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飴山實を読む(73)

■旧暦6月29日、木曜日、

(写真)夜の秋

今日などは、風の中にはっきり秋の気配を感じた。この頃、現実逃避を水木しげるのコミックでしていたのだが、三冊読んで止めにした。本質的に退屈なのである。止めにして、『江戸俳画紀行』(磯辺勝著 中公新書)を読み始めたら止まらなくなった。蕪村は画家で絵もよくしたことは有名だが、芭蕉も一茶も、片手間ではなく、絵を描いていた。このことの意味をもっと考えてもいいんじゃないだろうか。芭蕉の発句を検討していても、自画賛がかなりある。俳画、書、発句の醸し出す音楽と空間は、非常に面白いと思う。この本の中で、後ろ向きの猫を描いた松岡青蘿(1740-1791)の絵とその発句が紹介されていて、印象に残った。


のらねこのわなにまたるゝ恋路かな


青蘿にはほかにこんな句もある。

荒海に人魚浮きけり寒の月
苦しみをはなれて動く生海鼠哉
薄霧に花の香あらんけふの月






夕空を花のながるゝ葬りかな
   「花浴び」

■一幅の絵さながら。桜と死は、桜と詩と同じように近いものに感じられる。一句往生。こんな言葉が好きである。

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芭蕉の俳句(190)

■旧暦6月28日、水曜日、

朝、かなり涼しい風が入ってくる。仕事は昨日で、ひと山越えたので、徐々に、日常のペースが戻ってくると思うが、7月は病人も出て夏を感じる余裕がなかった。

(写真)青田




駿河路や花橘も茶の匂ひ
  (炭俵)

■元禄7年作。花橘で夏。「駿河路や」という上五の広がりに惹かれた。そう言えば、橘の花の香りは、あまり記憶にない。柑橘類のような香なんだろうか。



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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(10)

■旧暦6月25日、日曜日、

(写真)夏休み

毎日、暑いので、いささか、疲れ気味。このころ思うのは、病気と人間の関係。ぼくの仮説だが、病気は、その病人の本質をデフォルメして出現させる。本質と言っても、幼少期からずっと変わらないなにものかという意味ではなく、その時の性格の核や髄といった方がいい。その人の立ち姿が、その人の人となりが、突然、極端な形で見えてくる。孔子は、人間を知る上で、人は嘘をつくから行動を見るように、行動も、人が見ていればかっこつけるものだから、その人の安んじた世界を見るように言ったが、ぼくは、病人を見れば、人間とはどんなものなのか、よくわかるように思う。むろん、「病人」と「健康者」の区分けは、医療機関や行政や司法が行うものであるから、社会的・歴史的なものであり、絶対的なものではなく、相対的なものである。したがって、論理的には、「病人」の中に「健康者」が、「健康者」の中に「病人」が存在する可能性が常にある。




Hinter der Ecke
endet der Wind


角の向こうは
風が止んでいる


■シンプルだが、面白い。放哉の句のようだ。角のこっちは風の中で、向こうは風が止んでいる。風を視覚的に捉えた句なのだが、向こうの静けさが伝わってくるような気がした。
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Richard Wrightの俳句(60)

■旧暦6月22日、、土用の丑、河童忌

(写真)国立新美術館

先日、アボリジニの画家、エミリ・ウングワレー展に行ってきた。土や肌に描いていた伝統的なアボリジニのデザインをキャンバスに描き始めたのが78歳になってからというこの画家は、抽象画のイメージを一新するような仕事を残している。西欧の抽象画は、カンディンスキーにしてもクレーにしても、理論的な思考との往還運動の中で、絵画制作が行われるが、エミリの絵は、理論的な思考はない。アボリジニの伝統的な感性の延長線上に作品がある。題材はすべてアボリジニの生活の中にある。それでいて、最先端の西欧の抽象画とクロスし、それを突き抜けるようなところにまで届いている。見終わって、太陽と大地に対する感謝の念を強く感じた。




Sun is glinting on
A washerwoman's black arms
In cold creek water.


太陽がキラッと光る
洗濯女の黒い腕で
冷たい小川の中



(放哉)
血がにじむ手で泳ぎ出た草原


■ライトの句、凡庸の域を出ない。当り前の世界から出ていない。今まで、丁寧に60句すべて検討してみたが、佳句は少なかった。今後は、あらかじめ選をしてから検討してみようと思う。放哉の句は、やはり面白い。放哉の場合は、あらかじめ選をしているので、当然面白い句が並ぶのであるが。

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飴山實を読む(72)

■旧暦6月19日、月曜日、

(写真)二匹

最近、この詩句が気に入っている。

In my beginning is my end...
In my end is my beginning.

T.S. Eliot

写真の二匹は始まったばかり。

さて、よく死ぬために、太極拳を始めることにした。ま、金も時間もないので、とりあえず、DVDで学習することから始める。ぼくの今の理想のイメージは、早朝、江戸川で朝の天地の気を吸いながら、太極拳を行うこと。




まぼろしに湖を三つ見る花の間


■一読惹かれた。この句には、前書きがある。「加州小松郊外に小丘あり 三方に潟ありて三湖台と呼ばれしが、今は埋め立てられて水気をうかがふことなく、名のみを残せり 岳父九十余歳でみまかりしを悼みつつ登るに 二句」

前書がないと、ひとつの詩あるいは詩の中の一行といってもいいんじゃないだろうか。前書がついたことで、俳句の由来と挨拶の心が明らかになり、故人を悼む實の挨拶が、逆に、今では、彼岸に入った實から生者への挨拶に聞こえてこないだろうか。
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芭蕉の俳句(189)

■旧暦6月15日、木曜日、

(写真)夏椿の蕾

善く死ぬことは善く生きることと同じくらい重要ではないだろうか。善く死ぬために生きる、という生き方があっていい。仕事や創作や日常生活を、善く死ぬために、という観点から再編成してみるとどうなるか。資本主義的な馬鹿騒ぎに欠けているのは、「死ぬことを忘れている」ということだろう。キリスト教文明では、死後の永遠の生という究極の忘却がある(世俗化が進んだ現在も無神論者であることを公にすることはタブーである)。そういう観念のない文明でも、死は恐ろしく軽くなった、あるいは浅くなった。これは、裏を返せば、命が軽くなった、あるいは浅くなったということでもあるだろう。死も生も一つの商品となり、消費(あるいは生産)の対象になったことで、生と死はもっとも軽薄な意味で、交換可能なものとなり、言葉にできない多くのものが失われつつある。他方で、善く死ぬことは、、今や一つの社会的な義務になったようにさえ思う。善く生きた人が善く死ぬとは限らない。生き方の倫理と健康の論理は、重なりあいながらも、互いに自律した側面を持っているからだ。善く死ぬためにどう生きるか、こんなことをしきりに思う。




紫陽花や藪を小庭の別座敷
   (別座鋪)

■元禄7年作。取り合わせに惹かれた。芭蕉最後の旅に際して行われた餞別の歌仙の発句。この句を詠んだとき、門人たちが俳諧を尋ねたのに対し、芭蕉はこう答えている。「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり」芭蕉の「軽み」は軽薄の対極にあるものだと思う。反時代的なスタンスを取ったがゆえの「重さ」。さらにその先に見える世界。そんな気がする。

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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(9)

■旧暦6月12日、月曜日、

(写真)夏の少年

Emobileという全国の主要地域をカバーするモバイル用のインターネットプロバイダーに入った。どこに出かけても、ネット接続が可能なように。今、はじめて試しているのだが、ダウンロードはなかなか早い。初めて使うのが旅先ではなく、叔母の介護ベッドの傍らというのは、まったく予想していなかった。




Ins Mondlicht
tritt ein Fuchs
ahnungslos


月光の中へ
一匹の狐が出てきた
何も知らないまま


■ahnungslos(何も知らないまま、予感なしに、無邪気にも)とあるので、猟師に狙われていることを暗示しているのだろう。しかし、月光という人間にとって、審美的な対象に気がついていないことを表している考えると面白い。ちょうど、虹の中にいる人間が虹の存在自体に気がつかないように。絵画的で非常に印象に残った。


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Richard Wrightの俳句(59)

■旧暦6月11日、日曜日、

(写真)夏椿の葉 花は蕾だった

介護ベッドを導入したが、体力のない老人には役に立たない。ベッドの力を借りても、自力で起き上がることができない。腰痛とはそれだけひどいものらしい。介護ベッドは、介護人が常時待機していて、初めて機能すると言えるのかもしれない。介護人の常時待機は、病院以外では不可能である。




Gusty autumn rain
Swinging a yellow lantern
Over wet catttle.


突然の激しい秋雨が
黄色いランタンを揺らしている
濡れた牛の上


(放哉)
いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘


■ライトの句、美しい光景だが、表現として見ると凡庸である。放哉の句は、蝙蝠傘を提示したことで、雨の面影を表現している。
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飴山實を読む(71)

■旧暦6月9日、金曜日、

(写真)朝顔が早くも

ここへ来て、一人暮らしの叔母が倒れた。入院は、満床でできず、当人も嫌がっているので、介護関連の手配をして、介護体制を整えている。医者の診断では、一時的なものだということだが、猛烈な腰痛で身動きができない。ケアマネージャーと話していて、びっくりしたのは、介護の認定に40日かかるだけでなく、認定されても、ヘルパーの絶対数が不足していて、すぐに手当ができるとは限らないというのだ。介護保険料だけ有無を言わさず取り立てておいて、実際にサービスが使えないのでは、公的セクターによる公然たる詐欺である。ヘルパーの待遇面や制度面の整備に金を使わないから数が足りなくなるのだろう。公的セクターは人当たりはよくなり親切にはなったが、こうした表面的なところではなく、セクターに内在する欺瞞的な構造を転換すべきだろう。



下堅小路花びら餅の良きしにせ

花びら餅なるものは、今まで知らんかった。朝廷起源の正月のめでたい菓子のようである。食いしん坊なので、この句を読んで食べてみたくなった。



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芭蕉の俳句(188)

■旧暦6月8日、木曜日、

(写真)バッグ

必要があって、介護保険を申請した。介護保険は申請して、認定されるまでに40日かかるという。必要になってから申請するのが普通なんだから(たいていの場合、即、必要だ)、あまりにも遅すぎないか。税金を自分の金のように平然と無駄遣いする一方で、本当に必要なところに配分しようとしない。この国の政治家や役人には、他者性が構造的に欠落している。

昨日、たまたま、仕事を休んだので、NHKの「その時歴史は動いた」で芭蕉の特集を観ることができた。先生が出演されると聞いていたので、楽しみにしていた。番組を見て、思ったのは、芭蕉が芭蕉になったのは、その才能の非凡さもさることながら、生き死にが相互に浸透し合うような「旅」がかなり重要な役割を果たしたのではないか、ということ。とくに、歩くことの重要性を感じた。先生は、「古池」の句が京都でも大阪でもなく、江戸深川という新興都市で誕生した意味ついて語られていたが、この視点は新鮮だった。



上野花見にまかり侍りしに、人々幕打ちさわぎものの音、小唄の声さまざまなりにける。傍らに松陰を頼みて

四つ五器のそろはぬ花見心かな  (炭俵)

■元禄7年作。四つ五器は四つ御器。托鉢僧の持つ、入れ子になった四つひと組の食器のこと。この句には、共感した。かねがね、花見は賑やかにやるのは嫌いで、一人しづかに花と対話すればいい、と思ってきた。芭蕉もそんな感性を持っていたらしいことがわかり、親しみを感じる。来年は、一人で、某所の桜を冷し酒を飲みながら見ることに今決めたのである。

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