私はナットウが大好きです。ナットウといえば、関東とか東北とかが発祥???と思っていましたが、ナットウの発祥は京都周辺であるという面白い考察をされているサイトを見つけました。
以下、メモさせて頂きます。
〔妄説 納豆の歴史〕
http://finedays.org/natto/nattohistory.html
■「妄説」の所以
納豆は日本独特の食品といっていいでしょう。世界にはインドネシアのテンペのような納豆に似た食品はありますが、日本の納豆とは違っています。では、納豆はいつから食べられるようになったのでしょう。世の中には熱心な方がいるもので、納豆の歴史もいろいろ調べられています。しかし、食品の歴史は資料に残りにくいとみえ、確実なことはよく分からないようです。そこで、これまでに明らかとなっている納豆の歴史をもとに、納豆の歴史を再構成してみました。
筆者は、これまでの納豆に関する歴史叙述を否定し、新説を提起しようとする意図でこの論稿を書いたのではありません。「想い」が伝説を生み出してきたように、歴史叙述もまたそれぞれの「想い」を反映するものです。人それぞれにそれぞれの「歴史」があっていいと考えます。本稿もまた、筆者の個人的な「想い」を反映したものに過ぎません。だから、「妄説」なのです。納豆はこの国の民衆が生活の中から生み出し、育ててきた食品です。納豆は単に過去の遺産として伝承されるべき物ではなく、納豆の歴史がそうであったように発展的に継承されるべき物だとの「想い」を持っています。この「想い」からいちぜん会の製品が作られ、納豆の歴史が叙述されます。「想い」は歴史の中に埋没してしまうことも少なくありません。しかし、人々の暮らしを発展させてきたのが「想い」であったことも事実です。本稿は「妄説」であり、いちぜん会の製品は「妄品」であるかも知れません。「妄説」「妄品」には、「妄説」「妄品」で終わってしまうものもあります。でも、「妄説」「妄品」の中から世に受け入れられるものが出てきます。「妄説」「妄品」であることは、誇りに思っていいことだと考えます。その「想い」が的はずれであるか否かは、歴史が審判してくれることです。
本来、参考文献を逐一示すべきですが、省略しました。あくまで、「妄説」として読み流してくださるようお願いします。
(注)これまでの糸引き納豆起源説は、1.米作の始まった弥生時代に自然発生した、2.源義家・聖徳太子・加藤清正ら歴史上の著名人が発見した、の2説に大別されます。また、納豆の語源については、寺院の納所豆が訛ったとする説がほぼ定説となっています。
弥生時代自然発生説は裏付けがないこと、他の稲作文化圏に納豆食品がないことなどから、信憑性が乏しいと思われます。著名人発見説の中では源義家説が有力です。源義家説のネックは、1051年の文献にすでに納豆の文字が見られることです。この問題については、義家以前の納豆は糸引納豆ではなく塩納豆であったと説明されています。つまり、これまでの研究をまとめると、以下のようになります。
1.寺院で「納豆」の名を持つ食品「塩納豆」が奈良時代から平安時代にかけて作られていた。
2.後に糸引き納豆が考案された(特に源義家)。
3.1051年(糸引納豆考案前)の文献にみえる「納豆」は塩納豆である。
筆者も、1051年の文献にみえる「納豆」が塩納豆であると考えます。この点についての結論は、従来の研究と同じです。ただ筆者は、源義家による糸引き納豆発見以前の文献であるから塩納豆であるとする考えには、同意できません。1051年の文献について考証し、これが紛れもなく塩納豆であることを示します。しかも、それが単に塩納豆を指すだけでなく、「塩辛納豆」という名称で呼ばれていることに注目し、糸引納豆の起源を論じます。
■2つの「納豆」
現在では、納豆といえば納豆菌で発酵させた糸引き納豆を指します。でも、もともと納豆には2種類ありました。一つは、麹菌で発酵させた納豆です(以下、麹菌納豆とする)。唐納豆、塩納豆、寺納豆などと呼ばれる納豆で、今も作られている大徳寺納豆や浜納豆はこの系統に属します。二つ目は、納豆菌で発酵させた納豆です(以下、糸引き納豆とする)。現在、納豆といえばこちらを指します。
納豆と呼ばれる食品に二つの種類があるわけで、このことが納豆の歴史を分かりにくくさせているように感じます。
■鼓(シ)の伝来とその呼称
中国では「鼓」(シ)という食品が食べられていました。この鼓こそ、麹菌納豆です。鼓の伝来時期は明らかでありませんが、本格的に作られるようになったのは、奈良時代のことではないかと考えられます。鼓の製造には大量の塩が必要です。貴重品であった塩が流通しはじめるのと同じころに、鼓の製造が始まったのではないかと考えられます。
平城京から出土された木簡には「鼓」の字が見られるそうです。中国の呼称がそのまま使われているのも、伝来間もないことを示唆しているように思えます。
ところが、興味深いことにやがて「鼓」の呼称は使われなくなります。鼓は食品として一般に普及することはなかったようです。
(注)中国で豆鼓(トーチー)は味噌の一種で調味料。乾燥させると塩納豆になります。豆鼓とは別に無塩の淡鼓がありました。大豆一石六斗六升七合と海草四斤八両で醤鼓一石ができるとの延喜式の記述は、醤油の原型について記しているように思えます。なお、海草は藻塩のこと。
■納豆と名前を変えた鼓(シ)
いったん消えたかにみえた鼓は、平安時代の終わりに納豆という名前で再び登場します。1050年頃に成立した『新猿楽記』に「納豆」の記述が見られます。これが文献に現れる「納豆」の初出です。『新猿楽記』の「納豆」が麹菌納豆なのか、糸引納豆なのかについては、両説あるようです。
『新猿楽記』を素直に読むと、これを糸引納豆と考える根拠は乏しく、麹菌納豆と解するのが妥当であるように思えます。『新猿楽記』は、あるグルメ女性について、「鶉目(うずらめ)の飯、蟇目(ひきめ)の粥、鯖の粉切、鰯の酢煎、鯛の中骨、鯉の丸焼き」が好物であるとし、続けて精進の物には、「腐水葱香疾大根舂塩辛納豆」と記しています。『新猿楽記』は漢文で書かれており、写本で伝えられています。腐水以下の部分をどう読み下すかが問題です。一般的には、「腐水葱(したしぎ)、香疾大根(かばやきだいこん)、舂塩辛(つきしおから)、納豆」と読み下されています。しかし、この読み下し方には疑問があります。まず、塩辛について。魚類の塩漬けを塩辛といいますが、塩漬魚類食品は古代からあったものと考えられます。藤原京出土木簡に「鰤醢」(フナビシオ)と見え、塩辛食品そのものは古くからあったと考えられます。『新猿楽記』の「塩辛」が塩漬魚類食品を意味するならば、塩漬魚類食品の名前として平安末にはすでに「塩辛」の語があったことになります。ただ、この解釈には疑問点があります。第一に、「塩辛」はその後江戸時代になるまで出てきません。第二に「舂塩辛(つきしおから)」の用例は他にありませんし、そもそも塩辛を潰して食べる必要はないでしょう。そして何よりも、塩漬魚類食品が「精進の物」の中に入れられているのは不自然です。『新猿楽記』は、「鶉目」以下の魚や肉の動物性食品と「腐水」以下の植物性食品を明確に区分しています。このような疑問点が出てくるのは、読み下しに誤りがあるからだと考えます。まず、「腐水葱(したしぎ)」。「腐水葱(したしぎ)」とはなんでしょうか。このような食べ物は、後の文献にも出てきません。「葱」は「葱香疾(ねぎかばや)」と読むのが自然ですから、「腐水葱」は「腐水」で区切ることにします。それでは、「腐水」とは一体なんでしょうか。腐はぶよぶよしたという意味です。ぶよぶよした液体がどのような食品であるか、はっきりしたことはわかりません。誤写、誤読がある可能性もあります。「腐水」が豆腐を指す可能性もあります(「豆腐」の初出は1183年奈良春日若宮神主の日記中の「唐符」です。「腐水」が豆腐を指すのなら、これが豆腐の初出となります)。「葱香疾(ねぎかばや)」は、ネギの蒲焼きでしょう。もっとも、砂糖と醤油のたれはありませんから、ネギに味噌でも付けて焼いたのではないかと想像します。
このように読み下してくると、つぎは大根舂となります。でも、大根舂では意味が通りません。大根舂は大根春の誤写または誤読と考えます。読みは、「だいこんす」です。「春」は変体仮名で「す」です。「だいこんす」は、「大根酢」で大根の膾(なます)のことでしょう。後におせち料理の定番となるなますが、このころ食べられ始めたことをうかがわせる記事です。大根春の次に出てくるのが、塩辛納豆です。塩辛納豆を塩辛と納豆の二つに分けて読むのは間違いです。上にも書きましたが、塩漬魚類食品である塩辛が「精進の物」として取り上げられるわけがありません。また、塩漬魚類食品と納豆を組み合わせた食品とも考えられません。塩辛納豆は、「塩辛い納豆」と解するのが妥当でしょう。
ここで注意しなくてはいけないことがあります。たんに「納豆」ではなく、「塩辛納豆」(塩辛い納豆)と記されていることです。塩辛くない納豆があったから、それと区別するために「塩辛納豆」(塩辛い納豆)と記されたと解すべきでしょう。塩辛くない納豆こそ、糸引き納豆であったと考えます。サンマと塩サンマでは、サンマの方が一般的です。バターと無塩バターでは、バターの方が一般的です。一般的なものと特殊なものがあるとき、特殊なものの方に形容詞がつきます。糸引き納豆がすでに一般的となっていて、マイナーな麹菌納豆が「塩辛納豆」と呼ばれたのかも知れません。
■怪しい「納所豆」語源説
筆者は、文献上最も古い納豆の記述は『新猿楽記』の「塩辛納豆」であり、たんに「納豆」でなく「塩辛納豆」とされたことは糸引納豆がすでに存在していたことを示唆していると考えます。ついでに300年来信じられてきた納豆の語源にも疑義を提起します。1695年に刊行された『本朝食鑑』は、納豆が寺の納所(なんじょ、なしょ)で作られていたので「納所豆」とよばれ、そこから納豆に変わったと説明しています。この説は現代に至るまで紹介され続けています。実は江戸時代には言葉遊びの文化が盛んで、こじつけ語源論が流行します。「納所豆」語源説もその一つでしょう。
「納所」語源説には、怪しい点がたくさんあります。寺にも「納所」はありましたが、平安時代「納所」は一種の役所で「のうそ」などと呼ばれました。「のうそとう」がなまって「なっとう」になったとは考えにくいでしょう。一歩譲って、「なんじょとう」「なしょとう」などと呼ばれることがあったとしても、それがなまって「なっとう」になるか疑問です。
そもそも、納豆が寺のある場所で作られたり保管されたりしたとして、それを「台所豆」とか「物置豆」と呼ぶでしょうか?台所では納豆ばかりを作ったわけでもないし、物置には納豆しか入れなかったこともないでしょう。「納所豆」といういい方があったかどうかが、疑われなくてはならないことでしょう。
江戸の言葉遊び語源論は、「納所豆」の用例があったことを示さずに、想像で結論を導く悪い癖がありました。
(注)原敏夫『納豆は地球を救う』は、「納所豆」以外の語源説も紹介しています。「納所で作られた豆を桶や壷に納めて貯蔵したため、納めた豆すなわち納豆と呼んだ。」「神棚に供えた煮豆にしめ縄が触れ、藁に住み着く納豆菌が繁殖し納豆化した。美味しい食べ物を授けてくれた神様に、納めた豆という意味を込めて、納豆と呼ぶようになった。」「大豆は栄養のかたまりで、栄養の納まった豆なので納豆という説。」などがあるようです。
(注)納所豆語源説は、『世界大百科事典』にも「動物性タンパク質を食べることができなかった僧が、タンパク質の豊富な大豆を,おいしく、消化よく食べるために研究をした所産が納豆であり、僧房の納所(なつしょ)でつくられ普及したものであるから,その場所名を冠して広義の納豆という語が生まれた。」と紹介されています。
■「納豆」は当て字?
これまで「納所豆」語源説が支持され続けてきたのは、代案を示すことができなかったからです。いよいよ筆者の代案を示します。筆者は、平安中期から後期にかけての時期に、京都かその近辺で糸引納豆が考案されたと考えます。新しく考案されたこの食品は、「なっとう」と呼ばれたかも知れませんし、「なとう」「にとう」「ぬと」のような発音だったかも知れません。言葉が先にでき、後で発音に近い漢字が当てはめられました。このようなことは、珍しいことではありません。「やまと」という地名が先にあり、後で山門や大和が当てはめられたのと同じことです。
後で考案された「なっとう」が普及していくにつれ、前に伝来していた鼓(シ)の呼び名も変わっていきます。『新猿楽記』が「塩辛納豆」と表現していることに注目しましょう。わざわざ「塩辛」を付けているのは、「納豆」つまり糸引納豆と区別する必要があったからです。『新猿楽記』以後も、麹菌納豆は「唐納豆」「塩納豆」「寺納豆」など、普通の「納豆」でないことを示す表現が続きます。つまり、鼓(シ)は納豆もどきと考えられるようになったのです。
(注)植物や魚の名前には地域的な呼び名が残っています。大豆についても、アゼマメ、アダマメ、サヤマメ、ジンダマメ、ナツマメなどの呼び名が残っています。中国でも大豆を夏豆と呼ぶ地方があります。大豆を夏豆(なつとう)と呼んでいた地域で「なっとう」が考案され、それが「なっとう」の語源になった可能性もあるように思います。もっとも、それは可能性の問題に過ぎません。「納所豆」も「夏豆」も単なる推測に過ぎないのです。
■糸引き納豆考案の背景
筆者は遅くとも『新猿楽記』成立の1051年には、糸引納豆と麹菌納豆の両方があり、両者を区別するために「塩辛納豆」という表現が用いられたと考えます。それでは、糸引納豆が考案されたのはいつ頃なのでしょうか。それは1051年よりそれほど遡らない時期だと考えます。その理由は後で触れることにします。ここではまず、糸引き納豆考案の背景を考察します。
大豆と稲藁があれば納豆はできる、だから弥生時代から納豆はあったのではないかという推測があります。その可能性も全くないわけではありませんが、筆者は否定的です。鼓(シ)が伝来した奈良時代に糸引納豆のような食品がなかったから、そのまま鼓(シ)という言葉が使われたと考えることもできます。また、糸引き納豆がなかったから、平安後期に至るまで文献に出てこないとも考えられます。
話を糸引き納豆考案の背景に戻します。まず、稲藁から。稲刈りをし脱穀すると稲藁が残ります。こう書くと簡単そうですが、実は稲刈りというのは大変な作業です。弥生時代の米作りでは、籾を石包丁で摘み取っていました。稲を刈る鉄製の鎌がなかった、湿田で稲刈りの作業ができなかった、品種が混合していて稲の実る時期がバラバラだったなどがその理由です。つまり、弥生時代には「産業廃棄物」としての稲藁はなかったのです。稲刈りをする米作は鉄製農具(鎌)の普及する先進地域から広がっていきます。鉄製農具の普及には長い年月がかかりました。生活の中に稲藁のあること、これが糸引納豆考案の一つの条件です。
もっと難しい条件があります。煮豆です。圧力鍋があれば簡単に大豆の煮豆が作れます。ところが、普通の鍋で煮豆を作ろうとすると、数時間を要します。豆を煮るというのは、意外に大変な作業なのです。鉄鍋のなかった時代に煮豆を作るのはもっと大変だったに違いありません。「煮る」のが大変だったので、蒸すことが盛んに行われました。お米を蒸して食べる強飯(こわいい)から現在のような煮て食べる粥に変わっていくのは、平安時代になってかなり後のことです。蒸したり煮たりするのに対して、煎るのはずっと簡単でした。お米を煎って食べる焼米は弥生時代はもとより、ずっと後まで続きます。鉄鍋・鉄釜の普及は、徐々に煎る食文化に加え煮炊きする食文化を生み出します。煮炊きする食文化が庶民に広がっていったとき、納豆が考案されたのではないでしょうか。
■義家伝説の読み方
東北各地には、奥州に出兵した源義家が納豆を発見したという伝説が伝えられています。源義家(1039~1106)が東北地方に出兵したのは、前九年の役 (1056-1063)以後、数回に及びます。義家が納豆を発見したとの伝説は、東北地方出兵の歴史的事実とは符合します。
まず、伝説の内容を見てみましょう。各地の伝承内容は偶然の発見という点で一致しています。たまたま食べ残しの納豆が発酵して納豆になっているのを見つけた。これはもっともシンプルな伝承です。手が込んでくると、大豆を煮ている途中に突然襲撃され、煮豆を米俵に詰めたところ、後日納豆になっていた、となります。もっと手が込むと、煮豆が馬の体温で発酵したとなります。
しかし、筆者は義家が納豆を発見したとは考えません。『新猿楽記』の作者藤原明衡と源義家のどちらも、11世紀中頃の京都で生活しています。義家も糸引納豆のことを知っていたと考える方が自然です。義家が東北地方で納豆を発見したのではなく、義家は東北地方に納豆を伝える役割を果たしたのだと考えます。納豆を知らなかった東北地方各地の人々は、義家に教えられて納豆という食品を発見したのです。同曲異巧(?)の伝承が各地に残っているのは、各地の人々が納豆を発見したことを示しています。米作先進地域の食文化が、米作後進地域の東北の人々に伝えられました。
義家伝説は糸引納豆の歴史に一つの示唆を与えてくれます。11世紀中頃の京都で糸引納豆は知られていたのに、同じころの東北地方では知られていませんでした。食文化の伝播は食品によって、また時代によって、そのスピードが違います。平安時代の日本では国中に広がるのに、100年はかからなかったでしょう。義家が東北に出兵した11世紀後期は、糸引納豆の考案からそれほど時間が経過していなかったのではないかと考えられます。
(注)歴史上、発見者と伝達者が混同される例は少なくありません。加藤清正にも朝鮮出兵中に納豆を「発見」したという伝説があります。加藤清正は日本各地も転戦していますが、彼が納豆を「発見」したのは国内ではなく、納豆のない朝鮮でのことでした。加藤清正伝説と源義家伝説は、伝説誕生の仕組みを示す好個の事例を提供しているともいえます。
(注)馬の飼料の煮豆が発酵した、馬の体温で発酵した、など馬と納豆を結びつける伝承があります。納豆と馬を結びつける伝承がなぜ生まれるのか、興味のあるところです。馬に煮豆を食べさせることはあり得なかったでしょうから、もちろん事実ではありません。なぜ、馬に煮豆を食べさせるという奇想天外な伝承が生まれるのでしょう。この問題について筆者は以下のように考えています。厩皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)の死後、太子信仰が広がります。中世から江戸時代にかけては、特に藁を原料として扱う建築職人や畳職人の間で太子講が結成されたりしました。彼らと太子が結びつくのは、厩ー藁ー聖徳太子の連想が作用したからです。この連想が、納豆聖徳太子考案伝説を生み出します。馬と納豆を結びつけた聖徳太子伝説は、他の納豆伝承にも影響していくことになりました。
■糸引納豆の起源についてのまとめ
糸引納豆は、鎌や鉄鍋など鉄製用具の普及した先進地域で、平安時代中期から後期にかけて考案された。平安時代末までには、ほぼ日本中に広まった。糸引納豆が普及するにつれ、中国伝来の麹菌納豆は塩納豆・唐納豆・寺納豆などと呼ばれるようになった。
(後略)
☆☆
NPO法人フロンティア協会主催<納豆フォーラム 藁つと納豆発祥の地が京北であることの報告>
日時:2006年11月12日(日)午後1時
場所:京都府立ゼミナールハウス 1F総合ゼミナール室
〒601-0533 京都市右京区京北下中町鳥谷2番地 電話 0771-54-0216
主催:NPO法人フロンティア協会 (担当:徳丸氏)
〒601-8313 京都市右京区嵯峨野開町15-39 電話 075-881-0175
報告:立命館大学農村環境ゼミ
後援:京都新聞社
《京北における「藁つと納豆」と食文化の伝承 「作り、食ぺ、伝える」》
京都市右京区京北及ぴ桂川流域が納豆発祥地!東北や関東地方が、納豆発祥地と考えられているが特定できておらず、多くの研究者は、京都周辺と考察されている。その根拠は、全ての伝説、言い伝えの発祥地が「京都」を指し示しているからである。研究報告を立命館大学農村環境ゼミ生「長谷川哲善君」が発表する。
古代から文化的に発展していた京北地域において、大豆、米、鉄器の伝播は古墳時代にまで遡れるであろう。奈良時代初頭には、平城京へ「米」がとどけられており、「納豆の原型」は存続したと思われる。発祥の起源についての可能性を、野菜文化史研究センター代表「久保氏」に検証して頂く。
最も考えられる論拠は、『木材と川。「平城京」に近い文化圏地域である事。なぜ「藁つと納豆」が発祥したのか?食文化的な地域での必然性があったと考える。京北地域の地理的条件と気象条件、地域の農林に関する特殊性を(株)森口加工食品社長「福三田氏」に解説して頂く。
参加費無料 申込不要(定員100名)
ゲストスピーカー
久保 功氏 野菜文化史研究センター代表
福三田 邦彦氏(株)森口加工食品社長
成果発表 長谷川 哲善氏 立命館大学産業社会学部農村環境研究(深井ゼミ)4回生
ファシリテーター・司会進行 徳丸 國廣氏 NPO法人フロンティア協会会長