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世界リスク社会論(3)

月曜日、。旧暦、7月7日。初秋のような風が一日吹き渡る。爽やかであり、少し不安でもある。終日、仕事。

「摂理」という韓国系のカルトが問題になっている。元原理研の幹部が教祖だと言う。全国の有名大学に勢力を拡大しているらしい。オームのときにも、洗脳やマインドコントロールが問題になったが、未だに、この手の似非宗教が跡を絶たない。今日の午後、家に「ものみの塔」の女性信者が2人勧誘に来た。輸血拒否事件を起こし、終末思想を説くいかがわしい団体である。選挙の投票拒否なども行っているようである。この2人はまだ若く、疑うことを知らない純粋な瞳をしていて、哀れを催した。だが、こうしたマインドコントロールされた信者にかける言葉があるだろうか。

「摂理」と同じでつまらんぞ、止めときなさい。聖書を勉強したいなら、自分でしなさい。いい歳をしているのだから、自分の頭で考えなさい。

「ありがとうございます」これが2人の返事である。

こうしたカルトを考えるとき、憂鬱になるのは、カルトが社会全体の縮図だからである。自分の頭で考えるように言ったが、一般の人でも、自分の頭で本当に考えられる人間などごく少数で、大多数はなにがしかの洗脳を受けている。会社にいれば会社の、学校にいれば学校の、家庭に帰れば家庭の、洗脳がある。そもそも資本主義社会にいれば金がすべてである(この点、アファナシエフなど、旧ソ連からの亡命者は西側の金銭万能のイデオロギーに実に敏感だった)。日夜、テレビや雑誌で欲望を刺激し、一定のライフスタイルに誘導されている。そうした消費行動の結果は、少数の多国籍企業や国家に富を集積することになるのだから、マインドコントロールされた信者がカルト教祖に貢ぐ構図と同じである。

ベックの「サブポリティクス(サブ政治)」の概念は、こうした企業や国家の権力を市民の側から再構築する可能性を示していて非常に興味深い。

【サブポリティクスとは何か】

ベックが本書『世界リスク社会論』で述べている「サブポリティクス」の概念は、必ずしも分かりやすくはないが、当該箇所を引用すると以下のとおりである。

「『サブ政治』という概念は、国民国家の政治システムという代議制度の彼方にある政治を志向しています。…サブ政治は『直接的な』政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)をくぐり抜け、…政治的決定にその都度個人が参加することなのです。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。そのことによって、経済や科学や職業や日常や私的なことは、政治的対立の嵐にさらされることになります。この対立は、もちろん政党政治的対立という伝統的なスペクトルには従いません。したがって、世界社会的なサブ政治は、イシューごとにその都度形成される『対立の連合』がまさに特徴となります。しかし、決定的に重要なことは、サブ政治が政治的なものの規則と境界をずらし、解放し、ネット化し、交渉できるものにし、形成可能なものにすることで、政治を解き放つことなのです」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)pp.114-115、訳文は一部変更した)

【サブポリティクスの具体例】

1. グリーンピースの石油多国籍企業シェルに対するキャンペーン

・シェルが解体された採掘ボーリング島を大西洋に沈めずに、陸地で廃棄するように導いた
・世界中に演出されたテレビの告発を通じて、市民の大量のガソリンボイコットが発生し、シェルは屈服した。
・ドイツ首相コールは、グリーンピースを支持したイギリス首相メージャーを支持。
・ガソリンを入れるという日常行為の政治的な要素が突然発見された。

1-1 シェルの場合、問題解決のために、政府と専門家と行政から、海に沈める解決策への合意を取り付けたが、ガソリンボイコットにあって、市場が崩壊しかけた。ここから、ベックは、興味深い教訓を引き出す。「リスクの議論においては、専門家の解決はないということです。というのは、専門家はたしかにいつも事物についての情報は共有していますが、決してこれらの解決策のどれが文化的に受容されるかということは、判断することができないのです」(同書 p1.21)

2. フランスの核兵器実験再開に反対する反核実験運動

・各政府とグリーンピースとプロテストグループとのグローバルな連帯。
・米露参加のアセアンフォーラムと国際司教会議、スカンジナビア諸国政府首脳会議が連帯。

ベックの発想で興味深いのは、サブポリティクスが、多国籍企業・国家権力対社会運動という二項対立の図式に必ずしも収斂しない点である。この二つは連帯して、あるときには多国籍企業に対抗し、あるときには国民国家の政府やその政策に対抗する現実を捉えている。

ベックは、グローバルな直接的政治参加は、購買行動と投票用紙の統一の中に作り出されると述べる。「多国籍企業と各国政府の行為は、世界公共性の圧力にさらされるようになります。その場合、グローバルな行為連関への個人的、集合的参加が決定的なものになり、注目に値するようになります。市民はいつも、どこででも利用できる直接的な投票用紙である購買行動を発見するようになります。ボイコットするというアクティブな消費社会と直接民主主義が、世界的に結びつき、連帯するようになります」(同書 p.122)

【コメント】

ベックは「サブポリティクス」の領域に希望を見出しているように思える。確かにそういう面もあるように思う。反面、多国籍企業や国家のサブポリティクスに下からの市民のサブポリティクスが対抗できるようになるには、ベックが考えるほど簡単ではなく多くの条件をクリアする必要があるように思う。

たとえば、シェルの事件がテレビ報道されても、日本でガソリンのボイコットが起きたという話は聞いたことがない。環境問題を中心にした緑の党が日本ではまったく振るわない現象と通低するものがあるように思う。一言で言って、「他人事」なのだ。つまり自分の生活とシェルの問題がどこでどう繋がるかが見えない。見えても、切実な問題と思えない。つまり、シェルの問題が引き起こす「環境リスク」が、日本での直接行動を引き起こすには、この問題の持つリスクが切実であることが条件になるだろう。

パロマのガス湯沸器が、このところ、問題になっているが、パロマの製品ボイコットは起きていない。基本的には、この問題も「他人事」だからだろう。パロマの製品を使っている人は限られるし、このリスクを回避するには、別のメーカーの製品を買えばいいだけだからだ。パロマの製品ボイコットが起きるとすれば、買い替え時や新規購入時だろう。それによって、生産調整や人員調整が発生するかもしれない。だが、これでどこまで製品リスクが改善されるかは不透明である。

JR福知山線脱線事故についても、その後JRのボイコットが起きた形跡はない。JRの替わりに私鉄を使うとか、バスにするなどの代替手段を取るか、JRを使わざるを得ない場合には、先頭車両を避けるなどの措置を取っているように思える。この列車事故のリスクに対しては、市民が直接行動で関与するのではなく、企業と行政と専門家の連帯でリスク対応が進んでいるように見える。

リスクの切実性を比較的備えているのは、「米国産牛肉の輸入再開」問題ではないだろうか。多くの市民が、購入拒否というある種のボイコットに及ぶのではないかと思える。この結果、どういう事態が引き起こされるのか、興味深い。

市民のサブポリティクスが機能するには、市民のモラルや理念に期待しても無駄だと思う。当該のリスクが市民生活にとってどれだけ切実か、言い換えれば、リスクの平等性とグローバル性をどこまで備えているか、にかかっているように思う。下からのサブポリティクスを機能させるには、問題の持つ道義的な側面に訴えても難しく(ナイキのスエットショップを知っていても、安くなっていれば、ナイキを買うだろう)、問題と市民生活の連関の切実さをどれだけ喚起できるかによるのではないだろうか。

その意味で、ベックの「サブポリティクス」の概念は、リスクと市民生活との連関を明らかにするなんらかの媒体(オルタナティブメディアを含むテレビ、新聞などのメディア)が重要な意味を持ってくるのではないか。



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悲しみのようにひそかに

日曜日、。湿気がなく涼しい。昼寝日和。旧暦、7月6日。

生命感溢れる盛夏の日々も、夕方になると、かなかなが鳴き、日の余韻を感じさせる。もう10日もすれば立秋である。夏から秋に変わる日々、晩夏や初秋は、二つの季節が交じり合って趣深い。昨日、読んでいたエミリ・ディキンソン(1830-1886)に印象的な晩夏の詩があった。


悲しみのようにひそかに
夏は去った
あまりにひそかに
ついには 裏切りとは思えぬほどに―

遠く始まったたそがれのような
蒸留された静かさ
ひきこもった午後を
ひとり過ごす自然

夕暮はしだいに早くなり
朝は見知らぬ輝きを添える
立ち去ろうとするお客のように
丁重な それでいて胸を締めつける優雅さを―

こうして翼もなく
船に乗るでもなく
私たちの夏は軽やかに去った
美の中へと―

(中島 完 訳)


As imperceptibly as grief
The summer lapsed away, --
Too imperceptible, at last,
To seem like perfidy.

A quietness distilled,
As twilight long begun,
Or Nature, spending with herself
Sequestered afternoon.

The dusk drew earlier in,
The morning foreign shone, --
A courteous, yet harrowing grace,
As guest who would be gone.

And thus, without a wing,
Or service of a keel,
Our summer made her light escape
Into the beautiful.


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Vernunftをめぐって

水曜日、。旧暦7月2日。

以前、ヘルツォークの映画の感想を述べたときに、ドイツ語のVernunftについて触れた。このときは、夕刊に載った、ある翻訳家のコラムからの孫引きだったのだが、ずっと気になっていた。仕事も一段落したので、少し、調べてみた。

手元にある語源が載っている独和辞典を3、4冊調べてみると、Vernunft(理性)は、すべてvernehmen(聞き取る、聞き分ける)という動詞と同根・同系であることがわかった。先の翻訳家の情報源はこのあたりなのだろう。Wahrigを引いてみると、Vernunftは中高ドイツ語のvernunft、古高ドイツ語のfirnunftが語源となっている。

ここでは、Vernunftの同根である動詞vernehmenにこだわってみたい。その前に、なぜ、ぼくが「語源」などと言い出すのか、その理由を説明したい。ある言葉は、すべて一定の言語ゲームの中で使われる。言語ゲームは社会的なものであるから、歴史に規定される。つまり、今のVernunftの使い方と過去の使い方は異なっている可能性が高い。過去の使い方がある程度理解できれば、その言葉をめぐる言語ゲームのありようが、垣間見える。言語ゲームが垣間見えるということは、つまり、当時の社会のありようが瞬間的に見えるということである。言葉の使われ方を通して、社会のありようを想像してみようというのが、語源にこだわる趣旨である。

【Vernunftの使われ方】

Vernunftを独和大辞典で引くと、3つの意味がある。1)理性、理知 2)判断力・思考力、分別、思慮、(道理をわきまえた)常識 3)(哲学)理性

1)と3)は重なる部分があるように思う。

用例としては、
keine Vernunft habenで思慮分別がない
Vernunft annehmenで正気に戻る
zur Vernunft kommen正気に立ち返る
Das ist gegen alle Vernunft. それは非常識きわまる。

次にWahrigでは、Vernunftを次のように定義している。

der bewusst gebrauchte Verstand(意識的に用いられた思考力)
Einsicht(理解、分別、洞察、認識;面白いことに「閲覧、閲読」という「文書を読む」という意味もある)
Besonnenheit(思慮深いこと、慎重、落ち着いていること)

用例としては
nimm doch Vernunft an!(落ち着け/よく考えろ)
er ist aller Vernunft beraubt.(あいつは自分を失っている/軽率だ)
あとは、だいたい独和大辞典と同じ。

■以上から、大きく分けてVernunftには2系列の意味がある。一つは、日常的に使われる「分別、常識、正気、思慮」といった意味、もう一つは、哲学史とも重なりながら使われてきた「理性」の意味。前者が身体全体の働きや反応を前提にするのに対して、後者は「読むこと(その意味で視覚)」が中心である。たとえば、日本語の「理性」を哲学辞典で引いてみると、「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう。人間は理性的動物である、といわれる場合の理性はこの意味である」となっている。概念は耳で聞くものではなく、テキストを媒介に読むものである。Vernunftを「理性」と日本語で理解したとたんに、「読むこと(視覚)」中心の用例に変換されてしまい、ドイツ語の言語ゲームの中にある「身体的な意味合い」が捨象されてしまう。

【vernehmen】

それでは、Vernunftと同根のvernehmenという動詞はどうか。これは、同根であって、語源ではないので、二つの言葉の共通の祖先があるということになる。しかし、注目したいのが、Vernunftの同根が「見分ける(underscheiden)」ではなく、「聞き分ける/聞き取る(vernehmen)」であるという点だ。言い換えれば、Vernunftの対象は、「読むもの、見るもの」ではなく、「聞き取るもの、聞き分けるもの=声や物音」に比重があるということだ。Vernunft→(翻訳による)理性→テキスト・文字→読むものといった流れの外に(その流れより古くから)、Vernunft→聞き取るもの、聞き分けるものという流れがあり、それがドイツ語の言語ゲームの中で「分別、常識、正気、思慮」といった意味を生じさせているように思える。

このことの意味は、単純に口語の歴史は文字より古いから、というだけではない。Vernunft(理性)は、本来、主張やモノローグではなく、他者の声や自然の物音を聞き取り、聞き分ける受動的な働きだったことが窺われるのである(それは、狩猟社会の中で生死にかかわる重要な能力でもあったろう)。また、他者や自然には聞き取るべき声や聞き分けるべき音があるとする世界は、前近代に固有の問題を孕みながらも、人間が謙虚な世界だったと言えるだろう。
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ラピスラズリ

日曜日、のち。旧暦、6月28日。

このところ、寝る前に賢治の詩を読んでいる。何度か読んでいるが、この歳で読み返すと、ただならないものを感じる。賢治の詩が、モノローグではなく基本的にダイアローグの構成を取っていることも興味深い。

以前、アフガン展でラピスラズリを観てから、欲しくて、ずっと探していたのだが、今日、ストーンマーケットなるところで、勾玉型にデザインされた携帯ストラップをゲットした。宮崎駿監督のラピュタの「飛行石」のモデルにもなっていたように思う。

以前、書いた詩を推敲してみた。


ラピスラズリ

命のやりとりをする
瞳の深い女たち
火のやりとりをする
額の昏い男たち
サーレサングから
アレクサンドリアまで
ラピスラズリの道を行け
空はどこまでも深く
アフガンも深まる
文字をもつ者の驕りは
昔も今も変わらないが
希望も絶望も
今ではそんなに深くない
ラピスラズリ
無言は沈黙なのではない
良きVernunftの耳なのだ
ラピスラズリ
青は深いのではない
遥かに遠いのだ




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世界リスク社会論(2)

土曜日、。この天気の絵は、面白いけれど、天気の微妙な表情まで表せないので、飽きてきた。曇りや雨と言ったって、いろんな曇りや雨があろうに。斯く言うぼくもあまりその表現を知らないのだが、荷風でも読んで調べてみるか。

このところ、喫茶店では『芭蕉俳文集』を読むことに決めている。なるべく機械的な情報処理しないようにじっくり読んでいる。芭蕉の弟子と言えば、其角、去来、嵐雪など蕉門十哲くらいしか知らなかったが、この本を読むと、芭蕉のネットワークが非常に広かったことに驚く。さまざまな弟子がいて、面白い。山伏までいたのには驚いた。芭蕉を勉強する上で、発句、旅、俳諧連歌、俳論以外にも、弟子との関わりという切り口がありそうだと思う。

昭和天皇の不快発言をめぐる報道が面白かった。主要新聞の社説を見てみたが、産経以外は、小泉が靖国参拝を止めるべき論拠にしたがっている。つまり、昭和天皇の発言メモを新聞が一つの権威にしたがっている。発言メモの興味深いところは、己の戦争責任に対する感受性抜きに、松岡と白鳥のA級戦犯合祀に不快感を露にしている点だと思う。各新聞も天皇を戦争部外者にしてしまっている。人が人に敬意を抱くのは、その人の占める生得的な社会的地位に対してではない。その人の行為と思想に対してである。天皇が自らの戦争責任を認めたとき、本来の意味で「人」になれたと思う。昭和天皇は「奇妙な神」のまま逝った。



【Individualisierung(個人化)】

この概念は、ベックの『世界リスク社会論』には、直接出てこなかったように思うが、訳者解説で、ベックの中核概念として、適切に説明されているので、少しまとめておきたい。

「…個人化は、近代化と密接にかかわっている。個人化とは、一般的には近代化によって、身分や地域の拘束から諸個人が解き放たれること、いわゆる近代社会の出現による個人の析出のことであると理解されている。ベックは、個人化を3つの次元に分けて考えている。1)伝統的な拘束からの解放 2)伝統が持っていた確実性の喪失 3) 新しい社会統合 伝統的拘束からの解放については、説明を要しないであろう。伝統が持っていた確実性の喪失とは、行為の拠り所となるような規範が失われることを指している。新しい社会統合の次元とは、個人化によってバラバラになったはずの諸個人が、逆に労働市場や教育制度、社会福祉制度のようなマクロな次元の制度に、まさに一人一人がバラバラになったことによって依存するようになり、組み込まれ、統制されるようになることを指している。パラドキシカルなことに、解体化は逆に統合化を生み出すというわけである。ベックは、近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考える…」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社2003年)の訳者解説(島村賢一)を基にした)

【個人化の弁証法の事例】ベックは、「個人化の弁証法」の具体的な事例として、家族やジェンダーをめぐる問題状況を述べている。近代化の初期段階では、生産と家族の分離および核家族の登場によって、「専業主婦」という存在が作り出された。これは拘束からの解放という意味での近代化に逆行する、性別による新たな身分固定化を生み出す。近代がもっと進むと、家族の解体も進み、社会全体としての個人化も進む。近代化後期の社会福祉国家は、その意味で個人化の結果である。諸個人の生活史があたかもすべて自らの選択にゆだねられ、ミクロ化が進展し、社会が完全流動社会になっていくということは、逆にマクロな制度に諸個人が統合化されていくこと、マクロ化を意味し、その結果、ミクロとマクロとの中間に位置する家族・地域・階級といったメゾ的なものが消滅していく。(同上)

【コメント】

面白い考え方だと思うし、実感とも一致する。たとえば、天皇制といった制度も、近代化の進展の裏返しの統合化の機能を果たしているのだろう。最近、とみに、自民党の若手議員などが、靖国参拝や天皇制、伝統、道徳教育などを強調する背景には、近代化の進展による個人化という現象がある。戦後教育や民主主義教育が、現代の個人主義的な傾向を生んだのではなく、社会全体の近代化が新しい段階に入ったということだろう。

個人主義的傾向に対抗して愛国心を説くことは、実は、社会全体の近代化に愛国心で対抗しようとしているということになる。これは、ベックの言うマクロ・レベルへの国民統合を上から行おうとする行為だろう。逆に、「愛国心は強制するものではない」と反対するだけでは、この後期近代化の個人化の流れに有効な回答を提示できないだけではなく、諸個人の中にある統合化への志向を巧く権力側に利用されてしまうことにもなるのではないか。

ぼくは、ベックが否定的なメゾ的領域を下から活性化することが、統合的志向を権力に利用されないために必要だと思う。家族や地域、何らかの社会運動を下から活性化するという方向である。このとき、インターネットというメディアが非常に重要になると思う。時間的・空間的な拘束が少ないからだ。ただ、この道具は、上からの統合化にも同じように利用され得る。

もう一つ、ベックの議論に関連して、指摘したいのは、統合化のあり方に関する議論である。ベックの議論では、マクロな統合化の先はおもに労働市場や教育制度、社会福祉制度や国家だと考えられている。ぼくが思うに、マクロな社会認識枠組みや感覚枠組み、行為基準枠組みのようなものがあるのではないだろうか。たとえば、テレビなどのメディアである。テレビの影響は国家レベルのもので、ある年代を共通の感覚や価値で統合しているように思う。社会認識枠組みが認識レベルに留まらず、行動にも出た例として、先の小泉の郵政改革選挙が上げられるだろう。個人化された諸個人が、テレビなどのメディアのワンフレーズに統合されて投票所に出かけたわけである。



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The wild blue yonder

木曜日、。旧暦、6月25日。

午前中に仕事を済ませて、午後から、ドイツ映画祭に出かける。今日は、わりと若い人たちの姿もあった。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「ワイルド・ブルー・ヨンダー」というSF。

結論から言って、つまらない。どうしてつまらないのか。それは映画に広がりがないからである。宇宙の映像や太古の地球らしき映像はでてくるが、それが一向に広がりを持たない。俳句のように、微小な空間を描いていても広大な広がりを画面に感じることはある。この映画は、地球とアンドロメダの往還の物語(時間にして850年)なのに、実に窮屈な感じを受ける。手を抜いている感じさえある。低予算で作ったからというより、どこかに、監督の驕りがあるのではないか。

この窮屈さを、もっと掘り下げてみると、社会関係が描けていないことが大きいように思う。語り部は、なんと地球人そっくりのエイリアンである。彼は、故郷の惑星ワイルド・ブルー・ヨンダーから、多くの仲間とともに、惑星が死にかけているために、宇宙に逃げ出し、数百年間何世代にも渡って航行し、どうにか地球に辿り着いたという設定だ。この語りは、観客に向けられたモノローグという形を取る。

一方、地球は、このヨンダー氏らが使用した探査機を調査中に未知ウィルスに感染、人類存亡の危機になる(らしい)。これも全部、モノローグで語られるので、いっこうに切迫感がない(語り部のヨンダー氏の英語はやけにリズミカルで軽やかであるが)。そうこうするうち、人類移住計画が持ち上がり、先発隊を乗せた宇宙船が深宇宙に飛び出す。その向かった先は、なんと、死滅しかけているワイルド・ブルー・ヨンダーである。ここを植民地にするらしい。

ストーリーを書いていて、バカバカしくなってきた。この映画は、半分以上「お笑い系」である。ヘルツォークとしては笑いを取るつもりなのだろうが、ちっとも可笑しくない。宇宙船内の宇宙飛行士たちはまったく会話しないし、移住計画を考えた科学者も、革新的な宇宙旅行技術を開発した科学者も、すべてが、モノローグで語るばかりである。

つまり、この映画の中には、社会空間がない。一方的な社会空間が、映画と観客の間にあるだけである。だから、画面に広がりが出ないのである。窮屈なのである。いくら自然や宇宙を写しても、人間と対話しない自然や宇宙は、単なる非歴史的な物質でしかない。

偶然なのか、理由があるのか、わからないが、この映画の前に上映された短編「火曜日」も会話が一切なかった。登場人物は、引退間直の中高年夫婦。この短編は、会話がなくとも、そのことが返って、夫婦の日常に倦んだ感じ、人生に疲れた感じを出していて、効果があった。寝る前に毎日、別々の部屋で、自殺しようとしては止めるのである。妻は夫のピストルの音に耳をそばだて、自殺しないと分かると、洗面の奥に睡眠剤を戻す妻。二人は眠るときには、互いの方を向いて肩を寄せ合って眠る。言葉はないが、愛がないわけではないことが分かる。二人の外部の社会の何かが二人を自殺未遂に駆り立てるのかもしれない。

ドイツ語で理性を表す「die Vernunft」という言葉の原義は、「聴き取る」ことらしい。つまりVernunftには他者の存在が前提されている。ヘルツォークの映画に決定的に欠けているのは、他者(人間の他者も含む)の言葉を聴き取るVernunftの働きであるように思われる。


Wild Blue Yonder [Import anglais]
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世界リスク社会論(1)

水曜日、。旧暦、6月24日。

終日、仕事。急ぎの仕事が入ったので、サイバーを中断して取り掛かっている。昨日も寝たのが遅かったので、気合が入らない。そのため、音楽を聴きながら作業をした。ジョン・スコフィールドがレイ・チャールズに捧げたアルバム「THAT'S WHAT I SAY」。それでも、午後になると、どうも気合が抜ける。そこで、「頭脳カン」なるものを試してみることにした。まあ、酸素の缶詰(酸素濃度95%)である。10秒ぐらい思いっきり吸い込む行為を何度か繰り返すと、30秒後くらいに若干効いてくる。あくまで、若干であり、劇的ではない。これなら、モカ錠の方が効きはいい。ただし、多用すると眠れなくなるが。



ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの『世界リスク社会論』(平凡社 2003年)を読む。この本は、表題になっている「世界リスク社会論」という同じ切り口で行われた二本の講演を一冊にまとめて訳出したものである。だが、この切り口がまず分かりにくい。

ぼくが読んでわかりやすかったのは、2つの近代化という考え方だった。これは、近代化は2段階で行われるという議論である。第一段階は、単純な近代化で、通常の意味での産業化を中心にした近代化のことで、第二段階の近代化は、第一段階の近代化が行き詰まって生じるもので、第一の近代化を反省する段階で生まれた近代化である。ベックは、この近代化をreflexive Modernisierung(「再帰的近代」あるいは「反省的近代」)と呼んでいる。第一段階の近代化に対応する社会のありかたが「産業社会」であり、第二段階の近代化に対応する社会が「リスク社会」と呼ばれる。

【リスク社会】リスク社会とはどんな社会か。以下、訳者解説を参考にしながら、ベックの考え方をまとめてみる。リスク社会とは、産業社会が、環境問題、原発事故、遺伝子工学など見られるように、新しい段階に入り、これまでとは質的に異なった性格を持つようになった社会のことである。これまでとどう異なっているのか。ベックは、こんな言葉を述べている。「困窮は階級的であるがスモッグは民主的である」環境汚染や原発事故といったリスクが、階級とは基本的に無関係に人々に降りかかり(だが、リスクと階級が完全に無関係になったとは主張していない)、逆説的な平等性を持っていること、チェルノブイリに示されるように、世界規模での共同性を持っていること。この意味で、リスク社会は世界性を持っているということ。

【コメント】原発のようなリスクは、確かに階級とは無関係であろうし、グローバルなリスクであろう。だが、光化学スモッグのリスクは、たとえば、スモッグの来ない地域に移住する経済力があるかどうかや移住可能な職業かどうか、年金生活に入っているかどうか、家族状況が移住を可能にするかどうかなどで、リスクの程度は違ってくるだろう。遺伝子組み替え作物や環境問題のリスクは、天皇家のように、独自の畑から収穫するシステムを持った人々には、リスク程度は、低減するだろう。ついこの間のハリケーン、カトリーヌの被害も貧困地区に集中した。リスクの大きさは、階級が規定すると言えるほど、単純ではないが、少なくともリスクは「逆説的な平等性」を備えているとは言えないのではないか。リスクというくくりで、すべてのリスクを一括することには無理があるように思う。そのように考えると、リスクを規定する多様な要因への眼差しを遮ることになるのではないか。むしろ、一般的に定式化するとすれば、「産業社会のリスク」と「リスク社会のリスク」が多様に結合していることが現在のリスクの最大の問題であるように思う。

以上のように、ベックの論点「リスクの平等性」には、疑問が残る。「リスクの不平等性」が依然として残っているように思う。ただ、もう一つの論点「リスクのグローバル性」は、リスクによっては言えるのではないだろうか。市場が地域市場から世界市場に統合され、規制緩和が基本線になったことで、たとえば、狂牛病のようなリスクはすぐに世界に拡散する。放射能の越境性という特徴から、原発事故はすぐに世界的な問題になる。こうしたリスクの二重性は、サブポリティクスの有効性の問題とも関連してくるように思う。

ベックの議論は、いくつかの重要な論点があるので、いくつかに分けて検討してみたい。



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Klang der Ewigkeit

火曜日、。旧暦、6月23日。

昨日、遅くまで仕事しすぎて朝起きられず。11時ごろ起床。シャワーを浴びて、午後から、ドイツ映画祭にでかける。今日観たのは、バスチャン・クレーヴ監督の「Klang der Ewigkeit」(永遠の音)

解説によれば、映画のコンセプトは、バッハの「ロ短調ミサ曲」の27のパートを27本の短編映画に翻訳することであるらしい。107分間、ずっとロ短調ミサが流れ、そのパートごとに異なった映像が流れる。絵画の映像あり、自然の映像あり、宇宙の映像あり、誕生の映像あり、死の映像あり、婚礼の映像あり、巡礼の映像あり、戦争の映像あり、ドイツの壁の崩壊の映像あり、万華鏡あり、NHKの名曲アルバムみたいな映像あり...。共通するのは、一切科白がないことである。バッハのロ短調ミサだけが流れる。

この映画を観て、感じたのは、27本の短編はどれもバッハに敵わないということである。圧倒的にロ短調ミサ曲の方がいい。唯一、ロ短調ミサ曲に拮抗できたと感じたのは、宇宙の映像だった。バッハのロ短調ミサは、地球の風景では太刀打ちできない広がりと深さを持っているように感じた。

音楽を映像に変換しようという試みは、ぼくは他に知らない。ロ短調ミサも、きっと何かの映画のバックグラウンドに使われたことがあるだろう。だが、この映画のように、真正面から、映像に変換しようとした試みとは本質的に異なる。バックグランドミュージックは、それがどんなに効果的であっても、映像が主であり、計算された時間だけ、計算された場面に従属的に使われる。クレーヴは、音楽と映像の初期条件を対等にして、両者を真っ向からぶつけてみたのだ。トーキーとももちろん違う。初期条件を同じにするために、映像から言語をいっさい消し去った。言語が入れば、そこに意味のある物語が立ち上がり、たちまち、ロ短調ミサはバックグラウンドミュージックになるからだ。

映像はどこまで抽象化できるか。これが、この映画の隠れたテーマだったように思う。音楽をバックグラウンドにせず、その本質的な抽象性と拮抗するには、どうすべきか。結論から言えば、ここで使われた映像はどれも音楽に拮抗できていない。その結果、映画というよりも映像付きのコンサートになっている。監督の意図から外れるかどうかわからないが、この作品はバッハへの映像的オマージュだと思うのである。

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芭蕉の俳句(104)

月曜日、。旧暦、6月22日。外はそうでもないが、室内は蒸し暑かった。終日、仕事。新作詩のための作業リストを作成。作りながら思ったのだが、芭蕉は俳人だけではなく詩人にとってもさまざまな意味でアクチャルではないか。俳句の詩への応用について、いずれ、まとめて書いてみたいと思っている。

金子光晴の梅雨に関するエッセイを読んでいたら、次のフレーズに出会った。

梅雨は男も妊娠しそうな季節だ―金子光晴

なるほど、梅雨は過剰な生命の力の現れという気もする。



蛤のふたみに別れ行く秋ぞ    (奥の細道)

■奥の細道の結びの句。見送りの人々への挨拶が込められている。これだけ取り出して読むと、何のことかわからない。「蛤のふたみ」とは、楸邨他によれば、「蛤の蓋・身」と「蛤で有名な伊勢の二見が浦(これから行く場所)」が掛けてある。蛤の蓋と身となって別れて行く別れがたさを言い、これから向かう二見が浦も詠み込んでいる。「行く秋」は晩秋の季語であり、「別れ行く」と「行く秋」を掛けている。と同時に「奥の細道」の冒頭の旅立ちの句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の「行く春」と呼応している。

こんな複雑な句は英訳できるのだろうか。キーンはどう訳しているのだろうか。


Dividing like clam
And shell, I leave for Futami-
Autumn is passing by.


(日本語訳)
蛤とその貝殻のように分かれて
わたしは二見が浦に旅立つ―
秋は過ぎていく。

■掛詞は分解して説明的に訳している。他に手はないだろう。

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芭蕉の俳句(103)

土曜日、。旧暦、6月20日。

「Coal Sack」の締切日。新作詩が書けない。いったい何をやっていたんだろう。アファナシエフの詩の翻訳は、ストックがあるので、これを推敲して、投稿するのは決めているのだが…。

終日、仕事。相変わらずの難航。夕方、子どもが全快したので、家族で外食。途中、木槿がたくさん咲いていた。



枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな  (後れ馳)

■この句は、画賛だが、近代の写生句のように視覚的な俳句である。楸邨によれば、「芙蓉は下のほうから咲き初めて、しだいに高いところに及ぶ。朝咲いて夕方にしぼむので日毎にかわった感じだ。その枝ぶりも日に日に変化するようでまことにおもしろい」

ぼくは、花に疎くて、木槿芙蓉をよく間違える。この句のように、芙蓉の花の咲き方を枝ぶりの変化と見なした句は、なかなかないんじゃないだろうか。動的な芙蓉の把握に惹かれた。

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