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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(7)

(写真)Bern

終日、ツェランと格闘した。既訳も参考にしながら、自分なりの解釈を打ち出した。これでいいとは思っていないが、一つの試みではある。




メイプスバリーロード
                パウル・ツェラン







一人の黒人女が歩み去る
おまえに残された
沈黙の合図

女の味方は
モクレン時間の半時計
どこかに意味があろうと
なかろうと
まだ赤にはならない

一つの盲管銃創をめぐる
完璧な時の中庭が
そのそば 知性のように

天に突き刺さる塔のような
酒 ともにする息

先延ばしされるな おまえよ



MAPESBURY ROAD

Paul Celan


Die dir zugewinkte
Stille von hinterm
Schritt einer Schwarzen.

Ihr zur Seite
die
magnolienstündige Halbuhr
vor einem Rot,
das auch anderswo Sinn sucht -
oder auch nirgends.

Der volle
Zeithof um
einen Steckschuß, daneben, hirnig.

Die scharfgehimmelten höftigen
Schlucke Mitluft.

Vertag dich nicht, du.





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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(6)

(写真)無題


想像してみよ



                     パウル・ツェラン

想像してみよ
マサダの埃だらけの兵隊が
刺だらけの有刺鉄線に対抗して
ぜったいに消えぬよう
祖国を目に焼きつけているのを

想像してみよ
姿がなく両目がない者たちが
人ごみの中を
意のままにおまえを案内しているのを
おまえはだんだん強くなる

想像してみよ
おまえ自身の手で
住むことのできる土地の
苦しんだその一部を
ふたたび人生へ持ち込むことを

想像してみよ
それが
埋葬できない者たちのところから
やってきたということを
永遠に名と手は目覚めたままで








DENK DIR


Paul Celan

Denk dir:
der Moorsoldat von Nassada
bringt sich Heimat bei, aufs
unauslöschlichste,
wider
allen Dorn im Draht.

Denk dir:
die Augenlosen ohne Gestalt
frühren dich frei durchs Gewühl, du
erstarkst und
erstarkst.

Denk dir deine:
eigene Hand
hat dies wieder
ins Leben emporßgGelittene
Stück
bewohnbarer Erde
gehalten.

Denk dir:
das kam auf mich zu,
namenwach, handwach
für immer,
vom Unbestattbaren her.



初出「COAL SACK 67号」
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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(5)

■旧暦11月14日、火曜日、

(写真)無題

最近、雲を撮るのが趣味になってきた。同じような風景はあるが、一つとして同じものはない。どこか俳句に似ている。早朝から仕事。午後、雑用、買い物。夕方から冬期講習。夜、白ワインを飲んで、馬鹿話をして、ひたすら、ぼーっとする。




EINEM BRUDER IN ASIEN


                            Paul Celan

Die selbstverklärten
Geschütze
fahren gen Himmel,

zehn
Bomber gähnen,

ein Schnellfeuer blüht,
so gewiß wie der Frieden,

eine Handvoll Reis
erstirbt als dein Frreund.




                            パウル・ツェラン


アジアの兄弟に


それだけで美しい
砲火は天をめがけ

十機の爆撃機は
大きく口を開ける

あっというまに火の花が開く
それは平和のように確かなこと

一握りの米は
きみの友だちとおなじように消える


初出「Coal Casck 65号」





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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(4)

(写真)無題

■同じく、コールサック64号に発表したパウル・ツェランの翻訳詩。これは、それほど自信がない。時間がなく既存訳とつき合わせて検討していない。誤訳があったら、許されよ。


DER REISEKAMERAD

Paul Celan






Deiner Mutter Seele schwebt voraus.
Deiner mutter Seele hilft die Nacht umschiffen, Riff um Riff.

Deiner Mutter Seele peitscht die Haie vor dir her.

Dieses Wort ist deiner Mutter Mündel.
Deiner Mutter Mündel teilt dein Lager, Stein um Stein.
Deiner Mutter Mündel blückt sich nach der Krume Lichts.



旅の道づれ

パウル・ツェラン




きみのお母さんの魂はそのさきをさまよっている
きみのお母さんの魂は
夜が暗礁また暗礁に乗り上げないようにしている

きみのお母さんの魂はきみのさきを泳ぐ鮫どもを鞭打っている

この言葉はきみのお母さんが後見人だ
それはきみとラーゲルを、石また石を、共有する
それは光のパン屑の方へ傾く




Sound and Vision



テキストはHenri Michauxだと思うが…。ヴィトルト・ルトスワフスキ
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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(3)

(写真)マーガレット




DER TOD

Für Yvan Goll |...|

Paul Celan


Der Tod ist eine Blume, die blüht ein einzig Mal.
Doch so er blüht, blüht nichts als er.
Er blüht, sobald er will, er blüht nicht in der Zeit.

Er kommt, ein großer Falter, der schwanke Stengel
schmückt.
Du laß mich sein ein Stengel, so stark, daß er ihn freut.







          イヴァン・ゴルに…
                         

                      パウル・ツェラン
                     

   死は花である
   たった一度しか咲かぬ花
   それなのに咲いてしまった
   彼のように咲いたものはない
   花ひらいた そう決めてすぐ 
   花ひらいたのは時の中ではない

   彼は戻ってきた 大きな蝶になって 
   細い枝には花々
   ぼくを一本の枝にしてくれ
   彼が喜ぶしっかりした枝に


■そう言えば、O君によれば、蝶と蛾は、英国でははっきり区別するという。日本と同じように、蛾の立場はかなり悪い。ツェランの詩を読むと、蝶と人間の魂には何か関係があるという感受性を感じさせる。ちょうど、日本の蛍がそうであるように。



Sound and Vision

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翻訳詩の試み:Paul Celanを読む(2)

■10月29日、水曜日、

(写真)ひと休み

昨日、ざっと、ウォーキング入門という本を読む。さっそく、買い物は、ウォーキングであった。かなり気分の良いものである。帰りは、買い物袋がダンベル代わりになったが。午前中が効果的らしいので、今日も、仕事が一段落したら、江戸川の土手に赴く。膝の靭帯が弱いぼくとしては、この運動は、なかなか重宝である。奥も深そうだ。




EIN AUGE, OFFEN
Paul Celan

Stunden, maifarben, kühl,
Das nicht mehr zu Nennende, heiß,
hörbar im Mund.

Niemandes Augapfeltiefe:
das Lid
steht nicht im Wege, die Wimper
zählt nicht, was eintritt.

Die Träne, halb,
die schärfere Linse, beweglich,
holt dir die Bilder.



                   パウル・ツェラン

片目は開いたまま



時間は五月の色に冷たく染められて
もはや名づけようのないものが熱く
口の中で聞こえる

ふたたび だれでもない者の声

目の奥が痛む
瞼は
防がない 睫毛は
入ってくるものを拒まない

涙は半分
鋭い水晶体がよく動き
おまえに画像を焼きつける


■はじめ、原文を読んだときには、秘教の呪文のようで、謎めいていたが、既訳を参考に何度か読み直し考え直した結果、ぼくなりの解釈を打ち出すことにした。過去と未来の戦争が二重写しになって瞳に焼きつくかのよう。



Sound and Vision

Glenn Gould.Prokofiev.Piano Sonata No.7,Op.83. Allegro.
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日本語の散文について2 朗読を前提に考える

日曜日、。子どもが旅行に行くのを早朝、家人と見送る。体調が今ひとつなので、心配している。午前中、眠。午後、掃除。二週間ぶりに、自室の掃除もしたので気分すっきり。掃除と脳とはなにか関連がある? 部屋を片付けると、頭もすっきりする。



日本語の散文について、どう書くべきか、いろいろ、考えていたときに、尊敬する翻訳家、山岡洋一先生の文章に出会った。ここには、論理を伝える翻訳の日本語をどう書くべきか、一つの指針が示されている(『翻訳通信』2007年1月号)。

まず、重要な論点から見てみたい。

○(翻訳文を)日本語らしくというのも、じつはきわめて危ない見方です。「よどみに浮かぶうたかた」や「行きかふ年」の例からあきらかなように、直訳調とみられているものが日本語らしい文章だったりするのです…。(『同通信』p.4)

■関係代名詞の構文を後ろから前に訳出すると、恐ろしく修飾語の長い不自然な日本語になることが多い。そのため、一般に、関係代名詞の部分は、換骨奪胎して、自然な日本語に直すのがいいという常識がある。確かに、実際に翻訳していて、この常識は、当てはまることが多い。しかし、山岡さんは、これを絶対化するなかれと言っている。芭蕉の『奥の細道』や鴨長明の『方丈記』を英訳したドナルド・キーンの訳を検討し、この常識が当てはまらない例を提示している。

The years that come and go are also voyagers.

行かふ年も又旅人也。

The bubbles that float in the pools, now vanishing, now forming, are not of long duration: so in the world are men and his dwellings.

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

関係代名詞が単純ではないか、という向きもあるかもしれない。しかし、問題は、単に後ろから前に訳出することではなく、いかに訳出するかである。原文の日本語を翻訳調という人はまずいないだろう。

○…翻訳というからには、外国語でかかれた文章から優れた点を学ぶのが使命です。学ぶもののひとつに、外国語の文体や表現があります。外国語の文体や表現を学び、日本語に取り入れて、日本語を豊かにしていくのが翻訳者の使命のひとつなのです。日本語らしさを強調しすぎると、この使命を果たせなくなるでしょう。(『同通信』p.4)

■この論点は、ベンヤミンの「翻訳者の使命」に通じることろがあるように思う。この点にもっとも鋭敏なのは、たぶん、翻訳者よりも作家だろうと思う。しかも、二つの言語の間を行き来しながら創作している作家。たとえば、多和田葉子さん、リービ英雄さん。作家に比べると、翻訳家の日本語実験は若干保守的に見える。この問題は、「一般に専門家は保守的だ」という命題で説明できるのか。創作と翻訳の違いなのか。

○論理を伝える翻訳を仕事にしている関係で、いまの翻訳の文体では論理を十分に伝えられないと思える点が問題だと考えています。…日本語は論理的な言語です。ある部分では、たとえば英語とは比較にならないほど論理的だと思えるほどです。ですが、現在の翻訳の文体では、英語などの欧米の言葉で書かれた論理を十分に伝えられない場合があります。原文の明快な論理が、訳文では十分に伝えられないことがある、ここに問題があるのです(『同通信』pp.4-5)

■ぼくも、翻訳の末席を汚す者として、この意見は、実感としてよくわかる。

○いわゆる口語体は明治の原文一致運動からはじまったものですから、言と文が近いように錯覚されていますが、実際には話し言葉と書き言葉の完全な隔絶を生み出しています。誰も、話すようには書かないし、書くようには話さない、そのために、話し言葉が堕落し、書き言葉が堕落しているのが現状ではないかと思います。千鳥足のように迷走し、一読しただけでは意味が理解できない訳文が生まれるのは、この言文不一致のためでもあるはずです。朗読されることを前提にすれば、耳で聞いただけでは分からないような複雑な文章にはならないだろうし、文章のリズムや美しさ、力強さといった点にもっと配慮するはずです。

■朗読を前提に散文を書く! これは、実は、ぼくも、あるとき、家人に、自分の訳文を読んでもらって、「自分だけでわかっている。読者を馬鹿にしている。専門用語がわからないとわからない」などなどというショッキングな感想を聞かされて、考えた末に取った方法が、自分の訳文を朗読して推敲するという方法だった。しかし、また、このごろでは、黙読で推敲している自分がいる! 

俳句を作る経験を通じて、詩がテキストを前提に書かれているという反省に至った。その結果、詩は、すべて、朗読を前提に書くようになった。しかし、散文まで、この考え方を徹底するところまでは行っていない。山岡先生が示唆している方向性を、論理を伝える翻訳文体だけではなく、日本語の書き下し文にも、徹底させながら、以下の問題を考えていきたいと思っている。

・言文一致運動の背景
・言文一致運動が言文不一致を生み出したメカニズム
・黙読はいつから誕生したのか
・黙読の社会的な意味
・朗読を前提にした散文では表現できない論理(あるいは問題)はあり得るか
・あり得るとしたらどういう場合か、そのときの条件は何か













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リア王

火曜日、

今日は、午後から、仕事の打ち合わせで六本木に出かけた。新年から、日本文化を英語で発信する英文雑誌の編集・執筆を行うことになった。日英翻訳は、ぼくにとって、未知の領域であるが、ずっとやってみたかった仕事の一つであり、分野も、まさに、俳句や詩の関心が活かせるものである。週の前半は、六本木で仕事をして、後半は自宅で、出版の翻訳作業をする体制になる。数えてみたら、外に働きに出るのは、なんと11年ぶりである。緊張と喜びの入り混じった年明けとなった。



光文社が古典新訳文庫シリーズを昨年から出している。仕事上、大変興味をもっている。哲学・社会科学を中心に4冊ほど、購入したのだが、現在、安西徹雄訳の『リア王』を集中的に読んでいる。

評価する向きもあるけれど、正直にぼくの感想を言うと、この翻訳はあまり良くない。良い良くないを判断する基準は、過去のリア王の翻訳との比較ではなく、書き下された日本語戯曲との比較であるべきだとぼくは思っている。

いくつか具体的に指摘してみると、

リア王「…わが婿たるコーンウォール、それに、同様に、父たるわたしを気遣ってくれるオルバーニー…」

日本語の脚本家が「それに、同様に」という書き言葉を使うだろうか。この言葉を使うとせりふが間延びしないだろうか。

コーディリア「この若さだからこそ、真実を申せるのかも

ここだけ、今風の語尾を使うと、奇妙に浮いてしまわないだろうか。

リア「統治、歳入、その他、大権の行使はすべて、今やおぬしら二人のものだ」

官僚の言い回しではないだろうか。

リア「…それを、貴様、あえて傲岸不遜にも、わが宣告と大権のあいだに割って入ろうとしおった…」

四字熟語を使うと、書き言葉にならないだろうか。

読んでいると、こういう細かい箇所が一つ一つ気になってくるのであるが、ぼくが一番、がっかりしたのは、道化の造形である。この訳文の造形では、価値の逆転者としての道化の高貴さがまるで出てこない。言葉遣いが汚くとも、真理に触れる精神の高貴さは出ると思うが、この訳文では、まるで低いだけの人間造形になってしまっている。

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翻訳された俳句(17)

土曜日、。冷たい冬の雨。旧暦、10月19日。



(原句)

蚤虱馬の尿する枕もと   (奥の細道)

(ドイツ語訳) ディートリッヒ・クルシェ訳

Floehe, Laeuse-
die Pferde pissen nahe
bei meinem Kissen.


(日本語訳)

蚤虱-
馬がわたしの枕もとで
ゆばりしている。

(英語訳) ドナルド・キーン訳

Plagued by fleas and lice,
I hear the horses staling
Right by my pillow.


(日本語訳)

蚤や虱に悩まされ、
枕もとでは
馬のゆばりする音が聞こえる

■原句の構造をまず、検討してみたい。「蚤虱馬の尿する枕もと」は、詠んでいる素材は、一つである。芭蕉が宿泊した封人(国境を守る人)の家の様子を「枕もと」に託して描写している。したがって、一物仕立ての句である。同時に、形式的には、「蚤虱/馬の尿する枕もと」で切れる。この切れは取り合わせの切れではなく、音楽の切れである。

クルシェのドイツ語訳を見ると、音楽の切れに忠実に訳出していることがわかる。「Floehe, Laeuse-」の「‐」にそれが現れている。一方、キーンの英語訳は、この句の伝えようとしている意味を忠実に訳出している。ある意味で、この句の解釈をそのまま英訳している。確かに、芭蕉は蚤虱に悩まされていた。「Plagued by fleas and lice,」そして、その家には、飼われている馬が同じ屋根の下にいて、ゆばりする音が聞こえてくる。「I hear the horses staling」(当時、奥州地方の農家では、母屋内に馬を飼っていて、人馬同居する風俗だった)

クルシェのドイツ訳は、近代の客観写生の俳句のように、物を物として突き放して訳している。キーンの英語訳は、解釈が入り説明臭くなっているが、句の根幹に横たわる「わたし(I)」の存在を浮き立たせている。キーンの方がクルシェよりも、欧米には、三行詩として受け入れやすいのではないか。ただ、俳句の特質をそのまま維持するとしたら、クルシェの訳も捨てがたい。「俳句の文法」が日本語の文法と密接に関係しているだけに難しい問題かもしれない。
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翻訳詩の試み(13)

金曜日、。洗濯物がよく乾いた。旧暦、10月4日。

午後、買い物に出たときに、司馬遼太郎の対談集『日本語の本質』を衝動買い。ぺらぺら読んでいたら、詩人の小野十三郎がソ連と北朝鮮から来た詩人を歓待したときに、二人にこう言われたのだという。「小野先生は、日本の代表的な詩人ですから、一つ自作を歌ってください」小野十三郎は困ったらしい。日本では、詩は歌うものじゃなく、テキストとして読まれるものだからと。ソ連と北朝鮮の詩人は朗々と自作を歌ったという。

これは、示唆的ですね。小野十三郎が現代詩の一つの源流になっていることを示しているだけではなく、現代詩がテキスト中心になってきたことと共同体から詩人が離れ孤立してしまったことが関連するようで。もちろん、近代詩やそれ以前に単純に戻って、歌えればそれでいい、というものじゃなく、現代詩の成果を踏まえて、これをaufhebenすることが必要だと思いますが。

この対談は、中世歌謡や俳句、日本語の起源など、興味深いテーマが目白押しで、楽しめそう。





COAL SACK』に毎号、発表しているアファナシエフの詩の翻訳の一次稿ができたので、アップしたい。


BEETHOVEN'S POSTHUMOUS WORKS

                      Velery Afanassiev

No sign forewarned them of multiple pile-up.

There was no eclipse of the sun.
The air was sweet.
Even the stars were propitious.
Everybody said, "Have a nice trip"
(By various little economies
they had manage to save enough money for a holiday.)

The voice on the radio forecast happiness.
There was a good clear strech
of motorway.They landscapes
smiled back at them, friendly and harmless.
At a petrol station they listened in bliss
to the final movement of Beethoven's Ninth.
(They didn't depart until it had finished.)

An hour later they heard
Beethoven's Tenth and also
his Seventh Piano Concerto.



ベートーヴェンの遺作

                         ヴァレリー・アファナシエフ

玉突き衝突の危険を示すような兆しはなかった。

太陽は少しも欠けていなかった。
大気は甘かった。
星まわりも良かった。
だれもが「よい旅を」と言ってくれた。
(いろいろ倹約して、なんとか休暇のお金を用立てたのだった)

ラジオの声は幸福を予感させた。
ハイウェイは見事なくらいまっすぐ伸びていた。
風景は親しげに、無邪気に微笑み返してくれた。
ガソリンスタンドで、
ベートーヴェンの第九の最終楽章を至福のうちに聴いた。
(音楽が終わるまで出発しなかった)

1時間後、
ベートーヴェンの交響曲第10番と
ピアノ協奏曲第7番を聴いたのだ。


■10番はわかるとしても、ピアノ協奏曲は全部で5曲だから、7番というのは? この詩はアファナシエフにしては、「怖さ」があまりない。しかし、考えてみると、10番と7番を聴くこと自体、怖いと言えば怖い。アファナシエフの詩は、洗練されたディープさがあって、蕪村の俳句と近いように感じる。
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