カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

田口先生。

2020-05-02 15:50:35 | Weblog

高校時代、学校図書館の書棚の右隅に、翻訳家田口俊樹先生のサイン入りのハヤカワ・ポケット・ミステリーのきれいな背表紙が並んでいる一画があった。入学した当初、まさか、英語教科担当の田口俊気先生が翻訳家田口俊樹先生とはついぞ思わず、へええ、と思って、一、二冊手に取ってパラパラ読みした記憶がある。時々職員室へ勉強の質問に行くと、田口先生は剥ぎ取り式のA4版の原稿用紙束を机に開いて鉛筆で文章の推敲をされていることがあった。英文を和訳するときは、貧しい日本語で直訳するのではなくて、正しい美しい日本語として語彙を尽くしてニュアンスまで汲み取って読み応えあるように豊かに深く訳すことが大事ということを先生から教えて頂いた。いまでも先生の翻訳書を手に取るとき、あの頃の先生の教えが蘇ってくる心地がする。

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ざらめ。

2020-05-02 07:27:04 | Weblog
今朝は、久々に、歌人梶原さい子さんが2006年に刊行された第一歌集『ざらめ』(青磁社、2006年3月)の作品から少々。


鳥の啼(な)く昏(くら)きを森と呼ぶならば森をいくつも孕(はら)む教室 梶原さい子

一首の導入部「鳥が啼いている昏いところを仮に森と呼ぶならば」という上句が非常に魅力的です。最初一読して思わず、ダンテの『神曲』の冒頭部分の語り口を想起しました。ここで詠われている「森」は、勿論実景としての森ではなくて、河野裕子先生の歌集『桜森』の一首「わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ 河野裕子」にあるような「森」のこと、つまり、教室にいる作中主体と女生徒さんたち(*梶原さんは女子高校の先生をなさっているそうです)が持っている母胎としての女性が抱えねばならない、未生のいのちを孕む昏さのことではないかと思いました。ちょうど、作家中沢けいさんがかつて小説『海を感じるとき』の中で描きとったような、女性が抱えているという「海の昏さ」と、この「森の昏さ」は似ているかもしれません。

がたがたと鳴りとよまねば春は来ず小熊呉服店看板の赤 梶原さい子

この一首については、四句「小熊呉服店」の字面、音がじつに効果的です。結句のおしまいに「赤」というイメージを持ってこられているところも魅力的です。〈鳴り響(とよ)む〉は鳴り響くの意味の古語。看板の赤がしずかに佇む小熊呉服店が、冬眠から覚めた森のなかの小熊のようにがたがたと賑やかに開店準備を始めるようにならなければまだ春は来ないのだなと、作中主体が看板を眺めているところを掬(すく)われているのかもしれません。

白紙(しらかみ)に描かれし白き鳥ほどにのみ自由なり花曇りの日は 梶原さい子

かの歌人若山牧水に「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(歌集『海の声』)」という名歌がありますが、それを踏まえた歌ではなかろうかと思います。「ほどにのみ自由なり」という措辞の細やかさにもすごく惹かれます。

喫水の線くきやかにひたひたと春のひとひが満ちてゆきたり 梶原さい子

非常に音楽的な作品と思った一首です。「くきやかにひたひたと」や「春のひとひが満ちてゆきたり」という措辞が、一首の中で室内楽的に響いていると思います。

夕暮れの朱(あけ)を呑み込むひとすぢの泥の川ありまた酸匂ふ 梶原さい子

「夕暮れの朱(あけ)を呑み込むひとすぢの泥の川あり」というと、なんとなく作家宮本輝氏の、太宰治賞を受賞した小説『泥の河』のことを思い出します。淡々としたリズムの中で「夕暮れの朱を呑み込む泥の川」が時間経過とともに視覚的に描かれています。次いで「また酸匂ふ」とあります。嗅覚が不快な臭気を感ずるときの「臭ふ」ではなくて「匂ふ」なので、温泉地の川沿い辺りなのかもしれません。このように視覚から嗅覚へスムーズに展開されていることで、一首の世界が豊かに膨らんでいくようです。
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