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アイヌ交流ウィーク

■お知らせ■

■以下のアイヌ関連のお知らせを知人から受け取りました。ご興味のある方はご検討・ご連絡ください。

2007年「アイヌ民族交流ウィーク」企画について

 私たち市民団体、ピリカ全国実行委員会・関東グループは、毎年秋に「アイヌ民族交流ウィーク」を開催しています。

この企画は今年で11回目となります。
毎年、講師として旭川市の川村カネトアイヌ記念館長の川村シンリツ エオリパックアイヌさんをお迎えして、民族文化の伝承保存を紹介、学習しています。

講演会、料理講習会、学校での授業などに取り入れて頂く主旨の上、職場、地域、学校での取り組みを是非検討して頂けますことをお願い申し上げます。

講演会では、日本人にとって欠落してきた民族問題、真の歴史を学びます。
料理講習会と実演では、自然と共存するアイヌ民族の知恵を学びます。(料理教室のあることが条件です。)

学校の授業では、歌や踊り、アイヌ語の紹介、民族楽器(ムックリ)の製作、アイヌ文様の刺繍講座などを行ないます。

これらのことを通じて川村さんと交流し、アイヌ民族の文化や世界観を伝えていきたいと思います。

ご賛同、ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。


期 間 10月中旬~下旬  今年は10月20日(土)、21日(日)をはさんで前後1週間

講師 川村シンリツ エオリパック アイヌさん(川村カ子トアイヌ記念館館長)
1951年旭川市近文コタンに生まれる。「シンリツ エオリパック アイヌ」は「先祖を大事にする人」という意味。26歳で川村カ子トアイヌ記念館館長になる。 1985年、旭川では28年ぶりのイオマンテ(熊送り)を行う。旭川アイヌ語教室やチカップニアイヌ民族文化保存会などの活動の中心的存在。

連絡先 ピリカ全国実・関東グループ 
渋谷区恵比寿4-19-5ホワイトハイツ鈴木103
      TEL&FAX 03(3446)9058  pirika_kanto@yahoo.co.jp
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かむい語り

木曜日、。旧暦、9月5日。



昨日は、「アイヌ民族交流ウィーク」の一環で、「かむい語り」に行ってきました。ぼくは、以前から、アイヌと琉球の文化にとても惹かれるものがあります。昨日は、駒込の琉球センター「どぅたっち」というところで、この会が開かれました。このセンターは、沖縄を太古からの基地のない平和な島に戻す運動の東京の拠点だという説明がありました。南北の文化が駒込でひとつになった夜でした。

さて、この夜は、川村シンリツ エオリパック アイヌさんのアイヌの話しを聴いたあとに、詩人の港敦子さんによるユカラ(彼女はこう発音していました。アイヌ語にも方言があり、ユカラはユラトリ地方の方言だそうです。普通はユーカラと言いますね)朗詠、倍音楽演奏家の岡山守治さんによる倍音楽演奏、川村さんと港さんの対談、質問コーナーといった構成でした。

川村シンリツ エオリパック アイヌさんという方は、実に穏やかで丁寧な語り口の人でした。55歳ということでしたが、長老の風格のある人でした。川村さんの話しは、なかなか興味深く、アイヌの歴史がいかに知られていないか、一般的なイメージといかに違うか、その一端が見えたような気がしましたね。

江戸時代に鎖国されるまでは、どうもアイヌは東アジア交易文化圏に組み込まれていたようですね。ロシア、韓国、中国との交易が活発に行われていたらしいです。ロシアからはナイフやブーツ、コート、韓国からはブレスレットなど、中国からはイヤリングなどが入ってきたようです。アイヌは、アイヌ語だけではなく、ロシア語、韓国語、中国語も交易の関係で、話せたらしいですね。アイヌ語自体も日本語になっただけでなくロシア語にもなっているとのことでした。アムール川地域までアイヌ語圏だったようです。

アイヌの結婚は、「家を継ぐ」という観念のないまったくない自由なもので、遠隔地の養子になったり、嫁さんを北京からもらったり、自由な人的交流が東アジア圏内であったようです。

一般に、アイヌと言えば、狩猟民族というイメージが強いですが、本州では鎌倉時代にあたる時代の竪穴遺跡が、道内で500箇所まとまって発掘され、その調査から、当時は稲作も行っていたことがわかってきました。

北海道内の地名がアイヌ語から来ていることはよく知られていますが、関東にもアイヌ語は残っているようなのです。たとえば、富士山はアペフチカムイと言われていたようです。この話しを聴いたとき、関東圏にも、太古からアイヌは住んでいたわけですから、ぼくの中にもアイヌの血は流れていると考える方が自然だなと思いました。そう思うと、遠い民族と思われたアイヌが急に身近に感じられてきたのでした。

江戸幕藩体制と明治政府が、アイヌを大きく抑圧したということは間違いないようです。15世紀には、50万人いたアイヌが、島に連行され強制労働に従事させられた結果、一時、1万2千人まで減ってしまったのでした。

アイヌには、文字はなかったので、ユーカラでさまざまなことを言い伝えてきたようです。ユーカラの起源は、7世紀にまでさかのぼります。ユーカラは大きく分けて、神の物語、英雄の物語、人間の物語からなり、民話や昔話もあるとのことです。東アジア交易文化圏との関係で、ユーカラにも海外の地名が入っていることがあるようです。南米や北欧の地名が見出せるものもあるようです。ユーカラはイヨマンテと葬式のときに、おもに朗詠されたようですが、イヨマンテのときにはクライマックスで止めて、あとは家に来て続きを聞くという形になっていたけれど、葬式のときには死者に最後まで聞かせて送ったのだそうです。

イヨマンテと言うと、熊の魂送りと思いがちですが、必ずしも熊に限らないそうで、動物の魂送りと理解した方が正しいようです。



港さんのユカラ朗詠は、拍子を取りながら、淡々と穏やかに朗詠するスタイルで、短い神の物語が語られました。ユーカラは長いものになると2時間3時間を越えるものもあり、一人でなんと100以上もユーカラを伝承することもあるのだそうです。

アイヌでは、神と人間はまったく対等で、家の神が約束を守らないと、神をしかって、その神を解約するのだそうです。面白いですね。



最後の質問コーナーで、いくつか尋ねてみたんですが、ぼくが誤解していたことがありました。知里幸恵さんの「アイヌ神謡集」を読むと、四季が出てこないんですね。四季は暦の成立と関連があり、暦は農耕(その裏には租税体制としての広範囲な権力)と関連がありますから、アイヌのような狩猟民族(帝国を形成しない)には四季の観念はなかったのではないか。そう思っていたんです。川村さんに尋ねてみると、四季をあらわすアイヌ語はあるんですね。しかも、月ごとに捕れるもので、月の名前も決まっている。狩猟を主体とした生活ならではの四季の感覚が繊細にあったわけです。詩歌との関連で、この点に大変興味を持ちましたね。

今後も、アイヌ文化に継続的に関心を持ちたいなと思っているところです。

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