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Cioranを読む(99) Hegel et nous(8) 1932


■旧暦2月6日、月曜日、

(写真)2月尽

結果がどのようなものになったのか、まだよく見渡せないが、一つの山を越えたのは確かなようだ。新しい峯がはっきり見えてきたから。何重にもストレスがかかって、かなり厳しい局面の連続だった。今度は、目のまえのその峯を登らないといけない。気力は十分であるが、体力が怪しい。

今日は、非常に寒かった。石油ストーブを出してきた。

ショスタコーヴィチという人がどうもよくわからない。わからないのに、というか、わからないから、気になる。そんなことってないだろうか。れっきとしたクラシックなのに、映画音楽みたいに通俗的でゆるいところに、反発を感じるのだが、他方で、全体的に見て、人間の多様性・多面性・矛盾が集約されていて、なんだか、鏡を見ているような気分にもなってくる。そういう気持ちでいつもいたので、アレクサンドル・メルニコフがショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87を全曲演奏する、というリサイタルを知って、即、出かける気になった。全曲演奏して3時間は超えていたろうか。演奏は素晴らしかった。スタンディングオペレーションと拍手が鳴りやまない。曲全体を聴いて思ったのは、この作曲家は、喰えんオヤジだというのが正直なところである。ショスタコーヴィチは、よく言えば、音楽のモラリスト、悪く言えば、事情通である。隣の若い男の子が、手でリズムをとりながら、楽しげに聴いていたが、そうした無邪気な楽しみ方が、ある意味で「現代人的な」作曲家のためには、いいのかもしれない。一つ、はっきりしていることがある。それは、好きかどうかは別にして、今後も、ショスタコーヴィチを聴き続けるだろうということである。鏡の隣人、ショスタコーヴィチ。



Le fait que la pensée philosophique de notre époque se tourne vers la dialectique (Kröner, Jonas Cohn, Liebert, Litt, Heidegger, etc) prouve qu'il est nécessaire de dépasser une pensée rigide, purment analytique, qui enferme la connaissance dans une sphère improductive. La dialectique est un processus synthétique et productif. La progression synthétique et dialectique ne doit pas être entendue dans un sens formel. La dialectique part d'une transcendance du formalisme, mais pas du schématisme, car celui-ci peut avoir une fonction concréte. Le formalisme est toujours transcendant; le schématisme a une immanence concrète.    Cioran Solitude et destin(1991) p. 166

われわれの時代の哲学的思考が、弁証法を志向しているという事実(クレーナー、ヨーナス・コーン、リーベルト、リット、ハイデッガーなど)は、ただ硬直的に分析するだけで、知識を不毛な領域に閉じ込めてしまう思考を乗り越えてゆく必要があることを示している。弁証法は、統合と生産のプロセスである。統合的で弁証法的な展開は、形式的な意味で理解してはならない。弁証法は、形式主義の超越性から出発するが、それは図式主義ではない。というのは、図式主義は、具体的な機能を持つからである。形式主義は常に超越的だが、図式主義は具体的な内在性のことである。

■形式主義と図式主義を、こういう区分で分けているのは、面白いと思った。だが、形式が超越的なだけで、機能を持たない、という考え方は、どうなのだろうと思った。つまり、形式は理念的・超越的であるがゆえに目的定立行為と関連する。その意味で、使用目的がある。形式と図式を分けるのは難しいように思うのだが。この後の展開が楽しみである。
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Cioranを読む(98): Hegel et nous(7) 1932


■旧暦2月4日、日曜日、

(写真)無題

今年は、鴨長明の「方丈記」成立800年になるらしい。徒然草は、中高生を教えていると、よく出てくるから、なじみ深いし、自分でも好きなテキストなので、手元に置いて、読んだりもするのだが、「方丈記」はそれほど、読んでいない。1212年3月末に脱稿したことがわかっている。長明58歳。清盛や西行と同時代人。当時は、保元・平治の乱、洛中大火、竜巻、飢餓、疫病、元暦の大地震など、天変地異が頻発していた。大地震・津波、原発事故、放射能汚染と続き、今なお、大規模地震が予測されている今と重なる。ここで、描かれた死者たちは、過去の死者であるが、今の死者でもあり、将来の死者でもあるのだろう。テキストはここから>>>

『モンテーニュ―「エセー」の魅力―』を読んでいる。生活に困らない金持ちの貴族が悠々自適の生活の中で、書いた書物、という実につまらない認識しかなかった己を恥じる。その人生の戦いぶりに感動して涙が出そうになった。モンテーニュには、ユダヤの血も入っている。これは、社会を見る上で、大きかったのではなかろうか。国家横断的な存在は、差別も受けるが、それが弱者へのまなざしともなり、なにかに凝り固まらず寛容な心を維持できたのかもしれない。この本を読んで、紀伊国屋書店へEssaisを買いに走ったのだが、フランス本の売り場の前で、行きつ戻りつして、Essais3巻を何度も手にとって、結局まだ、その機が熟していないと判断して、買うのを見送った。まずは、関連本や日本語版を読んで周囲から攻める...。



Il en est le dernier grand philosophe. Ensuite s'amorce la décadence. Ce qu'Aristote est à la culture antique, Hegel l'est à la culture moderne. Cette affirmation ne s'appuie pas sur une adhésion personnell à un système, mais sur une évaluation qualitative des valeurs culturelles, en fonction de leur structure, sans subjectivité. Hegel a été le dernier à réunir dans une conception unitaire tous les domaines d'objectivation de l'esprit. Non qu'il les ait tous connus; mais il les a tous marqués subjectivement. En cela consiste l'universalité qui, dans le cas de la création philosophique, ne peut exister que liée à un centre de vie subjectif.     Cioran Solitude et destin(1991) p. 165

ヘーゲルは最後の大哲学者である。その後始まったのがデカダンスである。アリストテレスは古代の文化に属するが、ヘーゲルは現代の文化に属している。こう断言するのは、哲学体系を個人的に支持しているからではなく、主観抜きにその哲学構造を考えてみたとき、文化的な価値が質的に評価できるからである。ヘーゲルは、精神の客体化された領域全体を、統合された一つの概念にまとめ上げることのできた最後の哲学者だった。それは、ヘーゲルが領域全体に精通していたからではない。主観的に、全体を強調したのである。哲学的創造の場合には、主観的な命の中心に結びつくことなく、哲学的な宇宙は存在しないのである。

■実に感動した。生の哲学の系譜と言えば言えるけれど、そうした学説史的な整理とは違ったところで、ヘーゲルの生き生きした部分を感じ取っている。une conception unitaire(統合された一つの概念)に収まりつかないものが、概念の周囲に漂っているような感じがする。たとえば、ヘーゲルのReflexionsbestimmungen(反省的諸規定)という概念。これほど、深くて広い言葉に、これまで出会ったことがない。





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Cioranを読む(97): Hegel et nous(6) 1932


■2月1日、水曜日、

(写真)春の雲

今日が旧暦では2月1日だとすると、やはり、新暦2月の厳寒なイメージと違って、春が実感されてくる。節分もやや明るい日差しと艶やかな宵闇の中で行われていたのだろうから、福も春とともに入ってきそうではないか。もっとも、江戸や上方の気候では、ということになるが。

Letters of Noteという面白いブログがある。アーティストや文学者、科学者の手紙を背景の解説とともに掲載している。英語の手紙だが、書いた人の息遣いが伝わってきて、読んでいて、楽しい。ニルヴァーナのカート・コバーンが、敬愛するウィリアム・バローズに宛てた手紙など、これがあのカート・コバーンか、と思えるくらい丁寧で敬意にあふれている。手紙は、特定の他者に宛てられた「社会的」なものであるから、「作品」として扱われる、という話も納得できる。カート・コバーンの手紙はここから>>>

ホットスポットから脱出すべく、いろいろ、動いているが、状況は依然、厳しい。まだ、トンネルの先が見えない。



Quant à nous, puisque nous nous intéressons aux affinités de la philosophie contemporaine avec la philosophie de Hegel, nous devons porter sur celle-ci un regard extérieur, transcendant, et préciser le sens de la dialectique, de l'historisme et de l'esprit objectif, autant d'éléments qui font l'actualité de l'hegélianisme. Mais, d'abord, quelle est la signification ou, plutôt, quelle est la place de Hegel dans la culture moderne. Cioran Solitude et destin(1991) p. 165

われわれは、と言えば、ヘーゲル哲学と現代哲学の共通性に関心を寄せる以上、ヘーゲル哲学を、超越的な対象として捉えるまなざしを確保しければならないし、弁証法や歴史主義、客観的精神の意味やヘーゲル主義の現在性を形作る諸要素を明らかにしなければならない。だが、この哲学の重要性はどこにあるのか、言いかえれば、現代の文化の中でのヘーゲルの位置づけは、どうなるのか、まずは、その点が問われなけれなならない。

■しごくまっとうな問題設定だと思う。ヘーゲル哲学のアクチュアリティの興味があるので、今後の展開が楽しみである。
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Cioranを読む(96): Hegel et nous(5) 1932


■旧暦1月28日、日曜日、、雨水

(写真)無題

ベルリンフィルのデジタル・コンサートホールを見ていたら、ソフィア・グバイドゥーリナ(1931-)のインタビューを見つけた。著名な現代音楽家だが、映像で観たのは初めて。旧タタール共和国出身で、現在、ドイツ在住。インタビューはドイツ語で行われているが、英語の字幕付き。映像はここから>>>

ジャクソン・ポロックが、ずっと気になっている。TO A VIOLENT GRAVE: AN ORAL BIOGRAPHY OF JACKSON POLLOCKを古本で取り寄せて、途中まで翻訳して、放棄したままになっている。なぜ気になるのか、自分でもよくわからない。この画家の革新性と自己破滅ぶりに惹かれるのかもしれない。読むと妙に安心するのだ。英語は、ポロック周辺の人物の証言が中心なので、きわめて具体的で、日本語に翻訳するのは、骨が折れる。週末だけでも、ぼちぼち、取り組みたいと思っている。



Grâce à sa vision dynamique du monde, à sa conception de l'inconsistance des formes de la vie et à son intuition de l'antinomie qui est à l'origine de l'existence, il s'est éloigné du style, de la forme figée que représente le type classique, pour se diriger vers les perspectives romantiques de la vie. On ne saurait sans doute mieux définir le dualisme classicisme - romantisme qu'en disant que le premier cultive la forme et le second la perspective. Une intuition claire permet de comprendre pourquoi le classicisme a des affinités avec le rationalisme, et le romantisme avec l'histrisme. Cioran Solitude et destin(1991) p. 165

ダイナミックな世界観、一貫性を拒否した生の諸形式の概念、もともとある二律背反に対する直観。こうした特徴があるために、ヘーゲルは古典が体現する固定した形式やスタイルを免れ、ロマン的な生の見方を実現できている。古典主義は形式を鍛え、ロマン主義はものの見方を鍛えると言ったところで、たぶん、古典主義とロマン主義の違いをうまく説明したことにはならないだろう。透徹した直観を用いれば、なぜ古典主義が合理主義と親和性が高く、なぜロマン主義が歴史主義と親和性が高いのか、理解できる。

■いよいよ面白くなってきた。ヘーゲルを生の哲学者と観る見方は、非常に斬新で親しみさえ感じられる。ルカーチなどの、ヘーゲルの存在論的解釈とどういう関連性を持ち得るのか、その点に注目してみたい。ルカーチも、もともとはニーチェ主義者から出発している。
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Cioranを読む(95): Hegel et nous(4)1932


■旧暦1月25日、木曜日、、日蓮上人誕生会

(写真)無題

松戸市の「除染実施計画(案)」が発表されたので、意見と具体的な提案を3つほど行う。計画目標の項目を読むと、実施時期と終了時期が全体的に遅い。市の担当者によると、調査認定地域に認定しておきながら、国の予算も、非常に少ないらしい。ぼくの提案は、市役所の中に、放射線対策室を設けるというような小手先の対策じゃなく、一時的に、組織全体を除染に特化した形に大胆に再編成することを、メインにしている。市長の政治判断で行うべきだと思う。目に見えないが、前代未聞の緊急事態なのだから。



善は神に由来するとキリスト教では説明される。次の言葉は、Facebookで紹介されたものだが、アメリカ的価値観も垣間見えるものの、神に由来するような、神々しさを湛えている。マザーテレサが、カルカッタの「孤児の家」の壁に貼っておいたという。この言葉の作者は、ケント・M・キースという1949年生まれのアメリカ人。60年代の変革の時代に生まれた言葉のようである。

逆説の十か条

1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
  それでもなお、人を愛しなさい。
2. なにか良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。
3. 成功すれば、うその友達と本物の敵を得ることになる。
  それでもなお、成功しなさい。
4. 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。
5. 正直で率直なあり方は、あなたを無防備にするだろう。
  それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6. 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
  それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7. 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後ろにしかついていかない。
  それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8. 何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れさるかもしれない。   
  それでもなお、築きあげなさい。
9. 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると 攻撃されるかもしれない。
  それでもなお、人を助けなさい。
10. 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
  それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

The Paradoxical Commandments
Finding Personal Meaning In a Crazy World
by Dr. Kent M. Keith

People are illogical, unreasonable, and self-centered.
Love them anyway.

If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives.
Do good anyway.

If you are successful, you will win false friends and true enemies.
Succeed anyway.

The good you do today will be forgotten tomorrow.
Do good anyway.

Honesty and frankness make you vulnerable.
Be honest and frank anyway.

The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds.
Think big anyway.

People favor underdogs but follow only top dogs.
Fight for a few underdogs anyway.

What you spend years building may be destroyed overnight.
Build anyway.

People really need help but may attack you if you do help them.
Help people anyway.

Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth.
Give the world the best you have anyway.



Quand aux auteurs d'aujourd'hui qui, comme Hugo Fischer, le situent dans le type classique, ils font erreur. Rappelons que toutes les constructions typologiques, malgré leur relativité, reposent sur la primauté de certaines fonctions, ce qui implique une adaption aux particularités concrètes de l'individualité.Hegel est dépourvu de lélément essentiel du type classique: le sens de la mesure, qui permet de vivre dans des formes limitées, selon un style. Cioran Solitude et destin(1991) pp.164-165

今日の作家について言うと、たとえば、ヒューゴ・フィッシャーのように、ヘーゲルを古典に分類しているが、これは間違いである。あらゆる類型化は、相対的な性格を持ち、何らかの使用目的に沿って成立している。この点を想起したい。つまり、類型化とは、個性の具体的な特徴を強調して形成されるのである。ヘーゲルには、古典に必要な要素が欠けている。あるスタイルに従って、限定された形式の中で、生を営むという発想がないのである。

■なんだか、凄く説得力を感じた。ヘーゲルのこの非古典性が、現代性にもつながるのかもしれない。『精神の現象学』の検討は中断しているが、また、ぼちぼ開始したくなった。


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Cioranを読む(94): Hegel et nous(3) 1932


■旧暦1月23日、火曜日、、ヴァレンタインデー

(写真)無題

neuhausというベルギーのChocolatierがある。ここの製品に、カカオの生産国別に包装された小さなチョコのシリーズがある。TANZANIA、PAPUA、ECUADORとあり、なるほど、と思っていると、中に、SAO TOMÉ(サントメ)という国があって、なんだろうと思ってしまった。どこだと思いますか(写真は、ここから>>>)。アフリカ西部のギニア湾に浮かぶ、小さな島。ここは、旧ポルトガル領。ポルトガルがユダヤ系住民の流刑地として利用していた元無人島らしい。世界最貧国の一つ。このチョコレートは、島の歴史ように苦かった。



C'est porquoi certains s'attachent d'emblée à Hegel, tandis que d'autres lui sont étrangers à jamais. Ce qui prouve qu'il ne laisse indifférent aucun de ceux pour qui la philosophie est essentielle. L'importance de l'élément vivant pripre à un mode de vie spécifique, toujours présent derrière la construction théorique, explique qu'on ait tellement insisté sur la nature romantique de Hegel.
Cioran Solitude et destin(1991) p.164

そういうわけで、ヘーゲルとは永遠に無縁の人もいれば、すぐに強い親近感を覚える人もいる。むしろ、ヘーゲルにはまったく関心がないと言う人ほど、ヘーゲル哲学が必要なのである。ヘーゲルの哲学で重要なのは、ある具体的な生の様式に合致し、普段は、理論的構成の背後に隠れてしまっている生き生きとした要素である。この点に注目すると、ヘーゲルのロマンティックな性質が、これまで強調されてきたことも理解できる。

■面白い。バタイユをシオランはどう思っていたのか、知りたいところ。確かに、ヘーゲルもマルクスも、その文章に冴えた文学的表現が顔を出す。二人とも、文学青年を経由している。これは、意外に重要な点かもしれない。ヘーゲルは、フランス革命に熱狂し、ヘルダーリンと親友でもあったのだのだから、ロマン主義的な傾向があったのは、確かだろう。

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Cioranを読む(93): Hegel et nous(2) 1932


■旧暦1月22日、月曜日、

(写真)無題

今日も、本の整理。最近、妙な趣味ができた。100円シャープペンの収集である。正確には、100円未満がほとんどだ。コンビニや100均、スーパーの文具売り場などにも出ている。シャーペンは、翻訳でよく使い、塾の指導でも使うので、いろいろ、試してみた。芯の太さもさまざまに替え、シャーペン自体もコレクションみたいに増えて行った。そんな中に、数年前、お金を崩すために、気まぐれにコンビニで求めたPILOT SUPER GRIP 0.5というシャープがある。100円以下なので、振り向かず、一二度使用しただけでほおっておいたのだが、これを何かの拍子に使ってみて、驚いた。非常に書きやすい。書くことだけに特化している。いろいろ、試した結果が、これに落ち着くことになったのである。それから、いろいろなメーカーの100円シャープを試しているが、どれも、総じて書きやすい。大きな消しゴムがセットされていて、便利である。値段の安さは、リサイクルプラを使用している点にあるようだ。



La pénetration intuitive s'impose pour en surprendre le caractère original car, plus que tout autre système philosophique, celui de Hegel comporte un vécu spécifique, une attitude particulière inaccessibles à une approche purement théorique. Cioran Solitude et destin(1991) p.164

それで、ヘーゲル哲学の独特の性格を見抜くには、直観的な洞察力が必要になる。というのは、何よりも傑出した哲学体系であるヘーゲル哲学は、純理論的な考え方とは相容れない特殊な体験や独特の態度を含んでいるからだ。

※en surprendreのenの役割が今一つわからない。

■とても、面白い。生の哲学にも、文学にも通じている。ヘーゲル哲学を認識論的に理解するよりは、文学的に理解した方が、その起源に近い気はする。ヘーゲルの存在論的な解釈というのも、生の哲学との関わり抜きには考えにくい。


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Cioranを読む(92): Hegel et nous(1) 1932


■旧暦1月17日、水曜日、、針供養

(写真)無題

本の整理と同時に、俳句原稿の整理を始めた。2003年から2009年にかけて書いた俳句をすべて、ファイル化して、ウェブメールにアップしておこうと思っている。災害が起きれば、俳句どころではなくなる。

どうも、もろもろ、元気が出ない。こういうときには、身体トレーニングが意外と効果がある。心の負荷が身体の負荷でバランスされるのかもしれない。

災害・原発関連の政府会合に議事録が作られていない件が、問題化したが、これは官僚・政府の意図的な行動だろう。「情報公開」は、だれが発言したのか、明確化でき、責任の所在をごまかせなくするだけでなく、その情報を使って、市民がどう行動できるのか、が問われてくる。情報公開の厳格化は、権力の責任の所在の明確化と、市民の自律性を確立するために、重要な問題だと思う。

こうした問題意識で書かれた本が出た。『検証 福島原発事故・記者会見』(日隈一雄著)と『主権者は誰か 原発事故から考える』(同、近刊)日隈さんは、インターネット市民メディアのNPJの編集長でもある。



La philosophie de Hegel est l'un des sysèmes de pensées dont la fécinté se révèle moins à une critique purement immante qu'à une critique de nature transcendante, à même d'en saisir la structure logique et systématique, mais aussi les racines irrationelles. Cioran Solitude et destin(1991) p.164

ヘーゲル哲学は、思想体系の一つであるが、その豊穣さは、たんに内在的な批判にあるのではなく、超越的な自然の批判にある。それによって、その論理的・体系的な構造を把握できるばかりか、その非合理的なルーツさえも把握できるのである。

■ルーマニア語からのフランス語訳のためか、シオランがフランス語で書き下した文章よりも、一文が長い。ヘーゲル哲学を評価しているのは、意外だった。「超越的な自然の非合理的なルーツ(les racines irrationelles)を把握できる」とするシオランのヘーゲル解釈は、なかなか面白いと思う。しかも、シオランはルーツを複数イメージしている。今後、どう展開するのか、楽しみ。
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Cioranを読む(91)


■12月28日、土曜日、、大寒

(写真)無題

今日は、朝、あまりにも寒くて、朝一杯と決めている珈琲を2杯飲む。

一仕事して、午後から、Odilon Redon展へ行く。ルドンなどの象徴派は、19世紀に進んだ科学的合理主義に対する反発として現れてくるが、夢や無意識、境界などをテーマにするため、現代のポストモダン状況ととてもよく響きあうように感じた。その意味で、現代的だと思う。面白いのは、科学や技術に対して、単純に反発するのではなく、たとえば、ダーウィンの進化論にヒントを得て、版画集「起源」を制作したり、エジソンの発明した電球の形を、絵のデザインにいち早く取り込んだりと、とても両義的な対処の仕方をするのである。また、1870年にフランスに誕生した、新しい学問、人類学にも敏感に反応している。社会の動きから距離を置いて、隠者のように、神話的なモチーフを描いていた画家、というイメージが、ルドンには強かったので、いい意味で裏切られて楽しかった。まさに、象徴主義は、反近代という社会の一つの大きな動向だったことがわかる。そうなると、当然、こうした画家に影響を与えたポーやボードレール、マラルメ、ユイスマンなどの詩人、作家、ドビュッシーやショーソンなどの音楽家も、近代批判の文脈で捉える必要があるだろう。ルドンと同時代人で、マラルメの「火曜会」の常連だったゴーギャンなどは、非常に分かりやすい反近代の軌跡を描いている。

今日の展覧会の目玉は、パステルの壁画「grand bouquet」(大いなる花束)(162.6cm×248.3cm)だった。しばらく絵の前の椅子でぼーっとしていた。至福の一時だった。ルドンは、初期、「ルドンの黒」と呼ばれ、版画を中心にモノクロの世界を追求するのだが、このとき愛読書だったパスカルの「パンセ」をテーマにした版画集の計画があったという。残念ながら、実現はしなかった。出品された版画「永遠を前にした男」と同じ素描には、パンセから次の言葉が書き込まれている。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを脅かす」パスカルにはとても関心があるので、ルドンのこの計画が実現しなかったことが、かえすがえすも残念である。



「grand bouquet」(クリックで拡大)



Que surgisse le paradoxe, le système meurt et la vie triomphe. C'est à travers lui que la rasion sauve son honneur face à l'irrationnel. Seul le blasphème ou l'hymme peuvent exprimer ce que la vie a de trouble. Qui ne saurait en user garde encore cette échappatoire: paradoxe, forme souriante de l'irrationnel. Cioran Le Crépuscule des pensées p. 13

パラドックスが現れると、体系は死に生が勝利する。理性が非理性的なものに直面して、己の名誉を守るのは、パラドックスによってである。生のいかがわしさを表現できるのは、冒涜の言葉か賛歌だけである。それができない者にも、抜け道は用意されている。非理性的なものに対する微笑を含んだ形式、パラドックスである。

■とても興味を惹かれる。生のいかがわしさを表現する暴言や賛歌は、詩の起源とも言えるが、パラドックスは、エッセイの起源に位置しているように思えるからだ。




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Cioranを読む(90)


■旧暦12月27日、金曜日、

(写真)無題

The Inky Foolというブログが、ある試みをしている。グーグルを利用して、ブログで引用された詩句のベスト50をカウントしているのである。引用詩句のベスト50、引用詩人のベスト50などが掲載されている。統計の取り方が今一つはっきりしないのだが、そして、英語圏の詩人に限定もされるのだが面白い。詩句の第一位は、「To err is human; to forgive, divine」 Alexander Pope。日本語にすると「間違うのが人間、許すのが神」といった感じか。アレクサンダー・ポープという詩人は、どこかで、かすかに聞いた、というくらいしか覚えがない。ほとんど知らない詩人だった。18世紀イギリスの詩人。引用詩人のベスト1は、やはり、シェイクスピア、2位が、ホープ、3位が、キーツとエリオットが並ぶ。

個人的には、33位、オーデンの「Stop all the clocks, cut off the telephone」や、35位、ディラン・トマスの「Do not go gentle into that good night」、5位、ロバート・フロストの「And miles to go before I sleep」などに惹かれる。ガーディアンの記者も言っているように、引用される詩句の条件は、簡潔なこと、というのがあるようだ。ベスト50を見ると、対句のように簡潔で含蓄のある詩句が好まれる印象がある。英語圏ならではの価値観も見えて興味深い。



La timidité est un mépris instinctif de la vie; le cynisme un mépris rationnel. L'attendrissement est le crépuscule de la lucidité, une dégradation de l'esprit au niveau du cœr. Cioran Le Crépuscule des pensées 1991 p.12

憶病は本能的な生の蔑視である。シニシズムは、合理的な蔑視である。同情は明晰さの黄昏である。つまり、心のレベルへ精神が堕落することである。

■この断章は、まだ、ニーチェの影響が感じられるが、やはり鋭いと思う。

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