verse, prose, and translation
Delfini Workshop
西行全歌集ノート(42)
2015-09-26 / 短歌
ゆくへなく月に心の澄みヽてはてはいかにかならんとすらん 西行
■あした27日の日曜日は、中秋の名月。月にちなんだ西行の歌をパラパラ読んでいて、この歌に引き留められた。「澄み澄みて」という強調に「いかにかならんとすらん」という恐怖に近い不安。普通、心が澄むのは良いことである。「澄む」は、もともと、「水が澄む」という意味で使われ、それが「心が澄む」、「空が澄み渡る」などと使われるようになった。月を観ていると心が澄みに澄んでくる。その結果は、どうなってしまうのだろう。この不安は、狂気の不安のように感じられる。月に心を乗っ取られる不安。心が月のものになってしまう不安。その結果は、狂死である。水が澄むというのは、水中の生物活動の低下も意味する。なにかが澄むというのは、清らかであると同時に、活動の低下、死を意味している。心が澄みに澄むのは、危険なことだと西行も感じていたのではないだろうか。
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西行全歌集ノート(41)
2015-07-22 / 短歌
■旧暦6月7日、水曜日、晴れ
土曜日は、公開講座『ルカーチの存在論』25周年第3講。青砥のかつしかシンフォニーヒルズ別館会議室にて。今回も非常に面白かった。受講者が講師になり講師が受講者になって、互いに、議論し啓発し合いながら、自分の問題意識を深めてゆく。ここには、知識を伝える偉い先生はいないし、カリスマ的な知識人もいない。生活の営みと批判的な知の営みを相互に媒介する。われわれが、アカデミアを名乗る所以である。
前半は、「精神医療の現場から」と題して報告があった。この報告で衝撃的だったのは、イタリアは1998年に精神病院を全廃したことである。それに代わって地域精神保健センターによる在宅ケアが中心になっている。在宅ケアと言っても、形だけのものではなく、苦悩をシェアできる濃厚なコミュニケーション、信頼関係、連帯感、対等な人間関係など、高度に人間的なものである。精神病患者は、犯罪に関与するとか、危険だとかといった偏見は、いまだに、根強くあり、これが精神病者の強制入院や隔離を正当化してきた。これについては、アメリカ、イタリアで調査した結果から、患者の犯罪率は非常に低く、狂気の状態で犯罪に関与した事例は、むしろ、精神病院のあった時代に多かったということがわかってきている。精神病の危険性自体は、本来の病気自体から引き起こされたものではなく、社会の関与の仕方にあるのである。イタリアで改革をはじめた精神科医のフランコ・バザーリアは、フッサールやサルトルの影響が大きく、「人は自分の狂気と共存でき、人生の主人公として生きることができる」という信念を持っていた。この信念自体は、立派なもので患者にとって正しいと思うが、病を経験した者からすると、「ひとは狂気と共存してはならない」のである。なにより狂気から脱出することが先決なのである。狂気は、個性でもかっこいいものでもなく、また、何らかの才能の前触れでもなく、ひたすら不幸な状態の持続なのである。それは、暗く冷たく寂しく、色彩のない恐怖の支配する死の世界である。2001年時点で、世界の精神科病床185万床のうち、日本には32万床がある。世界全体の約5分の1に相当する多さである。この現実は、実は、日本社会が、先進諸国の中でも、とくに、ひどい物象化の支配する、交換価値に規定された人間関係の社会であることを示唆している。
第3講の様子は、公式ページon FBで確認できます。ここから>>> 内容的なアップは、後日になる予定です。
日、月、火と午前中仕事、午後から外の仕事に出て、きょうは、終日、うちで仕事の予定。翻訳の仕事は難航している。まだ、スタートできない。現在の状況を考えると、一度、選択したテキストに迷いが生じ、原著者にその旨率直にメールしたら、いろいろ、書評を送ってきてくれて、これを読んで再考してくれと云う。そして、きのう、新刊が出たので、これについても検討してみてくれと云う。ドイツ語版が先に出て、英語版が7月末に出るらしい。新刊は、タイトルとアマゾンの概略しか読んでいないが、どうなのかなと思っている。つまり、批判的な視座があまり確保されていない印象だからだ。これについても、実際に検討してみないと、わからないだろうけれど。そんな状態で、やや、混乱している。
☆
旅人の分くる夏野の草茂み葉末に菅の小笠はづれて 西行「山家集」夏
Traveler pushing his way
through a summer meadow
grasses so thick
his sedge hat seems
to float over their tips
translated by BURTON WATSON
※ 夏野を「a summer meadow」と訳していて、ちょっと、意外だった。このうたは、背丈まである草を歌っているが、meadowは辞書にはたいてい、放牧地のような低い草を意味するとなっている。grassesも個々の草に注目した表現で出てくる。この言葉もNEWOEDによれば、vegatation consisting of typically short plants with long narrow leavesとなっていて、typicallyと断ってはいるが、やはり背丈は短い。全体を読めばわかるが、草の先端に菅の帽子が浮いて漂っているみたいだと言っているから、このgrassもmeadowも、あきらかに、人の背丈ほどを前提にした草である。grassesもmeadowも、こういう使い方もできる、ということが発見だった。おそらくは、夏草に相当するあの野蛮に生い茂った丈高い深い草を区別する言葉が英語にはないのだろう。
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西行全歌集ノート(40)
2015-07-17 / 短歌
■旧暦6月1日木曜日、台風11号による大雨、桶川祇園祭二日目。
祭のときは晴れた。きょうのデモのときもそうだったと思う。戦争法案強行採決を受けての国会抗議行動二日目。きのうのデモ参加者は、六万人とも十万人とも言われている。朝まで、プラカードをもって抗議した人もいた。警官は、上から強い命令が出ていて、けっして、デモの人々が車道に溢れないように厳重に警備していた。安全性という理由で。嘘である。強行採決直後に決壊したのでは、政権へのダメージになるからである。鉄柵を揺らす人々に、「危ないですよ」と警官は何度も言う。あまりに、見え透いているので、「危ないのは、安倍晋三の方だろうね」と言うと黙ってしまった。
★
どうも気分が落ち着かないので、西行を読んだ。二つの歌が眼にとまった。
おのづから月宿るべき隙もなく池に蓮の花咲きにけり
夕立の晴るれば月ぞ宿りける玉揺りすうる蓮の浮葉に
この月は、夏の月だが、月は見上げるだけではないことが、この歌を読むとよくわかる。それは「宿る」ものなのである。池に宿り、浮葉の露の玉に宿る。「宿る」というのは、人間であれば、取り憑かれるということである。こころに月が宿る、という言い方はありえるだろう。怖いことである。これを模倣(ミメーシス)という観点で考えれば、芭蕉の三冊子の「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」という考え方とつながってくる。これは、松を知りたければ、松に触れよ、竹のことを知りたければ竹をよく観察せよ、と言っているのではないと私は思う。松のことを知りたければ、松になれ、竹のことを知りたければ竹になれ、と言っているのである。松を心に宿していれば、松を詠める。竹を心に宿していれば、竹を詠める。なにかを表現するとは、そのなにかに取り憑かれることなんだろう。そこには、主客の区分はもはやないのである。
人間に「宿る」もっとも重要な存在は、いのちである。当たり前なのだが、「宿す」のは、相手そのものになることである。一瞬のまぼろしにしても。そして、われわれは、だれも、父の笑い方や母の瞳を宿している。だれかの涙さえ。子宮に宿すだけではない。指先にも宿すのである。
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西行全歌集ノート(39)
2014-09-12 / 短歌
旧暦8月19日、金曜日、
昨日と打って変って日ざしのきつい秋の空。蝉の声は透明になってきて、秋が本格化しているのを実感する。朝5時に起きられると、時間的に余裕があって、嬉しい。家事全般を一人でやらなければならないので、毎日、かなりせわしない。
☆
自殺には、つねに、他殺の契機がある。人間は個人として存在せずに、「社会関係」として存在するからだ。この自殺=他殺のテーゼは、近代に入ると、より本質的になるが、同時により不可視になる。個人が組み込まれる社会関係が前近代とは比較にならないくらい複雑で広範囲になるからだ。それだけ、犯人も見えにくくなるが、「存在しない」わけではけっしてない。次の例は明らかな殺人である。犯人は、東電(およびそのバックの機関投資家・金融機関)・政府・財界・経産省・御用学者・御用マスコミ。この人たちは、再稼働と原発輸出で、新しい殺人を計画しているのだから、罪の深さは相当なものだと思う。
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福島原発事故:夫の後追い自殺、仮設住宅の87歳
毎日新聞 2014年09月10日 16時24分(最終更新 09月10日 18時26分)
福島県いわき市内の仮設住宅に住んでいた同県楢葉町の女性が2日、近くの森で首をつり、87歳の生涯に自ら幕を閉じた。60年連れ添い、今年4月に病死した夫の誕生日の翌日で、女性が「私も早く死にたい」と周囲に漏らしており、県警は、東京電力福島第1原発事故に伴う避難生活の心労などを苦にした後追い自殺とみている。仮設住宅の隣人たちは「原発事故がなければ2人は今も元気だったのに」と悼み、自分たちの未来に重ねる。【栗田慎一】
「どこ行くの?」
「散歩に行く」
2日午後3時ごろ、行き先を尋ねた同居の長男(64)に女性はそう答えた。長男は同じ仮設団地内に住む親戚宅だと思い、夕食の準備を始めた。それが、「母親と交わした最後の言葉」となった。
原発事故で古里を追われた女性と夫が、県内外を転々とした後、4畳半2間の仮設住宅に入居したのは2011年8月。600坪の敷地に建つ自宅で50年余を暮らしてきた2人にとって、あまりにも窮屈な避難生活の始まりだった。
そのわずか数カ月後、2人の心身に急な衰えが訪れる。同県富岡町で日本料理店を27年間営んできた長男は、両親の食事などの世話をしようと避難先での再建を諦め、妻と住む郡山の仮設住宅から単身移る決意をした。
しかし、父親の体力は弱まる一方で、部屋の天井を修理中に転倒して頭を強打。退院後には町職員時代から欠かさなかった日記も付けられなくなり、4月9日に急逝した。
「もう仮設暮らしは嫌だ」「私も早く死にたい」。夫の死を境に、女性の嘆きは深まっていった。避難区域の町は来春にも住民帰還を始めるが、町内の自宅はシロアリ被害が進み、住めなくなってしまった。重なる悲劇から逃れるように物忘れがひどくなり、自信も失っていった。
女性は先月末、友人や親戚に「ずっと友達でいてくれてありがとう」と突然電話し、長男の妻にも「(長男を)留守にさせて悪かったね」と感謝を伝えた。今月1日には「おじいちゃん(夫)が死んでねえ」と近所の人に8回も言い、玄関先の植木を「もらって」とほほ笑んだ。そして2日--。
◇
長男に行き先を偽った女性は、足を引きずりながら手押し車を押し、親戚宅とは反対方向に歩き出した。砂利を踏みしめ、約50メートル先の森へと向かった。
午後6時すぎ、長男が親戚宅に電話し、異変に気づく。付近を捜したが見つからず、110番通報。県警は警察犬4頭や投光器も投入して捜索し、翌朝6時ごろ、森の斜面を下った樹木の間にあおむけで横たわっている女性を見つけた。
検視の結果、首に巻き付いた蔓(つる)による窒息死で、死亡推定時刻は2日午後4時ごろ。県警は遺体や現場の状況などから自殺と断定した。穏やかな死に顔に、仮設住宅の人々は「やっとおじいちゃんの所に行けたね」と涙を流した。
夫と2人で暮らす近所の女性は「同じ仮設でもこれほど親の面倒を見た息子はいない」と言った。「だから、これ以上迷惑をかけたくないと考えたのでしょう。私も夫に死なれたら、同じ道をたどるかもしれません」
長男は「今から思えば死を覚悟していたと分かる。それなのに僕は」と自分を責める。原発事故と先の見えない不自由な避難生活が原因なのに、家族を失った人々は「もっと何かしてやれたのではないか」と悔い、永遠の苦しみを背負い込む。
翌3日、原発を推進する安倍政権の第2次改造内閣が発足した。
【ことば】震災関連の自殺者
内閣府自殺対策推進室は、自殺者が震災関連死と認められる条件について、避難所や仮設住宅に居住▽自殺の原因や動機が震災の影響によるもの▽生前に震災があったため自殺したい旨の発言や記述がある--など計5項目のいずれかに該当する場合と規定。認定された自殺者は今年7月現在で福島56人、宮城36人、岩手30人で、福島だけが毎月のように増え続けている。
☆
5/21 関西電力大飯原発3,4号機運転差し止め訴訟 福井地裁判決謄本その1
5/21 関西電力大飯原発3,4号機運転差し止め訴訟 福井地裁判決謄本その2
福井地裁の判決の思想が、スタンダードになるべきだと思うので、記録しておきたい。
☆
花すヽき心あてにぞ分けてゆくほの見し道の跡しなければ 山家集 上 秋
※ この歌は、跡しの「し」がよく分からなかった。調べてみると「し」は強調の副助詞と見るのが妥当だろうと思う。「跡さえないので」この歌は、非常に論理的で、上から下へ論理が展開している。この歌で惹かれたのは、「ほの見し道の跡」という措辞だった。花すすきを適当に分けて前に進んでいるのだが、その理由が、以前にほのかに見えた道の跡さえないからだと言っている。つまり、「見し」によって、花芒の生い茂っている現在と道がかすかにあった過去との対比が浮かびあがって来る。野辺だから、もともと、そうはっきりした道はないが、かすかに、あったのだろう。一度は来たことのある道なのに、今は、花芒でわからない。自然と、目の前の花芒の茂り方が想像されてくる。
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西行全歌集ノート(38)
2014-09-08 / 短歌
旧暦8月15日、中秋の名月、月曜日、
土曜日は、市川の文学ミュージアムで、隔年で実施されている「鳴海英吉研究会」で、「日蓮宗不受不施派」について講演を行う。4つのパートを考えていたが、半分しか、時間の関係上話せなかった。それは、1 不受不施派の起源 2 不受不施派の現在-千葉県香取郡多古町島の取材から- 3 近代国家官僚制と不受不施派(不受不施派の近代化) 4 不受布施派の俳人、相葉有流について 3と4は、今後、深めて、別の機会に、発表することになるだろう。
日曜日は、柏で文献整理。8日目。なかなか進まない。最後に、参加者で集まって第一回「わからずや会」を実施。この会は、前回の文献整理日に、先生のテキストをめぐって激論になったことから、じっくり議論を深める趣旨で始めたものである。「わからずや」の集団という意味と、簡単にわかった気にならない、という意味を込めている。今回は、ルカーチの『若きヘーゲル』から、positivismの起源になる節を議論した。翻訳では、却ってわからなくなることが多く、(とくに、重要概念「positivitaet」に関しては)ドイツ語原文が柏にあるはずなので、次回は探してみたいと思っている。
☆
分けて入る庭しもやがて野辺なれば萩の盛りをわがものに見る 山家集 上 秋
※ 庭と野辺の境界がなく、住居から庭へ降りると、そのまま野辺になり、萩の花野になっている情景に惹かれた。花を「わがものに見る」という感性は、近代の所有の感覚ではなく、むしろ、萩の花野と自己との一体的な感情なのだろうと思う。
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西行全歌集ノート(37)
2014-09-04 / 短歌
旧暦8月11日、木曜日、
午前中は、各方面へ連絡で終わる。辛うじて、ラジオ体操と腰痛予防のストレッチ、最低限の筋トレはできた。歳を取るほど、身体のケアに時間をかけなければならず、やけに忙しくなる。午後から、仕事へ。不受不施派について、土曜日、少し、しゃべるので、その準備。意外と不受不施派を説明するのは、難しい。その難しさは、言葉の使い方の混乱と定義が後代に出来たこと、また、その宗派の起源である秀吉の千僧供養との論理的な連関を解きほぐす必要があるから。かなり疲れた。このほかに、やらなければならない仕事は山積だが、当面、これに専念しないと。
☆
さまざまのあはれをこめて梢吹く風に秋知る深山辺の里 山家集 秋
※ あはれが多様だと云う点。人間の諸関係の多様さを表現しているようにも思える。当事者でいる関係性よりも、その関係を第三者的に見ている方が、自分が経験したことがあればあるほど、あはれ深く感じられる。当事者でいると、あはれは意外にわからない。一番、あはれを感じるのは、自分の子どもの諸関係かもしれない。そうした社会関係を風にゆれる梢に投影しているように思われる。このことから、この深山辺の里に住む人物の経験が、狭い深山辺の里にとどまらないことが知れるのである。
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西行全歌集ノート(36)
2014-08-31 / 短歌
■旧暦8月7日、日曜日、
デモの後の夜は、いつも興奮していて、よく寝つかれない。朝起きて、食事も摂らずに、即、柏へ向かう。文献整理のため。この文献整理は、石塚省二先生が亡くなって、約1カ月後の6月28日から開始され、今日で7回目になる。この頃は、平均して10人近くが参加していただけるので、だいぶ、進捗してきた、が、まだまだ先が。タイムリミットもあるので、9月は5日間を予定している。
明日、明後日は、さいたまへ。どこまで、仕事を進められるか、が今週の一つの山場。
☆
山里はそともの真葛葉を茂み裏吹き返す秋を待つ哉 山家集 夏
※ 山里はそともの真葛/でいったん切れるが、「そともの真葛」とはなにか。「そとも」とは、山の日の当らない側、北の方。山里は、北面に自生する真葛の葉でいっぱいで、あとは、秋風を受けて、葉が裏返るのを待つばかり、といった感じだろうか。葛の葉が風にいっせいに裏返り、「裏白」になるのは、なにか、壮絶な感じがある。
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西行全歌集ノート(35)
2014-08-30 / 短歌
旧暦8月6日、、6時起床。ラジオ体操、腰痛予防のストレッチ4種類、今日は、雨なので、スロージョギングはなし。
備忘録的に日記のような記録を再開することにした。目的は、3つある。1つは、9月から本格的に始動する新生「ルカーチの存在論」公開講座24周年のPRを随時したいため、2つは、家族の避難と介護関係で、翻訳の仕事が遅れに遅れて、これをコントロールしたいため、3つは、過去の自分の記録を読んでみて、やはり記録はつけておいた方が良いと思ったためである。紙の日記とは違って、検索が容易。
今日は、これから、Romieが送ってくれたReiner Brambach(1917-1983)の詩を検討して、柏で文献整理。今日の参加予定者は、10人くらい。夕方から、国会前抗議行動に参加。秋から、国会周辺は大規模な下水道工事に入るために、デモが規制される(これも裏があるのだろうと思う)。そこへ、ヘイトスピーチの規制と同じ水準で、官邸前抗議行動を規制しようという話が、高市早苗議員から出ている(下の「東京新聞」8月29日付け参照)。差別する自由はないが、表現の自由は、憲法が保障している。この二つを同一視する知性の低さに唖然とせざるを得ない。集団的自衛権のように、憲法の「解釈」で規制するつもりなのだろう。法律は力による解釈に弱い、とは故石塚省二先生の言だが、集団的自衛権を既成事実として許してしまうと、同様な、「野蛮な憲法解釈」が幾つも出て来て、都合の悪い「自由」を抑圧するようになるだろう。その兆候だろうと思っている。デモの後は、奈良の後輩Fくんと会食の予定。下の1988年に議員立法で成立した「静穏保持法」なるもの、はじめて知った。これが成立したときの憲法との整合性を知りたいものだが、「公共の福祉の優先」を持ってきたのだろうか。
☆
東京新聞8月29日朝刊
自民党は二十八日、人種差別的な街宣活動「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)を規制するとともに、国会周辺の大音量のデモ活動の規制強化を検討し始めた。デモは有権者が政治に対して意思表示をするための重要な手段。その規制の検討は、原発や憲法などの問題をめぐる安倍政権批判を封じる狙いがあるとみられる。
自民党は二十八日、ヘイトスピーチ規制策を検討するプロジェクトチーム(PT)の初会合を開催。高市早苗政調会長は、国会周辺のデモや街宣について「(騒音で)仕事にならない」などと指摘し、「秩序ある表現の自由を守っていく観点から議論を進めてほしい」と求めた。
PTは今後、国会周辺での拡声器使用を制限する静穏保持法などで対応が可能かを調べて、新たな法律が必要かどうかを判断する。国会周辺では、東京電力福島第一原発事故後、脱原発を訴えるデモが毎週金曜日夜に行われている。警察庁の担当者はPTの会合で、静穏保持法による摘発は年間一件程度と説明した。
一方、在日コリアンに対するヘイトスピーチについて、高市氏は「特定の民族を名指しした中傷はやめなければいけない」と強調。ヘイトスピーチに対象を限定した規制法はないため、PTは刑法の運用強化や新規立法を検討する。
民主党の大畠章宏幹事長は記者会見で、「ヘイトスピーチ(規制)とデモ規制は性格が違う。デモ規制が行き過ぎると民主主義のベースが壊れる」と批判した。
ヘイトスピーチは人種や民族、宗教上の少数者に対する憎悪をかき立てるような表現で、保守をうたう団体による在日コリアン批判が社会問題化している。国連人権委員会も改善勧告を出すなど、国際的な批判が強まっている。
◆揺らぐ民主主義の根幹
自民党がヘイトスピーチと国会周辺のデモを同列にして規制しようとしている。人種差別などを助長する表現のヘイトスピーチと、政治に対して市民が声を上げるデモは全くの別物だ。音量規制強化を名目にひとくくりにして制約する動きは見過ごせない。
ヘイトスピーチに対しては、国連でも規制を求める意見が出ており、放置は許されない。表現の自由を守りながら、差別的な言論や表現方法をいかに規制するかは議論する必要はある。
一方、国会周辺で行き過ぎた大音量の抗議活動は現行法でも規制できる。にもかかわらず、自民党が新たに規制強化に乗り出したのは、市民による原発再稼働や集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法に抗議するデモを標的に入れているとの疑念を招く。
在日外国人の人権を守るという議論に乗じて、規制してはならない市民の政治活動を制約するだけでなく、民主主義の基盤である表現の自由という別の人権も侵す恐れがある。
上智大の田島泰彦教授(メディア法)はヘイトスピーチと国会周辺デモの音量について「別々に検討すべき問題だ」と指摘。「国会周辺は、あらゆる言論が最も許容されなければならず、その規制強化は民主主義の在り方にかかわる」と話す。 (大杉はるか)
<静穏保持法> 国会や外国公館、政党事務所周辺での拡声器の使用を制限する法律。1988年、国会周辺の右翼団体の街宣活動を規制するため、議員立法で成立した。静穏を害する方法で拡声器を使用し、警察官の制止命令に応じなかった場合、6月以下の懲役か20万円以下の罰金が科せられる。
☆
松風の音のみならず石走る水にも秋はありけるものを 西行 山家集上 夏
※ 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)の古今集の歌が思い出される。西行は、当然、これを踏まえているだろう。風の音に秋を感じる敏行に対して、石の上を流れる水に秋を感じる西行。水の何に秋を感じたのだろうか。急に水が冷たく透明になったことだろうか。それもあるだろう。脚注には、俊成の「石走る水の白玉数見えて清滝川に澄める月影」が参考に載っている。目の前の水の皮膚感覚だけに秋を感じたのではなく、水の行方に映る月影を想像していたのではなかろうか。
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西行全歌集ノート(34)
2014-05-01 / 短歌
限りあれば衣ばかりは脱ぎかへて心は春を慕ふなりけり
西行 山家集 上 夏
※ この春を強く慕う気分は、よくわからない。陰暦4月1日の更衣の心を詠んでいると注にはある。西行の春は、櫻の春であろうから、むしろ、「限りあれば衣ばかりは脱ぎかへて心は花を慕ふなりけり」と詠んだ方がすっきりすると思うのだが、春全体を言いたかったのだろうか。いずれにしても、過去を回想し過去に囚われる心が、季節の移り行きに抗っていて興味深い。
まがふべき月なき頃の卯の花は夜さへさらす布かとぞ見る
西行 山家集 上 夏
※ 「さらす」は、陽の光に当てること。夜でも干してある布に卯の花を喩える。布を晒す目的は、何回も水洗いし日に干して、白くすることにある。卯の花の白さが、夜の中で際立つ。しかも、新月。夜のしんとしたみどりの気配の中で卯の花を見てみたい気がしてくる。
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西行全歌集ノート(33)
2014-03-14 / 短歌
初花の開けはじむる梢よりそばへて風の渡るなりけり
西行 山家集 上 春
※ 「そばへて」は、戯れて。これも一読印象に残った。初花が効いている。「そばふ(戯ふ)」という言葉は初めて知ったが、面白い音。「戯ゆ」とも言うらしい。花は、初花、三分咲き、五分咲き、七分咲き、満開、散る花、葉桜といった具合に、時間性を付与されている。梅も同じだが、ここまで時間性の中で観られることはない。とくに、散る花、葉桜といった花の不在(面影)さえ、観賞の対象になるのは、桜と人の出会いに、いくつものtimelinesses(適時性)があることを示唆している。これは、人と人の出会い方にとてもよく似ている。
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