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映画『あん』(河瀬直美監督 2015年)



きのう、金子兜太さんの講演会@川越の会場で配布されたチラシで、映画「あん」が大宮で上映されるのを知って、急遽観に行ってきた。

この映画は、音楽の使い方がとても特徴的だと思った。普通は感情を盛り上げるシーンで使う音楽がまったくない。その代り、背景の鳥の聲や風の音がそのまま流れる。たとえば、小豆を茹で上げて行く重要なシーンは、安易な盛り上げと感情移入がない分、ドキュメンタリーのような味わいが出ている。正確には、ドキュメンタリーのような冷静さとは微妙に異なるが、リアリティーが出ると言ったらいいだろうか。

そして、台詞の発声が、まるで演技指導がないかのように日常的で自然な感じがした。たとえば、徳江(樹木希林)とワカナ(内田伽羅)の演技。ふたりは、実年齢そのものの自然な台詞回しをしている。これはあきらかに、意図したものだろう。そういう演出なのだと思う。ここでも安易な感情移入を拒絶している。

この映画は色が印象的である。黄色がとくに印象的に使われている。西武電車の車体の黄色とシルバーが、映画を改行するように、何度か出てくる。また、ワカナのインコが重要な役割をするが、インコも黄色。徳江に「きれいな黄色」と言わせている。黄色が西武線沿線のやわらかな自然の四季に溶け込み、自然は言語である、という思想が繰り返し語られる。小豆も風も木々も月も言葉を持っていて徳江がそれを聞き分けている。このとき、わたしは、一茶を思った。孤独な人は、自然の聲に耳を澄ませる。この映画では、黄色は救済の色に思えた。

物語としては、やや物足りない。ハンセン病差別の社会的な切り込みが足りない印象を受けた。映画の最後に、徳江は肺炎で死去するが、次のようなメッセージをテープに残している。「私たちは、この世を見るために、聞くために、生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」これは、ハンセン病患者の心の叫びなのだろう。職業的に、社会的に、何者かになれなくても、生きている意味はある。優しい思想だと思う。ここには原作のドリアン助川の詩人資質がよく出ている。また、河瀬監督の優しい演出もメッセージもあるだろう。だが、美しすぎる。

人間は幸福になるために生まれてきたのではないだろうか。人間は隔離されていても社会活動を行い、社会関係を形成している。そうした主体的・実践的な存在であり、隔離された施設の内側と外側もそうした社会関係でつながっている。所与の社会関係は、差別的で搾取的、偏見に満ちた盲目的な面もある。だが、そうした社会関係は、正しい知識と正しい社会実践で変えてゆくことができる。なぜなら、それを作り出したのは、人間だからである。映画にはその点へのまなざしが、もっと欲しかったと思う。



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映画『三里塚に生きる』





【三里塚に生きる】監督・撮影 大津幸四郎、監督・編集 代島治彦

久しぶりに渋谷に行った。大津幸四郎/代島治彦監督の『三里塚に生きる』を観るのが目的。なのだが、目的地に行くのに、駅から降りて30分もかかってしまった。ユーロスペースは、2、3度来ているはずなのだが、なにしろ、渋谷は久しぶりだった。南口に降りたのが、そもそも、間違いだった。まあ、それはいいとして、この映画は実に重厚だった。

三里塚と言えば、学生の頃、中核派だった先輩が、ときおり、三里塚に行っていたことや革マルとの内ゲバの様子を語ってくれことを思いだした。そのせいばかりじゃないと思うが、つまり、マスコミの報道の仕方もあると思うが、三里塚闘争は、一部新左翼の過激派が前面に出ていて、本来の主体である農民が、ぼくには、よく観えなかった。

この映画は、三里塚闘争の当時の若かった農民たちに、現在、インタビューしている。機動隊とのぶつかりあい(最終的には、殺し合いに近くなる)やなぜ、あれだけ抵抗したのか、などについて語っている。開墾した土地への愛着も、打算も生活も金目も率直に語っている。今は老いた人々が生気に溢れた瞳で語るのを聴いていると、たましいの深い処が揺さぶられる気がした。

ぼくがとくに、印象に残ったのは、二人である。いまも、葱やキャベツを栽培しながら、反対闘争を続ける柳川秀夫さんと、支援者として三里塚にやってきて、そのまま住みついてしまった小泉英政さんである。なぜ、柳川さんは、いまも、反対闘争をしているんですか。との問いかけに、三ノ宮文男の遺書の存在をあげている。三ノ宮さんと云うのは、柳川さんと同じ、青年行動隊のリーダーだった若い農民で、非常に優秀なひとだったらしい。三ノ宮さんは、1971年10月1日に自殺してしまう。亨年22。その9月には、第二次強制代執行があり、このとき、機動隊員3名が死亡している。この頃は、ほぼ、両者、殺し合いの状態だったらしい。この遺書の抜粋が、映画の中で、朗読されるが、家族一人一人と仲間に宛てた、大変、心動かされるもので、その趣旨は、「ここにずっと生き続けろ」「ここに生きる、生きられる環境を作れ」である。柳川さんは、これを正面から、真面目に受け止めている。

柳川秀夫さんに話を戻すと、闘争の渦中で、仲間だった22歳の若者が、神社で首をつってしまい、お母さんによれば、機動隊員3名の死亡の責任を取った、ということになるのかもしれないが、その杉の木に揺れる遺体をロープを切って地上で受け止めて、遺書を読み。その後、その後、じわりじわりと、遺書が効いている。その過程は、明るい顔で話をされていたが、あとで考えると、非常に恐ろしい。

この恐ろしさは、柳川さんの一途さとも関係し、また、三ノ宮さんへの感情移入とも関わっていると思う。柳川さんは、自由を尊重する人だが、ぼくには、宗教的に感じられた。遺書が聖典である。教団のない一人宗教。「ひとが死ぬと云うことは両者にとって、のっぴきならない局面に、人を追い込むということですよ」やはり、青年行動隊員だった大工の石毛博道さんが、語っていたが、敵討という性格が、以降の闘争には加わることになる。

書いていると疲れて/憑かれてくると言ったが、映画自体は、疲れない。ここが、この二人の監督の手腕なのだろう。見事なものである。

一つ、はっきりわかったのは、三里塚闘争は過去形では語れない、ということである。つまり、現在まだ続いているのである。メディアや権力は、空港が開港したので、すでに、勝負あった、と見なしている。いや、過去のものとしたがっている。だが、それは、ごく短いスパンのものの見方にすぎない。この三里塚闘争というのは、近代という大枠で考えないと、その本質が見えてこないと思う。近代は終りかけている。その一つの兆候だったのではないか。それと同じ文脈になるが、反原発の運動は、有効ではない、もっと「スマート」に国会でやればいいというようなことを述べる人もいる。だが、スマートではない「叫び」だからこそ、終わりかけている近代には有効なのである。なぜなら、それは、近代が恐れて封印してきたものだからだ。

殺し合いが正しい、暴力革命がいいと言っているのではない。感情の両義性を言いたいのである。つまり、三里塚闘争というのは、ある時期から、三ノ宮文男の自死から、宗教性を帯びてきた。この宗教性というのは、人間の人間への感情(人間が神になっていくプロセスでもある)と切り離せない。

もう一人、印象に残った人に、闘争支援者として、外部からやってきて、三里塚に住みついてしまった小泉英政さんがいる。このひとは、東京で、ベトナム反戦運動や非暴力の座り込みなどをしていたらしく、68年頃に、人に誘われてやってくる。この人のすみついた動機が象徴的である。大木よねさんという反対闘争していたおばあちゃんの気持ちに惚れたのである。養子になってしまう。よねさんは、7歳のときから、子守に出されて、読み書きはできない。一人で、どうにか、自然に囲まれて、農作業をしながら、生活ができていたところへ、土地屋敷込みで、100万で収用される話が持ち上がる。当然、生活ができなくなる。

その文字の読み書きのできない大木よねさんの「戦闘宣言」というのがある。収用される家の前に、板で横長に打ち付けた宣言文である。字が書けないので、代筆したものという。その下に横断幕が貼られ<全日本農民の名において収用を拒む>と大きな字で書かれている。その大木よねさんの戦闘宣言、なんて書いてあると思いますか。女優の吉行和子が朗読したけれど、泣きそうになって困った。

「みなさま、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命がんばります。公団や政府のイヌが来たら、おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋ととみさん(夫)が残して行った刀で闘います。ここでがんばらにゃ、飛行機が飛んじゃってしまうだから。おら、七つの時に子守にだされて、なにやるったって、無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかに暮らしたってのはなかったね。だから、闘争がいちばん楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら、反対同盟さ、身あずけてあるだから、六年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰がなんといっても、こぎつけるまでがんばります。みなさんも、一緒に最後まで、戦い抜きましょう」

どうだろうか。現代日本の詩人で、これに匹敵できる詩を書ける詩人がいるだろうか。

そのよねさん、胆管がんをわずらってしまう。

どうも、今日は、この映画を観たので、仕事はできなくなってしまった。明日、朝からやることにして、感じたことや考えたことを述べておきたい。

さて、よねさんは、空港敷地内の東関東高速道路から、空港に入って、料金所のような処に、高速道路を分断するように、畑をもっていた。その畑は、夫の実さんと二人で開墾して畑にしたものだった。戦後、国からの払い下げがあったときに、面積の関係で、払い下げの対象にならないので、村の有力者の名義にしてもらって、実質的に、よねさん夫婦が所有し畑にしていた。ところが、その名義人が、よねさんの畑を空港公団に売ってしまう。よねさんが亡くなったので、もう、その畑は必要がない、養子がいたのは知らなかった、ということらしい。この件は、のちに、裁判になる。最終的に、国と空港公団が謝罪して、和解が成立するのだが、その「和解」は、一般的には、大金の金目をもらって、別の場所へ移転することを意味する。ところが、養子の小泉さんが採った方法は、空港敷地内に土地を戻せ、ということだった。高速道路ができてしまったから、まったく、元の場所には戻れないが、空港の敷地内に、よねさんの畑を再現するのである。

この人が、よねさんの気持ちに惚れて養子になって、その気持ちを死後も引き継いで、実現していくわけである。

さっきの柳川秀夫さんと自殺した三ノ宮文男さんの関係と同じことが、小泉英政さんと、大木よねさんにはある。柳川さんも、小泉さんも、農夫の恰好をしているが、表情は高貴で、わたしには、ほとんど聖者に見えた。



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ハンナ・アーレント(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、2012年)




スタッフ
監督マルガレーテ・フォン・トロッタ
製作ベティーナ・ブロケンパー ヨハネス・レキシン
脚本マルガレーテ・フォン・トロッタ パメラ・カッツ

キャスト
バルバラ・スコバ ハンナ・アーレント
アクセル・ミルベルク ハインリヒ・ブリュッヒャー
ジャネット・マクティア メアリー・マッカーシー
ユリア・イェンチ ロッテ・ケーラー
ウルリッヒ・ノエテン ハンス・ヨナス

作品データ
原題 Hannah Arendt
製作年 2012年
製作国 ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作
配給 セテラ・インターナショナル
上映時間 114分

映画『ハンナ・アーレント』を観て来た。いろいろ、思うところがあった。この映画は、1960年にアルゼンチンに潜伏してたアイヒマンをモサドがイスラエルに連行するところから始まる。この映画は、アイヒマン裁判の傍聴を志願したアーレントを、中心に描き、年代的には、1961年5月にアイヒマンが絞首刑になる時期あたりまでを描いている。その間、ハイデッガーとの出会いや、学生時代の思い出などが回想される。なので、アイヒマンの行為をアーレントが、どう考えたかを中心に映画は制作されている。

アーレントのアイヒマン裁判傍聴記は、はじめ、雑誌『ニューヨーカー』に掲載された。このテキストの論点は、大きく言って二つある。一つは、アイヒマンは、特別な悪党でも怪物でもなく、平凡な市民であること。平凡な市民が、人間性を殺して、命令に従っただけで、いわば、役人が法律に従うように、ヒットラーの命令に従っただけで、ユダヤ人に対する憎悪も、軽蔑も、敵意もなかったこと。こうした普通の人が犯した巨悪をアーレントは「凡庸な悪」(the banality of evil)と呼ぶ。この議論が、全米のユダヤ系および一般市民から「アイヒマン擁護だ」という反発を招いた。

二点目は、あまり大きく取り上げられることはないが、実は、決定的な点だと思う。この映画で、ぼくも初めて知った。当時のユダヤの団体の指導者が、ナチに協力した事実を述べ、ほかの選択肢も可能だったと、述べた個所が、全米のユダヤ系およびイスラエルを激怒させたのである。アーレントは、戦中・戦後の欧州ユダヤ系学者のアメリカでの受け皿だった大学、the new school for social researchから、ニューヨーカーでの記事がもとで辞職勧告を受ける。

この映画を観て、やはり、旧日本軍のことを思った。平凡な市民が中国大陸で何をしたのか。なぜ、そうしたのか。そのプロセスは、アイヒマンそっくりだと思う。以前、ブログで「撫順戦犯管理所」について記述したので、そちらを見ていただきたい。

「撫順戦犯管理所(1)」
「撫順戦犯管理所(2)」
「撫順戦犯管理所(3)」
「撫順戦犯管理所(考察)」

アーレントは、アイヒマンを擁護したのではなく、「理解」しようとした。なぜ、アイヒマンが生産されたのか、理解できなければ、再び繰り返すと考えたからだろう。冷酷や傲慢という言葉で、アーレントを非難するユダヤ系の人々の気持ちは理解できるが、「アイヒマンは、ひどい悪人なのだから、同情の余地なく絞首刑にすればいい」という直線的な思考と感情だけでは、この闇は読み解けないような気がした。アイヒマンを非難している当のその人がアイヒマンになるかもしれない。イスラエルのパレスチナに対する行動が象徴的である。

「全体主義は、加害者も被害者も、そのモラルを破壊する」や「全体主義の最終段階に至って、動機のない根源的な悪が出現する」といったアーレントの言葉が記憶に残った。今のアメリカと日本は、ネオファシズムで同期を始めたと思う。この新しいファシズムが、どんな人間を生産しようとしているのか。いや、すでに生産している。アイヒマン生産と同じプロセスで。

ハンナ・アーレントは、非常に勇気がある。彼女の勇気は、多くの怒りと波紋を広げ、命さえ危うくなる。彼女自身も、人を傷つけたことに傷つき、その後、「悪の問題」をずっと考えてゆくことになる。「アイヒマンの悪の問題」に、われわれは、まだ、答えを見いだせていない、ということに、戦慄を覚えないわけにはいかないのである。



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浮雲(成瀬巳喜男監督、1955年)


(1955)(白黒)(東宝)(キネマ旬報ベストテン第1位)(第10回毎日映画コンクール日本映画大賞)

監督…成瀬巳喜男(キネマ旬報監督賞)
製作…藤本真澄
原作…林芙美子『浮雲』
脚本…水木洋子
撮影…玉井正夫
美術…中古智
編集…大井英史
録音…下永尚
照明…石井長四郎
音楽…斎藤一郎
監督助手… 岡本喜八
出演…高峰秀子(タイピスト後にパンパン/幸田ゆき子)(キネマ旬報主演女優賞)
………森雅之(農林省の技師/富岡兼吾)(キネマ旬報主演男優賞)
………中北千枝子(富岡の妻/邦子)
………岡田茉莉子(向井清吉の女房/おせい)
………山形勲(伊庭杉夫)
………加東大介(向井清吉)



上記のように、国内の評価は高い。フランスをはじめとした海外での評価も高い作品である。が、映画としては、二流だと思う。どうして、そう思うかは、演出の拙速さにある。この映画は、女にだらしがない男(森雅之)と男にだらしがない女たちの物語で、隠れたテーマは、「嫉妬」だと言っていいように思う。この構造自体、真新しいものではなく、日本に限った話でもない。その意味では、普遍性がある。問題は、男と女が、関係を結ぶまでの経緯が、メインの高峰秀子を除くと、きわめて、省略された形でしか、したがって、非説得的な形でしか提示されていない点にある。この部分は、高峰秀子との関係性を中心にもってくるための、映画づくりの戦略と言えなくもないが、一回、温泉場に向う夜路で、抱きしめたくらいで女は靡かない(岡田茉莉子との関係)し、一回キスしたくらいで、すぐに部屋に上がり込むような関係になることはない(よく行く居酒屋の女給との関係)。むしろ、反発を買うのが普通だと思う。こういう関係に短時間でなるとしたら、ある集団の中で、その男に非常な価値が集団によって付与されている場合である。たとえば、キムタクを考えてみればいい。インテリの女性は別にして、普通の若い女の子なら、上記のようなことをキムタクにされたら、たいてい、本気になって追いすがるのではないだろうか。農林省の元役人、富岡兼吾の場合、こうした価値づけはない。多少イケメンなのは確かだが、それだけで、ごく短期間に、こういうドンファンみたいなことは成立しない。ドンファンになるには、社会的な媒介が必要なのである。その点の描き方が、拙速すぎるように思えるのである。

しかし、二流映画には二流映画の役割がある。この場合、日本社会の社会構造を浮かび上がらせている。それは男のダブルスタンダードという構造である。社会(つまり男社会)に向ける顔と女(家族あるいはプライベートな領域)へ向ける顔の使いわけである。これを体現しているのが、太宰にそっくりな森雅之演じる富岡であり、設定が農林省の役人なのは、とても象徴的なことである。富岡のメンタリティーは、政官財学の領域に暗躍する連中のメンタリティーと実は非常に近いものをもっている。富岡は、女にだらしがない男だが、そこがポイントではない。女に向ける権力的な態度や女に対する見方、女への精神的な依存、甘えなど、つまり、プライベートな領域での社会関係(男女関係)の作り方の原理が同じだと言いたいのである。これは、原子力ムラを構成する人々を具体的に想像してみればいい。だれとは言わないが。


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乱れ雲(成瀬巳喜男監督、1967年)


スタッフ
監督 成瀬巳喜男 脚本 山田信夫 製作 藤本真澄 金子正且
撮影 逢沢譲

キャスト
加山雄三 三島史郎
司葉子 江田由美子
土屋嘉男 江田宏
森光子 四戸勝子
加東大介 林田勇三

作品データ
原題 Two in the Shadow
製作年 1967年
製作国 日本
配給 東宝



この3月に亡くなった映画評論家、梅本洋一氏なども評価する映画なので、一度観てみたいと思っていた。成瀬巳喜男監督の遺作。基本的な枠組みは、男女の愛を描いたメロドラマだと思うが、ベタな昼メロにはなっていない。原作は林芙美子。結論から言うと、感動もしなかったし、感情移入もできなかった。それは、ひとえに、物語の構造にある。交通事故で夫を殺された婦人(司葉子:しかも、妊娠3カ月で、流産もしてしまう)と加害者の男性(加山雄三)が、恋愛関係になるのだが、これはありえないと思う。男性の方は、そういう感情を持つことはあるだろう(これだけ、頻繁に何かの縁で事故後に出会い、相手の女性がこれだけ美しければ、むしろ、恋愛感情は芽生える方が自然だろう)、だが、女性は、絶対に、と言っていいくらいないと思う。仮にあるとしたら、特異なキャラクターの女性だろう。幸福な家庭を壊され、子どもまで奪われた女性が、その加害者に心を開くことはありえない、と断言していいと思う。原作なのか、脚本なのか、わからないが、この基本構造の非現実性が、演出や映像を云々する前に、違和感を生じさせ、こちらの心の動きを止めてしまうのである。

むしろ、男性の心の運動と女性の心の停止の対照性を、浮かび上がらせるような構造に終始したら、逆に感動したかもしれない。







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山の音(成瀬巳喜男監督、1954年)


■旧暦1月26日、木曜日、

(写真)春の空

最近は、主に、腰痛予防のために、白梅の下でのラジオ体操から始まって、レッグマジックというマシンを使用した足腰の筋トレ、4キロのダンベルを用いた上半身の筋トレ、腹筋・背筋、エクササイズボールを使用した全身の柔軟体操と、運動づいている。トータルの時間は、1時間弱の軽いものだが、腰痛は出なくなった。



山の音は、川端康成原作の1954年の映画。成瀬巳喜男監督の作品は、これが初めて。大変ショックを受けた。60年前の映画だが、今と文化が大きく異なる。義父母と同居という家族構成は、自分の父母の世代では、当たり前だったが、今は、そういう形態がなくなっている。この間、わずか、4、50年である。成瀬監督が演出している原節子の家族の中での感情表現―義父に向けられる微妙な―も、今では、その社会的基盤がなくなっている。こうした家族基盤が喪失したことで、夫婦の関係は大きく変質し、今、この映画を観ると、原節子は女中にしか見えない。これは、文化が変わった、ということだろう。

義父母、夫、妻という階層がはっきりあり、原節子演じる妻の菊子は、家族の中で最下層に位置する。したがって、いろいろな意味で抑圧を受ける立場にあるが、実に、命が美しい。その美しさは、自分の運命を引きうけているところから来るように思われる。この命の美しさは、一つの文化なのだろう。このような女性の美しさは、かつて多く見られたのではなかろうか。自民党が、道徳教育などと言いだす背景には、こうしたかつての人間が持っていた美しさ、社会的役割を実存的に引き受けたところから発せられる輝きへのノスタルジーがあるように思える。こうした家族関係が堅固にあった時代には、青少年犯罪のときによく言われる人間の多面性や「心の闇」といったものは、たしかに存在しにくい気はする。

だが、忘れてならないのは、この美しい文化が、抑圧された者の文化であることだ。つまり、抑圧者が存在して初めて成立する文化であることだ。夫の上原謙は、外で、戦争未亡人と浮気をして子をなし、菊子には冷たい。それを補償するように、義父の山村聡が菊子に温かみを示す。

自民党の道徳教育がいかがわしいのは、馬鹿の考える道徳だからだ。つまり、すでにその道徳を支える社会関係が消滅しているのに、その上に、昔の道徳を再現しようという、言ってみれば、砂上の楼閣を建てようとするものだからである。また、その道徳は、抑圧する者に都合の良い道徳だからである。しょせん権力を持ったじいさんと若年寄に都合のいい懐古趣味の域を出ない。道徳を復権しようという試みは、新しい共同性の創出とセットでなければ意味はないし、労働問題を根本的に見つめなければ、正しい共同性の創出はありえない。

脱線してしまったが、成瀬巳喜男監督は、女性を描く名手と言われている。たしかに、その演出は、素晴らしい。細部の演出をさりげなく重ねていく手法は、後の時代から観ると、生活のリアリティーを増すだけでなく、その時代と今の時代の文化や社会構造を対比的に浮かび上がらせる効果があるように感じた。映画を時間差をもって観る行為は、リアルタイムではわからないことを垣間見せるようである。

菊子は、引きうけた社会関係の中で、考えられる最大の抗議を行う。上原の子どもを堕胎するのである。堕胎を決意した晩に見せた菊子の涙(義父母が別の話題で話していて、ふと菊子にその話題を振る。その話題から菊子が自分の行為を思う演出が冴えわたっている)。そして、上原との別れを告げたあとの、山村聡の示した感情の温かみ(補償としての感情ではなく、人間としての感情に変わっている)。これがこの映画のもっとも美しいシーンと思う。



当ブログは、映画についての言及は少ないが、いずれも、当ブログならではのラインナップになっていると思う。ご興味のある方は御覧ください。ここから>>>


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OUT OF PLACE(2005)

(写真)relax

マイケル・ムーアを観てから、ドキュメンタリーづいてしまって、佐藤真監督の「OUT OF PLACE」(2005)を観た。これは2003年に亡くなったエドワード・サイードの姿を中東諸国と米国に追ったドキュメンタリーである。ぼくは、大学に籍を置く「知識人」というのを、あまり好まない。その学的な知識には一定の敬意を払うが、「学者」という制度に思想や発想が規定されてしまう面が大きいのではないかと思うからだ。だから、サイードの本は一冊も読んでいない。興味がなかったのである。このドキュメンタリーを観ようと思ったのは、どうして、佐藤監督がサイードを取り上げたのか、どういうアプローチでサイードに迫っているのか、逆の意味で興味があったためである。

一つ納得したのは、知識人を生む経済的な条件である。サイードは、中東随一の事務機器販売会社の社長の長男である。住宅は高級住宅街に、別荘は、レバノンの母親の出身地にあった。ユダヤ系の実業家が、教育投資に熱心で、長男に特別の期待をかけるのとよく似た状況が、パレスチナ系であるサイードの場合にも見られる。サイードは、プリンストン、ハーヴァードで教育を受けている。知識人の形成プロセスには、経済的余裕という共通の条件があるのだろう。ただ、これだけ見て、貧しいパレスチナ難民の代弁者たりえていない、と判断するのはいささか早計だろう。問題は、サイードの思想がどういうアクチャリティを持つのか、ということだと思う。

映画からだけの判断だが、サイードは他者といかに共存するかを、アイデンティティの問題として思索した。アイデンティティは、普通、特定の集団に自己同一化することで、自分とは何者かという問いに一定の答えを出すことを意味するが、サイードは、アイデンティティの概念を実存的に組み替える。自分はパレスチナでもあり、ユダヤでもあるという、言明にそれは端的に現れている。ユダヤから見れば、パレスチナ人とみられる人物が、「自分はユダヤ人である」と表明した場合、当然、被占領者からの挑戦的な言明とみなされるが、サイードの言明は、アイデンティティを固定したものとは考えていないということを意味している。

人が、アイデンティファイする先は、たいてい、国家、民族あるいは言語であろう。たとえば「日本人」は、近代国家成立とともに現れた観念であり、それ以前は、長州人や近江人のように地方地方にアイデンティファイしていたはずである。その中も詳しく見れば、多様な小集団にアイデンティティを見出していた痕跡が多くある。

「日本人」は、中国大陸や朝鮮半島で、野蛮を行った。われわれは、今も、大陸や半島の人々の前に立てば、多様なアイデンティティを捨象されて、ナショナリティとしての「日本人」として現象する。しかしながら、個人的にコミュニケーションが進めば進むほど、固い「日本人」というアイデンティティは解体されて、多様なアイデンティティの束として相互に出会うことになるのではないだろうか。

サイードが「自分はパレスチナでありユダヤである」と言ったとき、こういうことをイメージしていたのではないかと、ぼくは想像した。

映画は、占領地に生きるパレスチナの人々のなまなましい憎しみをそのまま伝える。生半可では、とても共存など言いだせる雰囲気ではない。しかし、そこで生きる人々は、パレスチナ人ではなく、地方名に人をつけた集団にアイデンティファイしている。ユダヤの人々も、シオニズムによって移住してきたので、文化的な背景はきわめて多彩である。アイデンティティの本来的な流動性と重層性を忘れて、国家や民族の単一幻想に依拠することの危険性を感じさせる。

人なぜアイデンティティを求めるのか。それは他者と出会うからだろう。その出会い方が、排他的であれば、他者を殲滅する。そのことで、自らのアイデンティティを維持しようとするわけである。アイデンティティは、そういう強力で危険な回路を、内在的に持っていると考えた方がいいのではないだろうか。だから、国家や政治家、企業も、この問題の周囲に集まり、利用しようとするのではなかろうか。力になり金になるからだ。

サイードの思想は、常に、所与のアイデンティティを解体しようとする。この運動は、他者の出会い方に影響を与える。排他性や殲滅といった野蛮とは異なる出会い方の回路を用意する。この映画の最後に、ユダヤ系の音楽家、ダニエル・バレンボイムが、盟友サイードのために追悼のシューベルトを弾く。この最後のシーンは、他者との出合い方に「音楽的な出会い方」というものが存在し得ることを示唆しているように思われた。グローバリゼーションという商品の言語による地上の統一化が進む今、サイードのアイデンティティをめぐる思索はアクチャリティを増すのではなかろうか。



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SICKO(2007) by Michael Moore

■旧暦7月25日、日曜日、

(写真)無題

7時に起きて、ブログの更新。

仕事の参考に、マイケル・ムーアの「SICKO」(2007年)を観る。非常に面白かった。これだけシリアスなテーマなのに、笑いがあるところに感心した。5,000万人が無保険で、毎年、18,000人が医療費が払えずに死亡する国。金がなくて民間保険に入れないで死亡する人が問題なのは、もちろんだが、保険に入っていても、審査が異常に厳しくて、保険金が下りない。保険会社は自社の利益だけをえげつないほど考えていて、狂ったような理由を付けて保険給付を行わないのである。曰く「実験的な医療」曰く「深刻ではない」などなど。保険審査は保険会社の医師が行うのだが、この報酬制度が凄い。保険料の申請拒否件数に応じてボーナスが出るのだ。中には、申請拒否のスペシャリストを抱えている保険会社もある。患者も知らないような既往歴や非意図的な偽申告を、刑事のように、丹念に調べ上げてきて、契約解除に持ち込むのである。その結果は患者の死亡である。

連邦政府の議員たちも、保険業界から多額の献金を受け取っていて、国民皆保険をソビエト流の国家社会主義と結びつける洗脳を繰り返す。これ、すべて、金のため。医療費が払えない患者は、点滴を受けている最中でも、傷口が治りきらずベッドに寝ていても、タクシーで貧民街に捨てられる。「お大事に」の一言だけで。金のない者は人間ではないという制度設計は、ニクソンとカイザーが始めたものだが、まさに今のアメリカの本質が現れているように感じる。ある意味で、保険会社、製薬会社、病院、政府による、合法的な命の強盗である。自分たちのことは自分たちでやる、国の介入は社会主義だという思想は、本質的には、富める者のための思想であり、端的に言って、金儲けの思想である。そのベースは、自己責任論と同じように、きわめて幼稚で単純な社会認識がある。ただ、救いがあるとすれば、マイケル・ムーアみたいなアメリカ人もいるところかもしれない。

映画では、国民皆保険で医療費ただのカナダ、英国、フランスとユーモアたっぷりに比較してゆく(フランスでは子育て中の家庭には、一日4時間の家事ヘルパーも付く!)。最後は、医療費無料のキューバのグアンタナモ基地の病院まで、患者数名と突撃していき、「アルカイダと同じ医療を!」と叫んで、拒絶されると、アメリカの宿敵キューバの病院へ向かい、全員無料で最先端治療を受けて帰国する。これは、漫画みたいだが、実に、ユーモアと批評精神の溢れる映画だった。マイケル・ムーアの巨漢ぶりと表情も、そこにいるだけでおかしみがある。

カナダ、英国、フランスの医療・福祉制度は、日本も参考にできる余地が多くあるんじゃないか。変に忙しいばかりで、命を楽しむゆとりをもてないのは、自己責任だけではあるまいよ。



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Sound and Vision

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神童

金曜日、。修司忌。

先日、祝賀会で、寺山修司の俳句が話題になった。晩年、もう一度、俳句に戻ったとばかり思っていたが、調べてみると、齋藤慎爾や三橋敏夫と一緒に出す俳誌の名前は「雷帝」と決まっていたが、その10日後に死去したらしい。寺山の俳句は、作りすぎで、今ひとつ好きになれないが、「雷帝」が動いていたら、少なからぬ影響を各界に及ぼしただろう。



今日は、朝から、渋谷で映画「神童」を観て来た。さそうあきらのコミックが原作。14歳の成海璃子が主人公うたを演じるのだが、この子自体が役者の神童みたいに上手い。とても14歳には見えない。20歳くらいに見えた。目の力の強い子だった。一方、相手役の松山ケンイチが、いい味を出していたように思う。冒頭、ボートに横になって、ぼーっと、鳥や虫の声を聞いていた松山が、いきなり現れた、うたに、思いっきり怒鳴られる。そのときの当惑した演技が、こんな青年、本当にその辺にいるよな、と思わせて、実に上手かった。とくに、松山のぼーっとした目つきにリアリティーを感じた。映画全体の感想を言うと、うたの天才的なところをもっと、見せた方が良かったように思う。著名ピアニストのリヒテンシュタインが、うたのプレイをちょっと聴いて、コンサートの代役にいきなり指名するところが、一つの山場になっているが、率直に言って、そのプレイは天才的ではなかった。まあ、13歳という設定だから仕方ないのかもしれないが、うたの天才の裏づけが映像面で弱いように感じた。その意味で言うと、ドラマ「のだめ」ののだめの才能の描き方の方が、バカバカしいものの、ある種の説得力があったように思う。

演奏された曲は、ベートーヴェンの熱情やショパンの練習曲、メンデルスゾーンの無言歌「春の歌」、モーツアルトのピアノ協奏曲20番、シューベルト即興曲などであった。実際に演奏したピアニストにもよるのだろうが、熱情が圧倒的に良かった。音大受験の課題曲として、一部しか演奏されないが、もっとも感動した。

ロケは、吉祥寺あたりの商店街や横浜あたりの住宅街かと思ったが、高崎だった。ぼくとしてはちょっと嬉しかった。ちなみに、帰りの電車でさっそく原作を読み始めた家人によると、原作と映画は大幅に違うらしい。それはそれで、原作を読む楽しみもあるというものだが。



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廃墟

金曜日、。昨日は、遅くまで、「廃墟解体新書」というDVDを観る。全国の廃墟を探検するというドキュメンタリーで、全部で7つくらいの廃墟が紹介されている。昭和7年開業で10年前に廃業したアールヌーボー調の観光ホテルや地域医療に貢献して15年前に廃業した大型病院、廃炭鉱や廃校、一村丸ごと廃村になった村、麻布のゴーストタウン、軍事要塞など。

はじめの一本だけ観て寝るつもりだったのだが、映像が美しく、興味深いので全部観てしまった。ウェブで「廃墟」をキーワードに検索すると、かなりヒットする。廃墟探検はブームでもあると言われる。ぼくもそうだが、なぜ、ひとは廃墟に惹かれるのだろうか。

昭和7年開業の廃観光ホテルは、山の中に建っている。ゆっくり、自然に還るところである。その広間は大きく、作りは堅牢で、一面のガラスから差し込む夕日が、なんとも言えない雰囲気を醸し出す。天井は、雨漏りのせいで、ところどころ、カビが繁殖している。その映像を観ていて、「滅びの美」という言葉が浮かんできた。盛んだった時代を経て滅んでいくときの事物の美しさ。一時、地上に住まう人間の残した痕跡が、母なる大地に還る一瞬の光芒。

東北の廃村を探訪したレポーターが、雪の降りしきる画面の中で、「普段なら、この寒さは不快なものですが、こうしていると、この寒さを、この村に生きた人も感じていたんだなと思い、当時の人たちに触れたような気がします」と述べていた。この言葉は印象的だった。山に依存した生活をしていた93人ほどが住んでいた村。生活道具はそのまま、人だけがいない。

商都、大阪の防衛のために小島に作られた軍事要塞。明治20年に作られたという総レンガ作りの要塞は、その目的を失ったまま、時間だけが流れた。無意味。その要塞は無意味に還ったのだろう。まるで、人間の行いはすべて無意味であるかのように。どこからか、笑い声が聞こえた気がした。



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※ 「廃墟解体新書」監修者の栗原亨さんのウェブサイト。



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