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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(18)


■旧暦11月5日、火曜日、

(写真)無題

安ものワインを飲みすぎて、風呂にも入らず、寝てしまった。気がついたら、朝だった、よく寝た。

土曜日、特養に、叔母を見舞う。入居から2カ月経った。体調も顔色もいい。3階のスタッフが揃ったので、移る話があったが、今の2階の環境に慣れているので、そのまま、変わらないことにした。階が変わると、住んでいる人も変わるので、住環境に変化が起きるのである。この日、叔母の本家より、家主死去の連絡があり、この件を伝え、香典等の相談をしてくる。日・月と仕事に専念。10年使用した食洗機がとうとう壊れたので、ビックカメラへ見に行くが、今は、ユニット式が増えたせいで、機種のバリエーションが非常に少なくなっている。キッチンのスペースに入りそうなものを選択して、帰宅。



中沢新一の『日本の大転換』を読む。原子力エネルギーから自然エネルギーへ、という転換図式は共感できる。では、具体的な行動として、何ができるのか。既存政党に魅力を感じなくなって久しいが、中沢新一の「緑の運動」は、そんな中で、一つの希望になっているように思える。この本は、原発とグローバル資本主義の関連を、宗教学的な視点から、読み解いた面が強い。エネルギーの存在論(エネルゴロジー)の重要性を指摘しているが、その点は、そのとおりなのだろうと思う。ただ、この本では、Wissenschaftを既存の枠組みでしか理解していないため、個別科学の総合論という視点しか確保されていない。存在論と言った場合には、Wissenschaftの本来持っていた学的な知の体系の回復を、「個別科学のカテゴリー批判」という形で確保することが必要になると思う。つまり、個別科学が誰の代弁者になっているのかを明らかにする作業が。

もう一つ、気になるのは、政治運動体へと踏み出す場合、中沢新一とオーム真理教との関連である。これをどう総括するのか、問題化すると思う。信頼できる筋から得ている情報では、高額の金銭授受があったとされている。どういういきさつがあったのか、わからないが、オーム真理教の本質を捉え損ねたのは、確かなのだから、この問題をどう総括するかで、この運動の社会的信頼性がどこまで確保されるか、決まって来ると思う。当然、反対勢力は、その点を突いてくるだろう。逆に、この点が問題化されないとしたら、何らかの形で、原発推進勢力あるいはメディアとの間に、共通利害があるのではないかと疑われることになるだろう。



『カムイ外伝』黒塚の風、読了。大変感動した。とくに「黒塚の風」に出てくる他人の幸福をねたむ「お蝶」が秀逸。ドストエフスキーのように深い人物造形に感嘆する。この頃、こうした浮かばれない人々、歴史の影に隠れてしまった人々が、自分の先行者だという感が強くなっている。ぼくもまた、浮かばれない人間の一人だからだが、そういう系譜こそ、実は、芸能・芸術の本流なのだと思えるのである。



TeilⅢ(1939-1940)

1. Ein mathematischer Beweis muß übersichtlich sein. Beweis nennen wir nur eine Struktur, deren Reproduktion eine leicht lösbare Aufgabe ist. Es muß sich mit Sicherheit entsceiden lassen, ob wir hier wirklich zweimal den gleichen Beweis vor uns haben, oder nicht. Der Beweis muß ein Bild sein, welches sich mit Sicherheit genau reporoduzieren läßt. Oder auch: was dem Beweise wesentlich ist, muß sich mit Sicherheit genau reproduzieren lassen. (...)
   Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 143 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

数学的証明は、俯瞰できるものでなければならない。われわれが「証明」と呼ぶのは、再現するのが簡単な構造だけである。われわれの目のまえにあるのが、以前目にしたものと本当に同じ証明であるかどうか、確実に決定できなければならない。証明は厳密に再現できる図でなければならない。あるいはまた、証明にとって本質的なものは、厳密に再現できなければならない。

■証明は、厳密に再現できるものと繰り返し述べている。証明は図であり、俯瞰可能であり、構造であるとも述べている。証明は、存在の商品化ということ、とくに、大量生産・大量消費ということと、親和性が高い。ヴィトゲンシュタインは、証明の価値について述べているのではなく、文明的な特質について述べているのだが、こうした「証明文明」の反対を考えるのはなかなか楽しい。つまり、その文明の価値は、再現不可能性にある。文明のいかんに関わらず、同じ存在は、二つとないことを考えると、証明の本質である「再現可能性(die Reproductionät des Beweises)」とは何なのか、見えてくる。ヴィトゲンシュタインは、この同じ断章の中で、次のような例を挙げて証明の再現性を浮き彫りにしている。

Er kann z.B in zwei verschiedenen Handschriften oder Farben niedergeschrieben sein. ZUr Reproduktion eines Beweises soll nichts gehören, was von der Art einer genauen Reproduktion eines Farbtones oder einer Handschrift ist.

たとえば、証明は、二つの異なった筆跡や色で、書き下すこともできる。だが、証明の再現には、色調や筆跡の正確な再現といったようなものは何も含まれていないのである。

つまり、証明の再現可能性とは、具体的には、証明の中の俯瞰可能な「構造」であり「図」だということがわかってくる。逆に言うと、再現不可能なものとは、「構造」や「図」を備えていない存在だということになろうか。


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Cioranを読む(74)


■旧暦10月29日、木曜日、

(写真)枯芒

16日にレクチャーが終了してから、早くも一週間が過ぎた。さまざまな課題をいただくことができた。この間、来日したマエストロ、Valery Afanassievに、佐村河内守のCD、交響曲第一番HIROSHIMAを渡し、新作詩を一篇作り、Paul CelanとAfanassievの詩をそれぞれ翻訳した。19日の土曜は、哲学塾に参加、思索上のヒントをいくつも得た。今回のぼくのレクチャーは、物理学に関連するので、プロパーの人の意見を聴きたく思い、数学と物理が専門のSさんに原稿を渡す。今日は、朝から仕事に入る。今、新規の翻訳企画一本と、新規の翻訳一本を計画し、着手したところ。はじめて、小説に挑戦する。春から、数社に打診してきた数種類の本は、なかなか、企画が通るのが難しく、仕切り直しという形になった。市場は、眼先のことしか考えないから、根本的な問題を扱う本は、いつも苦戦を強いられるのである。



Est-il concevable d'adhérer à une religion fondée par un autre? Cioran Aveux et Anathèmes p.138 Gallimard 1987

他人が考えだした宗教に帰依することなど考えられるか。

■まさに然り。一人宗教=文学。市場に組み込まれ、乞食は乞食であることを忘れる。







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一日一句(269)






裏窓の風が鳴るなり十一月





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(17)


■旧暦10月27日、火曜日、

(写真)冬紅葉

早朝から、メールの返事を書いて、床屋、買い物を済ませて、帰宅。午後から、仕事。夕方、一段落させて、雑用。

この頃、ヘーゲル、マルクスの存在論的な解釈とジンメルなどのエッセイの系譜に関心があって、15年くらい前に、白水社から出た著作集を奥から引っ張り出してきた。ジンメルのいわゆる「生の哲学」も主体と客体に分裂した世界をもう一度再統合しようという試みだったのだろう。その意味では、存在論的な試みと、問題意識は同じなのだろう。ジンメルのドイツ語は、学生時代、苦労した思い出があるが、日本語版だけでは、テキストクリティークにならない...。

福島で、「復興」の大号令の下、市町村対抗の駅伝や野外ロックフェスティバル、美人コンテストなど、普通の感覚では考えられないような高線量地域でのイベントを行っているが、そうした人口流出を食い止める施策を、地方公務員の生涯設計との関わりで論じた注目すべき記事があるので、ご覧戴きたい。大変説得力がある。ここから〉〉〉本来、こうした問題は、マスメディアが、掘り下げて、広く問題提起すべきことだろう。ただ、糾弾するか、チンドン屋になるか、両極端に振れていて、本質的な議論がいつまでもできないのは、金にモノを言わせようとする勢力があるせいだろうが、まったく愚かなことだと思う。



166. Aber wie - , dreht sie sich in diesen Regeln hin und her? - Sie schafft immer neue und neue Regeln: baut immer neue Straßen des Verkehrs; indem sie das Netz der alten weiterbaut. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 99 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

しかし、どうやって、数学はその規則の中をあちこち動き回るのか。数学はたえず新しい規則を創りだし、たえず新しい道を造り続ける。古い交通網を拡充することで、それを行うのである。

■数学的発明には、数学の体系が前提にあるということだろう。集合論のような独創的なアイディアも、それまでの数学的なアイディアとの対決や否定といった関係を考えないと理解できないのかもしれない。数学的言明は無時間だが、数学の生成プロセスに時間は関与する。ある存在が、どんな存在なのかを、理解するためには、その生成プロセスに着目するとわかる場合が多いが、数学にもそれはあてはまるのだろう。だから、数学史の数学史は重要だと思える。









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一日一句(268)






柚子もいでなほ一心の御空あり





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Cioranを読む(73)


■旧暦10月26日、月曜日、、波郷忌

(写真)無題

朝4時から起きている。我ながらいかがなものかw。当然、昼寝しないともたない。雨に降り込まれている夢だった。家族が実家の畑に、みかんとレモンを採りに行ったので、静かだったが、家事に追われた。朝の冬雲がきれいだった。











Puisqu'on ne se souvient que des huminiliations et des défaites, à quoi donc aura servi le reste? Cioran Aveux et Anathèmes p.127 Gallimard 1987

ひとは屈辱と挫折しか覚えていない。であるなら、その他のことは、いったい何の役に立つことになるのか。

■これも強烈な断章。確かに、屈辱と挫折(des huminiliations et des défaites)は、記憶が反芻されるので、よく残る。問題は、これがどういう行動に媒介されるかだが、いずれにしても、個人的な行動には出るように思う。その他のこと、たとえば、希望や目標、計画は、集団的な担保がないと、維持するのが難しいように思う。労働の一大特徴は、人間が社会集団的な存在であるからこそ、生まれたものなのだろう。








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一日一句(267)






むら雲やたれの嚏か奥の家




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Cioranを読む(72)


■旧暦10月25日、日曜日、

(写真)無題

朝から、空腹を覚えたので、コンビニへ。餃子饅で茶を飲む。クリーニング屋に寄ってから図書館へ。日経の記事をコピーしてくる。詩の翻訳の記事なのだが、ランボーの新旧訳が対比されている。新旧それぞれの翻訳の背後に文化があり、その文化は、新しくなるほど劣化している、そしてそれは、現代詩の劣化状況と正確に対応している、とぼくには思えた...。

今日の東京新聞の一面トップは、面白かった。反原発の記事中傷。ここから〉〉〉 ウェブではなく、新聞の方では、外部委託された財団法人が、記事内容に付けたコメント一覧が掲載されていて笑える。しかし、税金を使って、こんな幼稚なうなづきあいをやってきたのか。昏い気分になる。貨幣を媒介にしたオナニーですね、これは。09年に受注した日本科学技術振興財団の場合、仕事は、外部専門家に丸投げ。職員は確認だけ。それでも、誤字脱字のオンパレード。オナニーすることが泥棒になる史上稀なケースかw。



Le goût de la formule va de pair avec un faible pour les définitions, pour ce qui a le moins de rapports avec le réel. Cioran Aveux et Anathèmes p.129 Gallimard 1987

公式への偏愛は定義への偏愛と同根である、つまり、現実とのつながりがもっとも薄い行為と。

■非常に鋭い。自然科学など、認識論的な個別科学あるいは学問では、これが一般的だが、そうした学の一番の弱点を突いている。



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情報とイデオロギー、あるいは知と信の問題について



(写真)無題

■2010年に行ったレクチャー原稿「情報とイデオロギー、あるいは知と信の問題」をアップしました。ここから〉〉〉 ご意見、ご感想を歓迎します。





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科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―


■旧暦10月24日、土曜日、

(写真)無題

先日行ったレクチャーの原稿をアップしました。お読みいただければ幸いです。ご意見等、ありましたら、コメントやメールを歓迎いたします。

「科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―」ここから〉〉〉

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