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Pascal 『Pensées』を読む(27)


■旧暦1月11日、木曜日、

(写真)無題

今日も異常に寒い。故障が続いて参った。パソコン、プリンター、ヒーター、ドアチャイム、水道蛇口。いつの間にか、暖房器具は、全部電化製品になってしまって、うまく、東電に乗せられた。

「現代フランス映画の肖像2」が2月7日から3月31日まで、東京近代美術館フィルムセンターである。47プログラム、500円。ここから>>>

寝る前に、『カムイ外伝』と司馬遼太郎の短編集『最後の伊賀者』を読んでいる。どちらも読ませるが、絵の迫力と面白さでは、さすがの司馬さんも、白土三平にはかなわない。文学性にこだわらないコミックの強みだろうか。二人の影響関係は、どうなっていたのか、気になるところ。



Les pères craignent que l'amour naturel des enfants ne s'efface. Quelle est donc cette nature sujette à être effaée?
La coutume est une seconde nature qui détruit la première. Mais qu'est-ce que nature? Pourquoir la coutume n'est-elle pas naturelle? Léai grand peur que cette nature ne soit elle-même qu'une première coutume, comme la coutume est une seconde nature.
Pensées 117

父たちは、子どもたちの自然の愛が消えてしまわないかと恐れている。では、消えてしまうかもしれないこの自然とは何だろうか。
習慣は、第二の自然であり、第一の自然を破壊する。だが、自然とは何なのだろうか。なぜ習慣は自然ではないのか。ちょうど、習慣が第二の自然であるように、自然それ自体も第一の習慣でしかないのではないか。


■パスカル(1623-1662)の生きた時代は、ガリレオ(1564-1642)、デカルト(1596-1650)、ニュートン(1642-1727)の時代とも重なり、ちょうど、自然科学の勃興期にあたる。自然が近代的な意味で、テーマ化されてきた時代でもある。このときの自然、natureは外的な存在である。

パスカルのnature、naturelの使い方は、習慣と対比されるので、さしあたり、内的自然と言っていいものだろう。この断章117は、自然と社会の関係を扱っているが、自然科学が成立してゆくプロセスでは、このテーマは排除され、社会と切り離された外的自然が現れてくる。パスカルの問題は、自然は社会が形成する、という現代的なテーマである。パスカルのnatureやなnaturelの使い方を見ると、自然科学の勃興期ということもあって、まだ、はっきりと、内的自然と外的自然の区分は、なかったように思う。こう考えると、パスカルの問題圏には、マルクスも当然入って来る。内的自然という系譜では、ルソー、カントに引き継がれ、心理学や精神分析のモチーフとなり、外的自然は自然科学がもっぱら引き継いでゆくことになったのだろう。

柳父章が面白い指摘をしている。明治にnatureあるいはnaturelという言葉が入ったとき、日本には、すでに「自然」という言葉が存在し、それは「元来の、もともとの、自ずから」といった人為の加わらない状態を指していたという。明治に輸入された「自然淘汰」という概念は、日本的文脈で解釈されると「自ずから淘汰される」という意味で、natural selectionの「自然によって選択される」という意味とずれが生じる。同じように、自然主義naturalismも、ありのままの自己を赤裸々に語るという意味で解釈されてしまうが、ゾラが提唱したのは、自然科学の方法で、文学を書くということだった。

19世紀、20世紀になると、ヨーロッパのnatureの意味も、自然科学の興隆に歩調を合わせるように、「外的な自然」が主流になってくるが、もともとは、やはり、日本同様、人為の加わわらない状態も指したと思う。







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Pascal 『Pensées』を読む(26)


■旧暦1月8日、月曜日、

(写真)降りる

昨日は、所用で大宮まででかける。寒かったが、雪は残っていなかった。久しぶりに大宮の街を歩く。懐かしかった。

先日の東大地震研究所の4年以内にM7級の地震が起きる確率70%という計算を踏まえて、自宅の防災対策の見直しを始めた。記事はここから>>> これが南関東や首都圏直下で起きれば、さらなる放射能災害、富士山の噴火などの複合大災害になる可能性が高いと思っている。防災対策よりも生き残り対策と言った方がいいかもしれない。4年以内というのは、今日・明日も含まれる。



この頃、古い物語に関心を持っている。土曜日、図書館で、日本霊異記、今昔物語、宇治拾遺物語を借りてくる。テリー・イーグルトンが、面白いことを言っている。神学と精神分析は、人間の欲望を物語ったものだと言う。近代になって、精神分析が神学の代わりを務めているとも述べている。この議論は、なかなか説得力があるように思う。神学や精神分析が一つの物語なのだとすれば、古くからの物語も、人間の欲望の表現とも言えるのではなかろうか。そこで、語られている欲望はなにか。そこで語られていない欲望はなにか。語られた欲望は、現在、実現されたのかどうか。こういった点に注目して読んでみたいと思っている。



Qu'est-ce que nos principes naturels sinon nos principes accountumés? Et dans les enfants œux qu'ils ont reçus de la coutume de leurs pères, comme la chasse dans les animaux.
Une différente coutume en donnera d'autres principes naturels. Cela se voit par expérience. Et s'il y en a d'ineffaçables à la coutume, il y en a aussi de la coutume contre la nature ineffaçables à la nature et à une seconde coutume. Cela dépend de la disposition.
Pensées 116

われわれの言う自然の原理とは、原理の習慣化でなくてなんであろう。自然の原理とは、ちょうど動物が狩りをするように、父たちの習慣を子どもたちが受け継いだものに他ならない。
習慣が異なれば、違った自然の原理が生じる。それは経験から明らかである。習慣では消せない自然の原理があるかと思えば、自然や第二の習慣では打ち消せない自然に反した習慣もある。これは、集団の特性に左右される。


■最後のla dispositionは、前田陽一、由木康訳では「人々の素質」となっている。ここは、全体の文脈から、ぼくなりの解釈を加えて訳出した。「集団の傾向、性向、性格」といったほどの意味である。非常に重要だと思う断章の一つ。この部分だけに注目しても、マンハイムを400年先取りしている。前回同様、指摘している人はだれもいないが、これは、近代の世界観を突き抜けている。自然の原理のベースには、習慣、すなわち、社会的なものが存在する、という重要な指摘を含んでいるからだ。これは、自然の原理がある世界像に規定されて存在することを意味し、それは、自覚できない、という意味で、イデオロギーと言っていい。この考え方は、ヴィトゲンシュタインに極めて近い。探求の起源や方向性が、ある世界観に規定されているということになるからだ。

近代の世界観を突き抜けている、という意味は、主観・客観の二元論の図式を超えているということで、この二元論は、主体の<外部>に絶対的な真理が存在し、主体はそれを認識できる、という考え方を基本にしている。これは、自然の認識は価値中立的で、だれにとっても役に立ち、時代を超越しているという前提を含む。カント認識論が自然科学を基礎づけている側面である。パスカルの断章116は、自然の認識も社会に規定されると述べている点で、画期的である。自然の認識は、超越的ではなく(つまり、二元論ではなく)、社会的・歴史的なものであることがはっきり述べられている。この点について、すぐれた自然科学者は、科学の言うことは時代とともに変わるとして、うすうす気がついてはいるが、この二元論にとどめを刺したのは「量子論」だろう。量子論については、近代世界像との関わりでいつか整理・分析してみたいと思っている。量子論といえども、「絶対」ではなく、社会的規定性から自由ではないはずなのだ。

ヴィトゲンシュタインのイデオロギー論的読み替えについては、以前、ペーパーにまとめた。ここから>>>







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Pascal 『Pensées』を読む(25)


■1月4日、木曜日、

(写真)無題

とうとう、PCが壊れた。昨日、修理に出して、今は、代替のノートを使用。ノートは使いにくいので、勢い、ウェブにつなぐ回数が減る。ちょうど、タイミング良く、というべきが、悪くと言うべきか、腰痛が再発。仕方ないので、大人しくしている。腰痛は、完全に運動不足が原因だろう。そろそろ再開しないと。

福島原発事故以来、ここは、ホットスポットになってしまったので、戸外でウォーキングができなくなった。自然の中へ気分転換に行くこともできない。相当ストレスがたまる。こういう精神的な苦痛を与えていることに、世界最大級のデタラメ公害企業、東京電力は、罪の意識を感じているのだろうか。たぶん、何も感じていないだろう。言葉ではなく行動を見ていればわかる。人間を「市場」(あるいは「労働力」)としてしか見なくなり、ナチスのように、人間的な感覚や感情が鈍磨してしまったのだろう。これは大げさな例えではなく、資本主義に内在する構造的な欠陥なのだと思う。危機になるほど、本質がはっきり出る。人間的な感情をもった人々が、これだけ広範囲に苦しみや不安を与えておきながら、原発再稼働と10%の電気料金値上げを前提にして、2014年の3月期に損益を黒字化します、などといった試算を平然と出すだろうか。記事はここから>>>

今日は、もうひとつ、驚くニュースがあった。「命懸けの放送 教材に 埼玉県が『天使の声』独自作成」ここから>>> これは学校教材ではなく、原子力村の成人教育に使ったらどうだろうか。「天使の声」は美談にしてはならないんじゃないか。なぜ、遠藤さんを含めて、町の職員39人が犠牲になったのか、どうしたら、避けられたのか。そうした行政機構としての避難体制や仕組みを、避難誘導との関わりの中で、考え直す教材にすべきで、遠藤さんと同じ犠牲者を再生産する精神主義一辺倒の教材にしてはならないだろう。これでは、あの戦争の教訓が何も生かされていないではないか。美しい心の人間は、帰って来なければならない、と思うがいかがだろうか。



Spongia solis.
Quand nous voyons un effet arriver toujours de même, nous en concluons une nécessité nqturelle, comme qu'il sera demain jour, etc. Mais souvent la nature nous dément et ne s'assujettit pas à ses propres règles.
Penséés 559

ソポンジア・ソリ(太陽の海綿)。
いつも結果が同じになるなら、それは自然の必然性だと、われわれは判断する。たとえば、明日も太陽は存在するなど。だが、自然はたびたび我々の予想を裏切り、自然の諸法則を踏み外す。


■これ以降のいくつかの断章は、非常に重要だと思う。ここもそうだが、自然の法則性を、ある意味で、否定している。これは、現代の量子論からすれば、人間を含めた物質には、法則のような必然的なものはなく、存在の有無は、確率論的に決まるとの立場になるから、パスカルに現代科学が追いついた形になる。明日、太陽が存在するのは、確率論的な現象で、必然的ではないことになる。必然性あるいは決定論とは何のか、パスカルの断章は鋭く問いかけている。


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Pascal 『Pensées』を読む(24)


■旧暦1月1日、月曜日、、旧正月、新月

(写真)無題

今日は旧暦の正月だと思うと、江戸の俳諧師たちの春を待つ心に触れた気分になる。

いわゆるニューハーフ、ladyboysのAVがウェブ上に結構あるので、好奇心から、いくつか観てみた。胸の整形はほぼ完璧で、女性となんら変わらない。二の腕に筋肉がついていると、すぐに、ばれてしまうが、たいてのladyboysは女性よりも華奢な手足をしている。ペニスはあるが、睾丸はあまり目立たない。ペニスは、通常の成人男性の二分の一くらいではなかろうか。ladyboysは、アメリカ、日本、タイなど世界各地にいるが、容貌の美しさでは、ちょっと驚くような人もいる。ただ、その歴史は、ニューハーフと言われるほど、ニューではないだろう。古典古代にまでさかのぼると思う。ローマの子ども奴隷は、今で言う、性的搾取だったし、日本の寺院の稚児は、僧侶の性欲と無関係ではないだろう。ladyboysは、その起源から、男性の性欲と関わっているが、タイのように、ニューハーフが社会的に認知されている国では、教職など、社会進出も盛んである。AVや芸能界、お水系の人が目立つが、必ずしも、仕事をしているのは、そういう業界だけではないだろう。ladyboysのジェンダーは、女であるから、男性の伴侶と結婚生活を送っているケースも、ゲイの結婚とは違った意味で、相当あるに違いない。ただ、表に出ないだけだろう。こういう「境界」にいる人々は、芸術のモチーフとして、もっと、取り上げられていい気がする。たとえば、ルドンやモローがladyboysのヌードを描いたとしても、なんら違和感はない。仏像を始め、両性具有のモチーフは、古くからある。ladyboysは、不思議に、異形という感じがしない。むしろ、どこかハレの気配を漂わせている。



Donc, toutes choses étant causées et causantes, aidées et aidantes, médiates et immédiates, et toutes s'entretenant par un lien naturel et insensible qui lie les plus éloignées et les plus différentes, je tiens impossible de connaître les parties sans connaître le tout, non plus que de connaître le tout sans connaître particulièrement les parties. Pascal Pensées 185

それゆえ、あらゆる事物は、原因になったり結果になったり、促進したりされたり、間接的、直接的に関連したりしている。すべては、遠く離れていても、まったく違ったものであっても、知覚できない自然の絆で結びつけられ、相互に支え合っているから、全体を知らずして、部分を知ることはできないし、逆に、部分を詳しく知ることなく全体を知ることはできないと思う。

■断章185は、示唆に富んだ文章が多い。ここも、単線的な因果連関は否定し、諸部分が全体を構成するという発想が観られ、現代のシステム論や複雑系の考え方と近い。イギリスに亡命したヴォルテールは、「パンセ」は推敲されていない草稿であることに注意を喚起したが、185のような断章を読むと、その先見性に驚く。ニュートン(1642-1727)が因果律原理を前提に、古典力学を完成させるのは、パスカル(1623-1662)の死後である。




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Pascal 『Pensées』を読む(23)


■旧暦9月3日、木曜日、、風が冷たい

(写真)四条河原町 阪急の黒いビルのあった場所には丸井が。

昨日、叔母の特養入居が無事終了。これで、一段落した。オープンしたてで、スタッフが集まらず、当初予定していた、トイレに近い3階の部屋は見送って、2階の部屋に暫定入居になった。11月ごろ、スタッフが揃った段階で、3階へ入居の予定。2008年7月の圧迫骨折以来3年超に及ぶ介護も、一区切りついた形になった。ケアマネやヘルパーさん、ケアスタッフの方々、周囲の人々の親身の協力があったので、なんとか、もった。特養も、ちょうどタイミング良く入居できて運が良かったと思う。特養は、一ヶ月に一人程度の割合で亡くなるらしい。一年換算でも12人である。待機者は常時、5、600人である。



京都は、大好きな街なので、悪く言う気はさらさらないのだが、一つ、「どうもなあ」と思う点がある。それは甘さの感覚である。これも個人差があるので、あくまで、ぼくの感覚では、という条件がつくのだが、甘すぎるのである、甘いものが。たとえば、河原町三条の上島珈琲店の珈琲は申し分ないが、アップルパイがいただけない。甘すぎるのである。ちなみに、上島珈琲とは、あのUCCであるが、関東では印象が良くない。缶コーヒーにしても、豆にしても、旨いと思ったためしがないのである。だが、これが京都で飲むとまったく違う。断然旨い。寺町店では行列さえできている。これは、どうなっているんだろう? とくに、豆については、きつく申し渡しておきたい。いや、ご検討いただければ幸いですw。そう、甘いものの話であった。街を歩き回って疲れたので、堀川今出川の南西角に出ている団子屋さんで一本120円の、のり巻きちぎり餅を食べたら、砂糖醤油だった。うす甘で参った。いや、参らん人もおろう。好きな人もおろう。しかし、ぼくは、参った。空腹だったが2本買わないで良かった、としみじみ。醤油の香ばしさを想像して食べたのであった。

みやげに、家族から、深蒸に合う和菓子を頼まれたので、烏丸寺町の「鼓月」で、黒柿と栗尽しを求めた。栗尽しは、美味だが、黒柿は、柿を練り込んだこし餡に和三盆がたっぷりまぶしてある。これは甘い。どうも悪口めいてきたので、...理由を推察するに、やはり、抹茶文化というのがあろうかと思う。抹茶に合うように菓子は作られてきた。それが洋菓子にも拡大した。さらに、それ以前からの貴族文化があろうかと思う。貴族の労働は、肉体労働ではないので、関東のように、塩分を摂取する必要が、さほどなかったのではないか。塩辛好みよりも甘好みになるのは、自然な成り行きというものではなかろうか。あのお歯黒も、虫歯隠し、という説もあるではないか。ま、いいんですが、甘いものが甘すぎると、砂糖の味に素材の味が殺がれてしまう。辛いものが辛すぎても同じであるが、いずれにしても、もったいない気がするのである。個人的には。



La justice est sujette à dispute. La force est trés reconnaissable et sas dispute. Aussi on n'a pu donner la force à la justice, parce que la force a contredit la justice et a dit qu'elle était injuste, et a dit que c'était elle qui était juste.
Et ainsi ne pouvant faire que ce qui est juste fût fort. on a fait que ce qui est fort fût juste.


何が正義かは意見が割れやすい。力はわかりやすく、議論の余地がない。だから、人は正義に力を与えることができなかった。力が正義に反論して、これは正義ではない、自分こそが正義だと言ったのである。こうして、正しいものを強くできなかったので、力のあるものを正しいとしたのである。

■わかりやすい力は確かにある。だが、わかりにくい力もある。わかりにくい力への認識が広がったのが現代なのだろう。たとえば、知識は力である、理性も力である、金も力であると言えるが、そうした力の実体が存在するわけではない。社会関係の中で、力のゲームが絶えず行われて、ある場面の中で、力が決まってくる。その意味では、正義が議論の対象になるというより、そうした議論自体もある種の力関係の中で行われると見た方が現実に近いと思う。この断章は、正しさの根底に力関係を見ることで、そうした現代性に触れるものを持っているとも読める。




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Pascal 『Pensées』を読む(22)


■旧暦9月2日、水曜日、

(写真)錦市場の中にある「元蔵」のにしんうどん

京都での食事は、一食は錦市場の中で食べることに決めていたが、時間がずれていたせいで、目当ての店が閉まっていた。しかたがないので、ぶらぶらあるきながら、たどり着いたのが、甘味も出す「元蔵」だった。京都で、にしんと言えば、にしん蕎麦だと思っていたので、うどんを不思議に思って頼んでみた。結論から言うと、かなり旨い。関西の出汁は蕎麦よりも、むしろ、うどんに合うので、にしんうどんはごく自然なのかもしれない。身欠きにしんの甘露煮は、添え物程度の小ぶりなのが出されることもあるが、ここのはがっつりで満足した。九条葱の他に、みず菜と湯葉が散らしてある。



ここ数日のニュースで一番驚いたのは、ニュートリノが光よりも60ナノ秒(1ナノ秒は1億分の1秒)早く観測地点に到着したという、国際共同実験OPERA(オペラ)の研究グループの実験報告だった。ここから>>>

アインシュタインの特殊相対性理論によれば、質量を持つ物体は光速を超えることはないという前提であるから、物理学の常識が覆される可能性が出てきた。特殊相対論によれば、質量のある物体の速度が光の速度に近づくと、その物体の時間の進み方は遅くなり、光速に達すると時間は止まってしまう。光速を超えると、過去へと時間をさかのぼる。

観測誤差は、10ナノ秒以下だという。半年かけて再テストを繰り返しての発表であり、広く、結果を公開して、検証対象としようという意図のようだ。ヴィトゲンシュタインを検討してきて、過去、とくに、歴史の発生というものが、言葉の使用法と大きく関係していることが見えてきた。物理学の「時間」は、基本的に、過去→現在→未来へと直線的に流れるが、この時間の考え方は、近代の世界像が前提になっている。社会や時代によっては、螺旋する時間や現在と過去が同居する時間も存在する。もし、ニュートリノが、過去へ向かうとしたら、物理学の「時間」の概念だけではなく、われわれの社会が成立する土台になっている近代世界像そのものが変更を迫られることになる。それは、行動様式や判断様式、思考様式ばかりか、言葉の使用法や文法にさえ、影響を及ぼすだろうと思う。この観測結果が検証されて、世界化したとき、どんな世界像が現れるのか、実に興味深い。今後、要注目の事件だと思う。「近代」はこういうところから崩れるのかもしれないのである。



Justice, force.
Il est juste que ce qui est juste soit suivi; il est néccessaire que ce qui est le plus fort soit suivi.
La justice sans la force est impuissante; la force sans la justice est tyrannique.
La justice sans force est contredite, parce qu'il y a toujours des méchants. La force sans la justice est accusée. Il faut donc mettre ensemble la justice et la force, et pour cela faire que ce qui est juste soit fort ou que ce qui est fort soit juste.



正義と力
正義にしたがうのは正しい。もっとも強いものにしたがうのは致し方がない。力のない正義は無力であり、正義のない力は抑圧的である。力のない正義は反対に遭う。というのは、常に悪人というものが存在するからである。正義なき力は非難を受ける。だから、正義と力は一体にしておかなければならない。このためには、正しいものに力を付与するか、力のあるものを正しいとするか、そのどちらかである。


■なるほど。まったく同感。正義が反対に遭うのは、悪人がいつもいるからだ、というあたり、原発問題の現状に引きつけると、面白い。「必要悪」なる詭弁をもてあそぶ人もいるけれど、「悪人」の自覚がない。それは、戦争に「良い戦争」がありえないのと同じだとぼくには思えるのだが...。実は、ここからが、この断章の面白い点なのだが、今日は力尽きたので、次回。





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Pascal 『Pensées』を読む(21)


■旧暦8月18日、木曜日、

(写真)傘

今夜は、月と金星がきれいである。和歌・短歌は、俳句にまはる前には、いっとき、集中的に読んだ時期があったが、今は、あまり読まなくなってしまった。それでも、西行だけは、例外で、今でも折にふれて読む。西行には、金星と月を詠んだ歌がある。

ふけて出づるみ山も嶺のあか星は月待ち得たる心地こそすれ

ここで言うあか星(明星)が金星のこと。夜更けて深山の頂に出た金星は、とても明るくて、待っていた月を見るような気分になる、というのが歌の意味だが、月はまだ出ていない。月を待つのだから、季節的には、秋だと思うが、寝待月(旧暦8月19日)あたりだろうか。この歌には、詞書がある。「神樂に星を」。動詞が省略されている。おそらく「詠む」ではないだろうか。そうすると、そういう遅い時間に神樂が行われていたことになる。どんな神樂なのか、興味があるではないか。どの神樂なのか、特定はできなかったが、朝まで行われる神樂もあるようだ。西行は、深山を向うに神樂を観たということになるが、月を待つ間に行われるような、なにか月と関わりのあるものではなかったろうか。観月神樂というのは、イベントとして、今でもありそうな気はする。

石川淳の「秋成論」(『安吾のいる風景 敗荷落日』所収)を読み返す。翻訳の延長上にある翻案が創作の一つの有効な方法になりえることを再確認した。ただ、オリジナルは、著作権の切れた古典的な作品でないと、現代では、なかなか、難しいだろうな、とは思う。石川淳自身も、秋成の雨月物語・春雨物語や古事記の、翻案に近いような現代語訳を行っている。石川淳を読むと、深いところで、心が動かされて、気分が良くなる。



Le silence éternal de ce espaces infinis m'effraie.

この無限の空間の永遠の静寂は、わたしを怯えさせる。

■この直前の断章で、人生の有限な時間と空間に想いを馳せている。その有限の時空間が、無限の時空間の中にあるという認識を述べてから、この断章が出てくる。たしかに、そう考えると眩暈にも似たものを覚える。そのとき、自我があれば、だが。




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Pascal 『Pensées』を読む(20)


■旧暦8月14日、日曜日、

(写真)無題

午前中、掃除して、メールを一本。午後から、千葉の葭川公園のデモに参加。参加者は150人くらいだったろうか。右翼の街宣車が10台くらい来て妨害をしていたが、対抗勢力が具体的に現れると、弁証法的な契機が働き、逆に、デモは大いに盛り上がった。おそらく、右翼にも、電力マネーが間接的に入っているのだろう。

右翼がマイクでがなり立てていたことのうち、次の二つが興味深い。一つは、デモの集会が開かれていた葭川公園に街宣車を横付して「おい! 朝鮮人出てこい!」と叫んだのである。これだけの心の歪み方というのは、なかなかないだろう。オーム真理教などのような、強力な洗脳装置があることをうかがわせる。もう一つは、デモ隊に向って「お前ら、こんなところで、気勢を上げていないで、福島のみなさんの役に立ってこい!」という台詞。これは、実に笑えた。これはそのまま右翼に言いたいことである。右翼がボランティアで被災地に入ったという情報を、これまで、聞いたことがない。デモの意味も理解できず、己が何をしているかもわからない。すなわち、見当識がない。

帰りに、また、マスクメロンパンをおみやげに買って帰る。今日は、9.11デモの記念に、tower recordsで半額になっていたウィスペルウェイのアルペジョーネ・ソナタをゲットする。



Il faut en tout dialoque et discours qu'on puisse dire à ceux qui s'en offensent: De quoi vous plaignez-vous?

どんな対話のときでも、どんな演説のときでも、それが原因で腹を立てている人たちに向って、「きみたちは、何が不満なのですか」と言えるようでなければならない。

■これはパスカルの「倫理」なのだろう。だが、他方で、この質問は、怒っている人の基盤になっている価値観を明らかにする。それは、すなわち、その人が所属する集団の価値観だと言っていい。集団が意識を規定する面が大きいからだ。そして、その価値が、全体社会の中で果たす役割や機能も考えさせる。たとえば、デモを妨害するために、ご足労いただいた右翼の皆さんの「愛国心」はだれにとって都合がいいのか。「愛国心」とはそもそもなんなのか。それは観念に対する愛である。具体的な日本人に対する具体的な愛ではない。



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Pascal 『Pensées』を読む(19)


■旧暦8月9日、火曜日、

(写真)無題

今日は、日中は晴れていたが、夕方から、夜にかけて、激しい秋の雨。降ったりやんだりで、雨音が遠くから聞こえてくるとこっちも降るという局所的なものだった。一雨ごとに秋の色が濃くなる。秋の季語では、「秋の声、秋声」というのが一番好きで、毎年挑戦するが、どうも、これぞというのができない。いまのところ、相生垣瓜人の次の句が一番好きである。

秋声を聴けリ古曲に似たりけり   相生垣瓜人



福島集団疎開裁判というのが進行しているのをご存じだろうか。6月24日福島地裁郡山支部に、郡山市を相手に郡山市の小中学生14名が年1ミリシーベルト以下の安全な場で教育を実施するよう求める裁判(仮処分)を申し立てた。

次に6月24日発表のプレスリリースを読んでいただきたい。これを読むと、内部被被曝の測定に関しては、7月27日の児玉先生の国会答弁を踏まえると、可能・不可能というよりも、ホールボディスキャンや尿検査といった考え方そのものを変えて、集積がわかっている臓器ごとの検査に切り替えた方がいいように思うが、ファクトに対しては、概ね、まともな解釈と意味づけがなされている。ファクトは、ファクトだけで自存するのではなく、解釈や意味づけと一体であるから、自分が、どういう価値観に立脚するのか、あるいは、自分が、どういう価値観に立脚していたのか、を自覚することがとても重要になる。この場合、正しいのは、この裁判の趣旨のように、「子どもの未来を守る」という価値だろう。実証主義に立脚する人は、それが一つのイデオロギーであることを忘れていることが多い。イデオロギーであるから、使い方次第で、有効にもなれば、害にもなる。

ホームページの左上からウェブ署名ができる。ぜひ、署名して、この裁判に、社会的圧力をかけていただきたい。



Les grands et petits ont mêmes accidents et mêmes fâcheries et mêmes passions, mais l'un est au haut de la roue et l'autre pres du centre, et ainsi moins agité par les mêmes mouvements.

偉大な者も卑小な者も、同じ事故に遭い、同じ悩みを持ち、同じ情熱を持っている。だが、一方は車輪の上部にいて、他方は車軸の近くにいる。だから、卑小な者は、同じ運動に動かされていても、振れ方が小さい。

■ニーチェを思わせるような断章。Les grands et petitsを前田陽一・由木康訳のように、地位の高い者・低い者と理解すると、どうもちぐはぐな気がする。地位の高いエリートほど、社会に守られているから、振れ方が小さくなるように思えるからだ。なので、ここは、精神的な偉大さと卑小さという理解で訳してみた。ちなみに、Krailsheimerの英語訳では、そのまま、Great and smallとなっていて、この辺の呼吸は、欧文同士では楽だなと思わせる。確かに、ある面では、言えるのかもしれないが、それが、庶民、petits、smallの生活の知恵だとも思える。逆に、偉大な者、le grands, Greatが車軸の上に行くのは、そうするほかないから、そうなるような気もする。偉大や卑小というよりも。






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Pascal 『Pensées』を読む(18)


■旧暦7月18日、水曜日、

(写真)松の月

腰も良くなってきたので、朝、運動することに。まだ、本調子でないので、負荷を軽くして一時間筋トレ。これだけでも、かなり気分がいい。午前中、ブルバキを読み、午後から、仕事に入る。しかし、ブルバキを読むと、てきめんに眠くなる。いい昼寝導入剤なのである。



Contadiction, mépris de notre être, mourir pour rien, haine de notre être.

矛盾。われわれの存在を軽んじること。つまらないことで死ぬこと。われわれの存在を憎むこと。

■ここでは、être(存在)という言葉に注目したい。「ある」こと総体をêtreで表現している。この点、「我思うゆえに我あり」のデカルトの考え方が心身二元論へ分化していくのと対照的で、存在の全体性を保持している。興味深いのは、パスカルがジャンセニスムの熱心なクリスチャンだったにも関わらず、人間存在の価値を大きく認めていることで、絶対神と比較して、人間が無力で卑小な存在にはなっていない。ただし、人間以外の存在には触れられていない。



Sound and Vision



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