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ヒヤシンスとアマリリス

■旧暦5月16日、日曜日、

(写真)夕方の空模様

朝風呂に入ってから、仕事開始。午後、頭が回らなくなったので、筋トレに出向く。2時間汗を流す。夕方、買い物がてら散歩。この頃の梅雨は、南洋性の気候に近くなってきたのではあるまいか。スコールみたいな雨の降り方が多くなった気がする。これは夕立にも言える。雲も、遠くに青空が見えてこっちは黒雲という沖縄のような感じである。



銀河系のとある酒場のヒヤシンス   橋 石

ヒヤシンスは、地中海沿岸原産。歳時記では、4月に登録されているが、紫に近い深いブルーが、深海や宇宙空間を思わせて、暑苦しい夜に、この句をよく思い出すのである。いっとき、広大で遙かな気分になる。


水にじむごとく夜が来てヒヤシンス  岡本 眸

これも春の夜を表現しているので取合せが近すぎるのだが、ヒヤシンスという音楽が、冷たい水を想像させる。個人的な感覚だが。


ブブゼラが大地に響くアマリリス     冬月   

アマリリスは南アフリカ原産。江戸時代末に渡来。アマリリスは、原色のオレンジ色からユリに似た白までさまざまあるが、涼味という点では、白系がふさわしいように思う。しかし、江戸の人々は、この花を見て、何を思ったろうか。興味のあるところである。ブブゼラ(Vuvuzela)は、元は民族楽器であるから、アフリカの大地に鳴り響いた時代もあったことだろう。
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北と南(18):火炎木

■旧暦3月29日、日曜日、、奇妙な天気で霧雨が降ったりやんだり。

(写真)白牡丹、たしかに紅ほのか、である。

世間は、連休であるが、当方は、なんのことはない。兼業が専業になっただけである。貧乏暇なし。

アファナシエフの詩集を出してもいいという奇特な出版社とめぐりあって、現在、最終的な訳文の推敲と原文チェックを行っている。この詩集は、日本語・英語の併記で出そうと考えている。対訳とはちょっと違う。あくまで、日本語が主で、英語の原詩は日本語の詩の後に出てくる。アファナシエフご当人の了承を得ることが前提になるが、いかんせん、アファナシエフは、単独で詩集というものを出していない。そこで、これまで、発表された詩篇を訳出して、新たに編集して、一冊の本にまとめるということになる。このため、エイジェンシーを介在させる従来の方法は取れない。日本側の窓口を通じて直接、彼の了承を取らなければならない。今、情熱的かつ説得力に溢れた(?)レターを書いているところである。このレターいかんで、実現するかどうかが決まるので、けっこう真剣である。



と言いつつ、長谷邦夫さんの『天才ニャロメ伝』が面白くてやめられない。日本の戦後漫画の勃興期が当事者の口から語られていて、興味が尽きない。このコミックは、赤塚不二夫伝であるが、フジオ・プロから見た戦後日本漫画史であり、クリエイティブな才能の集団の実態(?)がリアルに描かれている。ぼくも、某企業の企画部にいたことがあるので、赤塚的な匂いの人間は何人か知っている。けれど、しょせんはサラリーマンの枠を出られない。ここまで、ぶっ飛んだ人物はいなかった。ぼくの好きなつげ義春が、たまにトキワ荘にやってきて、赤塚にプロになるようにけしかけたり、「劇画」について語ったという話(「つげさんは今どこの仕事やってるの?」「特に何もやってないよ。ボンヤリ貧乏しているだけだ」「結局さ、赤塚君やトキワ荘のひとたちって“よい子マンガじゃない”」いかにものセリフに感動してしまった。)などがとくに印象的だった。しかし、赤塚不二夫周辺は、映画かドラマにしても面白いんじゃないですか。これだけ、過剰なエネルギーを放出できる日本人は、いなくなってきたなあ、という感想。



火炎木の花

(写真)

アフリカンチューリップ。アフリカ、東南アジアなどに分布。花は4月、5月、だいだいがかった赤色、一つの枝先に30~40の花がいっせいに咲きそろう。遠くから見た花の塊がチューリップに似ている。風にそよぐ姿が燃えさかる炎に似ているのでこの名がある。


天日へ巨花ひらき立つ火炎木
   小熊一人

火炎木咲く藍甕につむぎ糸
    小熊一人

火焔木一花を活けし夜の卓
    村田青郷

※ 『沖縄俳句歳時記』(小熊一人編著、那覇出版社、1985年)

■火炎木が夜の卓に活けてあったら、夢と現実が溶け合ってしまうようでちょっと怖い。

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北と南(17):春荒

■旧暦2月21日、金曜日、

戸定館の枝垂れ桜。早くも満開(写真)

沖縄ノート訴訟、大阪地裁判決は妥当であり、二度と集団自決のような悲惨な歴史を繰り返さないためには、有効な判決だと思う。しかし、この問題、そう簡単に白黒つくようなものではないように感じる。少なくとも、元戦隊長の被害者的側面を見落としてはいけないだろう。お国のためとか、天皇陛下万歳で、死んでいったいったり、命じたりしたんだから、国と天皇の責任問題はきちんと議論すべきだろうし、そもそも、そんな風に国民全体を洗脳していった「皇民教育」のメカニズムをもっと知りたいと思った。南京陥落のときには、朝日新聞は体制の提灯を持って祝賀の句を虚子に要請している。虚子も喜んで応じている。いったい、これほど、他者への想像力が欠如したのはなぜなのか。また、体制内で己の命と引き換えにする他に抵抗のしようがないとき、「責任」という概念をどう考えたらいいんだろうか。それを裁く司法制度とは何なのだろうか。大江健三郎の『沖縄ノート』を読み始める。



春荒(はるあれ)

3月15日から4月7日の期間を「春の荒れ」という。近海に前線が停滞し、台湾低気圧(別名台湾坊主)が次々に通過するため、短期間で天気が変わる。古来「二月風廻り」(にんぐゎちかじまーい)と呼ばれと、海難事故が4月4日ごろの「寒の戻り」(かんぬむどうい)まで続く。この風廻りを境にして、風向きは南に変わる。


二月風廻りねむれる島起こす
   小熊一人

二月風廻り行商の魚光る
    三浦加代子

春荒や足におわせる漁夫溜まり
   嵩元黄石



※『沖縄俳句歳時記』(小熊一人編著 那覇出版社 1985年)




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北と南(16):気違茄子

■旧暦2月13日、木曜日、、春分の日

冷たい春雨である。終日、いろいろ、雑用。ここ二ヶ月ほど、日清ヨークの「ピルクル」を飲んでいる。そのため、腸の調子が良く、胃腸の弱い者としては、うれしい限りである。とくに、風呂上りの一杯は、もはや、欠くことのできない習慣と化したのである。

(写真)杖

彼は家族から学んだー
大きくてもの言わぬ存在、
時間を超えたもの、深く根をおろしたもののまえで
金と時間になんの意味があるか。

W.H.Auden「肖像」(1940)

そう言えば、アントニオ・ネグリの来日が延期になったらしい。話を聴きに行ってもいいかなと思っていたので、残念。



気違茄子(朝鮮朝顔・曼荼羅華)

メキシコ原産。自生する低木状の小高木。花期は3月から10月。葉腋から大型ラッパ状に白く咲き垂れて萎む。葉は鎮痛、喘息、胃痙攣に効く。

(写真)

拝所の気違い茄子白く咲く     小熊一人
拝所の急な坂道曼荼羅華     浦 廸子

※『沖縄俳句歳時記』(小熊一人編著 那覇出版社 1985)
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北と南(15):車輪梅

■旧暦1月30日、金曜日、のち

(写真)春夕べ

今日は終日の断水で困った。なるべく外にいようと思って、公園のベンチでしばらくボーっとする。何もしないで、ただ、春の日を浴びる。天気が良かったので、年配の人たちが、ベンチで合い向かいになって、将棋をやっていた。見物人も何人かついて、盛況である。

唐突だが、カラオケがわりと好きである。たまに行く。とくに音楽的な素養があるわけじゃないが、歌うことが好きなのである。自然、ヴォーカルにうるさくなる。ヴォーカルと曲には、ある意味で、必然的な結びつきというものがあるように思う。この曲は、この人で始めて生きる、というような。たとえば、Stand by meは、ジョン・レノンでなければ、生きない。レノンが歌うのを聴いて、初めてStand by meに「出会った」ということかもしれない。こうした「出会いの経験」を提供できるヴォーカリストこそが、ぼくにとって、ヴォーカリストである。そうした一人にヴァン・モリソンがいる。往年の圧倒的な歌声は、やや衰えたが、昨日のStone Rosesのヴォーカルと比べると、「出会いの力」は歴然としている。

Van Morrison - Till I Gain Control Again: Live @ Ryman, Closed Captioned
Van Morrison - There Stands The Glass: Live @ Ryman, Closed Captioned
Van Morrison - Playhouse: Live @ Ryman, Closed Captioned



車輪梅(しゃりんばい)

車輪梅は、葉が枝先に車輪状につき、花が梅に似ているので、この名がある。樹皮はタンニンを含み「テカチ」という褐色染料に古来より常用された。


車輪梅咲き貝塚へつづく道
    深山一夫

※『沖縄俳句歳時記』(小熊一人編著 那覇出版社 1985年)より




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北と南(14):聖紫花

■旧暦1月24日、土曜日、陽射しは春の色なれど、風が冷たい。

(写真)紅梅の深空

昨日は、石川淳が現代語訳した「春雨物語」を一気に読みきる。朝になってしまった。面白くて止まらなくなった。石川淳と三島由紀夫が解説を書いているのだが、三島由紀夫の言うことはずれているように感じた。秋成に自己投影するのはわかるが、絶望と抗議の文学という理解は、ちょっと違うんじゃないか。三島自身がそうだと言うならわかるけれど。これに対して、石川淳は、近代の散文文体という観点から、秋成を論じている。この視点の方が説得力があるように思った。

昼ごろに起きて、家人の買い物につき合う。松戸は美味い店が少ない街で、松戸人は馬鹿にされているんじゃないか、とかねがね憤っているのだが、これには、例外が少なくともひとつある。それは、「サフラン」というパン屋さんである。市内に数店舗展開していて、石窯で焼いたパンを出す。ここのパンはまず外れがないが、中でも絶品は、ブールである。フランスパン系だが、その名のとおり球形をしている。このパンは生地が絶妙で、これにかなうパンはこれまで食したことがない。3月から小麦が値上がりしたせいで、一まわりブールが小さくなってしまった。労働もせず、右から左に金を動かすだけで、金儲けする一部の連中のせいで、暮らしが直撃されているのは、本当に腹立たしい。国際的な投機筋には世界的に重税をかけるべきではなかろうか。



聖紫花(せいしか)

西表島、石垣島にしか原生しない幻の花。ツツジ科・シャクナゲ属の高木。花は五弁、直径5~6センチ。3月から5月に見られる。


聖紫花の一花落ちては瀬に光る
    北村伸治

聖紫花に滝音遠くなりゆけり
     正木礁湖

※ 『沖縄俳句歳時記』(小熊一人編著 那覇出版社 1985年)より



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北と南(13):緋寒桜

■旧暦1月3日、土曜日、

(写真)Untitled

旧暦の正月は、中国では「春節」。この日は、沿海部に出稼ぎに出ていた人たちも大勢故郷に帰る。それが、今年は、大雪で交通機関が麻痺して、政府も対応に追われたらしい。そこで、単純な疑問があるのだが、どうして、旧暦の正月に今なお価値を置いているのか。中国の生活には陰暦が隠然と力を持っているのか。新旧の暦の使い分けなど、どうやっているのだろうか。

ここ数日、たて続きにDVDをレンタルしてきた。三谷幸喜の「みんなの家」、同じく「笑いの大学」、「ヒットラー最後の12日間」。三谷幸喜の映画は、これで、全部観たが、もっとも面白かったのは「ラヂオの時間」、次に、初監督作品の「みんなの家」だった。「笑いの大学」は世評は高いが、そして、確かに、面白けれど、ほのぼのしすぎている。そのほのぼの感は、「みんなの家」のような作品にはうまくはまるが、「笑いの大学」は、もっと社会や歴史と切り結んでも良かったんじゃないか。せっかく、「戦時下の検閲と笑い」というテーマなのだから、もっと笑いと社会の根源的なところにまで触れられたはずだと思う。検閲官を人間的に設定したのは、お茶の間向けにはいいけれど、その分、映画としての批評精神は低くなってしまったと思う。

「ヒットラー最後の12日間」は、去年だったか、一昨年だったかの「ドイツ映画祭」で始めて知って、ずっと観たいと思っていた。元秘書の証言を元に実にリアルに最後が描かれている。ブルーノ・ガンツが、ヒットラーその人になりきっている。この映画はいくつも衝撃的なシーンがあるけれど、谷崎潤一郎が戦国時代の悲劇を描いた「盲目物語」をしきりに思い出した。ヒットラーとその臣下の関係は、封建時代そのままの主従関係で、忠誠心がいくつもの死を招く。この関係は、部下の家族関係にも当てはまり、両親が絶対の権力を持っていて、自死するときには、子どもの命までも、当然のごとくに奪っていく。この辺りも戦国時代の落城史のように感じられた。



緋寒桜

真冬に咲く沖縄の桜。寒緋桜とも。地元の人は緋寒桜と呼んでいた。沖縄人が桜と言えば、これを指す。本土の彼岸桜と音が似ているので、寒緋桜に改められたという。でも緋寒桜の方がいい。沖縄本島の北では一月中旬に開き始め、十日から二十日かかって徐々に咲き、満開は下旬。南の石垣島では二月上旬が満開となる。花の色は桃の花よりも濃く、臙脂色。釣鐘状に下を向いて咲く。花は五弁。散り際に特徴があり、房ごと落ちる。

寒緋桜岐路に立つ身の透きとおる   久手堅倫子

※ 宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より
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北と南(12):落鷹

■旧暦12月17日、木曜日、、大荒れの天気。

このところ、ドイツの俳人のAngelika Wienertさんが、ドイツ語版、英語版ともに読んでくれて、いろいろ意見や情報を教えてくれた。ぼくの方も、初等ドイツ語でどうにか対応し、いい勉強になった。Angelikaさんは、ご自分のブログhaiku-shelfで英語とドイツ語の俳句を発表している。易しい言葉で書かれているので、ご興味のある方は読まれたい。丁寧で親切なお方である。

今日は、猛烈に風が冷たかった。しかし、夕方、筋トレに赴いたのだった。リハビリという感じで、軽いメニューを30分強こなす。ハードな運動をすると、耳に来るのである。トレーニングセンターに行く途中に、お地蔵さんが何気なく立っているスポットがある。ある晴れた午後、そこを通りかかると、初老の男性がじーっと地蔵の表情を見つめている。そのとき初めて、地蔵の存在に気づいたのだが、今日は、ぼくもじーっと見てみた。なんと言うか、笑いを誘う表情をしている。今日は写真を撮り忘れたのが残念である。

(写真)Untitled




落鷹(おちたか)


十月九日寒露の頃になると、本州の差羽の群れが沖縄に南下してくる。沖縄本島上空を通過し、宮古島を中継地としてさらに南方のフィリピン方面に渡っていく。渡りの途中に飛ぶ力を失くした老鳥や幼鳥、病鳥は群れから落伍して宮古島などで冬を越す。これが「落鷹」(ウティダカ)である。


落鷹のこゑ諾へり暁の闇
    眞榮城いさを

日暮れには日暮れの高さはぐれ鷹
    津波古政信

高木に留まり、野鼠や小動物を捕獲して食し、越冬して、三月下旬頃、九州方面に北上する。なかにはそのまま、島にいついてしまうものもあるという。

※ 宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より

■なんだか、哀れ深い季語だと思う。



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北と南(11):種子取祭

■旧暦12月8日、火曜日、

終日、仕事。子どもが明日1限から授業なので、夕食を準備。粥も作って、先に食す。明日は、朝から、胃カメラである。なんとも言いようがない日々が淡々と。

(写真)

運命にゆるされてある程をわれら楽しまう、
渡らなければならぬ渡しが待ってゐるから。
ひと日ひと日がめぐりめぐつて
このわれらの生も廻り果てる。

ロバート・へリック(1591-1674)「日月」
森 亮訳




種子取祭
(タントウイ)

沖縄の竹富島の豊作を祈る種蒔き神事の祭。「種取祭」ともいう。600年の伝統がある。祭は旧暦9月から10月の甲申の日から甲午の日まで、10日間ほど行われる。女性が踊り、男性が狂言を受け持ち、島人により70以上の芸能が徹夜で演じられる。太鼓、棒技、舞踏があり、弥勒が島を練り歩く。沖縄における立冬の頃の農耕祭。


少年の明日へ種取祭かな
     喜舎場森日出

※宮坂静生著『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2006年 岩波書店)より



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湯たんぽ

■旧暦12月2日、水曜日、

ここのところ、体調が悪く、臥せることが多い。胃腸系をやられたのだが、とくに、新年会が続いたわけでも暴飲暴食したわけでもない。耳をやられてから、体を動かす機会がめっきり減ったことが胃腸系を弱めたものと睨んでいる。明日病院へ行く予定。

(写真)足尾の町並み。昭和のまま時間が止まっている。



湯たんぽ

歳時記などを見ると、湯たんぽは、最近ではめっきり見かけなくなった、とあるが、にわかに復活しているのである。原油高が追い風になって女性に受けているという。環境問題をとくに意識したわけではないが、今日から湯たんぽ生活である。あのとぼけたデザインとYUTANPOというまろやかな語感がいい。自然な温かみがいい。

寂莫と湯婆に足をそろえけり   渡辺水巴

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