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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(31)


■旧暦2月8日、水曜日、

(写真)春の雪

起きたら、大雪だった。朝、用があって外出したのだが、さっそく、滑って転びそうになった。「いざゆかん雪見にころぶところまで」である。この頃、俳句が自己満足になって来た。句会に出られればいいのだが、諸般の事情で、なかなか出られない。そこで、思いついたのが、新聞への投稿である。ぼくの取っている新聞は東京新聞なので、東京俳壇に毎週、投句してみることにした。人の目が入った方がいいだろうという意図である。



先日、社会哲学者のI先生と話していてい、面白いことに気がついた。民主主義と資本主義はセットでやって来る。西欧の政策は基本的にそうであるが、そういう話になった。これは、キリスト教が植民地政策とセットでやって来た歴史とぴったり符合する。つまり、現存の民主主義は、資本主義的な植民地化を正当化、あるいは補強するイデオロギーになっている。だが、キリスト教が、植民地政策に対して、両義的であり得たように、民主主義も、資本主義的植民地化に対して両義的であり得る。つまり、来るべき民主主義は、資本主義的植民地化に拮抗し得るのではなかろうか。その重要な条件が「情報の公開」だろう。情報の公開には、二つの重要な要素がある。一つは、情報の使用である。もう一つは、情報をめぐる討議である。

公開された情報をどう使用するか。今度の、原発事故をめぐって、放射能関連のデータやさまざまな発言が、ウェブを中心に出てきたが、これを、暮らしの安全性確保のために使用し行動する新しい主体が形成されつつあるように思う。ことに、お子さんをもつお母さんたちを中心に。お父さんは、家庭よりも組織にまだまだ、組み込まれていて、問題のプライオリティーを正しくつけるのが、下手な気がする。情報の新しい使い方は新しい主体を形成する。

もう一つの「情報をめぐる討議」は、「専門家」という集団がいかに無能だったか、という事実と関連する。「専門家」と「素人」という区分が、すでに意味がなくなっていたというのが、今回の原発事故で明らかになったことの一つだと思う。専門家同士の討議では、「科学的」な討議にはならず「政治的」な討議に傾きがちである。背後の利害団体を代弁することになるからだ。科学者集団の出した結論が、科学的ではなく感情的になるのは、そのせいだろう。喜劇のパラドックスである。

「情報をめぐる討議」が正しく機能する条件をどう整えるのか。これは、教育も含めて、重要な問題ではなかろうか。結局、考えない人間を量産して、少数の考える人間は、みなひもつきになってしまうと、結果的に、社会は機能不全を起こし、立場の弱い人間が大勢犠牲になる。



39, Der Beweis ist unser neues Vorbild dafür wie es ausschaunt, wenn nichts weg- und nichts dazukommt, wenn wir richtig zählen, etc. Aber dieser Worte zeigen, dass ich nicht recht weiß, wovon der Beweis ein Vorbild ist. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 170 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

余計なものは、なにも引かず、なにも足さず、ただしく計算すれば...、こうなる。証明とはそのための新しいモデルである。だが、こう言っても、その証明は何のモデルになるのか、わたしには正しくわかっていない。

■鋭いと思う。これは、一つの形式論だからで、具体的な内容を欠いている。「数学の基礎」でのヴィトゲンシュタインの思考は、弁証法的で、たえず、自分の言説を否定しながら、展開していく。

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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(30)


■旧暦2月7日、火曜日、

(写真)無題

夕方から急に冷え込んだが、夜になるとまた、緩んだ。ストーブに灯油補給、地震対策でレンジの固定、椅子の修理、掃除など、終日、雑用。



39, Nicht, dass dies Zuordnen zu diesem Resultat führt, beweist - sondern dass wir überredet werden, diese Erscheinungen(Bilder) als Vorlagen zu nehmen dafür, wie es ausschaut, wenn...   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 170 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

こう整理すればこういう結論になる、ということが証明されるのではない。こうした諸現象(図)を、ある場合のものの見方のモデルとするように説得されるのである。

■何が証明されるのか。ものの見方のモデルが説得される。それを支える、論理や理性とは、だれを代弁するカテゴリーなのか、という問題設定もありえるだろう。
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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(29)


■旧暦1月30日、火曜日、

(写真)春夕焼

日中は春の陽気。先日、所用で久しぶりに池袋へ行く。池袋はほとんど行かないが、東口のごちゃごちゃした感じは、好きである。たまに、奇妙な事件が起きる街だが。帰りに新宿の紀伊国屋書店で2011年に出たZygmunt Baumanのcllateral damageを購うが、帰って調べたら既に邦訳が出ていた。残念。

どうも元気が出ないので、フランス詩のアンソロジーを読んでいる。アルトーが、今の心にもっとも入って来る。


この木 そして木の戦慄
暗い森だ 呼ぶ声の
呼ぶ声の
そいつが夜の暗い心臓を喰っている

酢と乳 空 海
天穹の濃密な塊
どれもが震わせてやろうと挙げて企んでいる
影の心臓 濃密な心臓に宿るこの震えを

破裂する心臓
分裂して空にほとばしり出る硬い星
鳴り響く太陽に呼びかけられて裂ける
澄んだ空
それらは同じ音を立てている 立てている
夜と そして風の真ん中に立っている木と同じ音を


アントナン・アルトー「木」(吉田加南子訳)


Cet arbre et frémissement
forêt sombre d'appels,
de cris,
mange le cœur obscur de la nuit.

Vinaigre et lait, le ciel, la mer,
la masse épaisse du firmament,
tout conspire à ce tremblement,
qui gîte au cœur épais de l'ombre.

Un cœur qui crève, un astre dur
qui se dédouble et fuse au ciel,
le ciel limpide qui se fend
à l'appel du soleil sonnant,
font le même bruit, font le même bruit,
que la nuit et l'arbre au centre du vent.


L'ARBRE de Antonin Artaud




39. Was ist unerschütterlich gewiß am Bewiesenen?

Einen Satz als unterschütterlich gewiß anzuerkennen - will ich sagen - heißt, ihn als grammatische Regel zu verwenden: dadurch entzieht man ihn der Ungewißheit.

`Der Beweis muß übersehbar sein` heißt eigentlich nichts andres als: der beweiß ist kein Experiment. Was sich im Beweis ergibt, nehmen wir nicht deshalb an, weil es sich einmal ergibt, oder weil es sich oft ergibt. Sondern wir sehen im Beweis den Grund dafür zu sagen, dass es sich so ergeben muß.
Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 170 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明されたものにおいて、揺るがしがたく確実なものとは何のか。

ある命題を、揺るがしがたく確実だと認めるのは、わたしに言わせれば、その命題を文法の規則として使用することを意味する。そのように使用することで、命題から不確実性を排除するのである。

「証明は俯瞰できなければならない」とは、もともと、証明は実験とは違うということに他ならない。それゆえ、われわれが、証明の結論を承認するのは、一度、そういう結論が出たとか、たびたびそういう結論に至ったからというわけではない。証明の中に、そういう結論にならざるを得ないと言える根拠があるからなのである。


■経験論との違いがはっきり出た断章。実験は、経験的なもので、だれが行っても同じ結論になることが、実験的証明の前提になっている。ヴィトゲンシュタインが、ここで、述べた、数学的証明は、証明内在的に根拠がある、つまり、論理的に存在する、ということだろう。経験と論理というテーマになるが、この二つは結びついて、論理実証主義という形で、20世紀を席巻した。ヴィトゲンシュタインが言うように、この二つは本質的に違うと認識することは、論理が経験的な場から生まれたことを、認識するのと同じように大事な気がする。



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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(28)


■旧暦1月26日、金曜日、

(写真)無題

ビールに悪酔いするようになってきたので、焼酎に切り替えて、いくつか試している。安いし意外に旨いし、アテも、豊富に考えられるので、すっかりはまった。今は、黒霧島という芋焼酎を飲んでいるが、臭みがほとんどない。980円である。



31. Wenn ich sagte, ein Beweis führe einen neuen Begriff ein, so meinte ich so etwas wie: der Beweis setze ein neues Paradigma zu den Paradigmen der Sprache; ähnlich wie wenn man ein besinderes rötlichblau mishte die besindere Farbmischung irgendwie festlegte und ihr einen Namen gäbe. Aber, wenn wir auch geneigt sind, einen Beweis ein solches neues Paradigma zu nennen- was ist die genaue Ähnlichkeit eines Beweises zu so einem Begriffsvorbild?
Man möchte sagen: der Beweis ändert die Grammatik unserer Sprache, ändert unsere Begriff. Er macht neue Zusammenhänge, und er schaft den Begriff dieser Zusammenhäge. (Er stellt nicht fest, daß sie da sind, sondern sie sind nicht da, ehe sie nicht macht.)
   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 166 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明は一つの新しい概念を導入すると述べたとき、言わんとしたのは、証明は、言語のありように、一つの新しいありようを付け加える、ということだった。それは、ちょうど、特殊な赤みがかった青を混ぜると、何か特別な混合色になり、それに名前をつけるのに似ている。証明はそういう新しい言語のありようだと言いたくなるにしても、それでは、証明は一つの概念枠組みに正確に対応するというのはどういうことか。
こう言ってもいいかもしれない。証明はわれわれの言語の文法を変え、われわれの概念を変えるのだと。証明は新しい関係を作りだし、この新しい関係に関する概念を作りだす。(証明は、関係がそこにあるのを示すのではない。関係は証明が作りだすまで存在しなかったのだ)


■具体的な証明に即して、考えてみると、この断章の深みがいっそうはっきりすると思うが、数学の証明だけでなく、論証一般にも言えると思う。Beweisには当然、論証という意味もある。ここで、重要なのは、最後の2文、つまり、Er macht neue Zusammenhänge, und er schaft den Begriff dieser Zusammenhäge. (Er stellt nicht fest, daß sie da sind, sondern sie sind nicht da, ehe sie nicht macht.) 証明(論証)は新しい言語の関係を作りだすのであり、言語の外部にもともとあった関係を新たに発見するのではない、という点だろう。この考え方は、ドゥルーズが、哲学の役割は、新しい概念を創造することにある、と言っていたことと符合する。ただ、証明(論証)の場合には、その自覚はないわけだが。


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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(27)


■旧暦1月19日、金曜日、

(写真)春雨のベンチ

今日は、佳い天気である。明るい日は気分も明るくなる。用事の帰り、陽のよくあたる朽ちたベンチでしばらくぼーっとする。7年分の句稿の電子化終了。季節ごとに編集して、アップする予定。先生の手が入った俳句は、今よりもレベルが高いので、反省することしきりであった。



28. Könnte man sagen: Die Mathematik schafft neue Ausdrücke, nicht neue Sätze??
Insofern nämlich, als die mathematischen Sätze ein für allemal in die Sprache aufgenommene Instrumente sind - und ihr Beweis die Stelle zeigt, an der sie stehen.
Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 164 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

こうも言えるか。数学は新しい表現を作りだすのであって、新しい命題を作りだすのではないと。
つまり、数学命題が、かっちり言語に取り込まれて、道具となっている限りは、そう言える。そしてまた、その数学命題の証明がその命題の置かれた位置を示す限りで、そう言えるだろう。


■数学命題が、言語体系の中で、道具として使用されることを述べている。数学命題の証明は、命題の真を言うのではなく、言語体系の中で、命題の置かれた位置を示す。そういうことだろうと思う。数学と文学の類縁性さえ感じさせる斬新な考え方。ただ、文学と異なるのは、ヴィトゲンシュタインの思考は、常に、目的論的であって、「遊び」がない点だろう。詩のように、目的のない言語ゲームは、どうなのだろう。あるいは、「詩」という言語ゲームも、言語体系全体の中では、何らかの目的を持つと言うだろうか。

些事だが、ein für allemal in die Sprache aufgenommene Instrumenteは、ein für allemal in die Sprache aufgenommenes Instrumentだと思う。誤植かスペルミスかわからないが。





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(26)


■旧暦1月14日、日曜日、

(写真)枝垂れ桜の空(莟は固いが確か)

なんだか、今日もバタバタしていた。午前中、雑用。午後、特養へ。往復40分のウォーキング。夕方、買い物して帰宅。自宅で、ダンベルの筋トレの再開。何ヶ月ぶりか忘れた。本の片付け二日目。詩の雑誌関係と詩集の整理。

Cioranの未訳テキスト『Solitude et destin』(孤独と運命)が届いた。1930年代にルーマニアで発表されたエッセイが中心だが、北斎やヘーゲルについて書かれたものなど、興味深い内容。ぼちぼち、マイペースで、ここで、読んでいきたい。入手テキストはルーマニア語からのフランス語訳版。

深夜、「宇治拾遺物語」を読んでいて、秦の始皇帝の時代に、天竺から、僧侶が中国に布教に来た、という話があって驚いた(巻第15第10段)。仏教説話なので、始皇帝に怪しまれて幽閉されてしまった僧侶が、釈迦に救援を熱心に祈ると、紫黄金の光の丈六の仏が、監獄をぶち破って助けに来る、という話なのだが、こういう話が伝わっているところをみると、インドの僧がやって来たのは、まんざら、嘘でもないような気がする。仏教の中国伝来は、一般に、後漢(1世紀ごろ)の時代と言われているが、秦の時代(紀元前220年ごろ。釈迦の入滅は、秦の成立よりも260年前になる)にすでに来ていたとしても、おかしくはない。シルクロードに近いものはすでにあったのかもしれない。



28. Der Beweis konstruiert einen Satz; aber es kommt eben drauf an, wie er ihn konstruiert. Manchmal z.B konstruiert er zuerst eine Zahl und dann folgt der Satz, dass es eine solche Zahl gibt. Wenn wir sagen, die Konstruktion müsse uns von dem Satz überzeugen, so heißt das, dass sie uns dazu bringen muß, diesen Satz so und so anzuwenden. Dass sie uns bestimmen muß, das als Sinn, das nicht als Sinn anzuerkennen. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 164 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明は一つの命題を構成する。だが、重要なのは、その証明がどのように命題を構成するかである。たとえば、最初に、証明がある数字を構成し、その後で、その数字が存在する、という命題が構成されることもある。構成するとは、その命題をわれわれに納得させることだというとき、それが意味するのは、この命題は、こんなふうに用いるということを、その構成がわれわれに教える、ということである。つまり、その構成がわれわれを規定して、ある命題は意味があると認め、ある命題は意味があるとは認めない、ということである。

■命題の意味・無意味は、その使い方で決まる。証明が、命題を構成するとは、証明が、命題の使い方を指示する、ということである。ということだと思う。言葉の意味は、その使い方で決まるが、それを命題にまで拡大し、証明の役割は、命題の正しさを承認させることではなく、その使い方をわれわれに指示することだ、としている。この考え方は、証明の外部や命題の外部に真理が存在する、という前提を破壊している。主客の二元論を否定している。その意味で、ヴィトゲンシュタインもポストモダニストと言えるのかもしれない。

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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(25)


■旧暦1月13日、土曜日、、立春

(写真)無題

立春らしいいい陽気だった。午前中、仕事して、午後から歯医者へ。LEDの懐中電灯を家族分調達。夕方から、本の片付け第一日目。まづは、読了したコミックと雑誌を整理。途中で拾い読みなどして、意外に、時間がかかってしまった。20代の頃の自意識過剰な写真まで出て来て、なんとも言えん気分に。

家人が「あさつき」という砂丘で栽培されるネギ科の野菜を調達してきた。昨日は、お吸い物にして、今日は、どんぶりで食べてみた。お吸い物は、実にいい風味を引き出した。たぶん、こういう風味は初めての経験かもしれない。どんぶりは、あさつきを刻んで、生卵を落とし、胡麻と削り節、海苔を振りかけ、醤油をたらしただけのシンプルなものだが、地元の食べ方なので、いちばん、旨いはずだと踏んでいたのである。やはり、かなり美味だった。この「あさつき」は、山形県の庄内砂丘で栽培されたものらしい。山形に砂丘! というのも驚いた。関東では、あまり見かけないので、元は西日本の野菜かもしれない。



28. Der druch den Beweis bewiesene Satz dient als Regel, also als Paradigma. Denn nach der Regel richten wir uns.     Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 163 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

証明で証明された命題は、規則として、つまりは、枠組みとして使われる。というのは、規則には、われわれは従うものだからだ。

■証明の隠れた目的、証明された命題の「枠組み」としての使われ方。一つの体系的な世界観が構築されていく様子が浮かび上がる。それは、自明であるがゆえに、不可視である。







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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(24)


■旧暦12月1日、日曜日、

(写真)無題

年も押し詰まって、歯痛になってしまった。ロキソニンでごまかしていたが、切れると激しく痛みだすので、日曜も開業している新しくできた歯科医院に行く。レントゲンで患部の様子を確認してから、いきなり、歯の神経を3本抜かれた。その後、根の膿を取りだす処置を施してもらった。年末年始は、歯医者も休みになるから早くしてくれたのだろう。歯科医に行って、診察ベッドに横になって、目のまえを見ると、15インチほどの可動式パソコンモニターが備え付けられている。これで、レントゲン写真をすぐに見られるようになっているのだが、ネットにもつながっている。マウスが、ドリルの歯が並んだ台の上にちょこんと置いてある。インターネットは、歯の治療の最前線にも入ってきていることを実感した。レントゲン以外では、どう使われているのかはわからないけれど。今度、聞いてみよう。手早くて、痛みも収まったので、助かった。



漫画家の長谷邦夫さんから、新著『桜三月散歩道』を送っていただく。この本には、このブログで紹介した、スイスの詩人、ロミー・リーさんのが、印象的に引用されている。原文のドイツ語と日本語版の両方を引用していただいたので、彼女も喜んでいるものと思う。長谷さんは小説も執筆され、これがとても面白かったので、この自伝も期待できる。赤塚不二夫や手塚治虫、石ノ森章太郎、山下洋輔やタモリ、筒井康隆や井上陽水らと交友関係がある長谷さんの、貴重な同時代文化史ともなっている。



Ich will etwa sagen: Wenn auch der bewiesene mathematische Satz auf eine Reralität außerhalb seiner selbst zu deuten scheint, so ist er doch nur der Ausdruck der Anerkennung eines neuen Maßes(der Realität).   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 162-163 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

わたしは、こんなことが言いたいのである。たとえ、証明された数学命題が、命題の外にある実在を指しているように見えても、その命題は、(実在性の)新しい一つの基準を認めているだけなのである。

■数学命題の<外>に、実在はない。数学命題の<内>にあるわけでもない。数学命題を離れて実在はありえない。数学命題のゲームが実在を作りだしている。そういうことだと思う。実在は、本質あるいは真理と言い換えてもいい。







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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(23)


■旧暦11月30日、土曜日、

(写真)無題、あるいはサンタ

あ、また酒飲んでしもたやん。なんや、こいつ。酒、飲んでるだけやんけ。あかんあかん。もっと文化的芸術的にいかな。酒ばっかり飲んどったらあかん。そや、映画見たろ、映画。これやったら文化的やろ。そいで安かったので、洋画のポルノ三本だてがかかっている小屋に入ったった。ああ、ちょっといいにくいような映像美だ。全然おもろない。金を倹約したのが失敗だったな。

『へらへらぼっちゃん』(町田康著)P.102

思い当たるフシありw

イブか。やけに冷え込んで来た今宵であった。



原発問題の中心には「因果律原理」と「確率論」があるように思う。少し、この二つを根本的に考えてみようと思っている。手がかりは、タキオンなど。




Bedenken wir, wir werden in der Mathematik von grammatischen Sätzen überzeugt; der Ausdruck, das Ergebnis, dieser Überzeugtheit ist also, dass wir eine Regel annehmen.

Nichts ist wahrscheinlicher, als dass der Wortausdruck des Resultats eines mathematischen Beweises dazu angetan ist, uns einen Mythus vorzuspiegeln.
     Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 162 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

よく考えてみよう、数学で納得させられたのは、文法的な命題なのだということを。つまり、納得を表す言葉やその帰結は、ある規則を受け入れたということなのである。

数学的証明の帰結を言葉で表すのは、神話を本当だと信じ込ませることによく似ている。


■証明も、言語が媒介する以上、文法(規則)と無縁ではないということだろう。そして、その規則は、神話に似た性格を持っている。



Sound and Vision


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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(22)


■旧暦11月25日、月曜日、

(写真)無題

この頃思うのは、真面目な人が真面目な詩を書いても、自己満足になるだけで、当たり前のことしか表現できない、ということで、読む方は、かなり、しんどい。苦痛でさえある。だから、ふざけた詩の方がいいと言ってるのではなく、面白さが必要ではないだろうか。エンターテイメントの面白さでは、もちろんなく。

土曜日、忘年会で、焼酎のロックを飲んで焼酎の世界を忘れていたことに気がついた。このところ、ビールか、ウィスキーばかりだったのである。以前、いただきものの奄美の黒糖焼酎が異常に旨かったのが、思い出された。しばらく焼酎党になるべいか。



土曜は、哲学塾。今回もいろいろ、刺激になった。3.11以降、科学技術と社会の関係に興味を持って、時間のあるとき、ぼちぼち、一般向けの物理の雑誌や本を検討している。今、物理学で問題になっているのが、相対性理論と量子力学の矛盾を解決することだが、いくつか、理論的なアイディアが出ている。そのおもなアイディアをまとめると次のようになる。ここから>>> 理論の内容に深く立ち入らない表面的な整理だが、これを見ると、理論状況はわけわかんない事態になっているのはわかる。

細かい点は表をみてもらうとして、これらに共通する理論的な前提や問題点を挙げてみると、1)要素還元主義。客体は要素に分解すれば理解できるという前提がある。また、最小要素に分解された世界と要素の集合した世界が統一的に説明できるとしている。この二つは同一次元でそもそも議論できるのだろうか。2)時空間の存在が前提にされているが、その生成プロセスの議論が抜けている。3)物質の最小単位である素粒子がなぜ存在するのか、に関する議論がない(無から有が生まれるのだとしたら、その機構の説明がない)

超弦理論が、今のところ、もっとも有望みたいなので、以前に購入して積読になっていた『エレガントな宇宙』を引っ張り出す。



25. Ein psychologischer Nachteil der Beweise, die Sätze konstruieren , ist, dass sie uns leichter vergessen lassen, dass der Sinn des Resultats nicht aus diesem allein abzulesen ist, sondern aus dem Beweis. In dieser Hinsicht hat das Eindringen des Russellschen Symbolismus in die Beweise viel Schaden getan. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 162 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

諸命題からなる証明には心理的な問題がある。結論の意味が、その結論だけからでは読み取れず、証明から読み取れる、ということを、その諸命題が忘れさせてしまうのである。この点で、ラッセルの記号が証明の中に侵入したのは、大きなダメージになった。

■証明の結論の意味は、結論ではなく、証明全体がその意味を与える、というこの断章は、語句の意味は、語句が指す対象ではなく、語句を用いた文章全体が意味を与える、というヴィトゲンシュタインの基本思想に対応している。これは、具体的な命題に即して検討すると、より興味深いと思える。



Sound and Vision








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