、心の自由や想像力、笑いといった人間の諸力は、捨てたものじゃない。俳句の対抗軸は俳句ではなく、根源的なところで、歴史や社会にあるとぼくは思っている。
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ヒヤシンスとアマリリス
(写真)夕方の空模様
朝風呂に入ってから、仕事開始。午後、頭が回らなくなったので、筋トレに出向く。2時間汗を流す。夕方、買い物がてら散歩。この頃の梅雨は、南洋性の気候に近くなってきたのではあるまいか。スコールみたいな雨の降り方が多くなった気がする。これは夕立にも言える。雲も、遠くに青空が見えてこっちは黒雲という沖縄のような感じである。
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銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋 石
ヒヤシンスは、地中海沿岸原産。歳時記では、4月に登録されているが、紫に近い深いブルーが、深海や宇宙空間を思わせて、暑苦しい夜に、この句をよく思い出すのである。いっとき、広大で遙かな気分になる。
水にじむごとく夜が来てヒヤシンス 岡本 眸
これも春の夜を表現しているので取合せが近すぎるのだが、ヒヤシンスという音楽が、冷たい水を想像させる。個人的な感覚だが。
ブブゼラが大地に響くアマリリス 冬月
アマリリスは南アフリカ原産。江戸時代末に渡来。アマリリスは、原色のオレンジ色からユリに似た白までさまざまあるが、涼味という点では、白系がふさわしいように思う。しかし、江戸の人々は、この花を見て、何を思ったろうか。興味のあるところである。ブブゼラ(Vuvuzela)は、元は民族楽器であるから、アフリカの大地に鳴り響いた時代もあったことだろう。
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飴山實を読む(208)
2010-06-26 / 俳句
(写真)ゴーヤと向日葵
6時に朝風呂。twitterで頭の体操してから、翻訳に入る。難航しているが、興味深い。アメリカの芸術家の系譜を追うのも面白いかもしれない。午後、買い物。その後、退院に備えて、叔母の家の掃除。もう一回行かないとダメだろう。夜、畑からもらってきた茄子で鴫焼きを作る。朝採れの茄子は実がしまっていて色も濃い。畑茄子。理想ですな。
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大寒や豆腐落せる子の使ひ 「古志」平成十三年四月
■情景が目に見える。子どもの落胆した表情も。これに似た経験は、だれしもあるのではなかろうか。俳句に仕立てると、ユーモアの微光が差してくるところが面白い。
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飴山實を読む(207)
2010-06-25 / 俳句
(写真)無題
朝5時、風呂に入ってから仕事。夕方、新しい介護認定を受けて、病院で退院や担当者会議の日程について打ち合わせ。その後、9時半まで仕事。さすがにフラフラ。
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大寒や捨猫道に痩せ細り 俳句研究」平成十二年四月
■「捨猫」が大寒と響いていて惹かれた。「道に痩せ細り」という動詞の使い方にも。
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飴山實を読む(206)
2010-06-23 / 俳句
(写真)サムゲタン
朝、5時から仕事。今日は梅雨らしい一日だった。部屋の中にいるかぎり、雨も悪くない。雨のときは、なぜか、耳の調子もいい。午後、一時間ほど昼寝。鍵をかけられ見たこともない部屋に閉じ込められる夢。夕方、雨あがる。夜、仕事。
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酢牡蠣してまなうらに雪ふりつヾく 「俳句」平成十二年三月
■まなうらの雪は、ふるさとの雪だろう。酢牡蠣に触発されたふるさとの風景。「ふりつづく」という動詞の使い方。何気ないが、よく考えられている。歳を取るにつれて、ふるさとがあり、山河があるということに、ますます、ありがたみを感じる。そして、第二のふるさとと呼べるような地域が増えていくことにも。
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飴山實を読む(205)
2010-06-21 / 俳句
(写真)立葵
土曜日は、哲学塾。いろいろ刺激を受けた。今年もI先生からレクチャーを頼まれたので、テーマを絞って、考えている。今のところ、「情報の確実性・不確実性と社会的諸力」というテーマで考えている。土曜日のレクチャーでは、ヒントになるものが見つかった。日曜は、早朝から仕事をして、家人と筋トレに行き、その後、一年ぶりにA句会に出る。帰宅したのが0時だったので、いささか疲れた。懐かしい人々に会えて楽しかった。ぼくの句も、なぜか、好調で、主宰選ほか、多くの人に取ってもらえたので、行った意味もあったというものだろう。ぼくは、もう「結社」という組織に入るつもりはないけれど、句会という形で、今後もA句会には出てみたいと考えている。主宰の連歌論はじつに良かった。刺激を受けた。二日連続で、飲んだので、今日はいささか、頭がぼーっとしている。
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寒鮒釣ふかきところを見るごとく 「古志」平成十二年二月
■「ふかきところを見るごとく」という措辞に惹かれた。冬の川は水が澄み、流れも穏やかに、深い淵もできる。鮒を釣るという行為が、釣りをしていることさえ忘れて、深い淵に魅入られている。この世ならぬ深みに見えたものは何だったのか。世界の始原。そんなことを思ったりもした。
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飴山實を読む(204)
2010-06-18 / 俳句
(写真)キッシュ
早くも金曜日か。今日は、一日、鬱陶しい雨だった。梅雨を実感。最近、朝が早いので、腹が減る。家族はみんな寝ているから、食べる物がない。そこで、シリアルを買い置きして、これを食してから仕事を始めている。これなら、牛乳さえ買っておけば、すぐに食べられるし、栄養バランスもいい。ぼくは、牛乳が嫌いで、したがって、シリアルも嫌いだったのだが、最近の牛乳は、味が格段に良くなった。シリアルも、一昔前よりずいぶん進化した気がする。いろいろ、試して、チョコワとグラノーラに最近は落ち着いているのである。
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ひとの名を忘れてわかれ大根焚 「古志」平成十二年二月
■情景が目に浮かぶ。最近、ひとの名を忘れることが増えてきた。しかし、そのひとの顔は鮮明に出てくる。画像は忘れないが、言葉は忘れる。なかなか面白いと思う。脳内の画像を言語に翻訳するコンピュータ-というのは、もう出ているのかもしれないが、実用性は高いのではないだろうか。極端な話、言語を媒介せずに、画像を媒介するだけでも、コミュニケーションは成立する。利便性や暮らし向きから文化や精神は発生するから、こういうコミュニケーションは、まったく別の文化を生む可能性もあるだろう。これが現実化しているのが、聾啞の人々のコミュニケーションである手話だろう。人間の老化にかかわる生物学的・社会学的な潜在市場は、考えてみると、なかなか面白味を持っているように思う。
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飴山實を読む(203)
2010-06-17 / 俳句
(写真)無題
今日は、終日、体調が悪くて参った。耳鳴りがひどく、集中できない。いやはやである。夜、少し、落ち着いてきた。午後、病院に見舞。夕方から、兼業。
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鶏頭もことしの果てとなりにけり 「古志」平成十二年二月
■鶏頭にことしの果を見る感性に惹かれた。歳時記では、鶏頭は秋九月。年末の鶏頭の枯れた質感は、俳句ならでは、という気がする。
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飴山實を読む(202)
2010-06-15 / 俳句
(写真)無題
夏の早朝は気持ちがいい。朝から、仕事。ニーチェは、昼に培われた思想の健康的なことを、いろいろなところで述べているが、個人的には、昼は、体が疲れてくるので、ちょっと退廃的な気分になる。朝の思想こそ健康的だと思うのだが…。しかし、こう言ったところで、宇宙全体からみれば、夜がむしろ普通で、朝や昼は例外なのだろう。命の光というべきか。
午後、筋トレ。背筋と腹筋は慎重に行う。ここで腰を痛めると、筋トレの意味がない。
アファナシエフの英語の小説を読み始める。正直言って、よくわからない。自分がわからないものを訳すことほど、詐欺に近い行為はない。今、考えている方法は、毎日、一から読み始める、というもので、どこまで読み進んでも、翌日は、一ページから読み始める。この方法で、全体の輪郭を把握してみようと考えている。この小説は、マエストロ自身、理解者は数人と言っている。ぼくは、こういう作品こそ、価値があると考えているので、逆に、わくわくするのである。あの、ヘーゲルの精神現象学だって、初版200部である。理解者は10人もいなかったのではないかと言われている。当人自身もよくわかっていなかったという説もある。
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あかんぼが飽かずに見入る初鏡 「古志」平成十二年二月
■あかんぼが鏡に見入る、という設定自体に惹かれる。この句をいきいきさせているのは。「飽かずに」という措辞と「見入る」の「入る」であろう。あかんぼに、自己/他者という区分はないはずなのに、それを飽かずに見入るのはなぜなのか。それを、すでになにか、他とは違う特別なものと感じているからなのか。自分を見ることで自分が作られる側面があるのかもしれない。われわれは、生涯にいったい何回鏡を見るのだろうか。鏡がない文化というものは、想像できないが、あったら、面白い。かなり特異な文化になると思う。鏡で、自分が自分であることを確認していくプロセスは、自分の目で自分の目を見ることと関係があるように思える。ビデオや写真で、思わぬ角度から、あるいは、背後から、自分の映像を、見せられても、どこか、自分に思えないことはないだろうか。だから、不意打ちを食らったような気分になる。このあかんぼうが、初鏡の中の瞳を瞳で追っている、そんな想像をした。
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飴山實を読む(201)
2010-06-14 / 俳句
(写真)無題
朝から仕事、午後、病院へ見舞い。夕方、少し眠。一日雨で、夜になって寒くなる。当番で夕食を一品作る。オクラの肉巻き。
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船溜り猫が冬日を浴びにくる 「古志」平成十二年一月
■情景が目に見える。猫がのっそり動いていく様子が。海の近くなのだろう。のんびりしたいい風景だと思う。
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