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日本語の散文について2 朗読を前提に考える

日曜日、。子どもが旅行に行くのを早朝、家人と見送る。体調が今ひとつなので、心配している。午前中、眠。午後、掃除。二週間ぶりに、自室の掃除もしたので気分すっきり。掃除と脳とはなにか関連がある? 部屋を片付けると、頭もすっきりする。



日本語の散文について、どう書くべきか、いろいろ、考えていたときに、尊敬する翻訳家、山岡洋一先生の文章に出会った。ここには、論理を伝える翻訳の日本語をどう書くべきか、一つの指針が示されている(『翻訳通信』2007年1月号)。

まず、重要な論点から見てみたい。

○(翻訳文を)日本語らしくというのも、じつはきわめて危ない見方です。「よどみに浮かぶうたかた」や「行きかふ年」の例からあきらかなように、直訳調とみられているものが日本語らしい文章だったりするのです…。(『同通信』p.4)

■関係代名詞の構文を後ろから前に訳出すると、恐ろしく修飾語の長い不自然な日本語になることが多い。そのため、一般に、関係代名詞の部分は、換骨奪胎して、自然な日本語に直すのがいいという常識がある。確かに、実際に翻訳していて、この常識は、当てはまることが多い。しかし、山岡さんは、これを絶対化するなかれと言っている。芭蕉の『奥の細道』や鴨長明の『方丈記』を英訳したドナルド・キーンの訳を検討し、この常識が当てはまらない例を提示している。

The years that come and go are also voyagers.

行かふ年も又旅人也。

The bubbles that float in the pools, now vanishing, now forming, are not of long duration: so in the world are men and his dwellings.

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

関係代名詞が単純ではないか、という向きもあるかもしれない。しかし、問題は、単に後ろから前に訳出することではなく、いかに訳出するかである。原文の日本語を翻訳調という人はまずいないだろう。

○…翻訳というからには、外国語でかかれた文章から優れた点を学ぶのが使命です。学ぶもののひとつに、外国語の文体や表現があります。外国語の文体や表現を学び、日本語に取り入れて、日本語を豊かにしていくのが翻訳者の使命のひとつなのです。日本語らしさを強調しすぎると、この使命を果たせなくなるでしょう。(『同通信』p.4)

■この論点は、ベンヤミンの「翻訳者の使命」に通じることろがあるように思う。この点にもっとも鋭敏なのは、たぶん、翻訳者よりも作家だろうと思う。しかも、二つの言語の間を行き来しながら創作している作家。たとえば、多和田葉子さん、リービ英雄さん。作家に比べると、翻訳家の日本語実験は若干保守的に見える。この問題は、「一般に専門家は保守的だ」という命題で説明できるのか。創作と翻訳の違いなのか。

○論理を伝える翻訳を仕事にしている関係で、いまの翻訳の文体では論理を十分に伝えられないと思える点が問題だと考えています。…日本語は論理的な言語です。ある部分では、たとえば英語とは比較にならないほど論理的だと思えるほどです。ですが、現在の翻訳の文体では、英語などの欧米の言葉で書かれた論理を十分に伝えられない場合があります。原文の明快な論理が、訳文では十分に伝えられないことがある、ここに問題があるのです(『同通信』pp.4-5)

■ぼくも、翻訳の末席を汚す者として、この意見は、実感としてよくわかる。

○いわゆる口語体は明治の原文一致運動からはじまったものですから、言と文が近いように錯覚されていますが、実際には話し言葉と書き言葉の完全な隔絶を生み出しています。誰も、話すようには書かないし、書くようには話さない、そのために、話し言葉が堕落し、書き言葉が堕落しているのが現状ではないかと思います。千鳥足のように迷走し、一読しただけでは意味が理解できない訳文が生まれるのは、この言文不一致のためでもあるはずです。朗読されることを前提にすれば、耳で聞いただけでは分からないような複雑な文章にはならないだろうし、文章のリズムや美しさ、力強さといった点にもっと配慮するはずです。

■朗読を前提に散文を書く! これは、実は、ぼくも、あるとき、家人に、自分の訳文を読んでもらって、「自分だけでわかっている。読者を馬鹿にしている。専門用語がわからないとわからない」などなどというショッキングな感想を聞かされて、考えた末に取った方法が、自分の訳文を朗読して推敲するという方法だった。しかし、また、このごろでは、黙読で推敲している自分がいる! 

俳句を作る経験を通じて、詩がテキストを前提に書かれているという反省に至った。その結果、詩は、すべて、朗読を前提に書くようになった。しかし、散文まで、この考え方を徹底するところまでは行っていない。山岡先生が示唆している方向性を、論理を伝える翻訳文体だけではなく、日本語の書き下し文にも、徹底させながら、以下の問題を考えていきたいと思っている。

・言文一致運動の背景
・言文一致運動が言文不一致を生み出したメカニズム
・黙読はいつから誕生したのか
・黙読の社会的な意味
・朗読を前提にした散文では表現できない論理(あるいは問題)はあり得るか
・あり得るとしたらどういう場合か、そのときの条件は何か













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ブレイクの詩

■土曜日、。風強し。

先日観た映画「博士の愛した数式」は、最後のシーンで、家政婦の息子役だった吉岡隆秀がブレイクの詩を朗読して終わる。この詩が非常に印象的であった。調べてみると、この詩は『ピカリング稿本』の中にあることがわかった。



Auguries of Innocence  William Blake 

To see a World in a Crain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.


無心の兆し

一粒の砂に一つの世界を見
一輪の野の花に一つの天国を見
てのひらに無限を乗せ
一時のうちに永遠を感じる


まるで、俳句で言い止めた和解した世界のようである。
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博士の愛した数式

金曜日、「博士の愛した数式」この映画は、公開されたときには、さほど関心がなかったのだが、後で、観たくなって、TSUTAYAでずっとチェックしていた。やっと借りることができた。非常に、いい映画だった。登場人物は、4人と言っていい。博士、その家政婦、その息子、博士の義理の姉。交通事故で、博士の記憶は、80分しかもたない。この映画は、数学の美しさを描きながら、人と人の結びつきが、数学のように、ピュアなものになりえることを、示そうとしているように思えた。

現実という名のもろもろの諸条件の中で、われわれは生きていかなければならない。ちょうど、それは、一枚の紙に「直線」を描いたとき、それは常に直線ではありえず、両端を結んだ「線分」にしかなりえないように、現実は現れる。しかし、無限の直線の広がりは、人の心の中に、確かに存在する。これもまた、大いなる現実である。

博士が愛した数式とは、オイラーの等式のことだった。eiπ + 1 = 0

この映画に触発されて、積読になっていた数学関連の本をパラパラ読んだ。ぼくは、数学的センスはないが、ユークリッドが、「素数は永遠に続き、無限にある」ことを証明したシンプルでエレガントな証明に素直に感動することができたのだった。



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日本語の散文について

水曜日、。今日は、公園で昼飯を食べた。日の光が気分良かった。コミック『墨攻』4-8巻を一気に読んだ。率直に言って、この5巻分は蛇足だと思う。1-3巻の完成度に比べると、あまりにも冗長で安易な展開だ。最後に、革離一行が東の果ての日本に着くという結末には笑った。まるで漫画だ!? これは、諸星大二郎がとっくの昔に想像力を駆使して描いている。蛇足を重ねたのは、作者の問題というより、編集者の能力の問題だろう。こんなに長くする意味はない。



日曜日は、句会だった。主宰が休みの句会だったのだが、それはそれで、非常に面白かった。連衆のみなさんの個性が発言に良く出てきて楽しいし、実力俳人ぞろいなので、俳句の批評も実に的確である。なにより、句会の後の飲み会が面白い。そのとき、ぼくの俳論のことをいろいろコメントしてくれたのだが、実に勉強になった。具体的に書くといろいろあるのだが、ここでは、ぼくにとって、一つの大きな問いかけとなった事柄だけを記したい。

それは、日本語の散文とは何か、という問いかけである。ぼくの書いた俳論は、図や表を駆使して科学的に俳句にアプローチした論文だったという見方が、審査員の間では共通のものだった。この見方は、一方で、もっとやさしく言えることを難しく述べているという否定的な評価にもなり、他方で、ああいう言い方(文体)でしか、この問題は扱えないという見方もあった。また、審査員の中には、「図表を使うなんて俳論じゃない」という意見もあったらしい。

この話しは、文体と問題、翻訳と文体、時代と文体といった問題圏に導いていく。「日本の名随筆」シリーズなどを読むと、ここに日本語の散文の粋があると感じることがある。感受性や感情が実に豊かに表現されている。このシリーズを読むと心が満たされる。癒される。豊かになる。一方で、藤田省三のゴツゴツしたエッセイを読むときの、視界が一気に開ける感覚、足元から大地が真っ二つに割れて、マグマが吹き上げて来るような感覚は、言葉に言い尽くせない。藤田省三の『精神史的考察』を読んで心底心が震えてただ涙が流れたこともある。

この2系列は、その文体がまった違う。名随筆は、いわゆる日本的名文。藤田は、その規範で言えば、完全な悪文だろう。欧文、とくにドイツ語の原文が先にあって、それを日本語に翻訳したような文体が藤田省三の文体である。ここには、藤田の問題を名随筆の文体で言えるのか、という問題があるように思う。もし、藤田の問題は、藤田の文体と切り離せないとしたら、その問題は、日本の翻訳と同時に生まれた、と言えるだろう。それ以前には存在し得なかった問題なのだ。逆に、藤田のような文体が開発されて始めて問題化したということだ。

ぼくの俳論は、実は、藤田省三のエッセイを理想として書いた。このうねるような思考の流れをモデルにしたいと願った。その結果、翻訳文体の影響を大きく受けることになった。この問題の結論は早急に出したくはない。いや、出してはいけないと思っている。思考や感受性、感情などを表現した多様な日本語を検討し実際に書いてみることで、じっくり考えていきたいと思う。


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木の根明く(きのねあく)

土曜日、のち。午後遅くまで、仕事。その後、指圧・マッサージを受けに行く。帰宅して、しばし、眠り込んでしまった。マッサージの後の熟睡は至福ですね。その後、書店にコミック『墨攻』(4-8)を買いに行く。今は漫画文庫に面白そうな作品がずいぶん出ていますね。星野之宣の自選短編集歴史編というのが出ていたので、ついでに購う。



俳人の宮坂静生さんが、大変重要な仕事をしている。『語りかける季語 ゆるやかな日本』(岩波書店 2006年)俳句の季語は、古今集で成立した美意識を基礎に、連歌や江戸俳諧の言葉を吸収しながら、明治以降の近現代俳句に至っている。だが、俳句の季語・季題には、一つの空間的な前提がある。京都・江戸(東京)という文化圏である。列島は南北に長く、しかも、日本海側と太平洋側では文化的な色彩も異なる。地域の多彩な季節の言葉は、これまで歳時記に登録されてこなかった。されないままに、歳時記の言葉は、「日本人の」美意識と言われてきた。宮坂さんのこの本は、地方の季節の言葉を集めていて、大変興味深い。

「沖縄では一月に寒緋桜が咲く。沖縄の人にとっては、桜は染井吉野でも山桜でもない。寒緋桜が桜なのである。この一事のみでも、私には衝撃であった。山桜、あるいは明治以降は染井吉野を『花』と称して愛でてきたこの国の花の歴史に、寒緋桜は入らない。すると、花ばかりではなく、平安朝以来、『雪月花』を頂点に美しい季節のことばを集めて築かれてきたいわゆる『季題』『季語』の体系とはなんであったのかという、大きな問題に直面せざるを得ないように思われるのである」(同書viii)

この問題は、「日本」とは何か、という大きな問いに至らしめる。

タイトルに書いた「木の根明く」という季語は、雪国で使われている春先の挨拶ことばのようなものだという。ブナやクヌギなどの木の根元に積もっていた雪が丸くドーナツ型に溶け始め、地面が現れる。まだ雪深い早春の森で、木の根元だけぽっかりと地面が見える様子を言葉にしたものだ。

木の根明くなり草の根も明きにけり    宮坂やよい

日本や日本人はこれまでも多様であり、これからも多様でなければならないと思う。同一性の命題は、ある意味で暴力的とも言えるだろう。宮坂さんは、大変説得的に、「北の文化(北海道)」「中の文化(本州・四国・九州)」「南の文化(南島)」という図式を提示して、日本文化の多重性を前提に季語を考えようとしている。

いわゆる「地域季語」は普遍性がないから、一部の地域だけで通じるものだから、作品としての価値が低い。そうぼくは思ってきた。けれど、宮坂さんの、そもそも「作品の普遍性とは何なのか」という議論を読んで、俳句が連衆や土地の自然に対する挨拶であるという基本的な考え方を思い出した。地域の人々や地域の自然に地域の言葉で挨拶するのは、いってみれば当然で、それが、東京の俳人の作った、いわゆる「正統的な季語」を使った俳句よりも作品の価値が低いということにはならないのではないか。鑑賞という面についても、そもそも、俳人は、季語を勉強したのではなかったか。その本意を、そのいわれを、その古典文学的な背景を。それと同じように、雪国の季語を東京の俳人が学ぶということがあってもいいのではないか。沖縄の人の桜を、京都の俳人が学ぶことがあってもいいのではないか。季語の間に、いや、文化の間に、われわれは無意識に序列をつけてしまっていないだろうか。そんなことを思った。

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コミック「墨攻」1-3

金曜日、。北風。

終日、仕事。いまだ、終わらず。気分転換に、コミック版「墨攻」(小学館文庫)を読む。映画と比べると、いかにも、漫画的にデフォルメされた濃いキャラクターが躍動するが、それに慣れると、コミック版の方が映画より数段上だとわかってくる。映画は、墨者、革離の英雄ぶりを中心に描いているが、コミック版では、一見、よく考えられたエンターテイメントの装いをしているものの、完璧な反戦漫画になっている。戦いに巻き込まれた人間たちの悲惨さと哀しさに胸を打たれる。コミックを読んでから、仕事にすぐに戻れないほどに、その衝撃は大きい。読んでいて「お前らもう止めろ!」と叫びたくなる。映画のエピソードは、コミック版では、ちょうど、1巻から3巻にあたる。コミック版は、全8巻なので、梁城の攻防が終わったあとの革離の行動が描かれるのだろう。いったい、どうなるのか。人間の歴史について、深い反省を迫るコミックだと思う。



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人生はいつから神話になるか

水曜日、。バレンタインデー。俳句では、季語ですね。どうもバレンタインデーになるとこの句を思い出す。


バレンタインの消えない死体途中の花    鈴木六林男



このごろ、一番、びっくりしたのは、自分である。自分のどこに驚いたかというと、ぼくは、ぼくが考えている以上に、日本語を愛しているらしい、ということにである。英文雑誌の編集や英訳という業務をするようになって分かったのだが、日本語の使い方について断じて譲らない自分がいるのだ。まあ、翻訳を10年以上やってきたので、少々、日本語には煩いとは自覚していたが、どうもそんなレベルじゃない。いったい、どうしたわけだろうと、自分でもいぶかしかった。考えてみるに、詩や俳句といった表現と日本語が密接に関係しているからのように思う。詩は、四半世紀、俳句は7年、けっこう懸命に研鑽してきた(いっこうに上手くはならないが)。ぼくが、日本語にこだわるのは、表現年数の多寡とは実はあまり関係がない。あるのは、己をどれだけ深く日本語で表現してきたか、ということらしい。日本語は、己の魂に触れ、己の精神に触れ、己を己たらしめている全体に触れている。ぼくは、そう感じている。だから、言葉と己が切り離せなかったわけだ。言葉は単なるコミュニケーションツールではない。世界の始まりであり、世界の果てである。まあ、こんなことを思うようになって、どうにか、日本語と己との関係を相対化できたように思う。言葉を「仕事」にすることの幸福と不幸は裏表なのかもしれない。いやおうなく資本主義社会に生きているんだな。そんなことも思う。



今日は、こんな話がメインではなかった。倉田良成さんの新詩集『東京ボエーム抄』を読んで思ったことを書こうと思ったのだった。

この詩集を読んで、人はいつから、自分の人生が神話になるのだろうと思った。おかしなことを言うと思うかもしれないが、あるとき、自分の来し方を振り返ってみて、それがもはや神話としか言いようのないものになっていることに気がつくことはないだろうか。ぼくの個人的な感じで言うと、だいたい四半世紀時間が経過すると、人生は神話になる。そのとき、条件があって、「(心の)自由」が何らかの形で、関与しているように思えるのだ。つまり、会社生活を25年送っても、なかなかその時間は神話にならないが、学生生活は、どんなに、金がなくても、神話になる。そこに出てくる思い出の人々は、ギリシャ神話の神々のように回想されることになるのである。

倉田さんの『東京ボエーム抄』は、そんな神話のようにぼくには思えた。倉田さんが、この詩集を書かれるまでには、かなり時間がかかったのではないか、と思う。一つの物語が神話になるには、熟成の時間がいるからである。この詩集は、その意味で、上質な酒に喩えることができる。豊かな香りと芳醇な味わい。そして、自由。ヘルダーリンではないが、「自由」こそが詩の根源を形成するのではないだろうか。

(現代詩がつまらなくなったのは、「うたの喪失」や「詩の散文化」、「幼稚なわたし」といった現象の裏側で着実に進行している「自由の喪失」があるような気がしてならない。それは、詩人個人の責任というよりも時代的なものであろうが、逆に、反時代的であることが詩人の条件とも言えるのではないか)

神話。これは、別の面から見れば、自由なコミュニケーションの経験の集積とも言える。そうした経験は、生産関係や組織に入ると、なかなか実現しないだけに、心の中の沃土となって、いつまでも人の人生を潤してくれるのではないだろうか。言葉の面白いところは、他者の神話を言葉で共有できることだ。倉田さんの詩集を読んで、世代は、一回りぼくの方が下になるが、自分の神話も呼び出すことができた。

先生と私の交流を描いた「聖夜」

先生と初めてまみえたのは、高校に入ったその年だった。両手のそれぞれにチョークを持ち、黒板上に別々の文字を書くという放れ業で生徒らの度肝を抜いたが、自分には屈折した自己顕示欲があるのだという先生の言をどこまで信じてよいのか、わたしたち生徒には分からなかった。…こうして先生宅へ…詩の講義を受けるための通学がはじまったが、私の高校もご多分に洩れず騒乱期を迎え、私も先生もその学校を去ったけれど、詩の講義はそののちも、先生宅、喫茶店、酒場、ときに牛丼屋のカウンターなど、東京の街のあらゆるテーブルのある場所で続けられた。…

そのときの私がはたちを過ぎたばかり、先生も三十を幾つか出ただけの、ほんの青年たちにほかならなかったことが、今では不思議な夢のようだ。


思いどおりになったなら来はしなかった。
思いどおりになるものなら誰が行くものか?
この荒屋に来ず、行かず、住まずだったら、
ああ、それこそどんなによかったろうか?


(「ルバイヤート」オマル・ハイヤーム、小川亮作訳)

以上「聖夜」(『東京ボエーム抄』所収)から。


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ボエーム

月曜日、。朝から、仕事。午後、一段落したので、近くの公園に梅を観にいく。白梅・紅梅とも7分咲きといったところ。その後、江戸川に出て、しばらくボーっとする。詩人の倉田良成さんからいただいた新詩集『東京Bohème抄』を、川を見ながら少し読む。Bohèmeというのは、フランス語でボヘミアンのことと、後で知った。散文詩の最後に、連歌のように、他者の詩や和歌が添えられている。中には、事件の最中に作られたご自分の詩も呼び出され、重層的な取り合わせが行われている。

ぼくは、日本語の散文詩が、実はあまり好きではない。というのは、そこに、音楽がないからだ。雑誌で散文詩が掲載されていても、そこだけ飛ばして読むくらい、である。だが、倉田さんのこの詩集は違った。この詩集に刻印されたボヘミアンたちの生が風の音楽なのである。どの頁からも風の音が聞こえる。



この道を歩んでいった人たちは、ねえ酒姫
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ―
あの人たちの言ったことはただの風だよ。


『ルバイヤート』オマル・ハイヤーム、小川亮作訳
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家族と畑

日曜日、。夕方まで、家の雑用。夕方から、今まで仕事。疲れた!

昨日の映画「墨攻」で一番印象に残ったシーンの話をしていなかった。それは、農民の台詞だった。梁王の自己保身から、革離に謀反の疑いがかけられて、関係者が捕らえられたのだが、その中の一人で、革離に傾倒していた農民が、木の処刑台に縛られて、泣きながら梁王に命乞いする。そのときの台詞が、

「おれは、英雄なんか関係ねえ。家族が恋しくて、畑が気になるだけだ。助けてくれえ!」

梁王は、「国家の大事に自分のことだけ考えている奴だ!」と怒るのだが、この農民の台詞は、非常にリアリティがあった。いや、アクチャリティと言うべきか。ぼくも含めて、この台詞こそが、庶民の幸福であり不幸なんだと思う。
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映画「墨攻」

土曜日、のち。終日、仕事。

午後から時間ができたので、映画「墨攻」を観に行って来た。とにかく、「墨家」という集団の興味深さは尋常ではない。それに惹かれて観てきたのであるが、映画としては、まあ、70点くらいではないだろうか。戦闘・軍事シーンが95%なので、女性や戦闘に興味のない人は飽きるかもしれない。ぼくも多少飽きた。戦闘シーンや軍事的なシーンはメーンでも構わないと思うが、もっと技術的に丁寧に、墨家の知恵や創意工夫、専門知識を描いた方が良かったと思う。また、墨家の思想は歴史的に並外れてユニークなのだから、その点も突っ込んで欲しかった。革離という墨家の主人公を演じた、香港スター、アンディ・ラウはなかなか良かったと思う。演技も中国語の音も耳に心地よかった。敵方の趙軍の名将、巷淹中を演じた韓国のスター、アン・ソンギも重厚な演技で素晴らしかった。あのヨンさまをイメージしてしまうせいか、韓国の男優の声は低いという印象があるが、アン・ソンギの声は高く、ときどきかすれて、渋い感じを出していた。ただ、中国人キャストの中に入ると、中国語ネイティブではないせいで、若干、中国語の音に硬さが感じられた。

この映画は、コミック「墨攻」を原作にしているが、全8巻もあるコミックをすべて映画化したわけではないだろう。印象的なシーンを映画化したものと思う。革離が墨家内部の反対を押し切って、梁の救援に来た経緯や当時の墨家の社会的な位置づけなどは省略されている。梁の城を革離が守るという一点に焦点を当てて、この映画は作られている。

この映画を観ても、当然、墨家の謎は解けない。ますます深まる。しかし、ますます、墨家と諸子百家に興味を持った。帰りに早速、書店でコミック「墨家」とビギナーズクラシック『老子・荘子』(角川書店)を購入。中国の戦国時代には、たくさん面白い思想家が出たが、日本の戦国時代はどうだったのか。その辺も気になりだしている。



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