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Cioranを読む(63)


■旧暦10月4日、日曜日、

(写真)同志社・クラーク館

今日は、朝から、特養へ、叔母の見舞。痴呆症というのも、いいところがあって、同じ話題も新鮮に受け止めてくれるので、話が楽であるw。夜、久しぶりに夕食を作る。

昨夜は、遅くまで、昶さんの特集をしている現代詩手帖11月号を読んだので眠い。親交のあった人が死ぬと、親が死ぬのとは違った意味で、死が親しくなってくる。いや、生々しくなると言った方がいいかもしれない。もう20年くらい前になるが、何が絶望の種かと昶さんに聞かれたことがある。そのとき、奇しくも「経済と倫理が両立しないこと」とぼくは答えたのだが、昶さんの答えは「死ぬこと」だった。物理の法則は、人間の発明体系の一つで、ある世界観を前提にした相対的な真理だとぼくは思っているが、「エネルギー保存の法則」は、昶さんにも作用したのか、聞いてみたい気がする。



『東国』という詩誌をご存じだろうか。この8月で142号を数える、文字どおり東国の群馬県東部(東毛地域と呼んでいる)から出されている。群馬は詩の国と呼ばれ、萩原朔太郎をはじめ、萩原恭次郎、大手拓次、高橋元吉、山村暮鳥、伊藤信吉など、錚々たる詩人を輩出している。実は、これらの詩人たちは、群馬県西部(西毛地域)の出身で、これまで、なかなか、東部の詩人たちの姿が見えなかった。『東国』は、その東部を代表する詩誌で、その動静を伝えてくれる。ぼく自身、東部の太田市の出身であるから、この雑誌のことは以前から知っていたが、なかなか、実物を手に取る機会がなかった。142号には、愛敬浩一さんの「東毛の詩人たち」という批評があり、さまざまな先人たちがいたことを教えられた。

その142号から江尻潔さんの詩。



とおのとよろぎ


あまたるひ
 ひなみ
  とよほみ
   いすけより

あまち
 かがめく
  とおの
   とよろぎ


意味は、わからないが、音楽に惹かれた。



Dérivatif à la désolation: fermer longtemps les yeux pour oublier la lumière et tout ce qu'elle dévoile. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987 

悲しみを紛らわせる方法。長いこと、眼をじっと閉じていること。光と光が暴きだす一切のものを忘れるために。

■東洋的なものを感じる。マリア像と百済観音像を比較して、前者があらゆるものを思い出させるのに対して、後者はあらゆるものを忘却させると、亀井勝一郎は印象的に語っている。シオランも、理性の解決する力よりも闇の忘却する力を、評価しているように思える。欧州の中の周辺。面白い人です。


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一日一句(258)






龍笛や黙は風の神無月





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一日一句(257)






うそ寒や線量高き線路際





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Cioranを読む(62)


■旧暦9月30日、水曜日、

(写真)無題

ある問題と格闘していて、まだ、出口が見えない。午後、少し昼寝。今日は好天だったので、洗濯物がよく乾いた。

北杜夫が亡くなった。なんだか、寂しいですね。中高生の頃、どくとるマンボウ・北杜夫、孤狸庵先生・遠藤周作、ショートショートの星新一の三人が好きで、よく読んだ。北杜夫からトーマス・マンを知り、遠藤周作からグレアム・グリーンを知った。星新一から、SFというジャンルがあることを知った。みな、有名になったが、軌道から外れた人生の味わいを知っていた。秋の最後の日溜りのような懐かしさ。



Excédé par tous. Mais j'aime rire. Et je ne peux pas rire seul. Cioran Aveux et Anathèmes p. 100 Gallimard 1987 

どいつもこいつも、うんざりだ。でも、わたしは笑うことが好きである。そう、一人では笑えない。

■好きだなあ! この断章。



Sound and Vision

今日も龍笛で。これは現代音楽に近い。ちょっと、凄いと思う。









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一日一句(256)






新蕎麦や酒で酒酌む人ありき





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Cioranを読む(61)


■旧暦9月29日、火曜日、

(写真)江戸城址

twitterで話題になった吉本隆明の8月5日の日経記事を読んだ。

quote<原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。
だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です>unquote

ぼくが思ったのは、この人には、進歩史観があるということで、それは、吉本さんが、工学系の出身ということや戦後の生産力・技術力の増大と生活の豊かさの一致が実感としてある世代だからなのだろう。進歩史観を信じる気になれないのは、そこに流れる時間とそこに存在する空間が、近代のイデオロギーだからである。時間は均一の労働時間で満たされ、客体として疎外されている。空間は労働時間が凝縮した商品というありかたでしか出現していない。こうした点に科学技術による社会の進歩を信じる人々は、無自覚あるいは肯定的である。しかも、科学技術と政治支配との融合に寛容で、社会の問題は技術的に解決できると信じている。だから、原発問題を、「技術的な問題」に還元してしまい、問題の本質を根本的に考え直すことを退化と考える。原発を考えることは、利権構造や独占構造、安全性の向上といった問題を考えるだけではなく、現存の科学技術が本来的にもっている、人間と自然を、ものとして、操作・支配の対象にするという現存科学技術の本質を問い直すことでもあると思う。むしろ、それが今一番問題なんじゃないだろうか。

quote<労働力、技術力をうまく組織化することが鍵を握る。規模の拡大を追求せず、小さな形で緻密に組織化された産業の復興をめざすべきだ。疲れずに能率よく働くシステムをどうつくっていくか、が問われるだろう。
 それには、技術力のある中小企業を大企業がしっかり取り込む必要がある。外注して使い捨てるのではなく、組織内で生かす知恵が問われている。この震災を、発想転換のまたとない機会ととらえれば、希望はある>unquote

一方で、面白いのは、吉本さんが、とてもいいことも言っている点で、なるほど、そうだなと思わせる。しかし、吉本さんの語ることは、理念論で、理念としては、確かに、そのとおりなのだが、なぜ、その理念が実現しないのか、考えさせない。一言で言うと、社会理論が欠如している。科学技術による社会問題の解決可能性と生産力の増大が幸福につながるという信念、他方で、理念による社会の方向付け。この二つが同居している。

熱心な読者ではないにしても、それなりに、吉本さんを読んできたつもりだが、現状の批判よりも現状の追認が多い。それは、上記のような思想傾向があるからだと、今回の原発をめぐる意見を読んで、わかった気がする。ただ、このインタビューを読んで思うのは、現存の科学技術のあり方の批判は、自然と人間の操作・政治支配を持たない科学技術の構想を含まないと、批判だけで終わってしまう、ということで、この課題が、どれだけ、困難なのかは、だれが考えてもわかるだろう。マルクスの『経済学批判』や『経済学哲学草稿』をモデルにしたような、「存在論的な科学」。そんなことをふと思う...。



Un désastre trop récent a l'inconvénient de nous empêcher d'en discerner les bons côtés. Cioran Aveux et Anathèmes p. 72 Gallimard 1987

まだ生々しい災害には不都合な点がある。災害の善い面が見えなくなってしまうということだ。

■今度の大震災と原発事故を踏まえると、身にしみる断章。善い面とは何だろうか。社会構造の欺瞞性がいっそうはっきりしたということだろうか。ウェブ環境は、いまや、一つの希望なのだろう。世界の庶民がつながれるという意味では。



Sound and Vision














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一日一句(255)






段ボールごつそり捨てし十一月





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一日一句(254)






にぎりめしかるく三つよ今年米





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(16)


■旧暦9月27日、日曜日

(写真)宮内庁式職部樂部ステージに設置された巨大なドラム(右方)、朱雀がデザインされている。ステージ左方には、青龍のデザインされたドラムが、設置されている。

昨日は、雅楽を聴きに皇居まで行ってきた。異次元の体験だった。結婚式で流れる「越天楽」くらいしか雅楽は聴いたことがなかったので、新鮮な体験だった。曲は、単調なものが多く、天上的なので、即、眠りの世界に入っていけるw。雅楽は、管弦と舞樂(舞いと伴奏)の二種類あり、面白いことに、音楽の起源ごとに分けて、現在まで継承している。日本古来からの原始歌謡である、神楽・東遊・大和歌・久米舞。これらを国風(くにぶり)歌舞と呼んでいる。もう一つは、大陸起源の楽舞で、起源が中国・中央アジア・インド方面のものを唐楽、朝鮮・満州方面のものを高麗楽と呼んで、区別して伝承しているのである。昨日の演奏では、国風を聴くことができなかったのが、残念だが、舞いも見られて楽しかった。舞いは4人一組(全員男性)でシンメトリックに行われる。ゆったりとした動作が特徴的。管弦二曲、舞楽二曲という構成だった。舞楽のうち、二曲目の「長保楽」は、一条天皇の長保年間(999年ー1004年)に、二曲を一曲にまとめたものらしい。一条天上と言えば、中宮定子、定子に仕えた清少納言が思い起こされる。清少納言のライバル紫式部もこの時代の人。この舞楽は、清少納言も紫式部も見たことがあっただろう。写真はここから>>> 残念ながら、演奏中、舞楽中の写真は、撮れなかった。演奏に支障が出るということで。

管弦がYoutubeにアップされていないか、探したのだが、管弦はなかった。代わりに、雅楽の楽器の一つ、龍笛(横笛)によるソロをいくつか見つけた。これらの曲を聴いて、すっかり龍笛の響きが好きになった。





165. Die Erfahrung hat mich gelehrt, dass das diesmal herausgekommen ist, dass es für gewöhnlich herauskommt; aber sagt das der Satz der Mathematik? Die Erfahrung hat mich gelehrt, dass ich diesen Weg gegangen bin. Aber ist das die mathematische Ausgabe? - Was sagt er aber? In welchem Verhältnis steht er zu diesen Erfahrungssätzen? Der mathematische Satz hat die Würde einer Regel.
Das ist wahr daran, dass Mathematik Logik ist: sie bewegt sich in den Regeln unserer Sprach. Und das gibt ihr ihre besondere Festigheit, ihre abgesonderte und unangreifbare Stellung.(Mathematik unter den Urmaßen niedergelegt.)
   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 98-99 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

経験は、今回はこうなったが、たいていそうなるとわたしに教える。しかし、数学命題はそう語るだろうか。経験は、この道を歩いたことがあると教える。だが、これは数学的な言明だろうか。数学命題は何を語るのか。数学命題は、経験命題とどんな関係があるのか。数学命題は規則の威厳を持っている。
その点では、数学は論理学だというのは正しい。つまり、数学は、われわれの言語の規則の中を運動するのである。それが、数学に、固有の堅固さ、隔絶した侵すことのできない地位を与えているのである。(数学は、基準の中の基準になっている)


■かなり面白い断章。これを読んで、数学について言われていることは、物理学の「公理」にも当てはまるように思った。たとえば、アインシュタインは、ある実験から、特殊相対性理論の柱になる二つの公理を導く。1)すべての慣性系で自然法則は同様に成り立つ(相対性原理)2)光は、真空中で光源の運動にかかわらず、すべての方向に速度cで伝わる。この二つの命題は、無時間的である。今日だけ成立するというわけではない。数学と異なるのは、数学が文法の中だけで運動するのに対して、公理は実験結果という経験命題を一般化したものであることだろう。演繹と帰納の違いとも言える。しかし、公理は既存の公理体系との関係性の中で作られ、数学体系と同じように、生成のプロセスがある。その点で、時間が関与する。このように、科学技術の合理性は、歴史的に作られてきたものだとすれば、公理は、何らかの歴史的現実の物理学的な表現と考えることができる。公理には公理を支える歴史的な現実があるとも言えるだろう。そう考えて、アインシュタインの公理をふたたび見ると、光の性格の特異性に目が止まる。光の速度は全方向で常に一定である。光は、ある意味で、普遍・不変である。その点で、とても「神」に似ているが、歴史的な現実の中で、これに対応するものは、「資本の運動」ではなかろうか。「資本の運動」は普遍的であり、不変的である。資本運動の結果である「市場」は、地球上で唯一共通の言語であり文法である。数学が発見ではなく発明であるように、公理も発見ではなく、人間の発明だと言えるのではなかろうか。それが「科学技術の合理性は歴史的なものだ」という命題の意味だと思う。



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一日一句(253)






一枚の楽譜の余白秋の蝶





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