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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(3)

■旧暦9月21日、水曜日、

(写真)untitled

今日は、朝方、よく晴れた。布団を干した。終日、仕事。サイバーの見直しをしている。今週中には、8章を終らせないと。ソンタグの翻訳を読んでいるが、訳文に工夫がなく、英文和訳のまんまで、腹が立ってきた。苦労すべきだろう、もっと。夕方、キャベツを買いに出る。今日は、新レシピに挑戦した。から揚げ用の鶏肉とキャベツのぶつ切りと人参を、チキンコンソメで煮込むだけであるが、なかなか、いけるのである。酒と醤油で味を調える。ルクルーズの鍋を使うと楽。




(Original)
Auf dem langen Teppich
zum Altar
helle Reinigungsflecke



(japanische Fassung)
祭壇に伸びる
長い絨毯
点々と清められた白い染み


■あまり感心しなかった。それで、どうしたのと言いたくなる。

Das ist langweilig. Ich muß sagen, was das soll.
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RICHARD WRIGHTの俳句(41)

■旧暦9月17日、土曜日、台風20号の風雨で一日家に閉じこもり。

(写真)廃墟になった講堂のようにも見えるが、現役の青果市場である。

ぼくは、原発問題には、ずぶの素人で、技術的な知識はまったくないが、26日に静岡地裁であった判決には、ちょっと、びっくりした。そして、不安になった。浜岡原発訴訟で運転差し止めが認められなかったのである。この問題については、ぼくは、感じるところが2つあった。一つは、国も電力業界も裁判官も、自然を甘く見ていないか、というもの。自然は人間が予測したり管理したり計測したりできる範囲を超える何かを持っているんじゃないか。それを本能的に感じるからこそ、漠然とした不安を持つんじゃないか。科学的に見て、妥当な耐震基準など、ほんの気休めにすぎないように感じる。柏崎刈羽原発でも、自然のそうした「大きさ」が垣間見えたように感じられた。近代人の驕り。これが、判決の背景にはあるように感じる。2つ目は、原発問題は、生命リスクの問題であると同時に、エネルギー問題であり、現行社会のありようを根本的に問いかけるものであること。そして、この問いかけは、グローバリゼーションが進展して相互依存の高まった現代では、一国の問題に留まらない広がりを持っているということ。

リスクの拡大に対応する国際機関は、IAEAだと思うが、原子力の軍事利用から平和利用の促進へという目的上、原発リスクには十分対応できていないように感じる。多国籍エネルギー産業の政治力という問題も裏にはあるのかもしれない。前近代社会に戻すことは、もはや無理であるから(それを主張すれば、歴史を無視した原理主義者と同じ危険性を持つことになる)、エネルギー消費のあり方はこのままでいいのか、原子力代替エネルギーをどうするのか、という問題が問われるように思う。




(Original)
Just before dawn,
When the streets are deserted,
A light spring rain.



(Japanese version)
夜明け少し前
街には人気がない
さっと春の雨



(放哉)
朝早い道のいぬころ


■ライトの作品は心惹かれた。Just before dawnという時間。新鮮で静かな時間。the streets are desertedという、ガランとした感じ。A light spring rainの弾んだ音の感じ。最後の行のaという単語で、一雨という感じが出ているように思った。

放哉の作品、春雨もあったが、定型時代の凡庸な作品だったので、入庵後の句を選んでみた。こちらは、早春の朝の田舎道を子犬が地面の匂いでも嗅ぎながらよろよろ歩いている感じがする。人は出てこないが、犬と人の親密な空気がある。(Click here for my English-version site)
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芭蕉の俳句(156)

■旧暦9月15日、木曜日、

(写真)untitled

今日も洗濯物がよく乾いた。よく行く古本屋で、英国の社会学者、アンソニー・ギデンズの『社会学』(2004年第4版)という800ページを越える本を半額で入手し、早速読んでいる。今のグローバリゼーションを基調としたさまざまな変化を概説してくれて、仕事の見通しをつけるのに役立っている。大枠で世界の今を理解するのには最適な本だろう。ベックと同じように、「リスク」という概念を重要視していて、解説が、自分の問題として理解しやすい。




けふばかり人も年寄れ初時雨
      (真蹟短冊)

■元禄5年作。一読惹かれた。初時雨のしぶい趣と「けふばかり人も年寄れ」の響。なんとも言えない。こういう句に、説明は野暮であろう。俳句を読(詠)んでいると、年を取るのが面白くなってくる。「老人になるということは、心は若い頃のままで肉体だけ老化すること」というのが、現代の年の取り方かもしれない。しかし、芭蕉の句は、これとは別の老境があったことを示している。成熟とも違うし、諦観とも違う。風狂。枯れた心境であると同時に、ある意味、ラディカルとも言えるのではないだろうか。
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飴山實を読む(38)

旧暦9月14日、水曜日、

写真は、街の看板。映画館の、ではない。ラーメン屋の、である!

晴れたので、布団を干し、シーツを洗う。7時に起きたが、終日だるくて、参った。午後、散歩して、気分転換する。昨日、今日と夕食の当番だった。料理は面白いですね。おおよそ、一時間で、3品は作れる自信があるな(自慢!)。

先日の句会は、5ヶ月休会した後、はじめて参加したので、ちょっと疲れた。もともと議論好きなので、句会では、いろいろ言いたい方なんだが、議論が先行したときは、必ず、いい句ができない。理屈で自己正当化しようとするからだろう。句会は、一人で模索しているとき、壁にぶつかっているとき、すばらしい示唆を与えてくれる。しかも、それが答えだったことに、後で気がつくのだ。serendipityという言葉のとおり、ふいにあらぬ方からやってくる。




傘の内室生しぐれは雫する


■室生しぐれは、室生寺を参詣したときのしぐれだろう。この句全体に流れる音楽に惹かれた。音楽的なだけでなく、光景がはっきり見える。「室生しぐれ」だから、傘の内で雫になる。それほど、激しいしぐれなのだろう。土地の匂いが伝わってくるような句だと思う。傘を傾けてやりすごしたのだろうか。

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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(2)

■旧暦9月12日、月曜日、

昨日は、句会だった。その後、連衆のみなさんと久しぶりに飲む。飲みすぎた。句会の成績は、惨敗。このごろ、まったく俳句を作っていないので、ストックがなく、勘も働かず。継続的に修練することは大事であるね。




(Original)
Sommerregen-
Himmel und Erde
nähen am Saum des Tages



(japanische Fassung)
夏の雨
天地が
日光の縁を縫う


■これは景色がよくわからない。日光の縁取りをするというのは、鮮やかに日の光が見えるということだろうか。雲に隠れた太陽から、鮮やかな日の光が洩れている情景だろうか。いずれにしても、よくわからない。

Ich verstehe nicht klar die Szene des Werkes. Kann es bedeuten dass man den Tag klar sehen kann, am Saum des Tages zu nähen ? Order ist es die Szene, dass das Licht von der von Wolken bedeckten Sonne Himmel und Erde duchleuchten ? Sowieso kann ich das nicht klar verstehen.

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放哉の随筆

■旧暦9月10日、土曜日、

久しぶりに短納期の仕事をこなした。仕事中、体調の悪化はなかったが、夜になって、悪化。しょうがないので、『尾崎放哉随筆集』(講談社文芸文庫)を、ごろごろしながら読んでいた。放哉の随筆は、あまり感心しませなんだ。一高生のときのものもあるので、しょうがないのかもしれないが、総じて上手じゃないと思う。一番面白かったのは、「入庵雑記」で、これは岩波の文庫にも入っている。放哉は、海沿いの寺を転々としたが、それには、わけがあって、海が好きなんだという。海のどこが好きかと言えば、山の峻厳なる父親のごときに対して、慈母のごとく受け入れてくれるところだという。そう言って、「賢者は山を愛し、知者は水を愛す」という言葉を紹介している。自分はどちらでもないが、と断りつつ。そして、海の空は、とくに、朝夕の海の空は趣深く、そこに流れているあらゆる雲の形と色とを、種々様々に変形し、変色してみせるところに惹かれると言う。

この「入庵雑記」に「石」と題した随筆があり。なかなか興味深かった。


(前略)私は、平素、路上にころがって居る小さな、つまらない石ッころに向って、たまらない一種のなつかしい味を感じて居るのであります。…物の云えない石は死んで居るのでしょうか。私にはどうもそう思えない。反対に、すべての石は生きて居ると思うのです。石は生きて居る。どんな小さな石ッころでも、立派に脈を打って生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなって行くのであります。(後略)
(同書pp.116-117)

このあたりの記述に、面白い感受性を感じた。放哉の年譜や行動を読むと、アル中で酒乱の気は確かだと思う。庵ではどうしていたんだろうか。酒は断てたんだろうか。やはり、何か問題を起こしていたんだろうか。この辺は、随筆や俳句からはわからない。

放哉は、随筆よりも俳句が面白いが、その俳句も井泉水という俳人を抜きには語れない。放哉の師であると同時に、よき理解者であり、放哉の資質に沿った井泉水の添削がなければ、放哉の名句は生まれなかったからだ。師弟関係の不思議さを思う。

「入庵雑記」や俳句を読んで、自分には、まねはできないが、というより、家族や社会を棄てる気はないが、どこか、惹かれる。その正体は、「孤独」のような気がした。

写真は、名護湾の昼の雲。放哉もこんな空を眺めたことがあったろうか。
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RICHARD WRIGHTの俳句(40)

■旧暦9月7日、水曜日、のち

写真は、裏の千葉大のクスノキの空。樹木に触れ、樹木を見上げると、落ち着く。樹木の時間の流れとわれわれの時間の流れが、あまりにも違うからだろうか。クスノキは、たんすにすると防虫剤は要らないらしい。

松下竜一著『怒りていう、逃亡には非ず』(1996年 河出文庫)を読む。日本赤軍の泉水博の人生を描いたノンフィクションで、非常に面白かった。もともと、日本赤軍とはまったく関係なかった泉水が、ダッカ事件の人質交換で出国する経緯、泉水の義理人情に生きるメンタリティ、コマンドとしての評価など、一気に読ませる。この本を読むと、「事実」というものは、無媒介に、そこで発掘されるの待っているのではなく、権力が事実を作り出していくのだということがわかる。この場合の権力とは、警察・検察という捜査機関であり、裁判制度という司法であり、監獄を運営する法務行政であり、マスコミであり、世間という偏見フィルターの総体である。こういう本を読むと、これまでの「歴史的事実」というものも、一応、全部、カッコに入れて考えないとな、という気になる。




(Original)
In gray winter light,
Dead flies fill the window sill
Of a musty room.



(Japanese version)
灰色の冬の光
死んだ蝿が黴臭い部屋の
窓敷居にたくさん



(放哉)
すぐ死ぬくせにうるさい蠅だ


■ライトは蠅の死骸。客観的に情景を描写している。人間の影はあるが、全体的に死んだような静けさが支配している。蠅の死骸が溢れている情景は、少し、グロテスクでさえある。これが一匹の蠅だったら、もっと、俗気がなくなったように思う。放哉は、生きている蠅の中の死を見ている。おそらく、一匹の蠅だろう。一匹だからこそ、うるさいのだ。放哉の抱える沈黙が大きくなって。蠅に己が重なってきて。この句は、蠅に言っているのではない。独り言なのだ。この句の背後には、一瞬、大きな時の流れや虚空のような空間が見えないだろうか。(See also my English-version site)
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酒と蕎麦

■旧暦9月6日、火曜日、

昨日は、午後からカイロに一ヶ月ぶりに行き、その後、紀伊国屋で、洋書を数冊、五十嵐大介の新刊などを購う。後期近代社会にあって、それを批判的に観ている同時代の知性が、気になってきて、Sontagの新刊、『At the Same Time』、『On Photography』、Saidの『ON LATE STYLE』を購う。もっと早く読むべきだったのだが、少しずつ、英語で書き、考えるようになって、文体という意味でも、興味が出てきたのである。

昨日の眼目は、2人の同時代の詩人に吉祥寺の中清で会ったことだった。一人は、幻の大詩人、清水昶氏、もう一人は、このところ、破竹の勢いの井川博年氏。2人との話は、とても刺激的だった。いろいろ、話は出たんだが、ぼくにとって、もっとも重要で、興味のある話は、反時代性、伝統の奪回、アイデンティティといった問題だった。

井川さんは、詩の現在、とくに若い人の詩についても、よく知っているのだが、吉本隆明に言わせると、現代詩とは異なるものだと言う。ペンネームもパソコンのハンドルネームみたいなもので、書いている詩も詩とは異なると言う。ぼくの印象では、「詩の市場競争」の成れの果てが今の思潮社が中心の詩壇の現状だと思う。強迫的に新しさを追い求め、強迫的に言葉をつむいで、時代とシンクロしようとする。そういう意識は作り手にはなくても、市場に媚びること、それが時代の最先端であるとみんな勘違いしている。最先端こそ価値があるという思想は、市場主義である。「新しい詩はすべて出尽くした。みなどこかで読んだことがある」こういう言説は、実は、市場主義の論理的な帰結なのである。

ぼくは、反時代性を言いたい。時代にアンチのスタンスを取ること。「旅人」に徹すること。ここで見えてくるものこそ、「詩」なんだと思う。時代に背を向けることは、過去を向くことである。このとき、伝統という問題、アイデンティティという問題が出てくる。昶氏は、「ぼくらはアジア人ではない」と言う。そうぼくも感じる。自らのアイデンティティは、白人もアジア人でもなく、日本人でもない。いわば、中空に宙吊りされたままなのだ。

ただ、俳句を書くようになって、「伝統の奪回」ということをしきりに感じるようになった。王朝文化の系譜を学ぶだけではない。地理的な「辺境」(沖縄、アイヌ)、階級的な「辺境」(民衆歌謡)の文化を奪回することでもあるのだ。さらに言えば、現代詩にしても、短歌にしても、自己の心情に近い表現を捜してくるというのが近代的な表現の展開(口語化、批評化、散文化)だった。ところが、俳句は、定型があり、文語表現と文語文法があり、自己と乖離を生む。この乖離は、実は重要なのだ。つまり、そこに近代の他者がいるからだ。定型は、自己表現する、その自己そのものを変える。俳句には、禅、仏教、神道、老荘思想といった、東洋の思想が流れ込んでいる。思想的に見ても、近代の他者である。このことは、近代という西欧化を批判的に眺める上で、一つの鏡になりえる。

「伝統」は、下手をすれば、単なる反動に終る。これを防ぐにはどうしたらいいのか。それは、「伝統」を絶対化せず、西欧で東洋を批判することである。つまりは、合わせ鏡にするのだ。ぼくが、後期近代内部の批判者に一貫して興味を惹かれるのは、彼らが、後期近代内部の辺境、旅人、境界人だからである。こうした旅人の目で、後期近代の東洋の今を見ること。こうした双方向の運動として、詩や俳句を創作すること。

これが、今後も創作で模索していきたい方向。昶氏は「活字は認められないとダメだ」という。しかし、認める側の批評家や詩人たちが、時代に迎合した市場主義者では話にならない。マーケティング的な発想でしか、詩歌を見られないとしたら、それこそ、見る目がないのだ。

しかし、一方、市場に供給できなければ、詩歌は人目に触れにくいということはある。可能かどうかは別にして、反時代性を模索して、社会的な認知を得るという帰結になるだろう。霞を食って生きられれば一番だが、そうでないなら、反時代性を確保するには、別枠で経済基盤を確保することがどうしても必要になる(時代性があっても詩は売れない!)。これがまた、難題なのだ…。市場万歳! お金万歳! であるな。

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飴山實を読む(37)

■旧暦9月5日、月曜日、

午前中、工事の後処理に業者が来る。水漏れがひどくなってきたので、風呂の水道栓を交換したのだが、シャワーフックが固定されていない。これでは、すぐに傷んでしまう。

この一年、睡眠障害で、睡眠薬を常用してきたが、副作用もある。午前中まで効いていることが多く、仕事にならない。それだけでなく、薬が効いている間は、気分が重く、抑鬱的になる場合もある。そこで、薬の使用をコントロールすべく、ここ数日、睡眠薬なしで寝ているのだが、途中、何回か、目が覚めてしまうが、眠れることは眠れる。ところが、今度は、耳鳴りが激化してしまった。質の高い睡眠が得られていないせいだろう。TCIで耳鳴り激化を抑えながら、睡眠薬の使用と不使用を断続的に繰り返し、最終的には、連続不使用にもっていきたいと思っている。




三日散り豆腐の槽のなゝかまど


ななかまどで秋。豆腐の槽にななかまどの実が散りこんでいる。槽に水が張ってあって、赤い実が浮いている様子を想像した。ななかまどと豆腐の槽の取り合わせに惹かれた。「三日散り」という措辞は、とうとう豆腐の槽にも入ったか、という笑いを隠していて、巧みである。
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芭蕉の俳句(155)

■旧暦9月4日、日曜日、

近所の神社の里神楽を観てきた。演目は「禊三筒男(みそぎみつつお)」。写真は、上筒男神、中筒男神、底筒男神の三神が舞うところ。初めて、里神楽を観たが、動作は、能に近い。けれど、能よりダイナミックで、歌舞伎の立ち回りのような動作もある。演じられている舞台の前を、自転車で近所の子どもが横切るところなど、いかにも、里神楽らしくて良かった。

※ 沖縄について、感じたことや考えたことを、別ブログに連載することにしました(Click here for a discussion about Okinawa)。




霧雨の空を芙蓉の天気かな
   (真蹟画賛)

■「芙蓉の天気」が霧雨だという感じ方に惹かれた。現代では、この「を」の使い方は、あまりされないのではないだろうか。「は」として、主題を明示するか、「かな」を「とし」のように作るような気がする。この「霧雨の空を」という措辞が若干、句をわかりにくくしている印象を受けた。芙蓉で秋。元禄5年作。
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