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一日一句(214)






野ざらしの山川草木秋の風





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芭蕉の俳句(13)


■旧暦8月2日、火曜日、

(写真)夏の余韻

夏のすさまじきもの。中華料理店に入って、ビールを頼んだとき、出てきたのがスーパードライだったり、居酒屋で生を頼んだら、出てきたのがサントリーだったりする刹那。宅飲みでは、最近は、シルクヱビスかキリンのスタウトがいいように思う。

今年の夏期講習も面白かったが、再発見したものが二つある。一つは、「枕草子」。これ、意外と知らない段が多い。全部で300段以上あるのだ。「徒然草」の243段より多い。もう一つは、魯迅。この人を読むと、人間の勇気というものはどんなものなのか、しみじみわかる。たとえば、「些細な事件」(1920年)を読まれたい。

「枕草子」から、風の段(189)を紹介したい。

風は嵐。三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる雨風。

 八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨のあし横さまに、さわがしう吹きたるに、夏とほしたる綿絹のかかりたるを生絹の單衣重ねて著たるもいとをかし。この生絹だにいと所せく、暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどに、かくなりぬるかと思ふもをかし。暁に格子、妻戸など押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、こそいみじくをかしけれ。

 九月晦日、十月のころ、空うち曇りて風のいとさわがしく吹きて、黄なる葉ども、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。櫻の葉、椋の葉などこそ、いととくは落つれ。十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。

■九月は風の月というイメージができたのは、宮澤賢治あたりから、と思っていたが、すでに「枕草子」でそのイメージは決定されていた。注意深く読むと、「枕草子」は宮廷周辺の事柄だけでなく、庶民も登場する。風流の原型が、ここにはあるので、興味を持った。

※9月3日(土)になくそう原発9.3柏デモがある。13:30柏中央公民館、14:30デモ出発。



塚も動け我泣声は秋の風   「おくの細道」(元禄二年)

■これは追悼句だが、その直情にいつもたじろぐ。芭蕉は、もともと、こういう激しい人だったのではないかと思う。芭蕉-一茶-放哉-山頭火という系譜が、蕪村-子規-虚子の系譜とは別に、現代にも流れ込んでいるように思う。芭蕉の直情は、次第に、間接的になっていき、その分、深みが増してくるように思える。

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芭蕉の俳句(12)


■旧暦8月1日、月曜日、、新月

(写真)北千住ルミネの「紅虎餃子房」の葱チャーハン、シンプルでかなり美味だった。しかし、肝心の餃子は62点くらい。

旧暦では、今日が8月1日になる。なるほど、8月になれば、ほんとうに、秋の気配は、自然にしてくる。新暦だと、季節の奥に耳目をこらさないといけないけれど。

家族が旅行に出たので、朝から、鉢の植物に水を遣る。朝顔を、今年から、プランターで、育てているのだが、一日、3回も水やりが必要なのには驚いた。あの紺は、蕪村が「朝顔や一輪深き淵の色」と詠んだみたいに、淵の色なのかもしれない。



野ざらしを心に風のしむ身かな  「野ざらし紀行」(貞享元年)

■やはり、この句は、眼に留まる。「野ざらしを心に」という措辞は、よほどの覚悟がないと出てこない。文藝の原点のように思われて惹かれる。



Sound and Vision

ドイツのTV局ZDF「フロンタール21」シリーズが 8/26 放送した番組『Die Folgen von Fukushima』(その後の福島)
日本語字幕付き。政府・官僚、東電、福島県知事、福島大学などが、完全に倫理崩壊しているのがよくわかる。

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一日一句(213)




秋の風デモのマイクのこゑ流れ



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一日一句(212)






秋風の唐子遊びとなりにけり





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一日一句(211)






朝顔の垣や主の顔知らず





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(6)


■旧暦7月27日、金曜日、

(写真)Nana's green teaの抹茶、美味。

久しぶりに、このインタビュー読んで元気がでた。矢崎泰久氏、78歳。元『話の特集』編集長。

この頃、単純さということを考える。俳句が、詩に勝っているのは、それが単純な姿をしているからだと思う。しかも、5・7・5で人の心に入りやすい。それだけ大衆に近いところにいる。これは、詩にも言えるのではなかろうか。単純な詩ほど、大衆に近く、したがって、本来的な意味で、「前衛」に近い位置にいるのではあるまいか。単純さは、詩の底が浅く低い、ということではない。芭蕉、蕪村、一茶を見れば、それは明らかである。第一詩集『耳の眠り』以降、初めに、英語かドイツ語で、詩を書いてみるようになった。外国語は、語彙や言い回しに制約があるので、必然的に単純な詩になる。そういう大きな制約の中で、何かを表現しようとすると、奇妙な緊張感が生まれる。さらに、それを原詩に触発された日本語に自由に書き下すと、どうなるのか、興味を持っている。こうした一連のプロセスが、「詩は俳句から何が学べるのか」という問題意識と深く交差してくるように思われるのである。



32. Ich könnte als Resultat des Beweises auch sagen: Eine H und ein D heißen von nun an gleigzalig.
Oder: Der Beweis erforscht nicht das Wesen der beiden Figuren, aber er spricht aus, was ich von nun an Wesen der Figuren rechnen werde. - Was zum Wesen gehört, lege ich unter den Paradigmen der Sprache nieder.
Der Mathematiker erzeugt Wesen.
  Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 50 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

わたしは、その証明の結果、「HとDは今後<同数>である」と言うこともできよう。あるいは、その証明は、HとDの二つの図形の本質を見出すのではなく、今後、わたしが、二つの図形の本質だと考えることになるものを表現するのである。本質に属するものを、わたしは、言語の枠組みの中へ閉じ込める。
数学者は、本質を生み出すのである。


■これも衝撃的な断章。普通、われわれは、三角形の内角の和は180度だと思っている。それは、普遍的な真理で、アプリオリに存在するものをあとから、発見し、証明されたものと考えている。ヴィトゲンシュタインは、三角形のそうした本質は、言語によって数学者が生み出したものだと言う。つまり、物事の本質は、どんな場合でも、あらかじめ、存在するのではなく、見出されるのでもなく、作られるものだという主張につながる。図形の本質は、数学者が生みだし、神の本質は神学者が、貨幣の本質は経済学者が、人間の本質は哲学者が...。これは、真理は社会的に生み出されるものという主張と同じである。フーコーとの類縁性を感じる。これはまた、ある本質はどういう言語ゲームで語られてきたか、そのゲームはどう変化してきたか、という問題意識を生むだろう。だが、一方で、真理や本質には、だれでも受け入れざるを得ない「論理」が付随している。ヴィトゲンシュタインは、論理・推論・証明の関係を、探求していくことになる。なぜ、われわれは、論理的な証明を受け入れざるを得ないのか。







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一日一句(210)






秋の風無人の星を吹き渡り





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一日一句(209)






今日も2時48分秋の風





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一日一句(208)






しゃがみ込む煙草の背中秋の風





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