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G.W.F.Hegelノート:Phänomenologie des Geistes, Vorrede(4)


■旧暦4月21日、月曜日、

(写真)無題

午前中は、仕事に専念。午後は、施設への荷物の運び込み。夕方から、また、仕事。



In der allgemeinen Vorstellung hingegen, zum Beispiel was Anatomie sei, etwa die Kenntnis der Teile des Körpers nach ihrem unlebendigen Dasein betrachtet, ist man überzeigt, die Sache selbst, den Inhalt dieser Wissenschaft, noch nicht zu besitzen, sondern außerdem um das Besondere sich bemühen zu müssen. G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes(1807) Felix Meiler Verlag 2006 p. 3   

たとえば、解剖学なら、その本質は何かということを一般的に考えてみると、ある意味で、生命なきものとして観察された身体の各部分の知識と言えるが、これで解剖学の内実がわかったとも、事柄そのものが理解できたとも考えないだろう。むしろ、一般論の先にある具体的な認識を得ようとするはずである。

■難しい言葉を使っているが、言っていることは常識的。



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G.W.F.Hegelノート:Phänomenologie des Geistes, Vorrede(3)


■旧暦3月8日、日曜日、、吉野花会式

(写真)夜の道(ジュネーブ駅前) 節電しているわけではない。

朝、深蒸茶を淹れて一服。ブランフレークとバナナ2本。しばらくヘーゲルを検討してみる。昨日は、疲れが出て、ダウン状態。これから、床屋へ行き、選挙、近所へ花見。そして、仕事である。



‐Auch weil die Philosophie wesentlich im Elemente der Allgemeinheit ist, die das Besondere in sich schließt, so findet bei ihr mehr als bei andern Wissenschaften der Scein statt, als ob im dem Zweck oder den letzten Resultqten die Sache selbst und sogar in ihrem vollkommenen Wesen ausgedrückt wäre, gegen welches die Ausführung eigentlich das Unwesentliche sei. G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes(1807) Felix Meiler Verlag 2006 p. 3

また、哲学は、特殊性をうちに含んだ普遍性の言葉で語られる。このため、他の学問以上に、目的や最終結論が、事柄自体の完全な本質として表現できるはずだから、哲学することは、もともと、そんなに重要ではないといった誤解が生じやすい。

■今も通じる批判。











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G.W.F.Hegelノート:Phänomenologie des Geistes, Vorrede(2)


■旧暦2月27日、木曜日、

(写真)無題

昨日は、用事で、白岡へ行く。帰りに、新大久保の韓国料理店おんどるへ。ここは安くて美味いので、たまに行くのである。レモン茶マッコリをもらって、トッポギをつつきながら、しばし、ぼーっとしていると、にぎわいの中で、ふいに、子どもの泣き声が聞こえたような気がした。それは「フジュウ、フジュウ、不自由」と泣いている…。だれでもないだれか、だれでもあるだれかに向けて。

松岡正剛さんが、「千夜千冊」連環篇で、『鎮魂詩四〇四人集』に触れている。このタイミングで、このアンソロジーが紹介されたのは、やはり、大きな意味があると思う。私事になるが、ぼくも、マエストロ、ヴァレリー・アファナシエフが、師エミール・ギレリスを追悼した詩を翻訳して、このアンソロジーに寄せている。すぐに、詩は書けないが、すでに書かれた詩は読むことができる。



ヘーゲルを読むことは、ドイツ語と格闘するのではなく、日本語と格闘することだと思う。ドイツ語の論理は、非常に明快だが、それを日本語で考えようとしたとたん、わけがわからなくなる。参考に、金子武蔵の翻訳した『精神の現象学』と長谷川宏の翻訳した『精神現象学』を参照している。ドイツ文の構造を理解する時には、金子訳を、ドイツ文の意味を理解する時には、長谷川訳を参考にしている。そのうえで、二人とは違う日本語訳を作成し、内容を検討していきたいと考えている。現代で、ヘーゲルを読む意義は、さまざまあると思うが、ヘーゲル自身でさえ、自著について、「いったい何を自分は言ってしまったのか」よくわかっていない面があるのだから、時代と文化を異にした者が、読むのは、面白いことだと思っている。

Denn wie und was von Philosophie in einer Vorrede zu sagen schicklich wäre, - etwa eine historische Angabe der Tendenz und des Standpunkts, des allgemeinen Inhalts und der Resulte, eine Verbindung von hin und her sprechenden Behauptungen ung Versicherungen über das Wäre - kann nicht für die Art und Weise gelten, in der die philosophische Wahrheit darzustellen sei. G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes(1807) Felix Meiler Verlag 2006 p. 3

というのは、たとえば、前書きでは、自分の思想傾向や立場を哲学史的に位置づけたり、著作の概略的な内容や結論を示したり、真理に関するさまざまな主張や断言を関連づけたりするのが、普通だと考えられているが、そんなやり方では、哲学的真理を叙述するのに不十分だからである。

■哲学の論文を読めばわかることだが、先行研究のレビューは、研究の前提になっている。だれそれが、どういう解釈をしたかが、一大事のように語られている。それに対して、自分は、こう考える、ということで、「新しさ」をアピールするのが、今でも、行われている。それは、確かに必要な条件の一つであると思うが、目的ではないだろうと思う。以前に、ヴィトゲンシュタインについて述べたときに触れたが、その種の研究は、まだ、モダンのレベルの研究なのだと思う。問題は、その哲学者が言っていないことは何か、哲学者自身は気がついていないが、語られたことに現れているものはなにか、を明らかにすることだし、その考え方を使って、現代の問題に切り込むことだと思う。ヘーゲルが、ここで、前書き批判をしていることも、こういうことと無関係ではないとぼくは思っている。






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G.W.F.Hegelノート:Phänomenologie des Geistes, Vorrede(1)


■旧暦2月17日、月曜日、、春分

(写真)地下への道

朝、深蒸茶2杯、ブランフレーク、珈琲。新聞を読む。午後、掃除。余震、いまだ多し。今日はしっとりした春の雨だが、放射能の雨だと思うと、げんなりする。

新宿は、大いなる人ごみであった。マックやスタバは満員で入れない。



※ヘーゲルには、聞いてみたいことがいくつもある。ヘーゲルの考え方は、現代社会を考える上で、どこまで、有効なのか。どこに限界があるのか。どこにアクチャリティがあるのか。一つは、物事を認識するときに、両義的であることの意義について。ぼくは、これは、現実的であることを保証するものだと確信しているが、ヘーゲルの両義性は具体的には、どう活かされているのか。また、全体性あるいは体系性というものは、今でも有効なのかどうか。物事を全体的に捉えようとすると、排除されるものが必ずあり、どこかに欺瞞が紛れ込むのではないか。また、その正・反・合という弁証法は、大鉈すぎやしないか。ヘーゲルの哲学は、個人の日常とどうリンクするのか。読みながらも疑問は湧いてくると思うが、この哲学をどう活かせるのだろうか。基本的な問題意識は、やはり、ここにある。

気の長い作業になると思うので、マイペースで考えをまとめていくしかない。


Phänomenologie des Geistes

Vorrede

Eine Erklärung, wie sie einer Schrift in einer Vorrede nach der Gewohnheit vor ausgeschickt wird, - über den Zweck, den der Verfasser sich in ihr vorgesetzt, so wie über die Verlanlassungen und das Verhältnis, worin er sie zu andern frühern oder gleichzeitigen Behandlungen desselben gegenstandes zu stehen glaubt, - scheint bei einer philosophischen Schrift nicht nur überflüssig, sondern um der Natur der Sache willen sogar unpassend und zweckwidrig zu sein.
G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes(1807) Felix Meiler Verlag 2006 p. 3

精神の現象学

前書き

著作の前書きで、あらかじめ、著者がその本の目的や執筆動機、前時代や同時代の考え方との関連性を、述べるのが、慣例になっているが、こと、哲学的著作に関して言えば、それは、無駄なことであるばかりか、哲学という問題の本性から言って、不適切であり、目的に逆行することにもなると思う。


■19世紀初頭に書かれたドイツ語だが、構造的には、わかりやすい。しかし、日本語に置き換えるのは、言葉の一対一対応を原則とすると、完全に破たんする。日本語にはならない。日本の文化とはまったく異なる心を見るような思いがする。有名な「精神現象学」は、「精神の現象学」であり、das Geist(精神)がテーマなのだと今さらながら気が付く。ヘーゲルは、前書きで前書き批判をいきなり始めるのだが、面白いのは、その前書きが、50ページもあることである! これは一つのユーモアではなかろうか? では、ヘーゲルは、その前書きで何を述べようと言うのだろうか。大変に興味深い。



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