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啓蒙とは何か

日曜日、。起きてすぐ、半分寝たまま、「ビジネス英会話」を聴く。けっこう、真剣に会話を勉強しようと思っているのだ。翻訳にも役に立つし。「ビジネス英会話」はレベルが高いので、本当は、「英会話入門」程度がぼくにはいいんだけれど、いかんせん、時間が合わない。午後、家人に、英訳した記事を見せて、いろいろ話す。いろいろ参考になったが、一番、面白かったのは、そもそもぼくの書いた日本語の文章が論理的ではないので、それをそのまま訳しても、英語として分からないということを発見したことだ。つまり、英語の文章の論理性は日本語の文章よりも緻密で、トピックも、あちこちに飛ばない。このため、日本語を書く段階、あるいは、英訳しながら、論理を分かりやすい流れに詰めていく必要があるのだ。やらなければならないことが山積していて目がくらみそうだ。



そんなわけで、というか、そんなときは、ひと時、逃避するに限るのだ。500円均一のクラシックピアノ映像紀行を観て、ぼーっとする。リストとショパン。このシリーズ、廉価版なのはいいんだけれど、演奏者がそろっていない。リストとショパンは、たまたまホロヴィッツとアラウだったので、購入。



カントの「啓蒙とは何か」(中山元訳カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫)を読んだ。非常に分かりやすく、啓蒙の何たるかが、手に取るように分かる。これは名訳じゃないだろうか。学生の頃、この論文は岩波で読んだが、さっぱり分からなかった。読んだという記憶しか残らず、内容は何も覚えていない。今回、改めて読んでみて、まるで、日本の現状を言っているようで、面白かった。この論文は、1784年に出されている!

啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。(同書p.10)

まあ、大方の人にとって、耳の痛い言葉でしょうね。いわゆる「飼い慣らし」は組織であれば、どこでも行われていることですからね。また、そもそも、日本の教育システムの目標が、「未成年状態」を作り出すことにあると言っていいでしょうね。管理されやすい人間を大量に作り出すことで、地球規模の市場競争に勝ち残ろうというわけですな。南無! しかし、この「未成年」戦略って、途上国時代のものじゃないのかな。もう、社会全体が、大人の方向に行って、しかも、市場でサバイバルする道を探すべきでは?

後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚か者にする。そして、家畜たちを歩行器のうちにとじこめておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外にでようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ。(同書p.11)

これも思い当たる節、ありますね。

この未青年状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使するなど、とてもできないのだ。それに人々は、理性を使う訓練すら、うけていない。そして人々をつねにこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている。(同書p.12)

カントには、市場経済と啓蒙との関連性といった視点はないが、社会構造的な視点の萌芽はある。

人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。(同書p.19)

すばらしい人間性の規定ですね。

宗教においては未成年状態がもっとも有害であり、もっとも恥ずべきものだからである。(同書p.24)

創価学会の皆々様!

■全体を読んで、ぼくが感じたのは、カントは、啓蒙が行過ぎて、アナーキズムにならないようなバランス感覚があるという点だった。ただ、啓蒙の自己批判という観点も非常に大事だろうと思う。二度の世界大戦の悲惨と9.11以降を生きる者にとっては、ホルクハイマーとアドルノの次の言葉が、カントの啓蒙の裏側に響いてくる。

啓蒙思想は、その具体的な歴史上の諸形態や、それが組み込まれている社会の諸制度のうちばかりでなく、ほかならぬその概念のうちに、すでに今日至るところで生起しているあの退行への萌芽を含んでいるのである。もしも啓蒙がこの退行的契機への反省を受けつけないとすれば、啓蒙は自己自身の命運を封印することになろう。進歩の持つ破壊的側面への省察が進歩の敵方の手に委ねられているかぎり、思想は盲目的に実用主義化していくままに、矛盾を止揚するという本性を喪失し、ひいては真理への関わりをも失うにいたるであろう。『啓蒙の弁証法』pxii

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獄門島

土曜日、。午前中、仕事、午後、図書館で仕事。夕方、紀伊国屋で、『数学する遺伝子』(早川書房)という面白そうな本を衝動買い。ぼくは、ずっと以前から、英語やドイツ語の組み立てと数学はよく似ていると感じてきた。この本は、人間の言語能力と数学能力は、同じ脳の特性から出ているという仮説から出発して、二つの能力の関連にメスを入れているようなのだ。本屋で広告を見て、即、購入した。数学関連が少ない趣味の一つになってきた感じ。



一ヶ月前になるけれど、新聞の特集で、横溝正史の『獄門島』の特集を読んだ。そのとき、なんとも言えず、懐かしかった。中高生のときに、何冊か読んだ記憶があるからだ。推理小説は、一時期、熱中して読んで、それきりまったく読まないけれど、横溝の世界は、どこか、諸星大二郎に通じるところがあり、郷愁を覚えた。記事によれば、芭蕉の発句が事件のキーになっているというではないか。これでは、読まないわけにはいかないのである。

読んでみて、まあ、面白いといえば面白いけれど、子供だましだなと感じた。現実にありえないことを想定して、物語が成立しているからだ。たとえば、芝居で使う張子の釣鐘を警官が懐中電灯で調べたとき、それを張子だと気がつかぬわけはない。小心な漢方医や善良な町長が殺人をしてきて、何の動揺も何の行動の変化もないわけがない。そもそも、網元の側近三人(村長、漢方医、住職)が、いくら、網元の死を目前にした願い事とは言え、殺人を引き受ける設定に無理がある。かりに、非常に濃い主従関係から死後もその意向を実行するとしても、根本的な問題が残る。重要情報を確認せずに殺人という重大な行為を実行に移すはずがないという問題である。つまり、網元の孫の一人が戦死し一人が生き残った場合に、この網元の意向が実行されるはずだった。孫の一人の戦死は、金田一耕介自身が島に伝え、官報で確認された。しかし、もう一人の孫の生存情報源が実にあいまいなのである。この点を側近の三人は確認していない。つまり、現実にその孫が島に生還して姿を確認してから殺人プログラムが稼動されるはずである。

まあ、そんなわけで、中高生のときよりもスレてしまったぼくには、物足りないものが残った。ただ、作中、次の箇所が印象に残った。

「お小夜か、あれは気ちがいでしたな。あんたは知るまいが、この中国筋にはカンカンたたきという筋のものがある。四国の犬神、九州の蛇神、それとは少しおもむきがちがうが、ふつうの者と交わりができぬものとしてある。いわれを話すと古いが、なんでも陰陽師安倍晴明が、中国筋へくだってきたとき、供のものがみんな死んでしもうた。そこで晴明さん、道ばたの草に生命をあたえて人間とし、これをお供にして、御用を果たしたが、さて、京へ帰るとき、もとの草にもどそうとすると、そのものどものいうことに、せっかく人間にしていただいたのだから、このままでおいてくだされと頼んだのそうだ。そこで、晴明さんんもふびんに思って、そのまま人間にしておくことにしたが。もとをただせば草だから、たつきの業を知らぬ、晴明さん、そこで祈祷の術を教えて、これをもって代々身を立てよといいきかされたというのじゃが、その筋のものを草人、一名カンカンたたきといって、代々祈祷をわざとしている(後略)」(横溝正史『獄門島』p.302 角川文庫)

横溝正史は、漁民の生活や網元の権力など、じつによく知っていて、作中に描いている。そうした前半部分の方が作品としてはリアリティがあっていいように思う。推理小説という枠が前面に出た後半部分は、上述した理由から、ぼくとしては、評価できない。そんな中に、ふいに挿入されたのが、上記部分である。この話、実に面白い。調べてみようかなと思っている。



獄門島 (角川文庫)
クリエーター情報なし
角川書店(角川グループパブリッシング)






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a Drama

日曜日、。今日は、雨のはずなのに、晴れている。

昨日は、センター試験だった。娘が受験したのだが、最悪のシナリオになった。試験中に39度の熱を出したのである。朝は、普段どおり元気で、のどが少し痛いので、ちょっと風邪気味かなという感じだった。もちろん、熱はない。12月中にインフルエンザの予防接種も受けている。しかし、かかったのである、知らないうちに。しかも、最悪のタイミングで発症した。真っ青な顔でふらふらになって帰宅した。ぼくらも、あたふたと走り回った。今朝になると、いくぶん、熱が下がったので、センターの答え合わせをした(幸い志望校には届きそうな感じだ)。しかし、ぼくには、考えられない。39度の熱で丸一日試験を受けるなんて。よくやったと誉めるしかないのである。
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夏の文化

金曜日、。今日は、比較的ゆっくりできた。昨日は疲れてしまい、自宅作業の日なのに、なにもできなかった。一日、雑用に明け暮れた。今日は、疲れていない。夕方、独和の仕事のオファーがあったが、時間が合わずに断る。産業は、やっと動き出した感じだ。

コンビニで毎週『週刊現代』を立ち読みしている。主宰がコラム「国民的俳句100句」を連載しているのを読むためである。しかし、この雑誌、性欲から経済情報まで、サラリーマンの多様なニーズに応えるためか、見事にコンテンツが多彩である。

今週のコラムは、俳句の切れについてで、かなり面白い話だった。切れは、俳句に「間」を生む。この「間」という文化は、俳句に留まらず、茶道や華道、建築にも行き渡り、いわば、日本文化の特色の一つをなしている。ここからが面白かった。なぜ、日本文化には「間」があるのか。答えは、日本には日本の夏があるから! 要するに、暑苦しい夏があるので、文学でも建築でも「間」を取らないと、暑苦しくてやってられない、ということらしい。日本の文化は、どうも夏を基準にした「サマースタンダード」のようなのだ。これが主宰の仮説であった。確かに、俳句だけでなく、随筆あるいは散文を見ても、広がりのある、言い換えれば、「間」を十分に活かした優れた文章が多いように思う。

逆に、欧米の文章、とくにドイツ語は、論理的に詰めていき、水も漏らさないような文章が多い。広がりはあくまで、「間」ではなく、論理そのもので表現していく。たとえば、ヘーゲルの論理の明晰さと深さ。あるいは、マルクスの弁証法の鮮やかな切込み。さらには、ヴィトゲンシュタインの天才的な問題の突き詰め方。これは、「厳しい冬」を基準にした「ウィンタースタンダード」文化かもしれない。そう言えるとしたら面白い。論理的に詰めておかないと、隙間から冬の冷たい風が入ってきてしまうかのように(唯一神と己との厳格な対話というプロテスタントの側面も乾燥した冬と親和性が高いような気もする)。
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哲学塾・欲望のカテゴリー

日曜日、

昨日は、電子辞書を買いにビックカメラに行くが、適当なものがなく断念。英語辞書が充実しているものを、店員氏の勧めにしたがって、何機種か見たけれど、どれも、使えそうにない。ウェブ辞書や紙辞書の方がまだ使える。とくに、和英はひどい。用例がすくなく、説明もない。



その後、石塚省二先生の社会哲学講座に出る。この公開講座には、去年の10月から出ている。ぼくは、議論するのがとても好きなのだが、なかなか、日常では、そういう機会がない。申し訳ないけれど、石塚先生に議論をいつも吹っかけているのである。

昨日はフロイト論で、面白かった。フロイトの「夢判断」という本が、当時の欧州に与えたインパクトは、相当のものだったようである。フロイトの「夢判断」の基本的な主張は「夢とは欲望の充足である」というもので、これには、おもに、2つの反論が寄せられた。1.恐怖を与える「恐怖夢」があるのはなぜか。 2.望ましくないことの夢を見るのはなぜか。

反論1について、フロイトはこう答えている。神経症の研究から、望ましいものを望むがゆえに恐怖が夢の中に出てくるのだと。
反論2について、フロイトはこう答えている。望んだことが歪曲して表現されるのだと。そのプロセスには抑圧と検閲がある。

フロイトが、当時の社会状況の中で、画期的な意味を持ったのは、<意識/前意識/無意識>の区分を設定したことによる。これまで、無意識の領域にあった欲望や本能、感情は、理性に比べて一段低いものと見なされてきたからであった。石塚先生は、無意識というカテゴリー以外に、フロイトの重要な特徴として「科学主義」をあげている。自然科学をモデルにした発想全般を、こう言っているように思った。ちょうど、ニーチェの哲学における自然科学の位置に似ている。

以上の話を聴いて、ぼくは、こんなことを思った。一つは、フロイトの議論は意識の領域にあるのだが、そこでの同一性命題(夢とは欲望充足である)を徹底させたことで、無意識領域を発見したというパラドックスがあること。二つ目は、「論のことば」に対して「非論のことば」ありえること。つまり、フロイトの語ることは、ヘーゲルに典型的な理性の言葉である。それが無意識を語っていても、定位している場所は理性である。これに対して、詩歌や祝詞、呪術のような無意識そのものに定位した「歌の言葉」がある。これを石塚先生は、モダニズムに源流を持つLSDやヒッピー文化などの対抗文化に見ている。

これに関連して、ぼくが思うのは、ロゴス中心の西欧文明を「世界の散文化」と捉え、それに対抗する原理として「世界の韻文化」ということが言えないか、ということだった。「世界の散文化」というのは、おそらく、ヴェーバーの合理化論と交響する。散文化とは、論理と意味を重視し、あらゆる対象を意識化し言語化し理性的に再編していくプロセスのことだからである。他方、「世界の韻文化」とは、もともと、散文化よりも古くからあるプロセスである。論理や意味の世界を超えた次元に世界を開くことを言う。この典型が俳句の「取り合わせ」である。両方とも言語ゲームであることに違いはないが、世界の散文化が世界の無意味化を招き、外に向かっては自然支配、内に向かっては管理社会を将来しているのは明らかであろう。無意味でも意味でもない世界。自然や他者と和解した世界。こうした「世界の韻文化」はポストモダン状況では重要な意味を持つのではないだろうか。

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出勤とオフコース

■金曜日、。比較的暖かい。暖冬。

10年ぶりに毎朝、出勤ということをやってみて、気がついたことがある。一つは、通勤電車で男の子のサラリーマンの髪の毛がたいてい立っていること。これが、若者とそれ以外を分ける目印らしい。二つ目は、自転車通勤の人が増えたこと。車の多い六本木通りを、颯爽と、スポーツサイクルで通勤している人を毎朝見かける。一番びっくりしたのは、自分が年を取ったことである。向こうから歩いてくる男性と目が合うと、目礼されるようになった。



時間が経ったと言えば、オフコースの「i」というベスト盤を家人と聴いているのだが、昔、軟弱の代名詞のように思っていたオフコースの歌が、すんなり、入ってくるのに驚いた。初めてオフコースを聴いたのは、高校生のときで、カーラジオから流れてきた「愛を止めないで」を聴いて、小田さんの声の美しさと楽曲の素晴らしさに心底感動した。ちょっと、曲の性格は違うけれど、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」が、初めて深夜ラジオから流れてきたときの感動にそれはよく似ていた。それから、なんとなくオフコースを聴いていたのだが、そのうち、自分の中で、オフコース=軟弱という同一性のレッテル? を貼ってしまって、卒業したつもりなっていたのだった。人生の挫折や哀歓をくぐりぬけて、少しは、心が柔らかくなったのだろうか。今は、すんなり、「それもあるな」と思える。
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リア王

火曜日、

今日は、午後から、仕事の打ち合わせで六本木に出かけた。新年から、日本文化を英語で発信する英文雑誌の編集・執筆を行うことになった。日英翻訳は、ぼくにとって、未知の領域であるが、ずっとやってみたかった仕事の一つであり、分野も、まさに、俳句や詩の関心が活かせるものである。週の前半は、六本木で仕事をして、後半は自宅で、出版の翻訳作業をする体制になる。数えてみたら、外に働きに出るのは、なんと11年ぶりである。緊張と喜びの入り混じった年明けとなった。



光文社が古典新訳文庫シリーズを昨年から出している。仕事上、大変興味をもっている。哲学・社会科学を中心に4冊ほど、購入したのだが、現在、安西徹雄訳の『リア王』を集中的に読んでいる。

評価する向きもあるけれど、正直にぼくの感想を言うと、この翻訳はあまり良くない。良い良くないを判断する基準は、過去のリア王の翻訳との比較ではなく、書き下された日本語戯曲との比較であるべきだとぼくは思っている。

いくつか具体的に指摘してみると、

リア王「…わが婿たるコーンウォール、それに、同様に、父たるわたしを気遣ってくれるオルバーニー…」

日本語の脚本家が「それに、同様に」という書き言葉を使うだろうか。この言葉を使うとせりふが間延びしないだろうか。

コーディリア「この若さだからこそ、真実を申せるのかも

ここだけ、今風の語尾を使うと、奇妙に浮いてしまわないだろうか。

リア「統治、歳入、その他、大権の行使はすべて、今やおぬしら二人のものだ」

官僚の言い回しではないだろうか。

リア「…それを、貴様、あえて傲岸不遜にも、わが宣告と大権のあいだに割って入ろうとしおった…」

四字熟語を使うと、書き言葉にならないだろうか。

読んでいると、こういう細かい箇所が一つ一つ気になってくるのであるが、ぼくが一番、がっかりしたのは、道化の造形である。この訳文の造形では、価値の逆転者としての道化の高貴さがまるで出てこない。言葉遣いが汚くとも、真理に触れる精神の高貴さは出ると思うが、この訳文では、まるで低いだけの人間造形になってしまっている。

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崔龍源の詩

月曜日、。いい天気だった。昼まで眠。午後、散歩。ネットカフェで、久しぶりに「アネックスΩ」を読む。どういうわけか、有線ブロードバンドに切り替えたら、ここが読めなくなってしまった。書き込みの中に、フセインの絞首刑の映像がリンクしてあり、表情は明確ではなかったが、衝撃的だった。

ネットサーフィンしていて、気がついたら、1時間半経っていた。ここに来たのは、本を読むためだったのだが、まったく読めなかった。雑誌『ロッキングオン』の2006年ベスト20アルバムだけチェックした。第一位は、レッドホットチリペッパーズの「スタディアム・アルケイディアム」。ディランの「モダンタイムズ」とパールジャムの「パールジャム」もエントリされていた。



昨日、年末に送られてきた『COAL SACK56』を読んでいて、崔さんの詩に驚いた。ある意味で衝撃を受けた。

「生きるための遁走曲」から、「3 見ること―あるいはい実在」を全行引用してみる。

秋が近いのに
春が生まれようとするのを見た
草の穂先の一粒の露の中で
神が生まれようとするのを見た

孤独 それは未生のものが
こころに宿るのを見ることだ
深い沈黙ののち
時間がだれのものでもなくなるのを

むらさきつゆくさの花の中で
死者の眼が
誰かを見ている
ほんとうに実在するものはいないのに

■ここに感じるのは、深く同一性を拒否する精神である。A=Bという括りから限りなくはみ出していくXn。この詩の裏側にあるのは、AをXnで絶えず再定義していくよう求める心である。実は、非同一性という問題は、俳句に対する根源的な批判でもある。季語こそ、同一性に依拠する俳句文法だからだ。崔さんの詩をもう一つ紹介したい。

2 ひとみのなかに―あるいは移動

あじさいの花のひとみのなかに
僕の愛した友やハルモニや父が
雨に打たれて 泣き濡れている
泣き濡れている 身を寄せ合う
群鳥のように もうやせ細った
方を寄せ合って ひとしきり

ひとしきり あじさいの葉蔭に
蝶はつばさをひっそりと閉じて
来世を夢みるように 休らっている
休らっている その羞しげな
触角でさぐり打っている 死者たちの
鼓動を 永遠が存在するとでもいうように

永遠が存在するとでも言うように
色変えるあじさいのうすくれないは
なぜ死者たちの この世に残した
無念の血の色ではないと言うのか
ひとしきり 雨に打たれて 僕は
こころが雨のように透きとおるのを待っている

待っている あじさいの花のいくせんの
ひとみのなかで 僕は家族や友や
ハルモニや父のほほえみを
死はしるすことを忘れているのだ
どんな死もたましいにしるされた
思い出に如かないことを 忘れているのだ

忘れているのだ 存在が移動するのを
あじさいのうすくれないの花が
濃いむらさきに色変えるように
たましいが時間と空間を占めるのを
うつくしいものたちが未だ存在するということを
たとえばあじさいの花のひとみの中に

■この詩も、非同一性を志向する作品と言える。ただ、こうも感じる。「同一性の時空間が一瞬存在しえる」と。「忘れているのだ/存在が移動するのを/あじさいのうすくれないの花が/濃いむらさきに色変えるように/たましいが時間と空間を占めるのを/うつくしいものたちが未だ存在するということを/たとえばあじさいの花のひとみの中に」この瞬間的な同一性には、人と人、人と自然が和解した来るべき社会からの光が宿されている。そんなことも感じるのである。

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万歳

日曜日、

ここ最近、一番、感銘を受けたのは、年末に朝日に連載されたコラム、「数学するヒトビト」だった。日本の数学者列伝なのだが、数学に取り憑かれたヒトビトの狂い方が実にすがすがしく、市場や名利に振り回されている社会の中で、一服の清涼剤にも思えた。俳人の風狂ぶりとも通い合うものがあるんじゃないだろうか。数学者という人種にとても関心を持った。それで、新年の買初は、なんと『微分・積分を楽しむ本』になってしまった。影響されやすいな、オレ。



若い人のコミュニケーションには、いろいろあるが、今、二人の間で友人関係が成立するとしたら、たいていは、ボケとツッコミになるんじゃないだろうか。この原型は、もちろん、漫才にあるわけだが、俳句で「万歳」と言うと、正月に家々を訪れて祝言を述べる二人一組の門付芸を指す。ぼくは、見たことはないが、調べてみると、現在も愛知県や石川県などに残っているらしい。

千秋(せんず)万歳と言う名前で呼ばれた祝福の芸能人は、平安朝まで遡ることができるらしい。古くは、法師の行うわざであったが、後には唱門師という一種のの為事になったようである。各地に万歳の村があり、京阪神・江戸に持ち場を持ち、そこを廻っていたらしい。出身地によって、大和万歳、三河万歳、会津万歳、知多万歳、加賀万歳、伊予万歳などと名乗り、江戸城や御所にも赴いている。季語にも、三河万歳と大和万歳は残っている。

芸能史的にも、大変興味深い集団だと思う。


山里は万歳おそし梅の花    芭蕉




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真っ二つ

水曜日、。今日は、午後まで寝ていた。3日は、家人を家事から解放して正月モードに切り替えるために、家事全般をぼくが担当することになっている。その約束も、寝坊したので、早速、朝から果たせなくなってしまった。



去年は、結社の俳論賞に人知れず応募したのだった。「俳句の時間 芭蕉と子規・虚子」というタイトルで、三人の俳句に現れた時間を考察したものだった。締め切りの2ヶ月前にはできてしまい、早めに提出した。

今読み返すと、日本の詩の始まりを、明治の西欧詩の翻訳から始まったと一面的に断定していたり、俳句文法の外や内なる外に対する感受性が欠落していたりと、いくつか問題点が見えてくるが、当時のぼくとしては、これが認められなければ、この結社をやめるべきだな、といささか思いつめていた。

というのも、なぜ、俳句を詠むのか。俳句を詠む意味や俳句を生きる意味について、これまで6年の俳句経験の総括を、この俳論で行ったからだった。

ふたを開けてみると、俳論賞に応募したのは、なんと、ぼく一人で、比較ではなく、内容の議論が行われた結果、選考委員の意見が真っ二つに割れて、受賞を逸したのだった。佳作。これが、今回のぼくの俳論の評価だった。

意見が割れたのは、俳論にしては、めずらしく、図や表を用いたものだったためで、反対意見には、「もっと平易に言えることを難しく述べている」といった意見や「広がりに欠ける」といった意見が出た。賛成意見は、「あえて、科学的に俳句に立ち向かった姿勢がよい」ということだった。

この結果には、ぼくは、一方で、落胆するとともに、他方では、興味深いことになったという感じがある。というのも、往々にして、本質的な問題を孕んだ作品には、意見が割れるからだ。ぼくの俳論が、そのケースに当てはまるかどうかは、ぼくではなく、読者が判断することであるから、読者にゆだねたいと思う。結社誌の来月号には、全文が掲載される。

今われわれが生きている時代と俳句との関係といったアクチャルな問題意識を俳人は欠いていることが多く、その意味で、多くの俳人が読む結社誌に掲載されるということは、ぼくとしては、うれしいし、目的のひとつを達成できたとも考えている。

ここでも、俳論をPDFファイルにして、ブログにリンクしたいと考えている。
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