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芭蕉の俳諧:猿蓑(32)

■旧暦8月11日、火曜日、

(写真)無題

今日は、窓からの空気が冷たい。ベランダにCDで作ったハト避けを吊るしたら、効果があったみたいで、洗濯物にフン害がなくなった。久しぶりに英語版更新。外国語で書くのは、面白い経験だが、間違いが必ずある。自分のブログなら、まだ修正が効くが、ひとのブログにコメントした英語が間違っていると、なかなか愉快なことになる。

I'm very impressed. とても感動しました。
I'm very impressive. 頭が高い!

秋刀魚
燃えながら秋刀魚は海を思ふらん


ばうばうと秋刀魚の命燃えさかる


秋刀魚焼く八州の空大きかり


夜遊びの娘を叱るそぞろ寒




デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

in a stand of trees
pounding rice cakes...
evening moon

yabu nami ni mochi mo tsuku nari yoi no tsuki

藪並に餅もつく也宵の月

by Issa, 1818




かきなぐる墨繪をかしく秋暮て
   史邦
はきごヽろよきめりやすの足袋
   凡兆
何事も無言の内はしづかなり
   去来

■メリヤス(medias)は「靴下」の意味のスペイン語から来ているらしい。1679年ごろには、すでに、俳諧に詠まれていたという(この歌仙は1691年10月頃京都で興行)。去来が可笑しかった。この付け方は、正座して箴言をつぶやくのだが、ちょっと漫画みたいだ。喧嘩中の夫婦を横合いから解説しているみたいだ。真面目であるが故の可笑しみ。
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ドイツ語の散文家たち:Marx「経済学哲学草稿」(8)

■旧暦8月10日、月曜日、、西鶴忌

(写真)秋明菊

6月の来日に合わせて出版した、ヴァレリー・アファナシエフの詩集『乾いた沈黙』が好調である。マエストロは、世界的なピアニストであると同時に、詩人、小説家、劇作家、指揮者、パフォーマーでもある。この詩集は、よくあるような対訳形式を排し、独立した英詩と独立した訳詩を挟み合わせた形で編集。マエストロの息遣い直に触れるだけでなく、日本語の詩としての調べもトータルで楽しめる。マエストロは、10月1日に再来日してリストを弾くので、そのときも、コンサート会場(トッパンホール)で販売される。もともと部数はそれほどないので、売り切れないうちにアマゾンへ。今回は、準備の都合で実現しなかったが、次回は、6月のときと同じように、日英両言語による朗読会を開催するつもりでいる。

10月に行うレクチャーの原稿ができた。1月のレクチャーのときに頑張ったので、今回は、多少手直ししただけで、大枠は変えていない。transhumanismは、テキストが未着なので、少ししか触れられなかったが、アウトラインと主要な問題点を指摘した。これで、後は、新着のテキストを待ちながら、マエストロの小説に専念できる。九月はダレてしまったので、挽回したいものである。

一茶・ちひろのコラボレーションに4句

芒原こゑする方に人はゐず


秋風にうしろ吹かれて後生かな


銀芒けふはきのふのわれならず


安曇野や月より風の吹いてきし
冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

at my humble hut
so many in the mist!
Sumida River cranes

shiba no to ya kasumu tasoku no sumida-zuru

柴の戸やかすむたそくの隅田鶴

by Issa, 1810

Shinji Ogawa explains that shiba no to (brushwood door) is an idiom for a "hut" or "my humble house." It does not mean that Issa's door is literally made of brushwood.



労働者は富を生産すればするほど、その生産の力と範囲が増すほど、それだけいっそう貧しくなる。労働者は商品をつくればつくるほど、みずからはそれだけいっそう安価な商品になる。事物世界の価値増大に正比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。労働は商品を生産するだけではない。労働はおのれ自身と労働者をひとつの商品として生産し、しかも一般にさまざまな商品を生産するのに比例して生産する。   経済学哲学草稿 第4章疎外された労働 1844年 (『マルクスコレクションⅠ』p.309 筑摩書房 2005年)


Der Arbeiter wird um so ärmer, je mehr Reichtum er produziert, je mehr seine Produktion an Macht und Umfang zunimmt. Der Arbeiter wird eine um so wohlfeilere Ware, je mehr Waren er schafft. Mit der Verwertung der Sachenwelt nimmt die Entwertung der Menschenwelt in direktem Verhältnis zu. Die Arbeit produziert nicht nur Waren; sie produziert sich selbst und den Arbeiter als eine Ware, und zwar in dem Verhältnis, in welchem sie überhaupt Waren produziert.


■ケインズ以降、国家の介入が普通になったので、一見、現実と違うように見えるが、製造業の派遣労働などを見れば、今も十分にアクチャリティがある。そして、事態の本質をごまかさずに見つめれば、こういうことだろうと思う。

ここで、注目したい言葉に、「die Sachenwelt」(物の世界)がある。「Mit der Verwertung der Sachenwelt nimmt die Entwertung der Menschenwelt in direktem Verhältnis zu.」(事物世界の価値増大に正比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。)と表現されている文章の中の言葉である。die Verwertung der Sachenwelt(物の世界の価値増大)とdie Entwertung der Menschenwelt(人間の世界の価値低下)は対比的に用いられ、「die Sachenwelt」(物の世界)は明らかに否定的な響きがある。

「die Sachenwelt」(物の世界)のdie Sacheはdas Dingと同系統の言葉で、日本語では、事物、物、物体、物品などと訳されている。語源的には、もともと、民会や裁判を意味した。古代ゲルマン民会の主要議題が裁判事件であったことで、事件→事柄→物というふうに意味が変化していったらしい。この意味の変化のパターンは英語のthing、フランス語のla chose(ラテン語のcausa訴訟事件・原因→事柄→物)も同じである。SacheはDing、thing、choseと同様、人間の争いの渦中から生まれた言葉だと言えるだろう。人間と人間の関係が凝縮されている。

ところで、日本語の「物」は、物体という意味だけでなく、物の怪や物狂(神がのり移ること)など、人間を超えた存在を示唆する用法がある。また、もののあはれ(物事に触れて起こる情緒)のように対象になるものが否定的に捉えられていない用法もある。端的に言って、人間と人間以外の存在の関係が言語化されているとも言える。

die Verdinglichung der gesellschaftlichen Verhältnisse(社会関係の物象化)「資本論」とマルクスが言ったときに、それが日本語に直されると、人間対人間の関係が物化するばかりか、人間対人間以上の存在の関係も物化するというニュアンスが生じることになる。これには、ベンヤミンの言うアウラなども含まれるのではなかろうか。

もうひとつ重要な概念がある。die Waren(商品)である。英語ではwareに相当し、software、hardwareとしてよく用いられているが、この言葉は、wahren(ドイツ語の守る、維持する)という動詞から来ているらしい。この問題は、資本論のキーコンセプトでもあり、後日、じっくり、検討してみたい。今は、これ以上の情報がない。
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ポルトガル語の俳句(2)

■旧暦8月9日、日曜日、

(写真)芒

昨日は蒸し暑くてクーラーを入れないと眠れなかった。実家に戻ると購う自家焙煎の店の珈琲が、なかなかうまく淹れられないので、珈琲メーカーではなく、メリタの陶器フィルターを使ってみた。これだと、お湯の温度を調節できるからだ。結果、うまくはいった。今まで、珈琲には苦みを求めてきたが、どうも苦いというのは、目覚めの一杯にはいいが、他の要素―甘みや豊潤さ―を消してしまうのではないかと思うようになった。却って、酸味の強いキリマンジェロのような珈琲が、味わいのTotalität(全体性)を引き出すように感じるのである(ブルマンのようなバランスの良さとは、ちょっと、違う)。しかし、ドイツ語に対応する日本語って、なぜ、かくも大げさになるんだろう。

花なくも金木犀の立ち話    冬月



ポルトガルの俳人、ma grande folle de soeurが面白い俳句を書いてくれたので、紹介したい。


Justiça -
uma puta velha e desdentada
que não engana apenas o Quixote!

Justice -
une vieille pute édentée
qui ne trompe pas seulement Quijote!


正義―
歯のない老いた娼婦は
もうドンキホーテを欺かない


■この俳句は、二つの点で興味深い。一つは、ドンキホーテの物語を踏まえていること。古典を踏まえるという方法は、日本語の俳句の専売特許みたいなものだからだ。もう一つは、季語の問題である。この句には、季節を表す言葉がない。欧文の俳句を作るとき、たいてい、入門書などには、季語は入れても入れなくてもいい、と書かれている。ポルトガルの季節の変化はどうなっているのか、見当がつかないのだが、時間の推移を表す表現はあるに違いない。ヨーロッパ歳時記を見ると、スペインの歳時記はある程度あるようだが、ポルトガルはない。季語の問題をどう考えるかは、欧文俳句の面白い問題の一つだと思う。
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déjà vuと俳句


(写真)鶏頭

蒸し暑くて参った。公園で太極拳。犬が繋がれていたので、しばし、頭をなでる。動物には癒されるなあ。約束を勘違いして、すっぽかす。手帳には書いてあったのに、である。夕食にソーメンチャンプルーを作る。久しぶりに料理して完全に勘が狂ったのを知る。味見という基本的なことも忘れていたからである。


英国の紳士は秋を好みけり


草紅葉盥の水はゆれやまず
   冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

utterly rhythmless
at my house!
night cloth-pounding

fu hyo^shi wa tashika waga ya zo sayo-ginuta

不拍子はたしか我家ぞ小夜砧

by Issa, 1817

In Japan and Korea, fulling-blocks were used to pound fabric and bedding. The fabric was laid over a flat stone, covered with paper, and pounded, making a distinctive sound. In this haiku, Issa comments on the lack of rhythm in the cloth-pounding at his house--a comic jab at his wife Kiku or at himself?



déjà vuと俳句。

俳句を批判するときの一つのパターンに既視感というのがある。類想とも言う。これについて、感じている点を述べてみたい。ある俳句に対して、既視感あるいは類想句があると感じることはだれしもあるだろう。このとき、既視感ある句あるいは類想句は大きく3つに分けられる。第一に、類想あるいはどこかで見た句がほかに実際に存在する場合。第二に、多くの人間がそう感じていたが、それを俳句にしたことがなく、出てきた俳句を見たとき、類想あるいはどこかで見た句だと感じる場合。第三に、読み手の感受性の粗さから、類想あるいはどこかで見た句だと感じる場合。

第一のケースは、ある程度、俳句を読みこんでいくと、だれしも、陥ることがあるケースで、あながち、悪いことではないように思う。というのは、実際にdéjà vuあるいは類想だと気づけば、推敲によって、まったく違った新鮮な俳句に生まれ変わる可能性があるからである。このとき、元の句を踏まえた新鮮な俳句が誕生する。第二のケースは、意外とdéjà vu批判の中に多いのではないかと思う。というのは、déjà vuを言っている論者が、具体的な比較例を出して、類想だと批判しているケースをほとんど知らないからである。この場合、論者は漠然とそう感じているのだが、これは、論者の側の怠慢と言うよりも、俳句の側の成功例と言えるだろう。それだけ、共感を得られた証拠なのだから。第一のケースでは作者の側に勉強と批評力が、第二ケースでは、論者の側に、勉強と批評力が求められているとも言えるのではなかろうか。

問題は、第三のケースで、ある意味で、これは第一のケースとも第二のケースとも関連している。なぜ、俳句にdéjà vuが多いのか。それは、われわれの感受性を構成している社会的・歴史的な条件によるところが大きい。まず、感受性とは、個人的なものであると同時に社会的・歴史的なものであることを確認しなければならない。つまり、感受性は作られるものである。俳句は、季語の世界に依拠して作られるために、季節の移り変わりに対して、鋭敏な感性を求められる。その移り変わりは、微妙な差異が積み重なって、大きな差異へと転換する。毎日の日の落ちる頃合いや影の色、葉の色づき具合の変化など、非常に細やかな感性が求められる。

一方、われわれは、高度に発達した資本主義社会に生きている。テクノロジーの発展と経済合理主義の生活への浸透によって、生活領域は、計算可能領域へと急速に再編されている。微妙なものやニュアンスの差異を感じ取っていた感受性は、社会全体の利益追求、利便性追求によって、粗暴でのっぺりしたものへと再編されてきている。新暦による時間のニュアンスの混乱と無意味化や都市化による人間と自然の距離の拡大化という問題も、生活領域の再編の一つの現れと言えるだろう。

生活領域の再編に感受性も歩調を合わせるから、現存の感受性では、とらえきれない世界が存在するのではないかという想像力もやがて失われる。現存の感受性は、季語を中心にした存在論的な訓練を受けていないから、季節の微妙なニュアンスや差異を感受することが難しくなる。これには、日本語世界の散文化(あるいは世界の散文化)という現象も深く関わっている。生活世界の合理化に、自覚的でない感受性は、この波に一気に呑まれてしまい、それを前提に、新しさを求めるから、季語の世界圏とは異なったところへ出てゆく。これは、抵抗ではなく、順応である。今、俳句を詠むことは、ある意味で、歴史への抵抗なのだと思う。「新しいことはちっとも新鮮じゃない」という飴山實の言葉は、新しさの社会的基盤への批判を含むものであると僕には思えるのである。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(31)

■旧暦8月8日、土曜日、、世阿弥忌

(写真)無題

晩夏がずっと続いているかのように、朝晩が蒸し暑い。九月は何の成果も出ず。しばし、呆然とする。じっくりと行くしかないのだが。

赤松の果たるところ世阿弥の忌    

ヘルパーを入れれば、お年寄りは楽になるだろうというのは、表層的な見方で、他人が家に入ることで生じる雑用や心理的負担は、無視できないものがある。ここには、ある種の虚栄や人間としてのプライドも含まれる。人間は、いつまでも健康でいられることが幸福なのか、あるいは、不幸なのか、わからないが、今のところ、死は避けがたい。ふり返れば、何事も些事。そんな気もするときがある。まあ、年取ったのだろうけれど。

ことごとく些事に覚ゆる瓢かな   冬月



まいら戸に蔦這かヽる宵の月   芭蕉
人にもくれず名物の梨
   去来
かきなぐる墨繪をかしく秋暮て
   史邦

■物語を4人で共同制作しているような趣。7.7が意外に面白い。前の句に触発されて後の句が出てくる、というのは、俳句の共同性がはっきり出たものと思うが、それが句ではなく具体的な状況であれば、近現代の俳句になる。その意味では、江戸の俳諧も明治以降の俳句も、そう断絶はない。状況へのリアクションという意味では、現代詩も同じである。
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ドイツ語の散文家たち:Lukács「歴史と階級意識」(1)

■旧暦8月7日、金曜日、

(写真)萩

おはぎとぼたもちの違いは、よく知らなかった。てっきりつぶ餡の方をぼたもち、さらし餡の方をおはぎと言うのかと思っていたが、春の彼岸のときのものを、春に咲く牡丹になぞらえて牡丹餅(ぼたもち)、秋の彼岸に食するものを、秋の萩になぞらえてお萩と言うらしい。つぶ餡はくどいので、苦手なのだが、こと、おはぎに関しては、つぶ餡も素朴な味わいでいいなと思う。

秋風のほどけてここにおはぎなる
  冬月

朝食にPAULで仕入れたpain aux olivesを食してみた。olive verteとolive noireの2種類のoliveを使用してある。早い話が、早摘みオリーブと遅摘みオリーブということだが、味にアクセントが出て面白かった。白ワインに合うだろうと思う。PAULは19世紀にフランス北部の町リールで開業したカフェで、最近、四谷に進出した。パン屋としてなら、もういたるところに出店している。四谷のカフェは、一回行ったが、料理にはそう感動しなかった。ただ、café au laitはさすがに旨かった。



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

covering up
my water for tea...
my fan

cha no mizu no futa ni shite oku uchiwa kana

茶の水の蓋にしておく団扇哉

by Issa, 1824

Or: "the water...the fan..." Issa doesn't specify that either is his, though this might be inferred.



20世紀初頭までは、知識人は、貧農出身が反革命に走り、大金持ちのおぼっちゃまが革命に走るというパターンがあるが、ルカーチ(1885-1971)にもこれが当てはまるように思う。父親は、ハプスブルク家からドイツ貴族の称号vonを贈られた大銀行家、母親の家系は、ユダヤの大富豪。ルカーチのドイツ語のフルネームは、Georg Bernhard Lukács von Szegedinである。おぼっちゃまと言ったって、麻生や小泉のような下賤の者とは人間の格が違う。そもそも、目指しているものも教養も、天地の違いがある。ルカーチはよく知られているように、西欧マルクス主義の始祖である。

『歴史と階級意識』のエピグラムには、マルクスの次のような言葉が掲げられている。


根源的であるというのは、物事をその根本においてつかむことである。ところで、人間にとって根本的なものは、人間そのものである
   マルクス『ヘーゲル法哲学批判』

マルクスは、これを宗教批判の文脈の中で述べているのだが、ここにルカーチのテキストの趣旨が集約されているように感じる。これは批判とは何かということでもあるし、現存の社会的カテゴリーを解体し、人間の諸関係総体から、再構成的に叙述するということでもあろうと思う。ルカーチは、しばしば、人間の諸関係の総体という言葉を使う。これが、マルクスの言葉の中にある「根源的なもの」ということだろう。ただ、では、具体的な社会現象と社会関係総体をどう関連付けるのか、という話になると少々わかりにくい。これを問題意識の一つとしたい。おそらくは、モデルとして念頭にあるのは、マルクスの「資本論」や「経済学批判」なのだろうけれど。第二に、批判を方法とした場合、根源的な把握は可能になるかもしれないが、そこからいかなる実践的な代替プランが出てくるのか、わかりにくい(ここは近代経済学や政策諸科学から常に批判される点だろう)。つまり、理論と実践の関係が、社会の全体構想との関わりの中で、どう位置づけられるのか、見えにくいのである。また、これに関連して、全体構想なるものは、抑圧装置に転化しないで済むのかどうか、という点も問題になるだろう。この点を第二の問題意識としたい。

そもそも、ルカーチが、このテキストを構想したのは、自ら深くコミットしたハンガリー革命の失敗の原因をイデオロギーの問題として分析することにあったと言われている。この問題は、非常にアクチャルで、現存秩序やメディアを中心にした操作性という問題や社会認識のカテゴリー形成という問題とも絡む。イデオロギーの問題は、現在進行中の問題なのである。
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芭蕉の俳諧:猿蓑(30)

■旧暦8月6日、木曜日、

(写真)無題

夕方の影の色やその戯れ方で秋になったなあと感じることはないだろうか。

わが影と戯るる猫秋の暮

踏切の音のあなたや秋の声   冬月

おるかさんのところで、水引草を知った。見たことはあるのだろうけれど、識別してなかった。立原道造が、水引草の詩を書いている。ちょうど、今くらいの季節だろう。


のちのおもひに


 
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
 
水引草に風が立ち
 
草ひばりのうたひやまない
 
しづまりかへつた午さがりの林道を

 
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
 
――そして私は
 
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
 
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

 
夢は そのさきには もうゆかない
 
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
 
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

 
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
                         
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
 
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


立原道造「萱草に寄す」SONATINE No.1



いつも気になっていた言葉に「科学的マルクス主義」という言葉がある。これは、原語では、der wissenschaftliche Marxismusのはずだが、日本語では、「科学的」とされてしまっている。このことから、自然科学的な方法論を前提にしたマルクス主義という理解がされてきたように思う。共産党のマルクス理解は、これに近いものではなかろうか。wissenschaftlichという言葉はもっと幅広く、「体系的、学術的、合理的、組織的」という意味を持っている。ちなみに、Wahrig は、Wissenschaftを次のように定義している。「geordnetes, folgerichtig aufgebautes, zusammenhaengendes, Gebiet von Erkenntnissen」(系統立てられ、矛盾なく構築され、相互に関連付けられた、認識の領域」言いかえれば、wissenschaftlichは、狭く自然科学的な発想としてではなく、論理的な整合性や体系性に重きを置いた認識のあり方ととらえるべきではなかろうか。



股引の朝からぬるヽ川こえて   凡兆
たぬきをヽどす篠張の弓
   史邦
まいら戸に蔦這ひかヽる宵の月
   芭蕉

■物語を読んでいるような気分になる。芭蕉が「まいら戸」の句を出したことで、定住者が現れてきた。自然から人間の旅、そして定住者の日常へと場面は展開されていく。「たぬき」の句は、狩猟を意味するからの生活の方へぐっとひき寄せられる。狩人の住処が、「まいら戸」(板戸の表面に細い桟を密にうってある戸)の家ということになろうか。自分とは異なる人間が、異なる感性と視点で、自分の句を展開させていく様子は、なんとも興味深いものだろうと思う。



Sound and Vision

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俳句の笑ひ:良寛の笑ひ(3)

■旧暦8月5日、水曜日、、秋分の日、遊行忌

(写真)道端の彼岸花

今年初めて林檎を食す。梨、林檎と好物が出てくる嬉しい秋である。

林檎喰ふまた新しき日のはじめ  冬月 

朝、Michael Mooreの「The big one」を観る。アメリカの失業問題がテーマだが、相変わらずユーモアにあふれている。企業への突撃取材は、なかなか、セキュリティが厳しく、警官がすぐに来る。収益を出していても、さらなる収益のために、国外に製造拠点を移すメーカーの非情な経済合理性と収益最大主義があぶり出されるが、国内で職を失った人々のケアはほとんどなされない。大企業には、政府から多額の補助金が出ているが、それが、従業員に還元されることはない。物のように、いらなくなれば、捨てられるだけである。最後に、ナイキ会長への取材が可能になり、14歳のインドネシアの少女を低賃金で雇用していることへの倫理的な責任が追及されるが、ナイキ会長は、ムーアに答える言葉を持たない。生きてる次元が違っているのだ。「14歳の低賃金の労働者の中から、やがて出世する奴も出てくる」これが、ナイキ会長の生きてきた全思想である。「それがどうした?」これがムーアの思想である。

この映画では、大企業の強欲と非倫理性・非人間性が浮き彫りになるが、そもそも、なぜ、強欲なのか、なぜ、非倫理的なのか、それを、人間の社会的関係総体から解きほぐす視点はない。人間とは、そもそも、強欲で非倫理的な本性を持っているのだと、リーマンブラザーズ破綻以降の経済状況を、達観したように述べるエコノミストが多いが、そのとき言われる本性は、物象化された本性そのものであり、そこで最終的な答えを見出したつもりで問いを終わらせずに、なぜ、そうなるのかが問われなければならないだろう。歴史的・社会関係的に、問われなければならないだろう。結果的に、エコノミストの多くが、権力の提灯持ちになるのは、既存の社会的諸前提からしか思考を組み立てられないからだろう。




盗人にとり残されし窓の月
   良寛


left behind
by the thief:
the moon in my window


translated by Sanford Goldstein et al

■可笑しい。心の余裕が笑いを自然に生んでいるのだと思う。この句は笑いで自他を救済している。逸話によれば、無一物といっていい良寛の庵には、たびたび、盗人が入った。ある晩、盗人が入り、何も取る物がなく茫然と突っ立っていると、良寛は自分の着ている着物を脱いで盗人に与えたという。この逸話を読んで、ゴーリキーの『どん底』に出てくる巡礼の老人ルカーのことを思った。良寛と匂いが少し似ているのである。「世の中だれかしらいい人がいなくてはならん。ここぞという時に人を憐れむ事ができるのは素晴らしい事なんだよ」

人は憐れむべき存在なのか、尊敬すべき存在なのか、わからないが、憐れんだり憐れまれたりすることの多い社会は、社会の諸条件があまりいいとは言えないだろう。



Sound and Vision




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芭蕉の俳諧:猿蓑(29)

■旧暦8月4日、火曜日、

(写真)教育的配慮は経済の物象化に勝てるか?

雑用、午後から仕事に入る。夕方、買い物。今日は蒸し暑かった。

秋風に小顔かしぐるをんなかな

偏人と呼ばれて久しき団扇かな

   
禁酒
瓢箪の功徳を絶つて二三日
   冬月





デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

first spring morning
my 49th year
of blossoms

kesa no haru shi ju^ ku ja mono kore mo hana

今朝の春四九じゃもの是も花

by Issa, 1811

In the traditional Japanese way of counting age, Issa turned 49 on New Year's Day of 1811. New Year's Day marked the beginning of spring in the old calendar.



鳶の羽も刷(かいつくろひ)ぬはつしぐれ   去来
一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉
股引の朝からぬるヽ川こえて   凡兆

■猿蓑 巻之五。芭蕉は、発句がクローズアップされることが多いが、歌仙の7・7も素晴らしい。去来の発句に附けた、脇の呼吸は、鳶の周囲の自然の息吹に触れている。この二句だけで、相当な世界が開けていると思う。凡兆は、ここで一気に、旅の男を登場させる。ここには、前二句の世界と違って、「切れ」があるように感じられる。




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フランス語の俳人たち:Patrick Blanche(1)

■旧暦8月3日、月曜日、、敬老の日

(写真)利根川

知人から葡萄を送ってもらった。葡萄園は、人手が足りず、親類を集めての作業らしい。

親類が揃つてけふの葡萄摘 
  
黒葡萄洗ひたてたる天気かな   

今日は、実家に墓参りに行ってきた。いつも帰るたびに空が大きいと思っていたが、それは、空のせいじゃなく、土地が広いからだと気がついた。ここはあまりにもごみごみしている。

いつときを墓に迷ふや草雲雀

上州の土踏みしむや秋の空


倒産の会社朽ちゆく彼岸花


なんやかや拍子抜けして大昼寝
   冬月



デイヴィッド・G・ラヌーによる一茶の英訳

amid cherry blossoms
the smell of smoke...
pipes

saku hana ni keburi no nioi tabako kana

さく花にけぶりの嗅いたばこ哉

by Issa, 1811

Literally, the haiku ends with "tobacco" (tabako kana). "Blossoms" (hana) can denote cherry blossoms in the shorthand of haiku.




Les reflets du soir
sur le ventre de la pie
quand les jours s'allongent


日が伸びると
夕日が
鵲の腹まで


La couleur des pivoines
usée par les pluies de mars
Une aube de brume


三月の雨に滲んだ
牡丹の色
靄の夜明け


Le braiment d'un âne
s'accroche aux grands peupliers
Est-ce déjà l'aube?


驢馬の嘶きが
ポプラの大木に引っかかっている
もう夜明けなのか


※Patrick Blancheは、自己紹介によると、1950年、フランス北部地方の生まれ。雨の日だったそうである。劣等性で学校嫌い、軍隊、工場、人種、国家、核実験も嫌い。放浪癖あり、農夫の経験あり。画家でもある。プロヴァンスの「蝦蟇の道」庵で静かな生活を送っている。Blancheにとって、俳句の道は、ただ文学活動というだけでなく、人生を理解する方法でもあるという。なかなか、現代日本の俳人よりも俳人的ではないか。

■La couleurの句、les pluies雨とbrume靄で水が重なってしまって効果を殺いでいるように思う。おそらく、雨が朝まで残って靄になったのだろう。Le braiment d'un âneの句、s'accroche aux grands peupliers(大きなポプラに引っかかっている)の比喩があまり鮮明ではない。イメージはなんとなく分かるが、別の表現の方が良くないだろうか。
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