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蕪村の俳句(82)


■旧暦7月22日、火曜日、

(写真)無題

朝、買い換えたデジカメの操作を勉強してから、病院へ。買い物して帰宅。外は、灼熱地獄。午後。昼寝。夕方から仕事に入る。病院の受付で、若い看護婦さんに、「そのTシャツ、可愛いですね」と言われて、どう反応していいのか、わからず、困った。若い女の子から気軽に話しかけられるのは、それだけ、オヤジになってきた証拠でもあろう。8月も終わりか。



秋風の吹きのこしてや鶏頭花   夜半叟(安政七年)

■鶏頭花の鮮やかさが、秋風に吹きのこされる、という措辞で際だつ。この点に惹かれた。



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L・Wノート:確実性の問題(7)


■旧暦7月21日、月曜日、

(写真)無題

4時半に目が覚めてしまった。洗濯物を干すだけで、汗だくになる暑さとは…。

黒鉄ヒロシの『信長遊び』(2009年 リイド社)を読む。黒鉄さんという漫画家が、こんなに骨太の人とは知らなかった。山田芳裕の『へうげもの』とはまったく違った角度から、同じ歴史に切り込んでいる。物語という手法ではなく、4コマ漫画の手法を拡大して挑戦している。歴史的な仮説も面白いし、絵も上手い。とくに、線が生き生きしている。信長(1534‐1582)は、チェーザレ(1475‐1507)よりも、ある意味、凄いのかもしれない。



87. Kann ein Behauptungssatz, der als Hypothese funktionieren könnte, nicht auch als ein Grundsatz des Forschens und Handelns gebraucht werden? D.h. kann er nicht einfach dem Zweifel entzogen sein, wenn auch nicht einer ausgesprochenen Regel gemäß? Er wird einfach als eine Selbstverständlichkeit hingenommen, nie in Frage gezogen, ja vielleicht nie ausgesprochen. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984


仮説として用いられる言明が、探求や行為の前提になることもあるのではないか。つまり、その言明から、疑いがきれいに拭い去られることがあるのではないか。たとえ、明白な規則にしたがって、そうされるわけではないにしても。その前提は、まったく自明なものとして受け入れられ、けっして問題にならず、おそらくは、あえて言葉になることもない。

■ここで、ヴィトゲンシュタインが述べている「ein Grundsatz des Forschens und Handelns」(探求や行為の前提)。einfach als eine Selbstverständlichkeit hingenommen, nie in Frage gezogen, ja vielleicht nie ausgesprochen(まったく自明なものとして受け入れられ、問題にならず、あえて言葉になることもない)前提を、イデオロギーだと理解したら、どうだろうか。この前提を、あえて、言葉にし、あえて、問題にし、あえて、自明なものとしないで、疑ったとしたら、どうなるだろうか。この問題は、断章89で改めて述べている。

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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(6)

(写真)無題


想像してみよ



                     パウル・ツェラン

想像してみよ
マサダの埃だらけの兵隊が
刺だらけの有刺鉄線に対抗して
ぜったいに消えぬよう
祖国を目に焼きつけているのを

想像してみよ
姿がなく両目がない者たちが
人ごみの中を
意のままにおまえを案内しているのを
おまえはだんだん強くなる

想像してみよ
おまえ自身の手で
住むことのできる土地の
苦しんだその一部を
ふたたび人生へ持ち込むことを

想像してみよ
それが
埋葬できない者たちのところから
やってきたということを
永遠に名と手は目覚めたままで








DENK DIR


Paul Celan

Denk dir:
der Moorsoldat von Nassada
bringt sich Heimat bei, aufs
unauslöschlichste,
wider
allen Dorn im Draht.

Denk dir:
die Augenlosen ohne Gestalt
frühren dich frei durchs Gewühl, du
erstarkst und
erstarkst.

Denk dir deine:
eigene Hand
hat dies wieder
ins Leben emporßgGelittene
Stück
bewohnbarer Erde
gehalten.

Denk dir:
das kam auf mich zu,
namenwach, handwach
für immer,
vom Unbestattbaren her.



初出「COAL SACK 67号」
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詩的断片 作品6

■旧暦7月21日、月曜日、

(写真)無題


晩年



わっはっはと
笑ってみれば
わっはっはのわがないぞ

わっはっはと
笑ってみれば
わっはっはのはがないぞ

おーい出てこい
出てこいよー
藪の中から出てこいよー

山の道行く
異邦人
わけあり
蓑なく
雨の旅

わっはっはの
わっはっは

菜の花に
風の吹くたび
空ゆれて
谷は
おいらのわっはっは
花の深夜に鯉跳ねて
川は
おいらのわっはっは

晩年は
縦にも横にもならんから
永田耕衣に聞いてみた

おーい出てこい
出てこいよー
言の中から出てこいよー

年寄るはかくも無残ぞ 
善悪のあったものかは
はじまり はじまり
水は流れて
天海へ 雲は流れて
古へ 

また会おう
千のおいらを脱ぎ捨てて
千年前に
この場所で

どーん
どーん
時の壁抜け
鳥また雲へ

わっはっはと
笑ってみれば
路地の子猫は
わっはっは
のは




初出「COAL SACK 67号」
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詩的断片 作品5

■旧暦7月20日、日曜日、

(写真)空腹

どうも家人らの評判が良く、ゴーヤの天ぷら、今夏3回目を作ることに。自家栽培のゴーヤでは、これが最後になる。しかし、小麦粉が切れていることに、ゴーヤを切った後に気がついた。仕方がないので、片栗粉をまぶして、素揚げにしてみたら、これが実にカラッと揚がり、いい緑を出して上手くいった。天ぷらもいいが、素揚げもゴーヤは旨いことを発見。他に、簡単な料理で、万願寺とうがらしを焼いて、食べやすい形に切って、豚肉のモモを湯どうししたもの(水分は十分に吸い取る)と一緒に、たれ(醤油、みりん、胡麻油、からし)で和える一品。涼味があって美味。

COAL SACK67号が届く。毎回、すごいボリュームである。今号は、300ページ以上ある。前々号から、大手書店の詩書コーナーで販売開始したようなので、ご興味のある方は、手に取られるといいと思う。今号は、いつにもまして執筆陣に気合いが入っている。同号に投稿した詩篇2篇と翻訳詩1篇を順次アップしたい。




夜への越境



鏡を越境して
ことばの国へ
夜また夜へ
おれの一瞬の回想が
だれかの問題の答えになる
歴史が放電される一瞬は
いつもなにげない
宇宙では命が例外
夜の王こそ正しい道である

その門より出でよ
ことばは
完全なる不完全
どこまでも
死は見えない
銀河では気の狂った者こそ
王なのである
夕が朝になるとき
ことばは消える
踊るのみ
気が狂えば狂うほど
花にちかくなる
石ころ一つ
夏野へ投げて
深い淵の音を聞く


初出「COAL SACK 67号」

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蕪村の俳句(81)


■旧暦7月19日、金曜日、

(写真)無題

午前中、仕事。午後から、翻訳セミナーに出席。翻訳通信主宰の翻訳家、山岡洋一先生の講演を聴く。ユーモアのある面白い講演だった。ただ、やはり出版翻訳だけで喰うのは、難しい状況だなと改めて感じた。最近は、会長職に退いて、演劇活動にいそしんでおられるという柴田耕太郎先生にも、久しぶりにお会いできた。



朝がほや一輪深き淵の色   明和五年

■朝顔の藍色に淵の深い色を重ねたところに惹かれる。この句を知ってから、紺色の朝顔は、どれも、淵の色に見えてくるから不思議である。この句には、前書きがあって、「澗水湛如藍」(碧巌録八十二則)とある。この禅語を踏まえているようなのだが、その意味はよくわからない。禅は、いつか、まとまって勉強したいと思っているが、なかなか...。



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L・Wノート:確実性の問題(6)


(写真)無題

61 ...Eine Bedeutung eines Wortes ist eine Art seiner Verwendung.
Denn sie ist das, was wir erlernen, wenn das Wort zuerst unserer Sprache einverleibt wird.
Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

言葉の意味とは、その言葉の使い方のことである。というのは、その言葉をわれわれの言語に始めて取りこむときに、われわれが習得するのは、まさに、その使い方だからである。

■すとんと理解できる。言葉の意味は、辞書で調べるというのが、一般的だが、実際の用例を調べて、意味を確定する方法が有効であることを示している。辞書で自動詞、他動詞などの表示があっても、実際は自動詞としての使用が90%以上で、他動詞として使われることはほとんどない、といった情報は、辞書にはない。言葉が、どう使われているのか、に注目するということは、言葉の適切な使い方と不適切な使い方があるということで、哲学的な諸問題を言葉の使い方から、検討するというアプローチを開く。しかし、一方で、生活から切れた問題は、哲学的な問題として存在しえないということにもなるのではないだろうか。その是非は、今は、よくわからない。



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蕪村の俳句(80)


■旧暦7月16日、水曜日、、満月

(写真)空腹

朝から、仕事。部屋の片付け。夕方から兼業。夏期講習もほとんど終わった。古文と社会がとくに面白かった。この一月ほど、昼間は、別の仕事に専念していて、翻訳ができなかったので、そろそろ、再開したいと思っている。夜は、虫の声が急に大きくなった。



染あえぬ尾のゆかしさよ赤蜻蛉   明和五年

■赤蜻蛉をよく観察している。尾までは確かに赤くない。近代・現代の俳句に通じる観察による気づきだと思う。



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※ 数十年前、マーラーが爆発的に流行ったことがありましたな。最近、CDで聴き直している。ユダヤ的な音というものがあるのかもしれない。
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Pascal 『Pensées』を読む(5)


■旧暦7月15日、火曜日、

(写真)無題

早朝に起きて、仕事に入る。午後から、クーラーの取り換え工事。いやはや、大変だった。部屋中に積んである本や資料を移動しないと、工事の足場が作れない。汗だくになって移動また移動。3人がかりである。ゴミ袋が4つもできあがったのは、不徳の致すところであろう。シャワーを浴びて、夕方より、兼業に向う。



A mesure qu'on a plus d'esprit, on trouve qu'il y a plus d'hommes originaux. Les gens du commun ne trouvent point de différence entre les hommes. Pensées 465

ひとは、知的になればなるほど、独創的な人間が多いことに気がつく。大多数は、人々の間の違いにまったく気がつかない。

※メモ:ne~poin まったく~ない、少しも~ない
※仏和辞典は、数えられる名詞と数えられない名詞の区分を表示していないが、不便じゃないのだろうか。

■この断章は、面白い。a plus d'espritを前田陽一、由木康訳では、「精神が豊かになればなるほど」、Krailsheimer訳では、the more intelligent one isとしている。ここでは、人間に対する理解力が高まるという意味で、「知的になればなるほど」とした。

確かにこういうことはあるような気がする。現代の組織では、人間を画一的・類型的にあてはめて、管理上の参考にしたり、一種の商品として個性をあてがうことがよく行われる。このため、定年退職した人々の方が個性を発揮することがよくある。パルカルの言う「A mesure qu'on a plus d'esprit(ひとは、知的になればなるほど)」という事態は、実は、onが所属する社会空間や社会集団に規定されている。市場と無関係に知的になったり独創的になったりすることは、現代ではなかなか難しいが、逆に、市場と関係せざるを得ないがゆえに、企画や商品開発、技術開発などの面で、独創的になることもある。大多数の人々が人間の違いに気がつかないのは、人間の間に違いがないからではなく、生産関係の中で同一化の強制力が働き、個人の違いは、「商品としての個性」というカテゴリーに押し込められてしまうからだろう。この断章は、パスカルの属す知的エリート集団の見方であるが、それだけにとどまらないものを持っていると思う。



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L・Wノート:確実性の問題(5)


■旧暦7月15日、火曜日、

(写真)無題

8. Der Unterschied des Begriff 》wissen《 vom Brgiff 》sicher sein《 ist gar nicht von großer Wichtigkeit, außer da, wo 》Ich weiß《 heißen soll: Ich kann mich nicht irren.
Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

「知っている」という概念と「確信している」という概念を区別することにあまり意味はない。ただし、「わたしは知っている」という命題で「わたしが間違えていることはありえない」ということを意味する場合は別である。

■わかりにくい断章。第一文を受け入れると、第二文が論理的に合わない気がするからだ。sicher sein(確信している)という表現は、そもそも、Ich kann mich nicht irren.(わたしが間違っていることはありえない)を意味するのではないのだろうか。逆に、これ以外の用法を思い浮かべることはできるのだろうか。後の断章で「わたしがその事について間違えていない、ということは客観的に確定されなければならない」とある。wissen=sicher seinであるが、このとき、Ich kann mich nicht irren.(わたしが間違っていることはありえない)という意味で、これらの命題を用いると、誤謬は不可能であることを証明する必要性が出てくるということだろうか。そうだとすれば、「知っている」や「確信している」という命題の知られた内容や確信された内容の誤謬性が問題にならない状況があるということになる。そして、それは当然あるだろうと思う。たとえば、「わたしは成功することを知っている」や「わたしは成功を確信している」といった命題は、内容の誤謬性が問題になるのではなく、一つの予想と受け取られ得る。



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