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一茶を読む:七番日記(58)


■旧暦7月4日、水曜日、、午後、夕立

(写真)夕日の槿

終日、仕事。午後、少し、うとうと。

大島渚の『青春について』というエッセイを読んだ。今さら青春もないものだが、面白いことを言っている。青春時代は、普通は「可能性」の時代と人は考えるが、実は自分の「不可能性」を見極める時代なのだという。自分には、なにができないかを見極めて、人生に乗りだしたとき、それまでの社会不適応という悩みがかなり解決されたと監督は言う。自分の能力の限界を見極めるのは、確かに、難しい。普通は、自分の可能性の方に気を取られて、前途にはるばるとした大海を観るのが青春の特権と言ってもいいからだ。この逆転の発想には感心してしまった。ただ、大島監督に、ぼくが反論するとすれば、実際にやってみなければ、自分にできるかどうかは、わからないことも多い、ということである。そして、そのとき、「できない」をどう考えるか、という問題がある。2、3年やってものになることなど、ざらにはない。10年? 20年? ただ、途中で、病気になってしまうなど、心身が反逆したら、それは「できない」ということなのだろう。そうしたとき、方向転換が容易だったり、選択肢が多い社会は、いい社会なのだと思う。この意味で、自分とは、やはり、社会関係も含んだ心身の全体的な広がりなのだろう。その社会関係が大きく歪んでいるにしても。



人来たら蛙となれよ冷し瓜   文化十年

■この子どもみたいな欲張りぶりと発想に惹かれた。なんだか、笑ってしまうではないか。その笑いのある部分は、自分にも向けられている。宮崎駿監督は、「子どもの未来は、残念ながら、つまらない大人である」と言っている。確かに、そうなのかもしれないが、子どもと大人の関係ほど、面白いものはないのではなかろうか。たいてい、子どもから、われわれは学ぶ、自分の中の子どもにさえ。




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一茶を読む:七番日記(57)



■旧暦7月2日、月曜日、、ねぷた祭り

(写真)朝顔

今日も、涼しい。朝まで、なんだか、勢いで、原稿を書いてしまった。図形詩というのをはじめて試みてみた。現在の原発問題は、言語だけで捉えるよりも、図形詩のような、乾いた視覚で捉えると、その底知れなさが浮かび上がるのではないか、という考えからである。まだ、とても、成功しているとは言えないが、今後、この方向も、一つの可能性として、探求してみたいと考えている。パソコンのデザインソフトや数学の図形等、いろいろ、応用できる可能性が広がっていると思う。

午後から、床屋へ行き、その足で、施設に叔母を見舞う。9月から特養に入居が決まっているので、それまでに、健康診断などを済ませておく必要があるのだが、すっかり忘れていた。



乞食の枕に並ぶうき葉哉   文化十年

■当時の様子が見えるようで惹かれた。蓮の浮葉を枕にしていたのだろう。こういう人々へ視線が向うこと自体、やはり卓越していると思う。

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一茶を読む:七番日記(56)


■旧暦7月1日、、新月

(写真)ランチョン

今日は、朝の4時ごろ大きな地震があった。たまたま起きていたが、朝から疲れた。午前中、頭が働かず、ぼーっとする。午後、掃除してから、いつもの喫茶店に出かける。翻訳詩の原稿を推敲する。まあまあ、日本語らしくなってきたが、まだ、不満が残る。隣のカップルが煙草を吸い始めたので早々に退散する。



門先や掌程の田も青む   文化十年

■「掌程」という比喩も面白いが、上5の取合せで、家のすぐ前の田の情景が描がかれて、視線が門からすぐ先の田へと移るようになっている。この点、参考になるが、今なら、どういう上5をつけるだろうか。意外に難しく工夫の余地があるように思えた。



Sound and Vision

もう一度貼り付けておく。多くの人に観ていただきたい。Youtubeの画像が削除されたら、次の衆議院テレビのビデオライブラリーで観ることができる。

開会日:2011年7月27日~2011年7月27日、会議名:厚生労働委員会、発言者名:児玉龍彦














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一茶を読む:七番日記(55)


■旧暦6月30日、土曜日、

(写真)夜の街の向日葵

今日は、増俳15周年の記念句会だった。ウェブでは知っていてもリアルでは初めての人や、お久しぶりの人々と会う。清水哲男さんとは2年ぶり。哲男さんと昶さんの兄弟からは、ウェブ等を通じてさまざまな恩恵をこうむっているが、一番、勉強になるのは、二人の「リベラル」さである。神保町も久しぶりだった。二次会に行きがてら、古本のラックをのぞいていたら、面白そうな本が目について困った。今度、ゆっくり古本屋巡りをしよう。

『孤独のグルメ』(久住昌之原作谷口ジロー作画)読了。さすがに面白い。いい味出しているのである。巻末の久住昌之氏自身による長いあとがきも笑わせながらも読ませる。2000年に出て、2009年には29刷! である。だが、2011年の3.11以降、このコミックを読むと、まるで、失われたユートピアを見るような気分になってくる。食の放射能汚染。魚も肉も野菜も水も!

対訳詩歌集『百葉集』(竹林館)が出た。これは外国語と日本語を対照させた18人のアンソロジーだが、ぼくも、ロミーとの対話の中で作ったドイツ語の詩と英語の詩で参加させてもらっている。ご興味のある方は、ご一読を。



かくれ家やあなた任せの稲の花   文化十年

■「あなた任せ」はよく知られているように、熱心な浄土真宗門徒だった一茶にとっては、阿弥陀仏だが、晩年になるほど、他力本願志向が強くなる。この句に惹かれたのは、「かくれ家や」という上5の取合せが、面白かったのである。「かくれ家」は、自分のすまいと関連があるのではなかろうか。



Sound and Vision

まだの方もいるかもしれないので、この映像を貼っておきたい。政治家の鈍感さと科学者の奢りは、どこかで、通じている。ここに出てくる児玉先生は、内科医。弱い人に寄り添ってきたことがよくわかる。











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一茶を読む:七番日記(54)


■旧暦6月25日、月曜日、

(写真)夏の門

今日は休日だったが、腰痛でなにもできなかった。そもそも、机に座ることが苦痛である。ベッドに横になっていると、起きる時に激痛が走る。骨に異常はないことはわかっているから、安静にしていれば、良くなるはずだが、座りっぱなし、立ちっぱなしの仕事が、その条件を作らせない。一週間も、締め切りをすぎた原稿があるのだが、腰痛で、考えがまとまらない。明日にしよう。谷口ジローを読んで寝るのである。



蚊いぶしもなぐさみなるひとり哉   文化十年

■「ひとり哉」の響きが痛切で惹かれる。こうした句は、しみったれているといって、とんちんかんな嫌い方をする向きもあるけれど、孤独の深さは、救済の深さなのである。文学の本質的なところに、自己救済、一人宗教があり、それはそのまま、ひとが類的存在であるがゆえに他者を救済する可能性を開く。だが、こうした孤独な人は、現実に相手にしたときには、なかなか、大変だろうなとは思う。他者との距離感が狂っている場合が多いし、相互認識に大きな開きがあることが多いから。これは、まさに、自戒を込めて言うのであるが...。




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一茶を読む:七番日記(53)


■旧暦6月24日、日曜日、、河童忌

(写真)立ち葵

外出から戻ると、うちの女性軍がはじけている。聞くと、今日はうち居酒屋なのだという。沖縄のオリオンビールが決め手になったようである。オリオンビールは、沖縄で生産しているものと、アサヒビールがOEM生産しているものの2種類ある。近くに沖縄物産店があり、沖縄オリジナルが入手できるのである。やはり、OEMより美味い。ビールは、硝子のジョッキから、陶器のグラスに替えて、いっそう美味になった。陶器で飲む方が美味しい。注ぐと、すぐに冷える。陶器は、旨みを上手く引き出すのだろうか。

谷口ジローを読み始める。面白そうなコミックばかりで、何から読むべきか、迷うのだが、ブックオフで、店員のお兄さんが見つけ出してくれた『孤独のグルメ』(久住昌之原作)から、読んでいる。やはり、食いしん坊なのだろうな、自分W。店の名前が安易に載っていないところがいいところなのだろう。創作でもいいのだし。



寝ぼけたかばか時鳥ばか烏   文化十年

■一読笑った。子どもが友だちに悪口を言っているみたいで、笑える。このとき、時鳥も烏も、親しみ深い存在として、われわれの前に現れる。こういう感覚は、惹かれる。いくら、こざかしい事を言ってみても、所詮、人間も馬鹿なのである。原発問題を見れば明らかである。




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一茶を読む:七番日記(52)


■旧暦5月4日、日曜日、、夜、激しい夕立

(写真)釣り

『七人のシェイクスピア』3読了。面白い。4巻も30日に出たようなので、そのうち読みたい。午前中から掃除開始。埃を取ったところで、ベッドに横になって本を読んでいたら、眠ってしまった。起きてから、掃除機をかける。夕方、図書館でシュニトケとアルヴォ・ペルトのCDを借りてくる。いつもの喫茶店で、シオランを読む。

独文学者で詩人の鈴木俊先生から、エッセイを送っていただいたので、パラパラ読んでいたら、鹿島神宮の大鳥居が、今度の大震災で倒壊したことを知った。ちょっと、びっくりした。鹿島神宮は、芭蕉とも縁のある神社で、ぼくも、2回ほど、訪れている。あの大鳥居がなくなったのか! と今さらながら、地震の広範囲な威力に驚く。



鹿島神宮大鳥居





大かたはあちら向也はすの花   文化十年六月

■一読、笑ってしまった。確かに、こんな感じがする。一茶の不遇を象徴しているようでもある。



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一茶を読む:七番日記(51)


■旧暦4月29日、火曜日、

(写真)猫になつかれる

昨日の午後、詩人の清水昶氏が亡くなった。高血圧による心筋梗塞である。突然だった。享年71。深夜には、掲示板に書き込みをしている。突然で、言葉がない。しかし、あの声が耳に残っている。組織が馬鹿馬鹿しくなってやめた直後に、昶さんに出会って、テロリストに間違われたのが、そもそもの始まりだった。ずいぶん、いろいろ、話をした。ぼくには、全身が宿題みたいな人で、詩も俳句も、昶さんがいなければ、やっていなかったと思う。昶さんがいなくなって、宿題がいくつか残された。そして、声は、まだ、耳に残っている。

清水昶、最後の三句。


遠雷や町は地獄の一丁目


五月雨て昏れてゆくのか我が祖国


遠雷の轟く沖に貨物船


今日は、午後に、叔母の施設へ。80の叔母は元気である。食欲も旺盛。車いすと短期記憶障害を除けば...。




古郷や仏の皃のかたつむり
   文化十年六月

■かたつむりが、仏の顔に見えた、というのがやはり面白い。それで、故郷を実感している。故郷は、ことに、一茶には両義的であったろうに。山川草木悉皆成仏という言葉を思い出した。こういう疎外や物象化とは異なる次元の世界は、今では、見えにくくなっているが、意外に、われわれの中に強くあるような気もする。女の子たちがよく上げる「かわいい!」、「ちょーかわいい!」といった悲鳴は、これに近いのではなかろうか。establishmentになるほど、疎外や物象化に自己同一化し、差異に鈍感になるのではなかろうか。



Sound and Vision





※昶さんは、母校、同志社が好きだった。ぼくも、この頃、この母校が好きである。



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一茶を読む:七番日記(50)


■旧暦月25日、金曜日、

(写真)時と人

この頃、ブルーブラックをいろいろ試して楽しんでいる。ペリカーノジュニアを新たに入手し、ペリカンのブルーブラックを使い始めたのを皮切りに、クロス、パイロット、昔のモンブラン(ショパンやモーツァルトといった、今の奇妙な商品開発路線はなんだろう? そして、あの装飾過剰は?)と書く対象に応じて使い分けている。ぺリカーノは鉄ペンだが、なかなか、いい味を出してくれる。今のところ、パイロットのBのブルーブラックが書き味は一番いい。パイロットは、以前より、ブルーが濃くなったような気がする。



大の字に寝て涼しさよ寂しさよ   文化十年五月

■率直さに惹かれる。下五の「寂しさよ」は、何気ないが、凡庸な俳人には書けないと思う。うまく取り繕うのではなかろうか。



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一茶を読む:七番日記(49)

■旧暦4月20日、日曜日、のち

(写真)老鉄

どうも気合いの入らぬ日が続く。午後、買い物、夕方、一天にわかにかき曇り大雨となる。あたりはすっかり緑の匂い。新茶を飲んで聊斎志異を読む。



旅人や山に腰かけて心太   文化十年四月

■景の見晴らしの良さに惹かれる。「山に腰かけて」とはなかなか出てこないと思う。



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