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芭蕉の俳句(165)

■旧暦12月23日、水曜日、

このところ、さまざまな、不調に悩まされ、心身のトータルな調整を真剣に考えるようになった。これらは、それぞれ、いろいろな要因があるのだが、大本を糾せば、身体を物として扱い、身体の声に耳を傾けなかったことが一番大きいと、今では思っている。太極拳や野口整体、野口体操など、東洋医学のさまざまな成果を少しずつ検討・実践してみようと考えている。

(写真)Untitled

寝る前に読んでいる山頭火随筆集から。

・今夜同宿の行商人は苦労人だ、話にソツがなくてウルオイがある、ホントウの苦労人はいい。(『山頭火随筆集』講談社文芸文庫p.147)
・私の念願は二つ。ただ二つである。ほんとうの自分の句を作り上げることがその一つ。そして他の一つはころり往生である。(同書p.124)
・物そのもののねうち、それを味わうことが生きることである。(同書p.122)
・本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。(同書p.83)
・「あきらめ」ということほど言い易くて行い難いことはない。それは自棄ではない、盲従ではない、事物の情理を尽くして後に初めて許される「魂のおちつき」である。(同書p.60)





夕顔や酔うて顔出す窓の穴
   (続猿蓑)

■元禄6年作。夕顔で夏。芭蕉庵での即興の句だから、自分のことを言っているのだろうが、外から見ていて、酔った顔がひょいと丸窓から出てきたと解しても面白いように思った。いずれにしても、軽やかなおかしみに惹かれた。
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俳人の死

■旧暦12月22日、火曜日、

今日は、朝早く目が覚めたので、ドイツ語版を更新して、朝の雑用を済ませてから、慈恵医大に行く。午後、少し眠る。

ここのところ、50代で逝去された俳人の報が続いた。一人は、インターネットの俳句関連の掲示板を通じて知り合った方で、言葉だけのお付き合いだったが、人柄が滲み出るようなお方だった。もう一人は、同じ結社に所属する方で、痩身で浅黒く陽気で男っぽい人だった。人が亡くなると、その人がいなくなるというよりも、そこだけ、不在という影のような空間に変わるような気がする。初夏にいただいた句集から、何句か紹介したい。

露地の子の露地に消えたる春の暮

ダービーのすみたる空の遥かかな

一杯の水飲みほして島は夏

枯れてなほ泡立草の高きこと

傘少し上ぐるが別れ秋の雨

しばらくは初湯のあとの一人かな

このごろの空見る癖や夏帽子

誰もゐぬテニスコートや冬の月

婿といふ不思議なものと歳の酒


丸山健三『江東』より

(写真)Untitled



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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(20)

■旧暦12月21日、月曜日、

DVDで映画「蝉しぐれ」を観た。藤沢周平原作で、テレビドラマにもなった。哀歓の漂う話で、四季折々の風景が非常に美しい。よくこれだけ美しい風景が残っていたものだと感心した。製作に15年かけたという。映画を貶める意図はないのだが、この映画に拮抗する俳句は、いくつもあるような気がした。つまり、俳句一句が映画一本に十分拮抗できるように思った。

今日は、夕食の一品として、ジャガイモの「おやき」を作ってみた。非常に簡単で、評判が良かった。ジャガイモを皮付きのまま4個ていど茹でる。茹で上がったら、皮を剥いて、ポテトサラダを作る要領で潰す。これに、たまねぎのみじん切りを混ぜ合わせる(みじん切りは、ジャガイモ4つに対して、二分の一個程度を使用、このとき、お好みで、刻んだハムを入れてもいい)。これに、塩コショーして、適当な大きさの円盤型に丸めて、オリーブオイルの中火でこんがり焼く。パセリあるいはローズマリーなどを振りかけながら焼く。これだけである。たぶん、ワインにもビールにもウィスキーにも合うと思う。一言で言うと、イタリアンコロッケといったところ。

この頃、英語版、ドイツ語版の更新が止まっている。日本語で好きなように書いたものを英語やドイツ語に直すのは、慣れていないと、結構、気力が要るもので、ついつい、後回しになってしまう。ぼちぼち行きますかな。

(写真)
"O do you image," said fearer to farer,
"That dusk will delay on your path to the pass,
Your diligent looking discover the lacking,
Your footsteps feel from granite to grass?"

W. H. Auden 1931




(Original)
meterhoch Unkraut
ZUM VERKAUFT steht auf dem Schild
vor dem Hauseingang



(japanische Fassung)
一メートルほどの雑草
家の玄関の紋章には
「売り出し中」の張り紙


■ザビーネは、「切れ」を意識して使用している。一行空けなかったのは、日本語の俳句の「切れ」の概念と違って、取り合わせに論理が見えるから。ただ、詩として見ると、なかなかいいんじゃないだろうか。
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RICHARD WRIGHTの俳句(49)

■旧暦12月19日、土曜日、

終日仕事して、夕方、いつもの喫茶店でW. H. Audenと子規を読む。この二人は、ウェストポーチにいつも入れていて、手ぶらのときも読めるようにしている。Audenは、気になる詩を繰り返し読んで、謎が特定されてきた。まだ、日本語に置き換えるだけの自信がない。謎を特定していく過程はとても楽しい。子規は、『病床六尺』を読んでいるのだが、今日はハッとする箇所があった。

病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない(同書p.124)

死病の子規の言葉は、よくよく考えてみる必要があるように思う。これは、現実と戦わない者の言葉ではない。現実と戦いながらそれを楽しもうとしている者の言葉だと思う。子規の辞世三句は、ぼくには最後の笑いに聞こえる。しかも、この笑いは、己を笑っている!


糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をとゝひのへちまの水も取らざりき


笑いながら死ぬ。しかも、この笑いはだれも傷つけない、恨まない。俳人の最後として、いや人の最後として、見事という他はない。

(写真)Untitled




(Original)
Burning autumn leaves,
I yearn to make the bonfire
Bigger and bigger.



(Japanese version)
秋 燃える葉
焚き火よ
もっと燃えろもっと



(放哉)
女よ女よ
年取るな


■久しぶりにライトの句は、ぐっと来るものがあった。三行の詩として魅力的だと思う。これに拮抗する放哉の句は、いくつかあるのだが、あえて、無関係に見える句を選んでみた。紅葉の燃えるような交響楽が、女性たちのあでやかさに通じるような気がしたのである。
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北と南(12):落鷹

■旧暦12月17日、木曜日、、大荒れの天気。

このところ、ドイツの俳人のAngelika Wienertさんが、ドイツ語版、英語版ともに読んでくれて、いろいろ意見や情報を教えてくれた。ぼくの方も、初等ドイツ語でどうにか対応し、いい勉強になった。Angelikaさんは、ご自分のブログhaiku-shelfで英語とドイツ語の俳句を発表している。易しい言葉で書かれているので、ご興味のある方は読まれたい。丁寧で親切なお方である。

今日は、猛烈に風が冷たかった。しかし、夕方、筋トレに赴いたのだった。リハビリという感じで、軽いメニューを30分強こなす。ハードな運動をすると、耳に来るのである。トレーニングセンターに行く途中に、お地蔵さんが何気なく立っているスポットがある。ある晴れた午後、そこを通りかかると、初老の男性がじーっと地蔵の表情を見つめている。そのとき初めて、地蔵の存在に気づいたのだが、今日は、ぼくもじーっと見てみた。なんと言うか、笑いを誘う表情をしている。今日は写真を撮り忘れたのが残念である。

(写真)Untitled




落鷹(おちたか)


十月九日寒露の頃になると、本州の差羽の群れが沖縄に南下してくる。沖縄本島上空を通過し、宮古島を中継地としてさらに南方のフィリピン方面に渡っていく。渡りの途中に飛ぶ力を失くした老鳥や幼鳥、病鳥は群れから落伍して宮古島などで冬を越す。これが「落鷹」(ウティダカ)である。


落鷹のこゑ諾へり暁の闇
    眞榮城いさを

日暮れには日暮れの高さはぐれ鷹
    津波古政信

高木に留まり、野鼠や小動物を捕獲して食し、越冬して、三月下旬頃、九州方面に北上する。なかにはそのまま、島にいついてしまうものもあるという。

※ 宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より

■なんだか、哀れ深い季語だと思う。



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飴山實を読む(46)

■旧暦12月16日、

朝起きたら、新しい世界になっていた。雪である。今年2度目の雪である。雪の句はいつくも有名なものがあるが、ぼくは、はじめに、漱石の

寐る門を初雪ぢやとて叩きけり   漱石(明治29年)

を思い出す。なんだか、神が一軒一軒の寝静まった門を叩いて回るような気配がある。

(写真)落葉

昨日もドイツの俳人からコメントをいただいた。俳句の意見交換になった。ドイツ人は、「枯れ草」を秋と感じるようで、面白かった。まあ、ぼくがドイツ語の俳句をケチョンケチョンに言っているので、その反論の意味もあろうかと思う。ドイツの俳人が、どのように、俳句を感じているのか、ご興味のある方は、ドイツ語版をどうぞ。

このところ、時間があると、飴山實の俳論を読んでいるのだが、ほとんどが共感できる文章で嬉しくなる。偉いなあ、と思うのは、どの命もいつくしむ穏やかさが、文章から滲んでいることで、ぼくのように、いつも社会や歴史に対して、胸のあたりに批判が渦巻いている者は、何か書くと、たいてい、棘が入り込んでしまうものだが、飴山實の文章には、それがまったくない。家人に言わせると、ぼくは人間ができていない、ということになる。




武家屋敷から電線へ烏瓜


■武家屋敷という前近代的なものと電線という近代の取り合わせが面白いと思った。烏瓜は、蔓性植物だから、電線に巻きついていたのだろう。烏瓜と言えば、人の手の入っていない廃庭を想起させる。この武家屋敷は、半ば朽ち果てたものだったのだろうか。前近代も近代も関係ない烏瓜の生命力に惹かれる。
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芭蕉の俳句(164)

■旧暦12月14日、月曜日、大寒。生協をいつも運んでくれるお兄ちゃんが、この冬一番の寒さですと太鼓判。

寝る前に山頭火の随筆集を読んでいる。俳句はコピーみたいで、少数の作品を除けば、どうも感銘しないが、随筆はどん底を経験した人の言葉と言うほかはなく、心に閃光のようなものを残す。巻末の年譜をじっくり読んで、行動をよく見たのちにもう一度随筆に返ると、深い洞察力と行動の間に落差が感じられて、興味深い。「人は嘘をつくものだから、行動を見よ、人が見ていればカッコつけるものだから、その人の安んじた世界を見よ、そうすれば、その人が理解できるだろう」と言ったのは、孔子だったが、そういう観点で見ると、山頭火という人は、悲劇的な側面で語られることが多いが、その人生は喜劇的な色彩を帯びているように思えてくる。これは、こと、山頭火に限らず、ぼく自身だって、己の半生を振り返ってみれば、悲劇どころか、まったくの喜劇であって、笑い出さずにはいられない。どうも、人生とはそういうものなんじゃないだろうか。

「諸君、喝采を。喜劇は終わった!」 ベートーヴェン

(写真)季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である(この点も、私は草や虫みたいな存在だ!)山頭火




子どもらよ昼顔咲きぬ瓜むかん


■元禄6年作。なんだか、良寛みたいで、惹かれた。子どもと老人は、俳句が上手とよく言われるが、俳句の対象としても、人生のはじまりと終わりを結んでいて、何ものかを語りかけてくれる。写真を撮るようになって、人物は、意識的に、避けてきた。正面から表情を撮ろうとすると、なにかが付け加わってしまう気がするのだ。そこで、人物は、背中を隠し撮りすることにした。そうして、何枚か撮ってみると、背中は、子どもでさえ、何かを語りかけてくれる。芭蕉の句は、子どもらに、呼びかけている。「昼顔が咲く」ということが、瓜が十分冷えた時間と夏の暑さを表していて面白い。おそらく、子どもらにも了解できる時間の告げ方だったのだろう。瓜むくぞと呼びかけられた子どもたちの顔が輝きだすようだ。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(19)

■旧暦12月12日、土曜日、

今日は、掃除をしてから、半年ぶりに筋トレに行ってきた。せっかくトレーナーがメニューを作ってくれたのに、半年もほったらかし。トレーナーに耳鳴りは少しずつ良くなっている旨話すと、なんでも最近、耳鳴りに効果的な新薬が出たとか。どういう種類の耳鳴りに効くのか、までは不明。ぼくのは、血流不足や高血圧が原因ではないので、あまり期待はできないだろうと思う。

そう言えば、国府台病院での自律訓練法は中止しすることにした。2週間に一度、時間をかけて通うのがストレスになってきたのだ。自宅での訓練で十分いける。半年病院に通って、ほぼ、毎日2、3回自律訓練法を施してみて感じたのは、自律訓練法は、直接、耳鳴りには効かない。耳鳴りから派生する諸々の否定的な精神状態、たとえば、抑鬱や焦燥感、切迫感には、かなり効果がある。原因はどうあれ、一般に、これらの諸傾向に効くのではないだろうか。今後、自宅での訓練を継続しながら、タイミングを見て、太極拳を始めようと考えている。

昨日、ドイツ語版のブログに初めてドイツの俳人からコメントがあった。俳句に関する意見交換まではいかなかったが、情報交換にはなった。初歩的なドイツ語で書いているのだが、大枠では通じるものらしい。嬉しかった。

(写真)この白い塊は雪ではなく、渡良瀬川流域の天然の御影石。




(Original)
ungebremst fährt sie
in das Auto ... laut kracht es
ihr Hund bellt, sie weint



(japanische Fassung)
彼女、ブレーキをかけそこなって
そのクルマに…ガシャーン
彼女の犬が吠える、すすり泣く彼女


■日常の一コマを切り取っている。日本語の俳人は、クルマや交通事故を詠むことがないので、その意味では、面白いかもしれない。しかし、一つの俳句に多くの事象を詰め込みすぎていると思う。
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RICHARD WRIGHTの俳句(48)

■旧暦12月10日、木曜日、

胃カメラの結果は、胃炎であった。深刻なものではないので、しばらく胃腸薬を服用すれば回復に向かうと思われる。ストレスもあるであろう、珈琲の飲みすぎもあるであろう、早食いもあるであろう。しかし、この20日ほど、食のありがたみが実感できた日々はなかった。

(写真)

冬の足尾駅構内。線路には柵がなく、近所の若いお父さんが、子どもをあやしながら、構内に自由に入ってこられる。子どもの頃の駅の情景のままである。前期近代の郷愁が漂う。




(Original)
A bursting ripe plum
Forms a pool upon a leaf
From which sparrows drink.



(Japanese version)
熟れたプラムがはじけて
葉の上に汁が溜まっている。
雀たちがそれを飲む。



(放哉)
雨の幾日がつづき雀と見てゐる


■ライトの句、愛情は感じるが、第三者的に雀の様子を見ている。放哉は、雀と同じ視線で雨を見ている。ここには、人間と雀の二元論はない。
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北と南(11):種子取祭

■旧暦12月8日、火曜日、

終日、仕事。子どもが明日1限から授業なので、夕食を準備。粥も作って、先に食す。明日は、朝から、胃カメラである。なんとも言いようがない日々が淡々と。

(写真)

運命にゆるされてある程をわれら楽しまう、
渡らなければならぬ渡しが待ってゐるから。
ひと日ひと日がめぐりめぐつて
このわれらの生も廻り果てる。

ロバート・へリック(1591-1674)「日月」
森 亮訳




種子取祭
(タントウイ)

沖縄の竹富島の豊作を祈る種蒔き神事の祭。「種取祭」ともいう。600年の伝統がある。祭は旧暦9月から10月の甲申の日から甲午の日まで、10日間ほど行われる。女性が踊り、男性が狂言を受け持ち、島人により70以上の芸能が徹夜で演じられる。太鼓、棒技、舞踏があり、弥勒が島を練り歩く。沖縄における立冬の頃の農耕祭。


少年の明日へ種取祭かな
     喜舎場森日出

※宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より



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