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蕪村の俳句(65)

■旧暦6月20日、土曜日、

(写真)

朝から、ぶらりと、新宿の紀伊国屋に本を見に行く。和洋書・雑誌を買い込む。早かったので、空いていて、じっくり選べた。夕方、買物。ピルクルにカロリーオフのピルクルスリムが出たのだが、ヨーカ堂には置いていないので、ちと不便である。夜、隅田川の花火を観る。肉眼だと、街の灯に邪魔されて鮮やかさに欠けるので、バードウォッチング用の双眼鏡で観る。2万発だそうである。うーん、地元江戸川の花火の方が好きだな。

twitterで『山家鳥虫歌』(18世紀)を読んで、気に入ったものをtweetしてきたのだが、この本には、驚いた。ほとんど、エロ本なのである。遊女の歌が95%以上を占めるが、裏の意味として掛け詞で性を表現している。しゃれた趣向だが、なかなかにエロい。こういう本が表の文学史に出るようになると、ずいぶん、面白いんじゃないだろうか。タイトルからして、自然哲学みたいな歌を想像していたので、面白い誤算だった。この本も、その存在を知ってから、実際に読むまでに、6、7年は経過している。われながら気の長さにあきれる。



草いきれ人死居ると札の立つ   句集(安永6年)

■こういう句に、蕪村の凄味を感じる。「草いきれ」がこれ以上ないほど決まっている。



Sound and Vision

夏はフランス音楽が聴きたくなるので、今夜は、Debussyの12Etudesから。



Aimardは録音が良くないので、Polliniも。


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蕪村の俳句(64)

■旧暦6月19日、金曜日、、住吉祭

(写真)夕焼

朝4時から仕事。午後、昼寝。夜仕事。「熊野古道麦酒」が気に入って、取り寄せて週末に飲んでいる。たまたま、当地に行ったときに、見つけたのだが、これがぼくには、大当たりだった。古代の黒米を使用している。



南蛮に雲のたつ日やせみの声   夜半叟(安永七年)

■この想像力に惹かれた。蝉の声は、南蛮のポルトガル、スペインはどうなんだろうと思わせる。
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「世論」についての雑感

■旧暦6月18日、木曜日、

(写真)無題

今日は、荒れ模様の天気だった。夜は、雨が上がって、湿気のない風が心地いい。



政権の交代ではっきりしてきたことの一つに「世論の問題化」があるように思う。面白い定義を広辞苑は世論に対して行っている。「世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通の意見」この定義が、いかに、成立しないものであるかが、はっきりしたのが、ここ数カ月だったと思う。鳩山政権時代、狂ったように、事あるごとに、繰り返された「世論調査」は、世論を客観的に反映したものではなく、「世論」を操作・誘導することを目的にした政治的なものである。端的に言って、「思いやり予算の増額を米国が求める」というニュースの直後に、世論調査した機関は一つもない。世論調査を、対抗勢力の弱体化のために、政治的な目的で使うやり方は、めずらしいことではなく、社会運動に賛同したマスコミが世界的な世論調査を行って、社会運動を成功裡に導いた東チモール独立支援運動のような、日本とは、正反対の事例もある。

世論は、それ自体として、認識できるものではなく、「世論調査」という媒体を通じて把握できるものである。しかし、だれが、世論調査をしているのか(世論調査の背後の社会関係は何か)、どのタイミングで行っているのか、どんな内容で行っているのか(たいていに、非常に稚拙な二者択一式質問である)、どんな統計処理をしているのか、は、詳しく報道されない。内閣支持率が下がった、不支持率が上がった、という思考停止させるコピーのような報道のし方がほとんどである。

「世論」は三権分立の思想と関わり、三権分立が実質的に機能するのは、相互に権限が独立しているという法的規定によるのではなく、相互に構成員を選択したり、解散したりできる、相互チェックシステムがあるからである。この三権分立の中で、国民の位置がもっとも弱いと思う。国民は、三権に対して、「選挙」と「世論」という形で関与するしかない。「選挙」が、一票の票の価値の格差が異常に大きくなった参議院選挙でも明らかなように、制度として、かなり不備がある。「世論」にいたっては、大手の情報産業が、どうにでも加工・操作・誘導できる事態になっている。「世論」は、そこに客観的にあるものを正確に写し取るのではなく、マスコミが作り出し、一定の方向に誘導するものになっている。

国民が、三権分立のシステムに何らかの影響力を行使できるとしたら、選挙、世論以外には、「社会運動」という媒体の可能性が考えられる。しかし、大手マスコミのカバレッジは意図的に少ない。マスコミは、社会的認識のカテゴリーを作りだしている社会的諸力の一つであるから、報道されないことは、社会的に存在していないことと同義に近くなる。なぜ、報道しないかは、過激だとか、イデオロギー的だとか言う以前に、商品の論理に基づいて作られる既存の「社会的カテゴリー」を解体する力を秘めているからだろう。

パスカルは、世論について、興味深い指摘をしている。「この世の主人は力であって、世論ではない。しかし、世論は力を用いる主人ではないか。力が世論を作るのだ」パスカルのこの言葉は、17世紀の絶対王政の時代のものであるが、「力が世論を作る」というくだりは、現在でもアクチャリティを失っていないと思える。



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蕪村の俳句(63)

■旧暦6月17日、水曜日、

(写真)無題

朝、5時から仕事に入る。夜の風が涼しい。湿気がない。夏の月が涼しげ。今年の夏は、クーラーがやけに骨に堪える。高めに温度設定しても、足先から冷えてくるので、靴下着用である。これは、末端に血流がいかなくなった老化現象なのだろう。扇風機にして、室内に風鈴を吊るすという手もあるが…。今月は、なんと、アマゾンの本代が零になった。家人曰く、放蕩が止んだ。たしか、アマゾンは30%も手数料を取るぼろもうけである。



河童の恋する宿や夏の月   

■河童(かわたろ)は、カッパの機内、西国地域での呼称。これは始めて知った。趣向が面白く惹かれた。河童が全国ブランドというのは、それだけ、全国の商業・産業の交流が古くから盛んだったのか、全国的に、なにか、河童的なるものが存在したのか。そのあたりを知ろうと思い、河童が文献に現れた最初の時期を調べてみた。河童は、意外に、新しい時代のものである。初出は、なんと、俳諧で、芭蕉の桃青三百韻附両吟二百韻(1678年)。17世紀後半である。「かねのあみかかれとしても浪の月」「河童子のいけどり秋をかなしむ(信章)」河童は、昔の俳人にとくに好まれた題材である。俳諧の全国的な興隆と河童という名称の全国的な広がりには、何か、関連があるのかもしれない。
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Pascal 『Pensées』を読む(1)


■旧暦6月16日、火曜日、

(写真)無題

早朝より、仕事に入る。雑用を済ませて、昼寝。夕方より、夏期講習。夜、風が吹いていて涼しい。夏の月。献灯祭の灯が、河に沿って、数日前から、入っている。このところ、立て続けにコミックにはまっている。『レッド』第二巻と『へうげもの』第一巻、読了。たいてい、こういうときには、現実がきついので、逃避しているのだが、ま、いいか。学生運動を描く『レッド』も古田織部を描く『へうげもの』も、テーマはとても面白いが、もっと、深く描ける気がする。漫画の限界とは思いたくない。



いっとき、パスカルの『パンセ』が好きで、よく読んでいた時期がある。そのとき感じたのは、宗教的な護教論なのに、実に、社会学的だという感じだった。先日、触れたタタルケヴィッチの『哲学史』には、パスカルのパンセからも、実に印象的な一節が、引用されている。一種の専門バカ批判である。現代にこそ通じる社会批判だと思う。

Puisqu'on ne peut être universel en sachant tout ce qui se peut savoir sur tout, il faut savoir peu de tout. Car il est bien plus beau de savoir quelque chose de tout que de savoir tout d'une chose; cette universalité est la plus belle. B. Pascal Pensées

ひとは、知りうることすべてを知って、普遍的になることはできないのだから、すべてについて、少し知るようにしなければならない。というのも、一つのことすべてに通じているよりも、すべてのことについて、なにがしかを知っている方がはるかにいいからである。このような普遍性こそ、もっとも素晴らしいものである。

一理ある。だが、現代の労働生活の中では、どんな馬鹿にせよ、馬鹿にならないと、生活できない面がある。この構造こそ、問題なのだと思う。そもそも、こうしたuniversalitéを求めること自体、世間知らずの坊っちゃんのやることだなどという反応があるが、ぼくは、大きな間違いだと思う。人間には、もともと、universalitéへの潜在力があると思う。目のまえの現実をただ目のまえの現実としか観られないのは、現実的というよりも、言葉の本来的な意味で、「無教養」なのだと思う。

タタルケヴィッチは、ここで、引用を止めているが、実は、この後にも断章はつづく。それはこうなっている。

もしも、両方を兼ねることができるならもっといいが、どちらかを選ばなければならないとしたら、こちらを選ぶべきである。世間はそのことを知っており、それを行っている。なぜなら、世間はよい判定者であることが多いから。

なかなか、含蓄が深いではないか。ただ、「今の世間」は、このことを知っているかどうか。

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蕪村の俳句(62)

■旧暦6月15日、月曜日、、満月、土用丑

(写真)夏の月と夜の街

朝、5時半から仕事に入る。一段落つけて、病院へ。午後、雑用と昼寝、夕方から夏期講習へ。耳閉感があるから、iPodの聴きすぎで突発性難聴にでもなったかと心配したのだが、東京医科歯科のかかりつけのドクターが耳見て曰く。「耳垢ですね」一瞬、理解できなかった。耳は、綿棒で、毎日掃除しているからである。ところが、これがいけなかった。耳掻きと違って、綿棒は、耳垢を掻きださずに、中へと押し込んでしまうのである。耳は、ほっといても、耳垢を外へ出す仕組みになっているという。掃除は一ヶ月に一度くらいでいいらしい。潔癖が、不潔を招くという、とんちんかんな弁証法を演じてしまったのである。無知と無頓着。笑い話を一席提供してしまった日盛りであった。



遠浅に兵舟や夏の月   落日庵(明和六年)

■現代にも通じる風景で惹かれた。海兵隊の上陸船のように。


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自己義認と実証主義

■旧暦6月13日、土曜日、、花笠巡行(祇園祭)、天神祭(大阪天満宮)、津島祭(愛知県津島神社)、河童忌

(写真)無題

今日は、哲学塾だった。若きヘーゲルのキリスト教の分析に、ある意味で、衝撃を受けた。また、ヘーゲルのキリスト教理解から、実証主義の源泉の一つを説明する石塚省二先生の解説に、非常に驚いた。

検察組織の本質的な特徴として、自己義認と実証主義の二つを、ぼくは考えているが、ぼくの実証主義の理解は、「所与性」というものに重点を置いた理解で、現存への批判ではなく肯定に組みしていく思想というものだった。この理解だと、自己義認との内的連関がうまく掴みきれない。

以下は、石塚先生の説明に沿って、ぼくなりにまとめたものである。そもそも、実証主義には、大きく分けて二つの思想潮流がある。一つは、positivism、Positivitaetのposit(ラテン語)に関わる。positは「立てる」「置く」「設定する」といった意味のラテン語で、ちょうどドイツ語のsetzenに相当する。ヘーゲルはベルン時代に、キリスト教の実定性(Positivitaet)を問題にする。ヘーゲルの分析によれば、ギリシャ時代の宗教というものは、個人の自由や良心の自由を確保するためのものであった。ところが、キリスト教は、個人の外部から真理を強要する。この意味では、王権によって、個人を外部から圧迫する絶対主義と思想構造上は同じで、絶対主義を正当化するイデオロギーとなっていく。キリスト教の考え方では、真理は、個人とは切り離された外部に客観的に存在し、その意味で、超越性(transzendent)を特徴としている。

こうして、実証主義は、人間の外側で真理であることを客観的に証明する思考、つまり、科学主義と重なってゆくことになる。この意味では、すでに設定されたもの(gesetzt)=所与性という実証主義理解は大きく外れるわけではないが、「人間の外部に存在する真理による強制」という側面は見落とされてしまう。実証主義のもう一つの側面は、positiveに係る。これは、人間の肯定や社会肯定、歴史肯定へとつながる積極的で楽観的な思想カラーを持っている。これは、コントの「社会発展論」に見られるような、進歩思想とも結びき、実際的で現実的な解決を提示するという特徴も持っている。カントに還れ、とする新カント派(新実証主義)は、カントが、実証主義の核をなす考え方「人間には自然を理解する能力がある」を作ったという意味で、実証主義の一つの主要なバージョンになっている。この意味で、実証主義の系譜は、キリスト教―コント―カントという系譜を持っている。

さて、ヘーゲルのキリスト教の理解は、真理が個人を圧迫するという点で「疎外」と結びつくが、この構造自体は、科学技術の知識が、人間を外部から支配・圧迫している構造とまったく同じで、科学主義批判の文脈で読み替えることができる。

検察の問題に引き寄せて考えると、検察が、こうした背景をもつ実証主義を奉じることは、ある意味で、必然的なことで、実証主義の思想の内部にすでに、検察の組織的な特徴である「自己義認」が胚胎しているということがわかる。実証主義に内在的な人間肯定や社会肯定、歴史肯定という要素は、実証主義を奉じる集団自体への肯定にもつながるからである。実証主義を奉じる集団は自己批判を特徴としない。この点では、科学者の集団やマスメディアにも言える傾向だと思う。自己義認と実証主義は相互に内的な関連性があるわけである。

当然のことながら、裁判制度そのものが、実証主義で運営されているということのうちには、各当事者の外部に客観的な真理が存在し、それをわれわれは理解できるという前提がある。この前提は、冤罪事件を生む思想的な基盤になっている。

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蕪村の俳句(61)

■旧暦6月12日、金曜日、、大暑

(写真)無題

さて、今週も終わった。いよいよ、月から金まで夏期講習が入り、昼間は翻訳2本と介護という過酷な夏の始まりである。せいぜい、倒れないようにしないといけない。この2週間、耳閉感があり、家人から、毎朝の仏独講座を聴くのを止められてしまった。原因不明。ストレスなのだろうか。週明け早々、病院へ行く予定。



只一人鵜河見にゆくこゝろ哉   落日庵(天明三年)

■複雑な心境を感じて惹かれた。芭蕉の「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」に通じるものがあると思う。



Sound and Vision

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蕪村の俳句(60)

■旧暦6月10日、水曜日、

(写真)夏の月

うちの女性たちが、韓国料理から始まって「東方神起」を始めとした韓流が大好きなので、ぼくもときたま、観る。ドラマで言うと、「イケメンですね」の少女漫画をそのままドラマにしたような可笑しさと「アイリス」のような冷戦のリアリティを背景にした面白さは、俳優の上手さで成り立っていると思う。どちらも、飽きさせない。時間の枠が日本と違って90分という影響があるのかもしれないが、日本のドラマのレベルの低さが、背景にはあるのだろう。「イケメンですね」に出てくる韓国の農村の美しさは息をのむ。土の路をクルマで走っているのも面白いし、主人公が、シスター見習いというのも、クリスチャン人口の多い韓国ならではの設定だと思う。プチ整形が流行っているせいか、韓国芸能人の美しさと一般韓国人の間には、日本人のそれよりも差があるように感じた。



前回の哲学塾で、哲学史の哲学史というテーマで、ポーランドのヴラディスワフ・タタルケヴィッチの『哲学史』に関するレクチャーを聴いた。このテキストの前文にはエピグラムの形でカントの次の言葉が掲げられている。

Die Hauptideen, die in manchen Schriften herrschen, sind oft schwer herausbringen, dass sie Verdasser selbst oft nicht herausfinden und ein Anderen ihm manchmal besser sagen kann, was die Hauptidee war. I. Kant. Welt- und Menschenerkenntnis, ed. Starke, 1831

著作の中には、それを貫く基本的な考え方を取り出すことが大変難しく、著者自身でさえ、見えないようなものが多々ある。むしろ、著者以外の人の方が、その基本的な考え方を適切に示すことができることもある。カント『世界認識と人間認識』(1831年)

この文章は、なかなか興味深い。ヴラディスワフ・タタルケヴィッチが、エピグラムにこの言葉を掲げた意図は、哲学史の有効性を正当化するためだったと思う。読者論のもっとも早いものとも言える(社会哲学者 石塚省二)このカントの文章は、批評という行為の意義も言い当てている。批評は、批評家自身を語る側面以外にも、批評対象の著者・作者自身が見えていないなにものかを語りえる可能性を常に秘めている。むしろ、批評家は、後者の側面こそ、重視すべきなのだろう。



ゆふぐれをしらぬではなし羽ぬけ鳥   (天明二年)

■羽ぬけ鳥の様子に惹かれた。ねぐらに帰るときになってもぼーっとしている羽抜け鳥。蕪村自身の自画像とも思える。ぼくが惹かれたのも、自分と重なるから。



Sound and Vision






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蕪村の俳句(59)

■旧暦6月9日、火曜日、、土用の入り、恐山大祭

(写真)夕焼けと月

今日は、なんだか、忙しかった。ベランダに鳩・鴉避けのCDを5枚! 吊るし、この暑いのにクーラーが故障したので、メーカーに修理を手配し、叔母のリハビリの様子を記したレポートが上がってきたので、チェックして、その合間に、仕事していた感がある。しかし、よく寝たので体調はいい。『Coal Sack』が、ずいぶん、期待してくれているので、今回は、新作詩2篇とPaul Celanの翻訳を送った。まだ、俳句から学ぶという方向に、手ごたえはないが、試行錯誤を重ねるつもりでいる。



愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら

■この句も、蕪村の中でもっとも好きなもののひとつ。愁うる心と花いばらの交流に惹かれる。



Sound and Vision

暑いと、ラヴェルが聴きたくなるので、Pierre-Laurent Aimardのピアノで「夜のガスパール」から「Ondine」。



欧州人にはそう珍しい事ではないが、フランス人のAimardは英語・独語にも非常に堪能で、このGaspard de la nuitのCDには、三カ国語で自らのレクチャーを吹き込んでいる。ちなみに、このGaspard、意味が気になって調べてみたところ、このサイトを見つけた。そうなのか、と合点した。Gaspardには、俗語で「鼠」や「猫」などの人間になじみ深い動物の意味もある。この俗語は、Gaspardとgars qui part(guy who leaves)のごろ合わせとの指摘もある。


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