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一日一句(625)







冬草は枯れて華やか草のなり






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冬の日:狂句こがらしの巻(1)


■旧暦12月19日、水曜日、

(写真)無題

家人が、面白い本を買ってきたので、パラパラ読んでいる。佐藤初女著『いのちを養う食』(講談社)。1921年生まれの佐藤初女さんは、非常に不思議な活動をしている。食を原点にしたセラピーとでも言えばいいのだろうか。青森の岩木山麓に「森のイスキア」というスペースを作り、心に苦しみを抱えてくる人たちに開放している。そこへやってきた人たちは、何かしら問題を抱えて悩みで心が一杯で、なにも食べられず、青い顔をしてして元気がないことが多いという。佐藤さんとスタッフのひとたちは、ただ、よく話を聞き、心をこめた家庭料理を一緒に食べるのだという。この人のおむすびを食べて自殺を思いとどまった人もいる。悩みの答えは、悩む人自身の中にある。わたしが意見を言う必要はありませんと佐藤さんは言う。人の話を聞き、一緒に食事して、眠る。労働を終えた後の人間活動の原型のようなことを、ボランティア活動として意識的に行っていると言えば近いのかもしれない。こういう人間活動の基本が、きちんと行われてゆくと、人間の悩みは、大かた自分で解決へ向かうようになる、という現実は、実に示唆的ではないだろうか。「食べることは生きること」佐藤さんの言葉である。



狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉

たそやとばしるかさの山茶花   野水

■「狂句こがらしの身」という措辞は、芭蕉の並々ならぬ矜持と謙遜を同時に感じさせる。こがらしに吹かれる身と同時に、こがらしとなって花を散らす身。普通の人は、ここまで、自己を凝視できないと思う。「たそや」はだれだろう。


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一日一句(624)







過ぎゆくはいつも一人や冬田道






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一日一句(623)







冬国会殺意覚ゆる笑ひ顔






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一日一句(622)







寒茜富士の見えたる厠窓






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一日一句(621)







日脚伸ぶプリンタエラー直りたり






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一日一句(620)







その先は言はぬが花よおでん酒






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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(34)


■旧暦12月16日、日曜日、、満月

(写真)無題

熱も下がったので、蒲団干し、洗濯、掃除、ゴミ捨てなど雑用。
漫画版で、漱石(1867-1916)の『思い出す事など』を読む。文庫版で何回か読んでいるが、漫画で読むと、また、違った味わいがあって、面白かった。以前の新潮文庫は、活字が小さいので、買い直して、また、読み始めている。「死」は、経験できないものであり、生と死には、完全に断絶があったと、修善寺の大患から回復した漱石は後に述べている。「死」は経験できない、というのは、ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)も同じことを述べていて、興味深い。



『一生懸命フォトグラファー列伝』という本が、写真の参考になりそうな気配がある。19歳から100歳までのアマチュア写真家145名へのインタビュー集。



一構鞦つくる窓のはな   凡兆

枇杷の古葉に木芽もえたつ   史邦

■俳諧の凄さに、具体性があるけれど、挙句は、「枇杷の古葉」といい、「木の芽もえたつ」といい具体的な世界が明確に縁どられ、その縁取りの向うに、全体的な生命の気配が満ちている。

ここのところ、藤田省三先生の「『野ざらし紀行』についての覚書」(藤田省三著作集5所収)を読んでいる。大変勉強になり、また、共感もできるテキスト。このエッセイは、明らかに、存在論的な視点で書かれている。その点が凡百の国文学系テキストとは異なっている。これを読んで、「猿蓑」の検討を、ここでいったん中止して、野ざらし紀行の途次、名古屋で巻かれた、歌仙「冬の日」から、遡って検討し直すことにした。



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一日一句(619)








何事も無きがごとくに冬の月






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一日一句(618)







左手で酒と書きをり風邪の神






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