verse, prose, and translation
Delfini Workshop
翻訳詩の試み(23)-2
2008-04-26 / 詩
(写真)掃除
二
わたしは今何を聞いているのだろう
わからない
聞こえるものを聴いているのではない
だから何も聞こえないのだ
窓を伝わる雨について語ろうというのではない
わたしにはそれは聞こえない
たしかに雨は重要な主題だが
この問題には関係がない
わたしには何が聞こえるのか
沈黙 沈黙
沈黙のハーモニーを聞いてみたい
じっさい聞こえているのはただの沈黙―乾いた沈黙だ
それはハーモニーを必要としない
この沈黙を前に何ができるのだろうか
それをすくい上げて見ることはできる
だが見たところで
どうにもならない
わたしはそれを聞かなければならない
わたしはそれを聞く
だがまたしても
沈黙 沈黙
時間はハーモニーに似ている
2
What am I hearing now?
I don’t know.
I’m not listening to what I hear.
So I hear nothing.
I won’t speak about the rain
pattering on my windows:
I don’t hear it.
I agree that the rain is an important subject,
but it’s tangential to the problem
under discussion.
What do I hear?
Silence, silence.
I wish I could hear
the harmony of silence.
What I actually hear
is just silence – a dry silence,
a silence that doesn’t call for harmony.
What am I to do with this silence?
I can scoop it up
and look at it.
But looking at it
doesn’t get me anywhere.
I must hear it.
I do hear it. So what?
Silence, silence.
Time is harmonious.
■まだ、推敲の余地はあるが、これで、23篇すべてが終了した。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(23)-1
2008-04-26 / 詩
(写真)Untitled
兼業はしんどい。まだ慣れないので、体調が整わず、昼間、サイバーがなかなか進まない。
メロディとハーモニー
1
ハーモニーとは何だろう
わたしの思考はこだわる
わたしの思考に
わたしの意識に
わたしの重い良心に
過去に
未来に
現在は
あなたからの電話にその姿を変える
あなたの電話を待つことに
わたしはこの世界に降り立ったところだ
「昇る」と「降りる」ではなにが違うのだろう
なにも違わないと中国人は言う
わたしがどこにいようとたいした問題ではない
上だろうが下だろうが
「昇る」と「降りる」はひとつのハーモニーなのだ
わたしは聴いてみたい
現在というメロディを
ハーモニーについて書きながら
あなたの電話を待つ
電話から聞こえる
「イエス」も「ノー」もハーモニーなのだ
(それはあなたの声ではない)
ハーモニーはあいまいな言葉
ハーモニーは光
だからこそ
ハーモニーについて書けるのだ
MELODY AND HARMONY
1
What is harmony?
My thoughts that dwell upon
themselves, my consciousness,
my heavy conscience,
the past, the future.
The present is reduced
to your telephone call.
Waiting for your call!
I’ve come down in the world.
What’s the difference between
‘up’ and ‘down’? The Chinese say
there’s no difference.
What does it matter wherer I am,
up or down?
Both ‘up’ and ‘down’ are a harmony.
I’d rather hear
the melody of the present.
Waiting for your call,
writing about harmony.
And harmony is ‘yes’ or ‘no’
I hear on the telephone.
(It’s not your voice.)
Harmony is a noncommittal phrase.
Harmony is the light
which enables me to write about
harmony.
■長い詩なので、2回に分けてアップする。アファナシエフの核心に近い思想が語られていると思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(22)
2008-04-21 / 詩
(写真)何の花か?
朝、以前のブログを調べていたら、コンサートリーフレットのアファナシエフの詩も大半訳出していたことが判明。午前中、ひとつ訳出したので、残りは一篇のみとなった。
そのときどきの自分の状況が聴きたい音楽を規定してくるということは、確かにあるようで、いっとき、ベートーヴェンしか聴きたくなかったが、今は、不思議なことにモーツァルトとプロコフィエフしか聴きたくない。なぜかはわからないが。
◇
休止
音楽の休止の意味はなんだろう
そもそもなぜ音楽は止まるのだろう
音楽は音楽自身に耳を傾ける必要があるのだ
沈黙のあいだも
音楽は自らを聴いている
けっして止まることはない
PAUSES
What’s the meaning of pauses in music?
Why does music ever stop?
Because it needs to listen to itself.
Even during a period of silence
music listens to itself.
It never stops.
■一遍上人の考え方に近いものを感じる。名号が名号を聞く。人はいない。そこに区別はない。アファナシエフの考える音楽も、これに似ている。そこに聴く人聴かぬ人の二元論はない。音楽は音楽を聴いていないひとにさえすでに届いているのだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(21)
2008-04-20 / 詩
(写真)立ち飲み
疲労で、午後まで眠。いつもの喫茶店でアファナシエフを訳す。
エミール・ギレリスの思い出
あなたが亡くなってから
何度もコンサートで演奏してきた
それはみなあなたの思い出に捧げたものだ
あなたについては何も書かなかった
短い文章のほかには
事実だけを述べた簡潔な文章のほかには
それなのにピアニストや映画監督については
ずいぶん書いた
愛するひとについて書くなら
距離を置かないと難しい
あなたのアパートで多くの時間をともにすごし
モスクワの並木道を散策した
ただ賞賛や尊敬を受けているひとなら
書くのは簡単だ
あなたについて書くのは難しいとわかった
音楽について書くのはやさしい
あなたがいるから
IN MEMORY OF EMIL GILELS
I’ve played a lot of concerts
since your death. All of them
are dedicated to your memory.
I’ve written nothing about you
except a short article-
a clear, factual account.
And yet I’ve written so many pages
about pianists and film-directors.
It’s easy to write about those
one loves from a distance,
and we spent so many hours,
in your apartment,
and strolling along
the boulevards of Moscow.
It’s easy to write about those
one just admires and respects.
I’ve found it hard to write about you.
It’s easy to write about music
in your presence.
■これで、残りは、コンサートリーフレットのみとなった。あとは、訳文に推敲を重ねていく。先行の訳があると、非常に参考になる。この作品には前回、前々回と同様に、先行訳があった。かなり助かる。当然、先行訳を超えることが課題になる。
この詩からは、ギレリスに学んだアファナシエフの感謝の念と愛情が伝わってきた。最後に「in your presence」と表現しているところに、それはよく出ているように感じた。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(20)
2008-04-17 / 詩
(写真)いい味のアパート。昭和。
さて、アファナシエフの一次稿もいよいよ佳境。今日は、冷たい春の雨だった。仕事の帰りに、ホームで酔っ払い二人が「ソープいいとこ、一度はおいで」と合唱。一方で、後期近代の超合理的なシステムの運用があり、他方で、システムの酔っ払いが叫ぶ。
◇
補遺
ヴァレリー・アファナシエフ
われわれの歴史は無意味とも思える
人間性という主題の変奏曲なのだ
それは舞踏という主題なのではないか
ワルツのような ディアベッリのワルツのような
(シュトラウスは人間性というには輝かしすぎた)
セリーヌの『リゴドン』のような
(セリーヌ自身はハードロックだった)
人生はくりかえす
舞踏がそれを映し舞踏がそれを響かせる
そのくりかえしは
メリーゴーラウンド
和平交渉をもう一ラウンド
レスリングをもう一ラウンド
ゴルフをもう一ラウンド
一斉射撃をもう一度
飲み物を全員にもう一杯
回診にドクターをもう一人
その無意味さは
蟻の忠告にしたがう蝉
(蟻自身は舞踏する
ガヴォットかアルマンドを)
それは虚栄とうぬぼれ
タンゴのようなわれわれの運命
ラップは過去十年間のポピュラーミュージックでは
もっとも重要な進展なのである
POSTSCRIPT
Our history is a number of variations
on a rather inane theme-humanity.
And it’s a dance- theme, I imagine.
Something like a waltz, Diabelli’s waltz.
(Strauss was too magnificent for humanity.)
Something like Celine’s Rigodon.
(And Celine himself was hard rock.)
The repetitive nature of life
is mirrored and echoed by dances.
And the merry-go-round
of its rounds:
another round of peace talks,
another round of a wrestling match,
another round of golf,
another round of ammunition,
another round of drinks,
another doctor on his rounds,
And its futility: the cicada
that follows the ant’s advice.
(The ant itself executes a dance-
a gavotte or an allemande.)
And vanity, and smugness.
And our tango-like destiny.
Rap is the most important development
in popular music in the past decade.
■この詩は、訳出が難しかった。ラウンドのニュアンスを出すのが特に。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(19)
2008-04-14 / 詩
(写真)新宿南口の「クリスピードーナツ」に並ぶ人々。ぼくも有楽町店のものを食したが、確かに旨い。とくに生地が。ミスドーとはレベルが違うだろう。しかし、いつも、紀伊国屋に行くとき、この行列を見ると、げんなりしてしまう。
◇
ジョルダーノ・ブルーノへのオマージュ
ヴァレリー・アファナシエフ
人間たちの向こう側なら
まだうたはうたえる
パウル・ツェラーン
大天使たちは疲れている
歩くことさえできない
肘掛椅子にもたれて
わたしを見つめている
すべてを吸い込む眼の中に
わたしが映り わたしがわたしになる
その眼はわたしの寿命を延ばし
軽く限界を超えてしまう
大天使たちの眼の裏側で
わたしは不死になる
大天使たちは
わたしの不死に疲れて
ときおり
眼を閉じる
するとわたしは消える
しばらくのあいだ外に出るのだ
創造の外は
星でいっぱいだ
HOMAGE TO GIORDANO BRUNO
es sind
noch Lieder zu singen jenseits
der Menschen.
Paul Celan
Archagels are weary.
They cannot even walk.
They sit in armchairs
and stare at me.
In their all-absorbing eyes
I am reflected and completed:
Their eyes extend my life
far beyond its bounds.
At the back of their eyes
I am immortal.
They are so weary
with my immortality
that they shut their eyes
now and then,
and I disappear.
I go out for a while.
There are lots of stars
outside Creation.
■ツェラーンの詩は、悲惨な歴史を経験したあとの反語的な表現だと思うが、これを詞書に持ってきたところが、面白いと思った。レクチャーで、アファナシエフに、社会や歴史への興味を聞いたことがあるのだが、たとえば、9.11の映像などには、大変衝撃を受けたという話をした後に、自分にとって、音楽はあくまで自分の私的な物語だと言い切っている。ツェラーンの詩も、ホロコーストとの関わりで論じられることが多いが、ある意味で、私的な物語(たぶんに狂気を孕んだ)なのかもしれない。
アファナシエフのこの詩、ツェラーンの詩を読み替えているようにも見えるが、ツェラーンの詩の余白にもともとありえた詩のようにも思える。
ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)
これで、ジャケットに掲載された詩は、一次訳稿がすべて終了した。あと、アファナシエフの詩は、コンサートリーフレット、書籍に発表された詩篇が数編残っている。これらも順次、新しく訳出してみたい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(18)
2008-04-13 / 俳句
(写真)友だち
今日は句会の日だが、仕事が遅れているため、そちらに専念しなけれなならない。昨日、初めて見つけた古本屋で、子規・虚子・啄木の入った「日本の文学」(中央公論)と永井龍男、阿部知二の入った「日本の文学」(中央公論)を購う。各190円。
◇
アファナシエフの一次訳稿をアップ。
遠くの幸福
ヴァレリー・アファナシエフ
生まれた街の通りを歩くと
いつも遠い過去にもどったような気がする
知らない家の窓や溝に
なぜ自分の過去を見るのだろう
その家に住んだこともないし
野良犬や酔っ払いと溝に眠り込んだこともない
どうしてそんなものを見つめつづけるのだろう
どうしていたるところに自分自身を見つけるのだろう
わたしはモスクワが好きではないが
わたしはこの都市なのだ
わたしの過去は新しい家や新しい廃墟と一緒に
遠くまでもどっていく
わたしはどうしてあんなに多くの人を殺したのだろう
どうやって自分の無数の傷を治したのだろう
その傷はすべて致命傷だったというのに
わたしは不道徳だろうか わたしはイワン雷帝なのだろうか
だがイワン雷帝はフランスに住まなかったし
あなたと電話で話などしなかった
イワン雷帝にはすべてが必然だったのだ
LONG-DISTANCE HAPPINESS
Whenever I walk along the streets of my native city
I find my past has grown much longer.
Why should I see my past in ditches
and beyond unknown window? I never
lived in those houses nor slept in those ditches
beside stray dogs and drunkards. Why do I keep
looking at them? Why do I recognize myself
everywhere ? I don’t like Moscow,
but I am this city and my past
grows longer with every new house
and every new ruin. Why have I killed
so many people? How have I managed
to heal my uncountable wounds-
all of them nearly fatal?
Am I immoral? Am I Ivan the Terrible?
But Ivan the Terrible did not live in France,
nor did he talk with you on the telephone:
he never had a chance in life.
■こういう詩を読むと、ボルヘスの詩との類縁性を感じるし、ニーチェの永劫回帰にも通じるものを感じる。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
翻訳詩の試み(17)
2008-04-11 / 詩
(写真)春の坂
今日は、疲労のため、半日、眠。午後から外出、いつもの喫茶店でアファナシエフを訳す。もろもろ、立ち上がりでかなり苦しいけれど、ここは、じっくりいくしかないだろう。アファナシエフの一次訳稿をアップ。
◇
T.Aへ
ヴァレリー・アファナシエフ
どうしてデスクの引き出しの中の
あなたの手紙を探すのだろう
それは時の穴に落ちて
いまとなっては古代ギリシャかトロイに
あるに違いないのだ
あなたは古代の雰囲気を身にまとっていた
パリスがあなたの手紙を読んでいたら
どうだろう
嫉妬したにちがいない
メネラオスの妻でさえ
捨ててしまったかもしれない
もうずっと長いこと
わたしは記憶喪失だが
いま気がついた
あなたはわたしの影だったのだ
後の世まで残ってほしい影だったのだ
TO T.A.
Why do I fumble in the drawers of my desk
for your letters? They must have tumbled
into the pit of Time to be stored now
in Ancient Greece or in the Troy: you did have
an air of antiquity about you.
I wonder if Paris
has read them already.
If so, he must envy me.
Perhaps he has even forsaken
the wife of Menelaus.
I’ve suffered from amnesia
for many, many years.
Now I realize:
you are the only image of myself
I’d like to preserve for posterity.
■相変わらず、形而上学的で面白い。唯物論的な詩というのは、イメージできるが、かなり退屈ではないだろうか。意外に感覚的になるという気もする。俳句の場合、物に即していても一向に退屈にならないのは、定型や季語、切れといった文法、笑いや東洋思想の深みがあるからだろう。アファナシエフの詩をどこに位置づけるか、議論のあるところとは思うが、詩人の系譜に位置づけるよりも、たとえば、ボルヘスやベンヤミンあるいはニーチェやハイデッガーとの関連で議論した方が近いのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
芭蕉の俳句(170)
2008-04-09 / 俳句
(写真)傘
疲労のため、昼まで眠。起きて、大学の授業料を振り込みに。バカ高いですな。いつもの喫茶店でアファナシエフの訳詩原稿を推敲する。兼業でやたらに忙しい。
◇
九月三日、墓に詣づ
見しやその七日は墓の三日の月
■嵐蘭の初七日の墓参りのときに作った追悼句。三日の月で秋。元禄6年作。「その七日」という措辞や「墓の三日の月」といった措辞は、なかなか出てこないと思う。「見しや」で墓の下の嵐蘭に語りかけていて、主客が浸透し合った中に哀悼の気持ちが滲んでいて惹かれた。初めから計算したのではないだろうが、ミとカの音が連続して響き合っている。なかなか、じっくり分析・鑑賞する時間がないので、直観的にいいと思った句は、頭から覚えこむスタンスで行ってみようと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ |