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原爆詩181人集(6)

■旧暦6月18日、火曜日、

この数日、参院選関連の新聞を読んでいた。ネットで、各紙の社説を読んでみたが、首相辞任・衆議院解散というまともな主張をしていたのは、朝日・毎日・東京の三紙、民主党の責任重大という、当たり前だが、その前にやることがあるんじゃないの、という思いを抱かせた新聞が、読売、日経、産経の三紙。この三紙は、検証のないまま「イラク特措法を延長しないと国際社会から孤立する」といった実につまらない言説を共有しているところも特徴だ。メディアの使命は、政治家の言説を鵜呑みにするのではなく、根源的に批判し検証すること処にあるのであって、与党の提灯もちをすることではない。



趙 南哲(チョ・ナムチョル)1955年広島生まれ。


座布団


あなたはすわっていました
バラックの暗闇にぽつねんと
ぶあつい座布団に草株のように
ほのかに白く浮かび上がってすわっていました
あなたはすっかりぬけおちた髪をクシですき
顔はロウ石のように病んでいましたね
腐った瞳をうごかすこともなく かけおちた歯で
かすかにニッと笑いかけるあなたに 僕は
氷のように立ちすくむばかりでした
僕はあなたの存在が怖かったのです
気味悪く 不思議で ただ怖かったのです

いつの日か あなたが
骨の体の跡のついた座布団だけ残して
消えたとき 僕は安堵したのでした
呪縛からときはなたれたような喜びでした

あなたは被爆者だったことを 僕は
ずっと後で知ったのです
あなたが嫁にもゆけず なにもできず
ただずっとすわりつづけるしかなかったことを

僕は大きくなりました むやみに
暗闇を怖がる少年ではなくなりました
でも いまの僕はあなたを怖がらないでしょうか
あなたのふるえる手をにぎり
崩れおちた頬をさすり 骨のむくんだ
体を抱きしめることができるでしょうか
ああ あなたと僕は同じ民族の血をもって生れたのに
あなたの屍はの堆肥になったのに
あなたを恐怖した僕をゆるしてくれるでしょうか
僕はもう ほんとうにあなたを怖がらないでしょうか


■この作者の感じた「怖さ」が、原爆の怖さであり、人間が人間でなくなっていく「怖さ」なんだと思う。ハンセン病や精神疾患の差別の歴史とも重なる。人間の歴史は、英雄の活躍する真昼の光の下にあるのではなく、こうした闇の中にこそあるのではないかと感じさせる。
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原爆詩181人集(5)

■旧暦6月15日、土曜日、

今日も蒸し暑かった。今日は、新聞を読んだだけで、雑用に終始した。いつもの喫茶店で、『墨汁一滴』を読む。子規晩年の随筆は、血で書いたようなものだと思うが、雑誌『明星』に掲載された短歌に、けちをつけていく様子がおかしい。完全な技術批評だが、説得力がある部分と、言いがかりだな、と思う部分が混在していて、面白かった。そういえば、今日初めて、喫茶店の喧騒がうるさいと感じた。これは、調子がいい証拠。

柏崎刈羽原発の耐震性が問題になってから、ほかの原発の状況が気になって仕方がない。首都圏だと、東海第二発電所と浜岡原発が関係してくる。「週刊現代」が、京都大学原子炉実験所の「日本の原発事故災害予想」を元にした予測だと、東海第二発電所の原発事故の犠牲者数は、2300万人、浜岡原発で、1300万人。浜岡の場合、死の灰によって、関東、中部全域、奈良・京都、大阪、姫路まで、被爆によるがんの死者が出る可能性があるという。首都圏だけでも、がん死者は434万人とはじいている。地震列島に原発を建設すること自体、たちの悪いブラックユーモアだという意見もある。ちょっと、原発について、調べてみようかという気になっている。



金丸枡一(1927-2000)宮崎県生まれ。

みんなもういちど新しいのだ

人間が人間にかかわって生きる
自分をみつめながら
それが普通なのだ
普通にまじめになるのだ
生きて希望をつなごうとするならばだ
えびはよく笑う
とくに泥のなかではよく笑う
と井伏鱒二は語っていた
テレビ画面でだ
その「井伏さんが」がすごくまじめな顔になる
「黒い雨」を書いたときには
「普通になったんだね」とぽつりと言っている
作家としての目が普通の市井人の目に重なったんだ
被爆者が語るときにね
ひょいと息を呑む瞬間があるんだ
よほどこわいものを見たんだろうね
よほどつらい思いがあるんだろうね
そんな意味のことを語っていた
「井伏さん」は 普通に生きているものをじいっと見つめているんだな
それは大変なことなんだね きっと
でも そうやってじっと見つめると
みんなもういちど新しいのだ きっと
ことばもだ
ひとの動作 ものの動き すべて
一木一草に至るまでだ
みんな 新しいのだ な
人間としての外からのかかわりはそうなくてはならんのだよ
きっと
もういちど そこに目を向けてみる必要があるんだね
きっと


■原爆を語ることは、世界とのかかわり方を問い直す営みであることが、優しい言葉で述べられていて、とても感動した。多くの自民党の代議士や大企業トップ、役人に読ませたい。けれど、なぜ、普通に生きられないのか。なぜ、狂うのか。もちろん、個人的な資質もあろうけれど(羽賀研二や赤城徳彦は、どう逆立ちしても普通に生きられるとは思えない)、市場システムや社会構造、社会制度の問題を何度も問い直す必要があるように感じる。
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原爆詩181人集(4)

■旧暦6月14日、金曜日、

非常に蒸し暑くて参った。昼、公園で本を読もうとしたが、あまりの蒸し暑さに、断念。小中学生くらいの兄弟が元気にキャッチボールをしていた。午後、仕事を少し進める。夕方、家人をカイロに連れて行く。待ち時間の間も仕事をする。一時間近くも外の狭い空間で待てたというのは、ちょっとした自信になった。帰宅すると、娘が掃除を済ませ、麦茶まで作ってくれていた。ちょうど、試験が終って休みだったのだ。



米田栄作(1908-2002)広島県生まれ、広島で被爆。


川よ とわに美しく

その二

川は敗れなかった
川は崩れなかった

色冴えてきた水嵩
それゆえ 雲々は
日毎 水浴びにやってくる

水底の焼木一本
それゆえ 私の子は
夜毎 ぶらんこを夢みるだろうか
朝夕 鐘よ鳴りわたれ
彩いろに美しく 水は
永遠に漂うものを

川は焼けなかった
川は失われなかった


『原爆詩181人集』(p.50)





春 望

国破れて山河在あり
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書万金に抵あたる
白頭掻けば更に短かく
渾て簪に勝えざらんと欲す


一見、この詩は、杜甫の有名な詩を思い出させる。しかし、決定的に違うのは、「嘆かない」ことである。世界は歪んでいる、その歪みの頂点が原爆投下だったように思う。そして、今も世界は歪んでいる。そうした世界のありようを批判して批判して批判して、最後の紙一重のところで、世界を信じる方に賭ける。なぜなら、それは母であり、父祖であるからだ。そんなメッセージが聞こえてこないだろうか。

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原爆詩181人集(3)

■旧暦6月13日、木曜日、

今日は、朝から、国府台に自律訓練法の習得に行く。腕から力が抜けて重くなるという自己暗示をかけるバージョンにアップした。これをやると、手のひらだけでなく、腕全体が熱くなってくる。午後、少し、仕事が進んだ。嬉しい。

布袋が町田康を殴った、という夕刊記事にびっくりした。お互い45歳。共同でコンサートをやったり、町田が詞を布袋に提供したりしていた仲という。45にもなって、こうなるのは、裏に女性問題か、金銭問題か。もっと、びっくりしたのは、1951年に、フルトヴェングラーがバイロイト祝祭管弦楽団を振った第9が、まがい物だった可能性が出てきたという記事。リハーサル音源をEMIが編集して作り上げた「作品」だったようなのだ。つまりは、ライブじゃない。この録音は、名盤中の名盤と言われ、EMIのCDの帯びには「足音入り」なんて書かれている! 最近、本物のライブ録音のテープが出てきて、CD化された。これも面白い。



嵯峨信之(1902-1997)


ヒロシマ神話

失われた時の頂にかけのぼつて
何を見ようというのか
一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩いている

   (死はぼくたちに来なかつた)
   (一気に死を飛び越えて魂になつた)
   (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

そのなかのひとりの影が石段に焼きつけられている

   (わたしは何のために石に縛られているのか)
   (影をひき放たれたわたしの肉体はどこへ消えたのか)
   (わたしは何を待たねばならぬのか)


それは火で刻印された二十世紀の神話だ
いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ



■原爆で、石段に人間の影だけが焼きつけられていたという話は、子どもの頃に、父から聞いたことがある。この詩は、まるで、原爆投下直後に立ち会っているような臨場感があり、心に残った。そのリアリティは、死者たちの声を届ける霊媒になっているところにあるように思う。「死はぼくたちに来なかった」という一行は強烈な印象を残す。

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原爆詩181人集(2)

■旧暦6月12日、水曜日、

仙人の伝記を集めた『列仙伝・神仙伝』(平凡社ライブラリー)が好きで、たまに読むのだが、物語としてもなかなか面白い。孔子が老子を訪ねて道を問い、老子のあまりにもぶっ飛んだ答えを聞いて、唖然としてしまって、帰宅して、3日も口が聞けず、弟子が心配した話など、何度読んでも、面白い。孔子は老子について、「人間ならわしもなんとかできるが、あれは龍じゃな」と言ったとか。まあ、そういう仙人たちの話の中に、仙術について具体的に記している箇所もある。

「(前略)いつも息をつめて腹式呼吸する。早朝から日中まで正座を続けて、目を拭い、身体を擦り、唇を舐め、唾を飲み込み、深呼吸すること、数十回、それから日常の動作に移る。(中略)神経が全身くまなく届き、頭部より諸器官・内臓・手足ないしは毛髪に至るまで、満遍なく行き渡らせ、その気が全身に漲るのを覚えるまでやる。ゆえに、鼻や口を経て十本の指先にまで届き、やがて身体が安楽になるのであった。(後略)」(『同書』pp.144-145)

これを読んで、ぼくが今やっている自律訓練法に近いな、と思った。自律訓練法というのは、今のところ、そんな難しい型を覚えるものじゃなく、ベッドみたいな長椅子で、腹式呼吸を繰り返すだけである。これによって、交感神経と副交感神経のバランスが取れ、心臓から末梢血管まで血液が送られて、手の平などの皮膚温度が上昇する。これをサーモグラフィックで確認しながら進めるわけである。これを一日3回家で実施しているのだが、家では、ベッドに横たわって行う。

仙術というのは、究極的には、不老不死になり、やがて仙界に昇天することを目的にしている。人間界を離れるくらいのレベルになると、毛や羽が生えて、異形の姿になったり、仙界に上っても、下っ端の仙人からスタートする。だから、それを嫌って、地上に留まり、長生するだけの地仙になる仙人も多かったらしい。

ぼくのやっている自律訓練法は、もちろん、仙人になることが目的じゃない。健康回復が目的なんだが、上の神仙伝の記述を読んで、応用できる部分があるなと感じた。自律訓練法では、「神経が全身くまなく届き、頭部より諸器官・内臓・手足ないしは毛髪に至るまで、満遍なく行き渡らせ、その気が全身に漲るのを覚えるまでやる」ほど、徹底して、イメージトレーニングしていない。そう考えて、これを自律訓練法でやるとどうなるか、この数日試している。今のところ、通常の自律訓練法よりもはるかに深い安静が得られることがわかった。ただし、日常に戻るときがちょっと大変になる。

通常の自律訓練法でも、目覚めるときには、両手のこぶしを強く握って腕を前後に強く何回も運動させて、深呼吸を繰り返してから、目を開ける。そうしないと、立ち上がってめまいがすることがあるのだ。仙術型自律訓練法をやると、覚醒の運動をしても、しばらく、ぼーっとしている。

これを繰り返していると、そのうち、仙界から呼び出しが来るかもしれませんな。



老子の場合、政治学もあるが、基本的に仙術は、自己との関係を調整する身心の倫理だと思う。これに対して、言語表現は、他者を前提にしている。なぜなら、言語が媒介するからだ。言語表現に社会を排除することはできない。自分のためだけに書いているという詩人もいるが、自己もまた社会であることを忘れているに過ぎない。次に紹介する大平数子(1923-1986)は、広島県生まれで広島で被爆。「慟哭」という連作詩をノートに10冊残している。その中の11番。


慟哭

 しょうじよう
やすしよう

しょうじよう
やすしよう
しょうじよおう
やすしよおう

しょうじいよおう
やすしいよおう

しょうじい
しょうじい
しょうじいい



しょうじ=昇二 次男
やすし=泰 長男

■確かに詩は言語に媒介されている。しかし、ここで、言語が媒介しているのは、意味ではない。名でもない。歴史なんだと思う。
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原爆詩181人集(1)

■旧暦6月11日、火曜日、

今日は、朝から、慈恵医大だった。帰り際、柏郊外の青田が風にやはらかく揺れていた。潮騒が聞こえてきそうなくらい海に似ていた。



今年も8月がやってくる。詩人の鈴木比佐雄さんが中心になって進めていたプロジェクト、『原爆詩181人集』(コールサック社)が出版された。このアンソロジーは、作品が書かれた年代別に編集され、峠三吉や栗原貞子、原民喜といった原爆詩の古典を踏まえているだけでなく、今、実際に詩を書いている詩人が、原爆や戦争をどう感じているのか、わかるようになっている。ユニークなところは、日本の詩人に限らないという点だ。ロシアやギリシャ、フランスの詩人たちの原爆詩も掲載され、原爆詩は日本人だけのものという狭い観念を打ち壊してくれる。181人は、実にさまざまな視点や感受性で原爆を歌い、詩人の数だけ戦争の感じ方があるように思えてくる。と同時に、戦争は終っていない、という想いも強くしてくるのである。

181人の中から、何人か紹介してみたい。「生ましめん哉」(この作品も掲載されている)で有名な栗原貞子(1913-2005)は、こんな短い詩も残している。


無題メモ

一度目は あやまちでも
二度目は 裏切りだ
死者たちへの
誓いを忘れまい


簡潔に今を撃っていると思う。戦争で死んだ死者のことを重く受け止めたとき、「戦後レジームからの脱却」などと軽々しく言えるのだろうか。どんなレジームであっても、この誓いが前提中の前提だろう。

原民喜(1905-1951)は次のような原爆小景を描いている。


悲歌

濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頬笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向こうに見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つていきたいのだ
透明のなかに 永遠のなかに


叫ばないだけに切々と伝わってくる。悲しみと一瞬の希望が。


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RICHARD WRIGHTの俳句(21)

■旧暦6月10日、月曜日、

徐々に、普段の生活状況に戻りつつある。今日は、午後から、2週間ぶりのカイロ。自律神経失調症の人が結構やってくると施術師のお兄ちゃんは言っていた。帰りに上野の本屋で、池内紀が編んだ『尾崎放哉句集』(岩波文庫)と今、話題の新書『生物と無生物の間』(講談社現代新書)を購う。山頭火は、まとまって読んだけれど、放哉は、吉村昭の小説『海も暮れきる』が印象的で、相当読んだ気になっていた。しかし、本棚を探しても、いっこうに放哉句集は出てこないので、たぶん、まとまって読んでいないのだろう。この本は、自由律以前、自由律以降、句稿、入庵雑記からなっていて、放哉の変化が掴める。池内紀さんが選んだというところにも興味を惹かれた。東大教授を定年前に「計画どおり」辞めてしまい、自由に生きているところなど、放哉の生き方と響くものがあるかもしれない。



(Original haiku)
On winter mornings
The candle shows faint markings
Of the teeth of rats.


(Japanese version)
冬の朝は
ローソクにネズミの歯形が
ちょこっとついてゐる
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風がおもてで呼んでゐる(7月の賢治)

■旧暦6月8日、土曜日、

今日は、子どもが朝から、障害児ボランティアに行くというので、一家で早起き。ネットで、デカフェ(これなんだかわかります? decaffeinatedの略で、カフェインレス珈琲のことらしい)を探す。睡眠障害があるので、カフェインはなるべく摂りたくない。けれど、珈琲好きとしては、旨い珈琲が飲みたい。decaffeinatedの方法は、これまで水か薬品を使っていたらしい。これだと、間の抜けた珈琲や薬品臭い珈琲ができあがる。最新の手法は、超臨界二酸化炭素抽出法とかいうらしい。実態はよくわからないが、これにした。しかし、理由はよくわからないのだが、たいていのデカフェはコロンビアのような気がする。バリエーションがあるといいのだが。

今日は、新作詩が一篇書けた。これが嬉しかった。昨日は、フランス人の書いたよくわからない英語の翻訳に悩んだ。これが嬉しかった。




風がおもてで呼んでゐる

                      宮沢賢治


風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぽうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛び出して来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林のなかで
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる


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飴山實を読む(23)

■旧暦6月7日、金曜日、のち

午前中、2人を送り出して、自律訓練法をやったら、そのまま眠り込んでしまった。起きたら、1時。近所の自家製小麦粉を使うパン屋に週末のパンを買いに出て、しばらくぶらつく。帰宅後、エアコンの黴取りを行う。

海外医療奉仕に出ている友人が、一時帰国し、面白本のリクエストをしてきたので、コミックばっかり推薦する。コミックと言えば、ここ数日、諸星大二郎ばっかり読んでいた。4冊一気読みで、さすがに、飽きた。家内と娘は気持ち悪いと言って嫌がるのだが、ぼくには、いい気分転換になる。怪奇・幻想系というのは、嫌いじゃなく、今、上田秋成のいくつかの物語と江戸の怪談を古本・新刊で集めている。

東大の野矢茂樹がテレビで言っていたが、座禅は、言語以前の世界に回帰させて、思考をリセットする働きがあると。これと同じように、怪奇・幻想系は、合理的な生活世界に風を通し、目的合理的に再編された世界に別の光を当てる。そっちに取り込まれると意味ないんだが。野矢さんは、日常的に適正と言う事態、つまり常識を理論づけて、穴に落ちた人を救うのが哲学の役目だと言っている。しかし、すぐれた哲学者は、マルクスにしても、ニーチェにしても、ヴィトゲンシュタインにしても、人を深い穴に落とすものではないのか。落とすことで救済するのではないか。あれ、野矢さんと同じことを言っているかな。ま、とにかく、哲学は、大きな問題を睨みながら、小さな問題を考えることも大事だと言った言葉など、かるみ=不易流行を思わせて面白かった。

先週の月曜日、家人が駅前のマツキヨに自転車を一時駐輪したら、松戸市に有無を言わさず、撤去されてしまい、保管料3,000円を要求された。2駅も先の保管所まで取りに来い、という横暴さだ。非常に一方的だし、高圧的で不愉快だ。そもそも、駐輪場を積極的に確保しないようとしない行政に問題があるのに、罰則で事態を収拾させようというもっとも幼稚な措置だと思う。21世紀にもなるのに、いまだにクルマ優先の意識から抜け出られず、駐車場さえ確保できれば、商店街も潤うし、利便性も高いと信じ込んでいる。少しは、クルマの中心部乗り入れを禁じたフライブルクを見習え! といったような抗議と提案(駅前の地下駐車場を全面的に駐輪場に変換せよ)をメールで市長宛に書き送った。いつも「読みました。担当部署に答えさせます」と言うので、「あなた自身の環境問題に対する思想を述べてください。それが市政の最高責任者の義務です」と付け加えた。

今日は、これから、2ヶ月ぶりにサイバーの翻訳を再開する。どうなることやら!



鑿を研ぐひそかな音をかきつばた   『次の花』

■この句は、「鑿(のみ)を研ぐひそかな音を」の「を」の使い方が非常に気になった。ここで、切れるのだと思うが、よくわからない。「鑿を研ぐひそかな音や/かきつばた」だとしたら、「かきつばた」を見ているうちに、心の中の音の記憶が甦り、鑿を研ぐ音が聞こえたような気がした、あるいはリアリスティックに、鑿を研ぐひそかな音を聴きながら、「かきつばた」を見ているという理解だと思う。常識的には、「鑿を研ぐひそかな音を(聴く)/かきつばた」と切れているのだろうが「鑿を研ぐひそかな音をかきつばた(に)」のように結んでいるようにも読めてきて、不思議な味わいがある。句の構造にあいまいさは残るものの、ぼくのように、いつも「や」、「かな」か、名詞切れくらいしか芸のない者には、實の言葉の扱い方の繊細さは非常に勉強になる。

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芭蕉の俳句(142)

■旧暦6月4日、火曜日、

午後から、医科歯科大。担当医のドクターA氏といろいろ話す。今日、わかったのは、「病は気から」、「信じる者は救われる」といった昔からの言葉の有効性だった。この二ヶ月、さまざまに意識領域で試行錯誤を重ねてきた。原因の特定と、悪化の諸条件の特定、それらを踏まえた治療戦略を実行してきた。これは、総合的な治療を軌道に乗せるために必要なプロセスだった。しかし、今、新しい段階に来たと感じている。それは、「ゆだねる」ということである。「待つ」ということである。信じて待つ。いったい、何を信じるのか。己を出現させた世界であり、己に連なる系譜である。今の己のありようをトータルで信じる。やるだけのことはやった。後は、必ず治ると信じて継続するだけである。

句会や朗読会のような、公的な場は、まだ、長時間耐えられる自信がないので、回避するにしても、無理のかからない程度に、そろりと、本業の「サイバープロテスト」の翻訳を再開しようかと考えている。

新潟の中越沖地震で感じたのは、多種多様な病人と老人などの定期的な医療メンテナンスが必要な人々をどうするのか、といった問題と、原発の問題だった。高齢化社会での自然災害リスクといった新しい局面を行政は想定できているのかどうか。ぼくが、今仮に、被災者になったら、と思うと、心底ぞっとする。もう一つは、原発の問題で、柏崎刈羽原発の問題は、首都圏の人間にとっては、東海地震に際しての浜岡原発を想起させる。他人事どころではないのである。地震よりも死の灰で全滅ではないか。電力各社の原発耐震強度は信用できるのかどうか。そもそも、原発は本当に必要なのかどうか。



やすやすと出でていざよふ月の雲  『笈日記』

■元禄4年作。「月の雲」の「の」の使い方に惹かれた。というよりも、絶妙かつ不思議な感じがした。現代の俳人なら、やすやすと出でていざよふ月は雲とするのではないだろうか。意味的には同じである。「月の雲」とすることで、主格だけでなく、月が従えている雲にも光が当たる。現代では、むしろ、そういう理解が普通じゃないだろうか。つまり、「の」と言えば、所有格あるいは同格。一読したときに、不思議な感じがしたのは、この辺にあるのかもしれない。「月の雲」は、いざよっているのは、月であり、出でたのも月であることはわかっているが、まるで、雲の方こそ主役で、出でていざよっているような感じも受ける。
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