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RICHARD WRIGHTの俳句(14)

■5月16日、土曜日、

昨日は、一日がかりで、パソコン机や周辺の機器のレイアウトを変えた。今までのレイアウトでは、もろに体に毒だった。15年使った会議用テーブルを処分して、新調したのだった。これで、かなり画面とキーボードの位置が適正になった。

今日は、9時間弱眠れた。調子はいい。ベースは整いつつある。午前中、江戸川を散歩、図書館で本を読む。徐々に、長い文章も読めるようになってきた。ただ、黙読すると、耳鳴りに支配されやすいので、すべての文章を音読し、書くときもすべて音読している。脳内ループとの戦いは、ひとえに忍耐と努力なんだといい聞かせている。



(Original Haiku)
I grant to sparrows
The telegraph wires that brought
Me such good tidings!


(Japanese version)
雀らよ
その電線なら止まってもいいぞ
とってもいい知らせを運んでくれた電線なんだから
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飴山實を読む(15)

■旧暦、5月14日、木曜日、

夕方、一ヶ月ぶりに新聞が読めた。フジモリ元大統領が参院選に立候補とは驚いた! どの国でも選挙は話題性志向のショーになっているが、これはサプライズだった。国民新党の起死回生のマーケティングか。

今日は、午後から、国府台病院に行ってきた。自律訓練法を習得するためである。いくら、骨格を調整しても、睡眠が不足すると、耳鳴りは激烈になる。聴神経を切断しても、耳鳴りは止まなかったという報告もある。耳鳴りは耳の問題であると同時に脳の問題でもある。これが、この病気をやっかいにしている原因ではないだろうか。今の状態では、なかなか、一日5時間睡眠を越えられない。サラリーマンの平均睡眠時間だが、ぼくにとっては、昼寝を入れても、きつい睡眠時間である。これをなんとか、平均7時間まで持っていきたい。そのために、リラクゼーションの代表的な方法である自律訓練法を試してみることにした。今日は、診療部長と話をして、来週から本格的な訓練に入る。習得には、2、3ヶ月かかるらしい。サーモグラフィックを利用して、実際に自己催眠が効いて、手のひらの温度が上がったかどうか確認しながら進めるようだ。病院渡り鳥。そんな言葉がふと浮かぶが、「耳鳴り」という病気の性質と現代医療の性格を期せずして同時に表しているように思う。



一体はぼうたんのかげ苔地蔵   『次の花』

■はじめ、ぼくは、何体もある苔地蔵の一体にぼうたんの影が落ちているという景を想像した。だが、よく考えてみると、それなら、「一体にぼうたんのかげ苔地蔵」とするはずだし、そもそも、苔地蔵は、地域の信仰を集めるもので、たいていが一体である。この句は、苔地蔵一体が牡丹の陰になっているという景だろうと思うに至った。小ぶりの苔地蔵なのかもしれない。この句の眼目は、牡丹の陰の苔地蔵というだけではなく、色彩の取り合わせの妙にあるのだろう。牡丹の真紅の後ろからのぞく苔地蔵の緑の対比の鮮やかさ。
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RICHARD WRIGHTの俳句(13)

■旧暦、5月13日、水曜日、

0時就寝、5時起床、一時間昼寝。昼寝ができるようになったのは前進。午後、カイロプラクティック。今回は、首のサンサ筋を緩める電気的な措置を行ってから施術を行う。理論的には、これで、カイロの効果が伸びるはずである。この点を見るために、次回は来週とした。これがクリアできたら、徹底した体調管理とカイロによる骨格調整でベースを構築し、脳内ループとの戦いに持ち込みたい。



(Original Haiku)
I would like a bell
Tolling in this soft twilight
Over willow trees.


(Japanese version)
柳の木々がくっきり
こんな気持ちのいい夕暮には
鐘が鳴るといいな


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飴山實を読む(14)

■旧暦5月12日、火曜日、

目覚めると、いきなりまたせみ時雨。一日しか効かなかった。睡眠の質の劣化が影響したか。一時半に目覚めて、その後、熟睡できず。一進一退。終日、蝉鳴き止まず。TCI装着。午前中から、慈恵医大。もう少し長く眠れる睡眠薬を処方してもらう。リスミーに代えて、レンドルミン。

コンビニ本で『三丁目の夕日』を読んで、懐かしくなって、帰りに『夕焼の詩』の第一巻を探すが、出てない。最新刊の53巻か、テーマ別に編集されたものしかない。残念。53巻と諸星大二郎の『スノウホワイト』を購う。

そういえば、昨日、コミック墨攻の原作になった、酒見賢一の『墨攻』を読む。薄くて読みやすかった。原作では、革離は死んで、梁城は陥落する。このストーリーの方が面白いように思う。ただ、描き方が、平板で、文学作品としては、深みに欠ける。



昼の酒濁世の蛙聞きながら   『次の花』

■飴山實はよく知られているように、社会性俳句から出発している。『次の花』になると、その面影はないが、おおらかな俳句の中に混じって、社会へのまなざしを、時折感じることがある。この句にも、やるせなさのようなものを感じる。この句では、取り合わせに惹かれた。實のこの転換をどう考えるかは、興味深い問題だと思っている。今のところ、「社会から世界へ」という形で、この変化を考えている。この変化は何を意味するのか。近代と前近代、あるいは西欧と東洋といった問題とも関連させてゆくゆく考えみたいと思っている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(12)

■旧暦、5月11日、月曜日、

午後から、カイロプラクティックに行く。施術後、3~4割程度に耳鳴りが軽減する。首の骨がまた元に戻っていたことが判明。一日半しかもたなかったわけである。帰宅して、家人と、ただ静けさを楽しむ。静けさとは平和なるかな。



(Original Haiku)
" Oh, Mr. Scarecrow,
Stop waving your arms about
Like a foreigner!"


(Japanese version)
こら! 案山子君
外国人みたいに
腕をぐるぐる振り回すのはやめたまえ
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飴山實を読む(13)

■今日は、一日、眠っていたようなものだった。午前中、3時間眠り、夕方1時間眠った。逆に言うと、眠れるようになってきたということだろう。耳鳴りは相変わらずあるが、夕方昼寝して、気分的にはだいぶ落ち着いている。病状にアップダウンがあり、一度効いた方法も2度は効かないなど、この病気は、かなりの難病だと思う。それに気分まで振り回されると、まずいのだが、なんせ、四六時中、せみ時雨の中を生きなければならない苦痛は、他に例えようがない。TCIを装着して、多少は、軽減されるのだが。「微笑」の境地にはほど遠いが、せめて「笑い」の重要性は忘れたくない。



木仏をさがしあぐぬる朧かな   『次の花』

■四国42番仏木寺縁起と詞書。木仏と朧の取り合わせの妙に惹かれた。この寺とは関係がないかもしれないが、木仏と聞いて、まず、円空仏のあの笑いを思った。なんとも言えない深い笑い。先日、上野で実物を何体も見たときには、衝撃を受けた。

いつか、こんな社会が実現すればいいと思って作った句。あるいは、常に、それは一瞬の実現でしかないのかもしれないが。

円空も木喰もゐる初笑   冬月
  
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RICHARD WRIGHTの俳句(11)

■旧暦、5月10日、日曜日、

昨日は、午後から調子が下降線で、夕方になって徐々にひどくなり、夜の段階では、今までと変わらないひどさになった。風呂に入り、耳をマッサージしたが、効果はない。いったいどういうわけか、さっぱりわからない。カイロプラクティックの効果が切れたのか、別の要因なのか。今朝は6時間睡眠が確保できたが、起きたときも、相変わらず耳鳴りがある。本当に疲労・憔悴するし、気力がそがれる。朝からTCIを装着する。



(Original Haiku)
You moths must leave now;
I am turning out the light
And going to sleep.


(Japanese version)
さあ、お前たち蛾は向こうへ行くんだ
もう電気を消して
寝るんだから


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飴山實を読む(12)

■旧暦、5月9日、土曜日、

0時就寝、5時起床。昨日は就寝の際に、若干の耳鳴りを感じたが、今日目覚めたときには、もう感じない。昨日、カイロプラクティックの施術を受けて、最悪時のほぼ、3割程度まで軽減した。耳鳴りの原因は頚椎の歪みによる聴神経の圧迫だった可能性が強まった。この背景には、無理な仕事のやり方と身体メンテナンスを省みなかったことがある。耳鳴りの難しいところは、原因を排除する方向で調整しても、結果が原因とは別個に自動運動・自動増殖してしまう点にある。間違った情報が一ヶ月も脳に送り続けられた結果、脳内に間違ったループが形成された可能性が高い。これは、夜一人でいるときなどにまだ、キーン、ミーンという耳鳴りとなって現れている。このループを断ち切るには、正しい情報を脳に送って、脳を正しく調整しなおす必要があるだろう。一ヶ月はこの訓練にかけたい。カイロプラクティックによる骨格調整とTRT療法などによる脳のチューニングを同時平行で進めていくのが、現局面の最善策と信じる。



大梁にいつの世の煤蝶生るゝ   『次の花』

■この句は、取り合わせに惹かれた。季語の「蝶生るゝ」は、実際に蝶が生れるところに立ち会っているというよりも、作者の心の中で、蝶が生れているのだと思う。その意味で、想像上の季語だろう。大梁の煤に古い時間の流れを感じながら、そこに、昔から繰り返されてきた蝶の誕生の瞬間を見た實の感性には脱帽するほかはない。
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カイロプラクティック2

■旧暦5月8日、金曜日、

今日は劇的な変化があった。昨日、カイロプラクティックを受けて、逆に、耳鳴りが1.5倍から2倍になったと書いた。それは終日そのままで、施術した当日は、血流増加により、風呂に入ると、たらだの部分が痛くなる場合があるとの指導で、風呂はやめてシャワーにして、0時ごろ、ひどい耳鳴りとともに寝た。

目が覚めたのは朝の4時半で、それきり眠れないので、昨日のミショー関連の資料を読んでいた。不思議と2時間以上も読めた。そのうち、急激に睡魔が襲ってきたので、そのまま2時間近く眠ってしまった。起きると、汗をかいていたので、シャワーを浴びて、そのまま、昨日の残り湯に入った。そのとき、耳シャワーマッサージをしてみたらどうかと閃いた。これは以前一度だけ効果があった方法だが、それも、部分的に、耳にシャワーを当ててもダメで、風呂で体全体を温めることが条件になる。ちょうど、その条件を満たしていたわけだ。

これが実に劇的に効いた。金属音が何通りにも変化するような耳鳴りが一気に6割近くまで軽減した。今日も、夕方、カイロプラクティックに行って来たのだが、その話をすると、施術をして、一度悪くなることはよくあるという。その後、一気に上昇カーブを描いて良くなる場合があるという。今回の耳シャワーマッサージはぼくが開発したので、初めて聴いたと話していた。効果があるなら、継続は問題ないようだ。

ぼくの仮説は、カイロプラクティックで頚椎が正しく調整され、神経、リンパ、血管が適切に機能する条件が整ったところへ、一気に耳に血流を送り込む結果になったものと思う。カイロプラクティック×耳シャワーマッサージが、今後も有効であるなら、頚椎の歪みによる聴神経の圧迫が耳鳴りの原因だった可能性がある。

今後は、カイロプラクティックを中心に集中的に治療していく方針にした。当面、この効果を確認し、逆効果の可能性を排除するために、指圧やジムは中止して、何日間か、体が正しい骨格を覚えこむまで集中的に行う。これが軌道に載った段階で、指圧などで首のコリを取り除きたいと考えている

今後どうなるか、予断を許さないが、自分の仕事状況を振り返ってみても、この方法は、正しいような感じがする。
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カイロプラクティック

■午後から、浜松町のカイロプラクティックに行く。お昼頃に着いて、飯を食べてからと思ったら、あの辺りは、サラリーマンのメッカですな。どの店も人が並んでいて。並んで食べる気分ではないので、早めに医院に行った。しかし、コンビニで買ったスパゲッティーを、そのまま、道路際で立ち食いしている中年サラリーマンを見たときには、この社会はいったいなんだろうと思った。何のためにわれわれは生きているのかね? 「美しい国」ですか。



カイロプラクティックって骨をボキボキ言わせて、カイロで温めるのかとばかり思っていた。カイロというのは、ギリシャ語で「手」という意味らしい。プラクティックは技術で、「手で行う技術」ということらしい。100年前に米国で発祥した医療法で、施術してくれた、お兄ちゃんによれば、黒人使用人の難聴を、主人が、これで治したのが始まりらしい。

ま、とにかく、指圧よりも料金的に安いし、施術師はWTO基準の4200時間教育を受けているので、やってみることにしたわけである。始めに、体の検査を行うのだが、予想どおりの結果が出た。右肩下がりで、骨盤に歪みがあり、首の両側が腫れている。その後、施術を受けて、骨盤の歪みは解消したのだが、肝心の耳鳴りは消えない。消えないどころか、1.5倍から2倍になった。これをどう考えるべきか。首の血流が増加したことと関連があるのかどうか。施術師の説明を聞いた限り、カイロプラクティックのコンセプト自体には、そう不合理なところはないように思う。平均5、6回で効果が出始めるということなので、しばらく様子を見てみるしかないだろう。治癒パターンは、睡眠障害が消えても耳鳴りが残るパターンやその逆、あるいは、いずれにも効かないパターンなど多様らしい。ぼくの感じでは、指圧を受けた後の方が、耳鳴りは軽減された(ただし、指圧する施術師によって、効果に大きな差があった)。ただ、翌日にはまた元に戻った。

帰りに、そのまま帰るのも面白くないし、静かな公共空間で耳鳴りはどうなるのか、知りたいということもあって、アンリ・ミショー展に寄ってみた。アンリ・ミショー(1899-1984)は、フランス語圏の詩人で、水彩や墨などで絵も描いた。芭蕉と対照的な世界観を示す興味深い詩人で、この展覧会は、また、いつか、改めて書きたいと思っている。国立近代美術館のミショー展は人もまばらで、かなり静かだったが、ぼくの脳の内部は蝉時雨である。TCIに頼るのも嫌だったので、そのままでどうなるか、試してみた。当初は、さすがに気になったが、対象自体に興味があるので、次第に集中し、気がついたら、絵の合間に展示されたミショーの言葉や詩をノートに書き写していた。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の世界は、訓練次第では、実現できるかもしれない、というかすかな希望を持った。
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