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一日一句(233)






秋蝶が旋律となる真昼あり





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一日一句(232)






兼好の墓と言はれし烏瓜





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Pascal 『Pensées』を読む(23)


■旧暦9月3日、木曜日、、風が冷たい

(写真)四条河原町 阪急の黒いビルのあった場所には丸井が。

昨日、叔母の特養入居が無事終了。これで、一段落した。オープンしたてで、スタッフが集まらず、当初予定していた、トイレに近い3階の部屋は見送って、2階の部屋に暫定入居になった。11月ごろ、スタッフが揃った段階で、3階へ入居の予定。2008年7月の圧迫骨折以来3年超に及ぶ介護も、一区切りついた形になった。ケアマネやヘルパーさん、ケアスタッフの方々、周囲の人々の親身の協力があったので、なんとか、もった。特養も、ちょうどタイミング良く入居できて運が良かったと思う。特養は、一ヶ月に一人程度の割合で亡くなるらしい。一年換算でも12人である。待機者は常時、5、600人である。



京都は、大好きな街なので、悪く言う気はさらさらないのだが、一つ、「どうもなあ」と思う点がある。それは甘さの感覚である。これも個人差があるので、あくまで、ぼくの感覚では、という条件がつくのだが、甘すぎるのである、甘いものが。たとえば、河原町三条の上島珈琲店の珈琲は申し分ないが、アップルパイがいただけない。甘すぎるのである。ちなみに、上島珈琲とは、あのUCCであるが、関東では印象が良くない。缶コーヒーにしても、豆にしても、旨いと思ったためしがないのである。だが、これが京都で飲むとまったく違う。断然旨い。寺町店では行列さえできている。これは、どうなっているんだろう? とくに、豆については、きつく申し渡しておきたい。いや、ご検討いただければ幸いですw。そう、甘いものの話であった。街を歩き回って疲れたので、堀川今出川の南西角に出ている団子屋さんで一本120円の、のり巻きちぎり餅を食べたら、砂糖醤油だった。うす甘で参った。いや、参らん人もおろう。好きな人もおろう。しかし、ぼくは、参った。空腹だったが2本買わないで良かった、としみじみ。醤油の香ばしさを想像して食べたのであった。

みやげに、家族から、深蒸に合う和菓子を頼まれたので、烏丸寺町の「鼓月」で、黒柿と栗尽しを求めた。栗尽しは、美味だが、黒柿は、柿を練り込んだこし餡に和三盆がたっぷりまぶしてある。これは甘い。どうも悪口めいてきたので、...理由を推察するに、やはり、抹茶文化というのがあろうかと思う。抹茶に合うように菓子は作られてきた。それが洋菓子にも拡大した。さらに、それ以前からの貴族文化があろうかと思う。貴族の労働は、肉体労働ではないので、関東のように、塩分を摂取する必要が、さほどなかったのではないか。塩辛好みよりも甘好みになるのは、自然な成り行きというものではなかろうか。あのお歯黒も、虫歯隠し、という説もあるではないか。ま、いいんですが、甘いものが甘すぎると、砂糖の味に素材の味が殺がれてしまう。辛いものが辛すぎても同じであるが、いずれにしても、もったいない気がするのである。個人的には。



La justice est sujette à dispute. La force est trés reconnaissable et sas dispute. Aussi on n'a pu donner la force à la justice, parce que la force a contredit la justice et a dit qu'elle était injuste, et a dit que c'était elle qui était juste.
Et ainsi ne pouvant faire que ce qui est juste fût fort. on a fait que ce qui est fort fût juste.


何が正義かは意見が割れやすい。力はわかりやすく、議論の余地がない。だから、人は正義に力を与えることができなかった。力が正義に反論して、これは正義ではない、自分こそが正義だと言ったのである。こうして、正しいものを強くできなかったので、力のあるものを正しいとしたのである。

■わかりやすい力は確かにある。だが、わかりにくい力もある。わかりにくい力への認識が広がったのが現代なのだろう。たとえば、知識は力である、理性も力である、金も力であると言えるが、そうした力の実体が存在するわけではない。社会関係の中で、力のゲームが絶えず行われて、ある場面の中で、力が決まってくる。その意味では、正義が議論の対象になるというより、そうした議論自体もある種の力関係の中で行われると見た方が現実に近いと思う。この断章は、正しさの根底に力関係を見ることで、そうした現代性に触れるものを持っているとも読める。




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Pascal 『Pensées』を読む(22)


■旧暦9月2日、水曜日、

(写真)錦市場の中にある「元蔵」のにしんうどん

京都での食事は、一食は錦市場の中で食べることに決めていたが、時間がずれていたせいで、目当ての店が閉まっていた。しかたがないので、ぶらぶらあるきながら、たどり着いたのが、甘味も出す「元蔵」だった。京都で、にしんと言えば、にしん蕎麦だと思っていたので、うどんを不思議に思って頼んでみた。結論から言うと、かなり旨い。関西の出汁は蕎麦よりも、むしろ、うどんに合うので、にしんうどんはごく自然なのかもしれない。身欠きにしんの甘露煮は、添え物程度の小ぶりなのが出されることもあるが、ここのはがっつりで満足した。九条葱の他に、みず菜と湯葉が散らしてある。



ここ数日のニュースで一番驚いたのは、ニュートリノが光よりも60ナノ秒(1ナノ秒は1億分の1秒)早く観測地点に到着したという、国際共同実験OPERA(オペラ)の研究グループの実験報告だった。ここから>>>

アインシュタインの特殊相対性理論によれば、質量を持つ物体は光速を超えることはないという前提であるから、物理学の常識が覆される可能性が出てきた。特殊相対論によれば、質量のある物体の速度が光の速度に近づくと、その物体の時間の進み方は遅くなり、光速に達すると時間は止まってしまう。光速を超えると、過去へと時間をさかのぼる。

観測誤差は、10ナノ秒以下だという。半年かけて再テストを繰り返しての発表であり、広く、結果を公開して、検証対象としようという意図のようだ。ヴィトゲンシュタインを検討してきて、過去、とくに、歴史の発生というものが、言葉の使用法と大きく関係していることが見えてきた。物理学の「時間」は、基本的に、過去→現在→未来へと直線的に流れるが、この時間の考え方は、近代の世界像が前提になっている。社会や時代によっては、螺旋する時間や現在と過去が同居する時間も存在する。もし、ニュートリノが、過去へ向かうとしたら、物理学の「時間」の概念だけではなく、われわれの社会が成立する土台になっている近代世界像そのものが変更を迫られることになる。それは、行動様式や判断様式、思考様式ばかりか、言葉の使用法や文法にさえ、影響を及ぼすだろうと思う。この観測結果が検証されて、世界化したとき、どんな世界像が現れるのか、実に興味深い。今後、要注目の事件だと思う。「近代」はこういうところから崩れるのかもしれないのである。



Justice, force.
Il est juste que ce qui est juste soit suivi; il est néccessaire que ce qui est le plus fort soit suivi.
La justice sans la force est impuissante; la force sans la justice est tyrannique.
La justice sans force est contredite, parce qu'il y a toujours des méchants. La force sans la justice est accusée. Il faut donc mettre ensemble la justice et la force, et pour cela faire que ce qui est juste soit fort ou que ce qui est fort soit juste.



正義と力
正義にしたがうのは正しい。もっとも強いものにしたがうのは致し方がない。力のない正義は無力であり、正義のない力は抑圧的である。力のない正義は反対に遭う。というのは、常に悪人というものが存在するからである。正義なき力は非難を受ける。だから、正義と力は一体にしておかなければならない。このためには、正しいものに力を付与するか、力のあるものを正しいとするか、そのどちらかである。


■なるほど。まったく同感。正義が反対に遭うのは、悪人がいつもいるからだ、というあたり、原発問題の現状に引きつけると、面白い。「必要悪」なる詭弁をもてあそぶ人もいるけれど、「悪人」の自覚がない。それは、戦争に「良い戦争」がありえないのと同じだとぼくには思えるのだが...。実は、ここからが、この断章の面白い点なのだが、今日は力尽きたので、次回。





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双ヶ岡の長泉寺に兼好を訪ねる


■旧暦9月1日、火曜日、、寒いくらいの朝、新月

(写真)双ヶ岡の空

双ヶ岡は、学生の頃から、よく登ったもので、仁和寺や妙心寺が見晴らせる。人もほとんど来ないので、好きな場所の一つである。ここが吉田兼好が庵を結んだ地だと初めて知ったのは、三里塚闘争に参加して神経を病んだ中核派の元闘士からだった。取合せの意外さに、いつまでも記憶に残り、人づてに、その人が、西行や兼好、芭蕉などの古典文学を深く愛好していたことを知った。双ヶ岡は、古代の古墳で、3つの丘からなっている。仁和寺方面から登ると、森を抜けて、突然丸く光が差し込む二の丘の頂上に出る。



歩道には、「イノシシ注意」のステッカーが。シダ類が凄かった。



突然の青い空



御室仁和寺を眺める





双ヶ岡周辺は、竹林また竹林。ある種の結界だろうか。そう言えば、内裏には松林があった。これは、完全に結界だろうと思う。



付近の中学生があどけない。



兼好の墓を探して長泉寺へ。



長泉寺境内の老松



兼好の庵跡の石碑。長泉寺の墓所の中。



兼好の墓所を示す塚と石碑。


実は、この長泉寺は、元禄時代に建立されたものらしい。兼好は鎌倉末期の人なので、当時の墓は残っていない。この辺りにあったであろうという塚らしい。兼好の庵が、麓の長泉寺付近にあったようなのである。ぼくは、てっきり、仁和寺などを眺めながら、山中で庵を結んでいた「本物の世捨て人」を想像していたが、仁和寺にほど近い丘の麓に住んだ「精神的な世捨て人」というのが実体に近かったのではあるまいか。兼好は、仁和寺とゆかりの深い人だったので、宗派的には、真言宗になる(元をただせば神道だろうけれど)。徒然草を読むと、法然に深い敬愛の念を抱いていたことがわかるが、浄土宗の長泉寺は、兼好存命中には、存在しなかったことになる。石碑には、「ちぎりをく 花とならびの をかのへに あはれいくよの 春をすぐさん」という兼好の歌が彫ってある。






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works by romie lie


■昨日、京都から帰宅したら、スイスの詩人、ロミー・リーさんから、作品が届いていた。彼女は、福島原発事故以来、一貫して、英語やドイツ語で詩を書いて送ってきてくれているが、絵画制作も行い、今回、二つの作品を送ってくれた。未完成と彼女は言っているが、逆に、だからこそ、そこに、ある種の「音楽」を感じる。



作品「life」川の流れを感じさせる。川と言えば、鴨長明のように、命の流れを想像させられる。命は、それでも流れている。そんなしづかなメッセージなのかもしれない。



作品「fukushima」格納容器の形を想像する。ロミーは、日本の文化や中国の文化に造詣が深く、これを見ると、書道をアクションペインティングのセンスで書いたような印象を受ける。


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金福寺(蕪村の墓と芭蕉庵)


■旧暦8月29日、月曜日、、彼岸明け

(写真)蕪村の墓(金福寺)

蕪村の墓のある金福寺は、左京区の一乗寺下り松町にある。もとは、天台宗の寺であったが、のち、一時荒廃し、江戸時代中期、鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺として、今日に至る。蕪村は、仏光寺の立て札からもうかがわれるように、浄土宗との関わりが深い生まれであるが、ここ金福寺に芭蕉庵を再興してから、次のような句を詠んで、金福寺の芭蕉碑の近くに埋葬を希望している。

我も死して碑に辺せむ枯尾花


蕪村の芭蕉への敬慕の念がいかに強かったか、よくわかる句である。



この芭蕉の肖像画は、蕪村筆によるもの。ときに蕪村、64歳。この肖像画の上部には、芭蕉を賞賛した清田儋叟の撰文と芭蕉の句の中で蕪村がもっとも好んだものを蕪村自身が書いている。それは次のような句である。

こもを着て誰人います花の春

花にうき世我酒白く飯黒し

ふる池やかはず飛びこむ水の音

ゆく春や鳥啼魚の目はなみだ

おもしろふてやがてかなしきうぶねかな

いでや我よききぬ着たり蝉衣

子ども等よ昼がをさきぬ瓜むかん

夏ごろもいまだ虱とり尽さず

名月や池をめぐりてよもすがら

ばせを野分して盥に雨をきく夜かな

あかあかと日はつれなくも秋の風

いな妻や闇のかたゆく五位の声

櫓聲波を打て腸氷る夜や泪

世にふるもさらに宗祇の時雨かな

年の暮線香買に出でばやな


蕪村の芭蕉選句というのは、なかなか、興味深いが、軽みの感じられる句ばかりでなく、存在の深みや哀しみに触れている句を多く採っている点が、注目される。

ちなみに、蕪村が金福寺で詠んだ句に次がある

畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ

夏山や通ひなれにし若狭人

三度啼いて聞えずなりぬ鹿の声

冬近し時雨の雲もここよりぞ




再興された芭蕉庵 元禄の頃、芭蕉は、京都の東西を吟行した折り、当時の草庵で自適していた住職鉄舟和尚を訪れ風雅の道について語りあい親交を深めた。その後、それまで無名であった庵を鉄舟和尚が「芭蕉庵」と名づけ、芭蕉の高風を偲んだ。その後、70年ほどして、蕪村が当寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし、村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に収めた。その庵が落成したときに蕪村は次の句を詠んでいる。

耳目肺腸ここに玉まく芭蕉庵




金福寺の枯れ山水小庭



同上 安永、天明の頃、蕪村は、金福寺をしばしば訪れ、一門で俳人結社「写経社」を結成し、句会を開いた。結社の名称に宗教性を感じさせるが、蕪村の宗教との関連は、一茶や芭蕉ほど、はっきりわからない。今回の旅で、浄土宗にゆかりの人だったらしいことがわかったが、俳諧や絵画に、宗教性がどう出ているのか、いないのか、興味深い点である。



同上



芭蕉庵へ続く門



蕪村が指定した芭蕉庵の窓の形



金福寺の入口階段



金福寺の空



金福寺より京都市内を一望できる



芭蕉庵



同上 



金福寺の古木



蕪村の墓へ



江森月居の墓、蕪村の高弟。几董とともに蕪村門下の双壁と言われた。金福寺では、こんな句を詠んでいる。

山寒し残る弟子さへ二三人

庵成りぬまず咲き出でよ柿の花












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蕪村の俳句(104)


■旧暦8月28日、日曜日、

(写真)蕪村の晩年の住居跡、仏光寺烏丸西入ル

この立て札、ぼくの知らなかったことがずいぶん書いてあったので、メモしてきた。

与謝蕪村宅跡

蕪村は享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の豪農の家に生まれたと言われている。20歳の頃、一人江戸に下り、早野巴人の内弟子となり俳諧の道を歩む。27歳、師巴人が没した後、江戸を離れ、関東・奥羽地方へ長い旅に出る。関東、東北地方を遊歴すること約十年、蕪村は寛延4年(1751)、36歳で京都に上り浄土宗総本山、知恩院の近くに居を得る。3年足らずで京都を去り、丹後宮津へ赴き、浄土宗の見性寺に寄寓して本格的に画の勉強を始める。42歳で再び京都に戻った蕪村は、姓を谷口から与謝と改め、画を売って生活を立てる決心をし、やがて妻帯する。その後数か所転居し、最後の住みかとなる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み、俳諧に絵画に豊麗多彩な作品を次々と生みだしたのである。蕪村の幻の日記に次のように記されている。「安永三年十一月某日(蕪村59歳のとき)、近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空き家ありと、とも(妻)が見つけてまたその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話が決まって三日前に移転をする。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって画絹ものびのびと広げられ心地なり。我が家の前で路地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る」

注 昭和36年までここに路地があり、地蔵尊は昭和22年8月、釘隠町町内会の総意で現在地へ移転されるまで路地の南の突き当たりにあった。蕪村宅(終焉の地)はこの路地の一番南(地蔵尊の前)に位置していた。

桃源の路次の細さよ冬ごもり   明和6年

■この句は、陶淵明の「桃花源記」の「初極テ狭ク、僅ニ人通ル」を踏まえているが、明らかに、実際の住居が路地の奥にあったことを詠んでいる。今住んでいるここが桃源郷だという、「定住の境地」は、芭蕉晩年の境地に通じる。旅の人、芭蕉と比較すると、蕪村は定住の人のイメージがあるが、最初から、定住者ではなく、還暦近くなって、自分の桃源郷を現実の中に見出したことに感銘を覚える。蕪村に「幻の日記」があったことを、この立て札の説明で初めて知った。

メモを熱心に取っていると、どこからともなく、80を優に超えた老婆が現れ、ぼくを蕪村の句碑まで案内してくれた。その句碑の一つが、この句である。「路地」ではなく「路次」と書かれた句碑の筆遣いを読みかねていると、老婆がすらすら吟じてみせて、こう言った。「蕪村はんの家の前にはな、高島屋の社長が住んではって、庭には、たいそうな白梅の古木がありましたんや。きっと、蕪村はん、その白梅を見てはったんやろ」もう一つの句碑は、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」である。時の裂け目から現れた老婆と白梅。秋天に梅の花盛りが一瞬、見えたような気がした。






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一日一句(231)






秋の寺木槌叩いて案内乞ふ





■蕪村の墓がある一乗寺の金福寺は、厚い木の板を木槌で叩いて案内を乞う。見事に板は中心が丸く凹んでいる。

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一日一句(230)






足元は秋の蝶舞ふ御池かな





■御池通を河原町へ向かって、歩いていたら、横断歩道で、白いひらひらするものに足元をからまれた。よく観ると紋白蝶であった。
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