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飴山實を読む(61)

■旧暦4月27日、土曜日、

(写真)どくだみ

朝、散歩。非常に寒い。しばし、雨の中を歩き回る。この時期、いろいろな家で、玄関先や階段に花の鉢を出しているので楽しい。杉浦日向子の『風流江戸雀』と『合葬』を続けて読む。「風流」は前後を古川柳で挟んだ短い漫画からなる短編集で、江戸庶民の生活の質感や手触り、呼吸が伝わってくる。『合葬』は、維新直後の障義隊の悲劇を描く。面白いけれど、武家がおもな登場人物なので、やや生彩に欠けるように感じた。



じぶ食へばたちまち加賀の雪景色

じぶ煮。金沢の郷土料理。食べたことはないが、美味そうである。句全体の言葉の運びに惹かれた。「加賀の雪景色」という措辞で、兼六園のような日本庭園の雪景色が目に浮かんだ。「たちまち」という措辞は、短時間で大量に降る雪国の雪の降り方を示しているようで、面白い。
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芭蕉の俳句(179)

■旧暦4月26日、金曜日、

(写真)立ち葵

毎日、時間に追われるので、息抜きしないとやっていられない。息抜きは、朝の散歩と決めている。ボーっと何もせず、ただ歩いて、気に入った風景をデジカメに収める。ときに俳句を作る。無心に歩いていると、歩くことはただ歩くこと以上の意味があるように感じるときがある。過去を遡っているような気分になることがある。




生きながら一つに氷る海鼠かな
  (続別座敷)

■元禄6年作。この句は、以前から、対象の把握の仕方に凄味を感じていた。楸邨に雉子の眸のかうかうとして売られけりがあるが、芭蕉の句の系譜にあるように感じる。両者ともに、対象を非情な眼差しで捉えているが、そこに対象の命のありようばかりか、人間の命のありようが現われていて、とても惹かれる。
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飴山實を読む(60)

■旧暦4月25日、木曜日、

(写真)早苗田

朝から雨である。ぼーっとするために、これから朝の散歩である。



水走る音に覚めたる鴨の宿

■「水走る音」という措辞の新鮮さ、「鴨の宿」という出てきそうでなかなか出ない言葉に惹かれた。鴨の泳ぐ川か沼地に近い宿なのだろう。「水走る音」というのだから、相当、降水量が多いのだろう。

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芭蕉の俳句(178)

■旧暦4月23日、火曜日、

(写真)初夏の豆腐屋

「ガイアの知性」という考え方をご存じだろうか。先日、中学生に国語を教える中で、初めて知ったのだが、鯨や象は、大脳新皮質の大きさと複雑さから言って、人間と同じレベルの精神活動が可能というもので、人間の自然を支配しようとする「攻撃的な知性」に比べ、鯨と象の知性は「受容的な知性」で自然の多様な営みを繊細に理解し、これに適応するために使われているという。「ガイアシンフォニー」をシリーズで撮っている龍村仁さんの文章にある言葉である。人間はもっと象や鯨に学んで、「ガイアの知性」に進化しなければならない。これが龍村さんの主張だ。

鯨や象の生き方は、人間の言葉で言えば、「伝統的な生活」に近いように思う。人間の場合も、中東の一部や西欧世界をのぞけば、多くの「伝統的な生活」が自然に近いところで、環境破壊などとは無縁に営まれてきたのは確かだろう。俳句や短歌や詩を読むと、日本人の感性の中にも、日本語として、その痕跡が残されている気がする。地球のことなど眼中になく、欲望の増殖を無限に行い、すべてを商品化して貨幣しか価値基準を持たず、失業や過労というシステムの問題を個人的な運命に転化して平然としている「近代の生活」は、確かに異常だと思う。龍村さんの指摘する「ガイアの知性」の実現は、「伝統的な生活」に戻ることではなく「伝統」と「後期近代」をともに止揚したとこころに見えてくる世界だと思うが、後期資本主義システムの根本的な変更なしには、難しんじゃないだろうか。

この文章には、人間がイルカに名前を付けて覚えさせると、逆に、イルカの方でも人間にイルカ語で名前を付けて、うまく人間が発音すると、プール中を跳ねまわって喜んだ話や、象が、人間の収集した骨の中から肉親の骨だけ見分けて、元の場所に戻した話など、興味深い話が載っている。



雑炊に琵琶聴く軒の霰かな   (有磯海)

■元禄6年作。比喩が面白くて惹かれた。「琵琶聴く軒の霰かな」は霰の音を琵琶に喩えたものだが、現代人の感覚では、琵琶の音と霰の音の取り合わせにも読める。たぶん、こういう省略された直喩はなかなか理解されないんじゃないだろうか。「雑炊に」という措辞で、生活の質感が出ている。霰と琵琶の音は、どうしてつながるのか、不思議に思って、調べてみると、白楽天が流謫中に作った詩に、琵琶の音をにわか雨に喩えたものがあり、この詩が響いていると思われる。芭蕉自らも、流謫の身とふと思ったのかもしれない。
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飴山實を読む(59)

■旧暦4月22日、月曜日、

(写真)神木

通勤するようになって、気づいたことがある。車中、読書するひとの本は、それが単行本の場合、たいていが図書館から借りたものである点だ。読書する人は、書店で買い求めず、図書館を利用しているケースが多いのではないだろうか。そこで、ふと思ったんだが、出版社と図書館、作家と図書館の新しい関係を模索する時期に来ているんじゃないだろうか。たとえば、図書館は、新刊を告知すればいいのではなく、時代的な要請にかなった本を独自の視点で推薦することがもっとあっていい。本が売れないということは、本が読まれないということでもあるのだから、図書館と出版社が共同で、読む仕掛けを考えてもいいんじゃないだろうか。たとえば、作家や詩人の朗読会というのは、東京など大都市のカフェやバー、小規模なイベント会場などで行われているが、これを地域の図書館でやったらどうか。朗読という行為が、一部の人のものから、地域に開かれたものになるんじゃないだろうか。その結果、その作家や詩人に興味を持つ人が増えるかもしれない。あるいは著者のミニ講演会やワークショップを図書館で行ってもいいのではないだろうか。




やはらかな雨足ばかり鳰の海


■琵琶湖に降る雨の様子を「やはらかな」と表現していて、雨脚が見えるようで惹かれた。「鳰の海」は琵琶湖の別称。鳰は、冬の季語。この句には、季語がないが、「鳰の海」の鳰から、さらに、前後に収録された句から冬12月頃の雨と思われる。
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芭蕉の俳句(177)

■4月20日、土曜日、

(写真)下り特急

朝から蒸し暑い。だるい。仕事に煮詰まると、部屋の中で腹筋運動やダンベル体操をしている。けっこう、気分転換になる。煮詰まる回数が多すぎで、筋力がついてしまった!



菜根を喫して、終日丈夫に談話す
武士の大根苦き話かな

■元禄6年作。武士(もののふ)。比喩の仕方が面白くて惹かれた。現代なら、「武士の苦き話は大根のごと」とか、直喩的な言い回しになるのではないだろうか。芭蕉は、いきなり「大根苦き話かな」と続けている。楸邨によれば、「苦き話」は苦い話といった否定的なニュアンスではなく、話の質実なありようを感覚的に言ったもの。

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飴山實を読む(58)

■旧暦4月19日、金曜日、

(写真)流山鉄道若葉号

外の空気が気持ちいい朝である。自律訓練法をしてドイツ語会話を聴く。

アファナシエフ氏より承諾の連絡があった。これで、一応、詩集が世に出る条件は整った。氏は、この5年に書いた作品にも気に入ったものがたくさんあるので、検討して欲しいとのことで、未発表の最新作品も翻訳することになった。訳者としては、これにまさる喜びはない。




うすらひや翳のたゞよふ水の餅


■「うすらひ」で冬。水の中で餅が漂い翳るという発想に惹かれた。


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芭蕉の俳句(176)

■旧暦4月18日、木曜日、

(写真)葉桜や又おそろしき道となり  暁台

金にならないことに夢中になるという悪い癖がある。今、6月上旬が締め切りの英詩を暇なときに考えている。まったく生まれて初めての経験なので、面白い。漠然としたコンセプトや短いフレーズは出てくるのだが、さてそれをどう詩にするのか、皆目見当がつかない。日本語にしてから英訳しようという気はなぜか起きない。



古将監の故実を語りて
月やその鉢の木の日の下面


■元禄6年作。一読意味がわからなかったが、わかってみると、非常にいい句ではないかと思えてきた。「鉢の木」は能の「鉢の木」。「下面」は「直面」の訛。月を見て、その同じ月が照らしだしていた能舞台を思い出したということで、月が追憶の契機になっている。「その鉢の木の日」という措辞が過去の能舞台を呼び出してくるよう。
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飴山實を読む(57)

■旧暦4月17日、水曜日、 小満

(写真)歩く人

サイバーが難航している。出版の仕事は、ひとつひとついい仕事をして評価を得ていくしか、道は開けてこない。一方で、困難な仕事ほど、モチベーションを維持管理するのが難しい。何の身分的保障もないし、その上、本は売れないのだから、「好きじゃないとできない」どころじゃないのである。この手の本の翻訳が、今までアカデミーに独占されてきたのは、それなりの社会経済的な理由があるのだ。学者でない者が翻訳するのだから、外書講読のノリで訳出された本とは違ったものにしないと意味はない。孤独な戦いである。




しのゝめにいづこの誰のいかのぼり


■「いかのぼり」で新年。明け方に凧を揚げている。その風情は、絵のようである。明け方に凧揚げを思いつくとは、なんと風流な人なんだろう。だれかに見てもらうためではなく、凧自身のために揚げているようではないか。
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芭蕉の俳句(175)

■旧暦4月16日、火曜日、

(写真)定位置

夕方、I社から短納期のオファーがあったが断る。産業翻訳は、基本的にはもう受けないスタンスで行くつもり。これをやっていると、いつまでも本の翻訳が進まない。




幾秋のせまりて芥子に隠れけり
  (翁草)

■元禄6年作。いくつもの秋が芥子の実に隠れている、という発想に惹かれた。
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