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藤田武の歌(4)







中空にあえかなる桃のつぼみある炎の夕映えや水の夕映えや   藤田武






■名歌。

中空の桃の蕾にあたる夕日を、「炎(ひ)の夕映えや水の夕映えや」と詠んでいる。

藤田らしいと思われるのは、これが朝日ではなく夕映えであるところだろう。

どこか、没落の気配を秘めている。

「あえかなる桃のつぼみある」という措辞は、繊細でいまにも壊れそうな桃の蕾が、「ある」と言い切っている。

この存在は、確たるもので、その存在のありようである「あえかなる」と好対照をなしている。

しかも、存在する場所は、不安定な中空なのである。

藤田の歌を読むと感じる、没落の気配は、オーストリアの表現主義の詩人、ゲオルク・トラークルの詩のトーンと響き合っている。

トラークルは、時代や社会の没落を、自らの没落と響き合わせて詩を作り、第一次大戦の激戦地、グローデクでの医療兵(トラークルは薬剤師だった)としての悲惨な看護活動のち、コカインの大量摂取で自殺している。

グローデクは、第一次世界大戦中の「ガリツィア戦線」(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領、現在はウクライナ西部)の一部であり、1914年9月の「ガリツィアの戦い(Battle of Galicia)」の激戦地の一つだった。

藤田の歌にも、戦争の長い影が伸びている。

我々にも、その影は、過去から、未来から、伸びているのだが、感受できる人は少ない。



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藤田武の歌(3)






よるの坂のぼりつめゆく灯のあまたするどきゆめのさわだつに似つ   藤田武






■こういう夜の坂の情景は、神戸で、見たことがある、あるいは、経験したことがある。

「するどきゆめのさわだつに似つ」という比較は、したことがないが、言われてみると、よくわかる。

「灯のあまた」という、無数の灯が、山の向こう側で、微妙にゆれ動いている。

たぶん、この歌の眼目は、「するどきゆめ」ではないかと思う。

夢を形容するのに、「鋭い」という形容詞は普通は使わない。

夢自体が幻想世界であるため、鋭角的ではなく曲線的にイメージされるからだ。

また、夢は、稀な例外もあるが、基本的に、音がない。

この歌の夢は、「さわだつ」という動詞が使われている。

これも面白い点だろう。

ざわざわと音を立てて夢が騒ぎ出す。

また、「のぼりつめゆく」という表現もあまりしない。

「上りつめる」は、普通は、完了形の意味で、坂の頂上に登った、という使い方だろう。

この歌は、「のぼりつめゆく」と、いわば、英語の現在完了進行形になっている。

頂点に登り切りつつある、ということで、動作は完了していない。継続している。

もうそこに頂点が見えている、その過程で、夜の灯も向こうに見えているのだ。

これも、なにかを暗示しているように感じる。

つまり、終局の一歩手前なのだ。

さて、この夜の灯の微妙な点滅が、「するどきゆめのさわだつに似つ」は、よくわかると言ったが、改めて考えると、これは、一種の危機意識の現れなんじゃないか。

夜の街の灯を見て、普通、こういうことは思わない。

きれいだとか、きょうはよく晴れたとか、あれは、六甲だとか、そういうことを思うのであって、それが、鋭い夢がざわついているのに似ているとは思わないだろう。

しかし、それでも、一読、よくわかる。

ような気がする。

時代が危機的であるからだろう。

この比較が直感的にわかるのは。





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藤田武の歌(2)







春暁なべては物象のよみがえり空なる緋桃反りてしばしよ   藤田武




■春暁(はるあかつき)、物象(もの)。

春暁という、季節の始まり、一日の始まりを、存在のよみがえりの中に捉えた、比較的分かりやすい歌だが、空なる緋桃も、そのよみがえりのひとつとして提示されている。

このよみがえりは「黄泉がえり」でもあり、いったんは、死の、夜の、反生命の世界を通過している。

物象を「もの」と読ませて、生きものばかりか、存在にまで、その「黄泉がえり」を拡大している。

謎は「空なる緋桃反りてしばしよ」の7・7だろう。

この、「しばしよ」という時間の感覚は、緋桃の咲いてゐる枝の空間に反った「しばし」の時間であると同時に、それに感応する作者あるいは読者の人生の「しばし」の時間だろう。

だからここは、「しばしよ」と詠嘆でないといけなかった。



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藤田武の短歌(1)






修羅を越えほほえみあれよ降りくる黒き棺にひとり歌神(1995)   藤田武




■一読惹かれたが、「修羅を越えほほえみあれよ」はよくわかる。「降りくる黒き棺にひとり歌神」はわからない。全体として、この関連性がわからない。

「降りくる黒き棺に」が、一番難しかった。「降りくる」は、普通に読めば、棺が空間の上方から下方へ垂直に降りてくる、といった運動を表している。

しかも、その棺は、黒い。

なぜ黒いのか? 黒は、言葉の色彩を越えている。

歌神が言葉の歌を終えて、死とともに、沈黙の歌へ入ったからと感じた。

「修羅を越えほほえみあれよ」と読者に命じているのは、永遠の「ほほえみ」が、死を表しているからではないか。

つまり、生あるかぎり、修羅として戦い・歌い、死に至ってはじめて、歌と合一する。

そのような存在を歌っているような、自画像とも読める。

これは、自画像でもあるが、普遍性を持った歌でもあるだろう。



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