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RICHARD WRIGHTの俳句(45)

■旧暦10月21日、金曜日、

(写真)
そしてという
接続詞だけを
残して

(谷川俊太郎)



そのまんま東が、若者に徴兵制は必要と持論を展開、という記事に大笑い。「知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った」そうである。自衛隊に行くべきなのは、自民党の政治家どもと霞ヶ関の役人と大企業のトップだろう。そもそもモラルハザードは、なんでも金になれば売るという市場信奉者が狂ったように金儲けに走っているから起きているのだ。若者はその犠牲者にすぎない。



早朝から仕事をすると捗ることを発見。このパターンでしばらくは仕事を進めようと思う。このところ、気分転換に、You Tubeで音楽映像を観ているのだが、意外に、レアものが多いので、驚いている。今は、ロック系の映像を主に観ていて、スミスから始まって、キュア、ジャパン、ピストルズ、ジャムと来て、キングクリムゾン、フー、ジミー・ページのギターソロの映像まで、止まらなくなってしまった。スミスのモリッシーが花束を振り回しながら、まったり歌っている様子や、キングクリムゾンのロバート・フリップが、例によって、一人超然と椅子に座ってプレイしている様子、ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンが、ロッド・スチュアートみたいな髪型をしているアリオラハンザ時代(?)の映像など、フーは「マイジェネレーション」の後にギターとアンプとドラムをしっかり叩き壊してくれるし、いやー、楽しかった。




(Original)
As though for always,
Each petal lit by the sun,‐
Apple blossoms!



(Japanese version)
昔からそうだったように
どの花びらも陽に輝いている
林檎の花



(山頭火)
花いばら、ここの土とならうよ


■ライトは、林檎の花の生命力を歌っている。明るく向日的である。for alwaysという言葉で、時間の流れを感じさせてくれる。一方、山頭火の場合、死を意識している。花いばらで切れるとすれば、その死は己の死であり、花いばらに呼びかけているとすれば、花の死である。生命はやがて死に絶え、また、新しい命として戻ってくる。そんな往還を二人の句から感じた。(to the English-version site)
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北と南(8):甘蔗時雨

■旧暦10月18日、火曜日、

(写真)
川底に
流れる
水の旋律

(谷川俊太郎)

さてと、夕食の準備は終った。今日は、実験をしてみた。食べた味を再現してみるという実験である。これができると、料理は一人前らしい。結果は、失敗。理由は、食べたときに何を使って味を出しているのか、閃かなかったから。そりゃそうだよね。手当たり次第、適当に味付けしても失敗するに決まっている。味見をしすぎて、おなかが一杯になった。難しいもんですな。



甘蔗時雨(きびしぐれ)

沖縄の一月はさとうきびが実り、刈り入れの時期である。その頃、大陸の寒気団が張り出して日本本土は雪に襲われるが、沖縄では曇りがちの天気が多く、小雨がぱらつく。きび刈の頃の雨なので、「きびしぐれ」と呼ばれる。さとうきびには「甘蔗」の字を当てる。もっとも寒い時期の畑作業で、折からの雨が見舞う。沖縄の方言で「シムカキ」または「シムカキグワー」と呼ばれる。

不発弾処理の大穴甘蔗時雨    玉城一香





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Der Begriff der Verdinglichung von Marx

■旧暦10月17日、月曜日、

(写真)
仙郷 古えより文字無く
青編を見ずして 只だ山を見る(漱石)

今日は、朝早くから、雑用していて、一段落したので、テーブルで珈琲を飲んでいた。すると、土曜日に哲学講座で聴いたマルクスの文章がなぜ、あんなに新鮮に響いたのか、不思議に思えてきた。気になって仕方がないので、資本論の原文を引っ張り出してきた。大内兵衛監訳の翻訳も参照しながら、じっくり考えてみた。ぼくなりの結論を言うと、日本語の翻訳では、わからない情報(思想)が、マルクスの原文からは読み取れて、それが新鮮に映ったようなのだ。問題の箇所は、資本論第三巻の838頁にある。ここで、マルクスは、物象化と翻訳されることの多いVerdinglichungという概念を使って、資本主義社会を分析している。文章は、複雑で、美しく、分析的かつ比喩的。諧謔的とでも言えるような表現は、日本語に翻訳することが難しかったろうと思う。


Im Kapital-Profit, oder noch besser Kapital-Zins, Boden-Grundrente, Arbeit-Arbeitslohn, in dieser ökonomischen Trinität als dem Zusammenhang der Bestandteile des Werts und des Reichtums überhaupt mit seinen Quellen ist die Mystifikation der kapitalistischen Produktionsweise,
die Verdinglichung der gesellschaftlichen Verhältnisse, das ummittelbare Zusammenwachsen der stofflichen Produktionsverhältnisse mit ihrer geschichtlich-sozialen Bestimmtheit vollendet: die verzauberte, verkehrte und auf den Kopf gestellte Welt, wo Monsieur le Capital und Madame la Terre als sozial Charaktere und zugleich unmittelbar als bloß Dinge ihren Spuk treiben.(DAS KAPITAL DRITTER BAND p.838 DIETZ VERLAG 1983)



大内兵衛と細川嘉六の監訳の日本語該当箇所は次のようになっている。

資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界であって、そこではムッシュー・ル・カピタルとマダム・ラ・テル(資本氏と土地夫人)が社会的な登場人物として、また同時に直接的にはただの物として、怪しい振る舞いをするのである。(『マルクス-エンゲルス全集』資本論Ⅲb p.1063 大月書店)

■まず、ごく単純な構造から考えてみたい。
・Im Kapital-Profit, oder noch besser Kapital-Zins, Boden-Grundrente, Arbeit-Arbeitslohn(資本が利潤になること、適切に言うなら、資本が利子を生むこと、土地が地代を生むこと、労働が労賃になること)という語句は、in dieser ökonomischen Trinität(経済的な三位一体)と言い換えられていること。

・さらに、この三位一体は、dem Zusammenhang der Bestandteile des Werts und des Reichtums überhaupt mit seinen Quellen(価値と富の諸要素とその諸源泉との諸関係)と等しいこと。つまり、ここで言う、経済的な三位一体(資本・利子、土地・地代、労働・労賃)は関係性だと述べており、実体的には捉えられていない点に注目する必要があるだろう。

・では、物象化はどこに出てくるのか。この文章全体の主語の中に出てくる。それはつぎのとおりである。die Mystifikation der kapitalistischen Produktionsweise, die Verdinglichung der gesellschaftlichen Verhältnisse, das ummittelbare Zusammenwachsen der stofflichen Produktionsverhältnisse mit ihrer geschichtlich-sozialen Bestimmtheit

・主語が3つある。一つは、die Mystifikation der kapitalistischen Produktionsweise(資本主義的な生産様式の神秘化)、二つは、die Verdinglichung der gesellschaftlichen Verhältnisse(社会的な諸関係の物象化:つまりは人間同士の関係が物と物との関係として現象すること)、三つは、das ummittelbare Zusammenwachsen der stofflichen Produktionsverhältnisse mit ihrer geschichtlich-sozialen Bestimmtheit(物質的な生産諸関係とその歴史的・社会的な規定性との無媒介な一体化)である。

・この3つの現象が、最初に述べたKapital-Profit, oder noch besser Kapital-Zins, Boden-Grundrente, Arbeit-Arbeitslohn(資本が利潤になること、適切に言うなら、資本が利子を生むこと、土地が地代を生むこと、労働が労賃になること)の中で完結している。言い換えれば、dieser ökonomischen Trinität(この経済的な三位一体)の中で、dem Zusammenhang der Bestandteile des Werts und des Reichtums überhaupt mit seinen Quellen(価値と富の諸要素とその諸源泉との諸関係)として、完結している。

・こういう現実の世界をマルクスは次のように比喩的に表現している。die verzauberte, verkehrte und auf den Kopf gestellte Welt(魔法をかけられた、あべこべの、逆転した世界)

・この世界では何が行われているのか。これをマルクスは諧謔的に次のように述べている。Monsieur le Capital und Madame la Terre als sozial Charaktere und zugleich unmittelbar als bloß Dinge ihren Spuk treiben(ムッシュー資本とマダム土地が、社会的な登場人物となり、同時に、無媒介のたんなる物となって、亡霊のように振舞っている)最後のSpuk(亡霊)はデリダが注目した言葉だが、treibenを「追い掛け回す」と取って、「ムッシュー資本とマダム土地の亡霊を追い掛け回す」と訳せないことはないが、ここでは、前後関係から、大内・細川訳のように、機能動詞的に理解するのが妥当だと思う。

・ここでは、Spukは、人でもあり、物でもあるというように、ひとつに決められない何かだと考えることが、とりあえずは、できるように思う。

以上、長々と述べてきたが、普通の日本語になりにくく、訳すと余計にわからなくなるような、複雑で抽象的な、それでいて、心の襞を確かに震えさせる文章なのである。日ごろ、この社会に生きていて、なんの疑問も無く受け入れている「現実」が、実は、ムッシュー資本とマダム土地原作のとんでもない猿芝居だったとマルクスは根本的に告発している。もう一度、マルクスを虚心に読むときが来ていると思うのは、ぼくだけではないだろう。
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飴山實を読む(42)

■旧暦10月16日、日曜日、

(写真)M is Marx, Marcuse, or Mao?

昨日は、半年ぶりにI先生の哲学講座に出る。マルクスの疎外論がこの夜のテーマだったが、資本論をドイツ語で分析しながら読むと、かなり新鮮な驚きがあった。先生は、トータルでは、デリダを評価していないけれど、デリダの『マルクスと息子たち』をちょっと読むと、「亡霊」という考え方で、存在と非在を固定しない非二元論的にマルクスを読み直し、二元論批判者としてのマルクスを評価・批判しているように感じる。一遍の思想とも響きあうので、デリダをじっくり検討してみようかと思っている。そういえば、来年は、68年のパリ五月革命40周年にあたる。




障子張る話となれば聞き流す


■「障子張る」で晩秋。一読笑った。女性には悪いけれど、この感覚は、やっぱりどこかにある。遡れば、小学生のとき掃除当番をよくサボったあたりの感覚か。今日は日曜なので、「掃除する話となれば聞き流す」か。
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芭蕉の俳句(160)

■旧暦10月14日、金曜日、

(写真)
But the song will go on
in praise
of fallen leaves.

今日は、東京西部の秋川渓谷に行ってきた。この4月にオープンしたばかりという「瀬音の湯」に浸かる。露天風呂に入り、周囲の山々の精気を吸って、しばし、英気を養った。



納豆切る音しばし待て鉢叩    (韻塞)

■鉢叩で冬。「納豆切る」は納豆汁をつくるために納豆を俎板の上でたたいてつぶすこと。鉢叩という行事は、現在は絶えてしまったというが、11月13日の空也忌から大晦日まで、空也上人を偲んで、鉦を叩き、念仏を唱えて、僧たちが洛中洛外を練り歩いたという。納豆を切る音がどんなものか、鉢叩がどんなものか、知らないが、両方とも音に関わることで、注意深く外界の音に耳を澄ませている芭蕉の姿に心惹かれた。
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ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(15)

■旧暦10月13日、木曜日、

(写真)春夏秋冬 尽く故郷

今日は、午前中、国府台病院。自律訓練法も日常生活の一部になってきた。耳鳴りに効いているのかどうかわからないが、少なくとも、精神の安定には役立っている。午後から仕事。今夜は冷える。ゴミを捨てに行ったら、月冴え冴え。




(Original)
die Gänseblümchen
auf dem Rasen im Neuschnee
Anfang Januar



(japanische Fassung)
初雪の芝生に咲いた
雛菊

新年


雛菊。俳句としては、季重ねだが、「新年」で切れているので、これが季語として強く働いているように感じる。「切れ」をザビーネは理解していると思うので、それを明確にするために、一行あけた。可憐な新春の景である。(zur deutschen Fassung)
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RICHARD WRIGHTの俳句(44)

■旧暦10月12日、水曜日、

(写真)無我 是れ仙郷

漱石の漢詩集を読んだ。このところ、諸々の理由で元気が出ない。そういうときには、漱石の文章やオーデンの詩が効く。写真のタイトルは漱石の詩句から。

石狩鍋を始めて作ってみた。評判は上々。レシピには、野菜はキャベツとジャガイモ、えのきしか書いていなかったが、甘みを出すためにたまねぎも加えた。ネギや大根を加えるレシピもあるが、たぶん、それでは、キャベツとジャガイモの調和を乱すだろう。石狩鍋は新鮮な鮭がポイントだが、鍋に入れる前に、水分を取って、軽く湯通ししておくと、生臭さが消える。酒と醤油が隠し味。




(Original)
A man leaves his house
And walks around his winter fields
And then goes back in.



(Japanese version)
男が家から出てきて
冬野を歩く
そしてまた家に入る



(放哉)
雪の戸をあけてしめた女の顔


■ライトの句も放哉の句も、なぜか、可笑しい。二人の描き出した男女の行為は、生活の余白である。だからこそ、半ば無意識で行動している。同時に、その行動は、止むに止まれぬものを感じさせる。トイレから見た庭の景色のように、これらの句は、二人にとって、不意打ちだったに違いない(to the English-version site)。
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北と南(7):小夏日和

■旧暦10月11日、火曜日、

(写真)Untitled

なかなか難しい。睡眠薬の分量と耳鳴りの程度と仕事の進捗。この3つをうまく調和させるのがなかなか難しいのである。薬の量が多すぎると、眠くて仕事にならない。少なすぎると、耳鳴りが激化する。適当にやるしかないのだが…。

少しずつ英語で書いたり考えたりするようになって、「俳句を詠む」という基本的な表現をどう英語で書いたらいいのか、しっくりこないままできた。今までは、単純に「to write haiku」あるいは「to make haiku」、「to create haiku」はたまた「to compose haiku」などと書いてきたのだが、実作している側から言うと、どうも、実感とずれる。俳句を目の前に置いて、いろいろ、推敲していく作業は、もっと手作業的な感じがある。そんなことを感じながら、先日、必要があって、ライトの娘さんがライト句集の序文に寄せた文章を読んでいたら、彼女は、なんと「to craft haiku」と書いているではないか! 「craft」をロングマンで引いてみると「to make something using a special skill, especially with your hands」と定義してある。確かに、パソコンのキーボードは両手で打つな(笑)。write, make, create, compose:たぶん、「俳句を詠む」と言いたいときに、通じると思う。これらに加えて、craftという動詞は、「詠む」行為に立体感を与えてくる。そんな気がして、箱の中にしまっておくことにしたのだった。



小夏日和

11月の立冬を過ぎてからの暖かい日を本州では「小春日和」と呼んでいる。沖縄では、これを「小夏日和」と呼ぶ。季節風の「新北風(みーにし)」が吹き出した後、暖かい夏が去り、急に秋らしい涼しい陽気になる。長袖を纏い、衣替えをする。ところが、立冬前後に移動性高気圧に覆われると、風が南寄りとなり、日中の温度が三十度にあがる。夏が戻ったようで、半袖やノースリーブの服装がふたたび目につく。衣替えの衣替えである。沖縄本島では、小夏日和を「十月夏小(ジュウグヮチナチグワ)」と言い、宮古島では「十月ガマ」と言う。

北米では、同じことを「Indian summer」ドイツでは、「der Altweibersommer(老婦人の夏)」と呼ぶ。


小夏日の潮吹き上ぐる一枚岩
        本部弘子

※『語りかける日本 ゆるやかな日本』(宮坂静生著 岩波書店 2006年)より
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飴山實の俳句(41)

■旧暦10月9日、日曜日、

(写真)Star and Bible Black

昨日は、『原爆詩集181人集』(コールサック社)の出版記念会に行ってきた。現在、3,200部ほど出ているらしい。詩集にしては、かなり売れている方ではないか。2004年に出したぼくの翻訳書『インターネット時代の表現の自由』(皓星社)は、大学生協や図書館を中心に需要があるが、それでも、2,000部に届かないはずである。

『原爆詩集181人集』は、クリスマスには英語版も出る予定。この際、同時に、Amazonに登録してネット上での販売に力を入れたらいいのではないだろうか。

昨日の記念会で、意外な話を聴いた。現在、世界で日本語学習者は300万人いるらしい。こういう人たちが、インターネットで、日本語で検索をかけてくる。インドでは、ネット検索によって、この原爆詩集を知っている人がいたというのだ。グローバリゼーションの積極的な側面と言えるのかもしれない。

また、昨日は、朗読も十数人が行ったのだが、聴いていて、感じたことがある。日本語は、音の高低はあっても、英語ような強弱がない。朗読が一定の強度で進むため、朗読者の思い入れとは別に、作品が平板に響くことがあるのだ。強度が一定という特質に合った朗読もある。たとえば、悲惨な内容を、意図的に淡々と読むときは、効果を上げると思う。けれど、詩の音楽性や演劇性を批評的に再構成しようとするときには、何らかの工夫が要るのではあるまいか。次回、朗読の機会があったら、この辺を問題意識にしてみたいと思っている。

懇親会も、関心領域の似た方と話しができて、実り豊かだった。

今日は句会なのだが、まだ、二日連続で外出する体力・精神力がなく、自宅で静かに仕事をしているつもり。




うち曇る淡海に芦を焚く音す


■芦で秋。曇り空を「うち曇る」と表現している点。実際は、曇り空だけなんだろうが、「うち曇る淡海」と表現されたことで、琵琶湖の鉛色の水面が浮かんでくる。それに、芦を焚いた煙の色が響きあう。「焚く音す」と最後に置かれたことで、この句の景が、すぐそこで音がしているように、ぐっと身近に感じられてくる。全体が曇りの景色なのだが、趣を感じた。
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芭蕉の俳句(159)

■旧暦10月7日、金曜日、

(写真)I see the boys of winter in the ruin...

今日は、俳人の五十嵐秀彦さんに送っていただいた「一遍上人論」を読んでいた。五十嵐さんは、一遍の思想と行動に、俳句や和歌、私小説の基盤になった「私性」の誕生を見ている。この論考を読むと、一遍の思想は「一にして遍」という、その名前によく出ているように思った。二元論批判なのだ。その社会実践が念仏踊りという精神と肉体の二元論を超えたものであることも興味深い。一遍は、和歌や和讃を15年間作り続けたという。たとえば、こんな作品が残っている。

とにかくにこころは迷うものなれば
 なむあみだぶぞにしへゆくみち

六道輪回の間には
ともなふ人もなかりけり
独(ひとり)むまれて独死す
生死の道こそかなしけれ

出る息いる息またざる故に
当体の一念を臨終とさだむるなり
しかれば念念臨終なり、念念往生なり


五十嵐さんは、現在、俳句をもっとも根源的に考えている俳人の一人ではないか、とぼくは思っている。




日ごろ憎き烏も雪の朝かな


■元禄5年作。画賛。ぼくは、烏が好きなので、この「日ごろにくき」に逆に面白みを感じた。そういう憎い烏も雪の朝は、趣深いものにしてしまう。そうした雪の新鮮な力みたいなものに惹かれた。

支考の「百鳥の譜」に、烏のことが出ている。「烏ばかり嘴のいやしきものはあらじ。夕には寝まどひ、朝には早く起きて、前栽の木の実などつきては、え思ひ捨てずや。いかなる時にか、息などもつまるやうに啼きて、いとど憎さげには侍るなり」当時の烏観が出ているのだろうが、人に憎まれているところなど、逆に、ぼくには好ましく思われるのだった。




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