映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

夫婦フーフー日記

2015年06月30日 | 邦画(15年)
 遅ればせながら『夫婦フーフー日記』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)佐々木蔵之介永作博美が出演しているというので映画館に行ったものです。

 本作(注1)の冒頭では、ヨメのユーコ永作博美)が大きなハンバーガーを食べています。
 そして、ダンナのコウタ佐々木蔵之介)が、「清水です。私達は、共通の友人を通して知り合いました」と話し始めます。

 ユーコは、書店で働いており、本が大好きで、「おすすめ新刊コーナー」をセッティングしたりします。
 コウタは、音楽系の雑誌の編集者で、ロックバンドのインタビューなどをしていますが、実際は作家を目指しています。

 次いで画面は、飲み屋で皆がわいわいがやがや騒ぐシーン。
 その中で、例えば、ユーコは、コウタに向かって「新人賞に落選したからと言って何だ。とにかく書け。書かなければ、一生、作家になんかなれないよ」と励ましたり、オザケンを巡ってユーコとコウタの意見が一致したりします。
 そればかりか、酔いつぶれたユーコを、コウタはオブっておぶって連れて帰り布団に寝かしたこともあります。
 でも、ダンナの話によれば、「色恋の関係になったことは、一度もなかった」とのこと。

 ダンナが、またしゃべります。「あいつが故郷の福島に帰ってからも、いくどとなく電話した。そして、あいつがある時、「あたし、お見合いするかもしれない」と言った時、決断した。プロポーズするために高速バスに乗り込んだ」。
 バスの中で、コウタがプロポーズの言葉を紙に書いていると、バスが急に停まったような感じとなり、突然画面は暗転します(注2)。
 そして、冒頭の場面となって、ヨメがハンバーガーを食べています。
 ダンナが、「あの時から1年9ヶ月が過ぎました。1ヶ月前、ヨメは直腸がんで亡くなりました。一人息子を残して亡くなったのです」と話して、タイトルクレジット。

 さあ、これからどんなお話を映画で見ることができるのでしょう、………?

 17年間友だち関係だった二人が結婚し、子供もできたと思ったら1年半くらい(493日間)で妻の方が直腸がんで亡くなってしまうのですが、その間の夫婦の生活ぶりを、夫の目には蘇っている妻と一緒に眺め直すという設定になっています。着想は面白いとはいえ、それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、この同じ設定が何度も繰り返されるために、コメディタッチではあるものの、全体として単調な感じとなっています(注3)。

(2)本作の原作は『がんフーフー日記』(小学館:未読)ですが、同書は、ライターの清水浩司氏(「ダンナ」)とその妻(「ヨメ」、元書店員)が「川崎フーフ」の筆名で綴った闘病ブログ「がんフーフー日記」を書籍化したものです(注4)。
 その映画化にあたっては、大きな工夫が凝らされています(注5)。
 確かに、結婚直後に妊娠が判明しながら、同時にヨメの直腸にがんが見つかったら、夫婦にとっては、まさに驚天動地の出来事でしょう。でも、それだけで映画にするには、今一インパクトに欠けます。そこで、亡くなったヨメがこの世に蘇りダンナだけに見えるというフィクションを加えることによって、作品を盛り上げようとしているのでしょう。

 こうした工夫は、例えば昨年末に見た『想いのこし』のように、いろいろ前例はあります。
 でも、それはあくまでも枠組みのことであり、スクリーンに描き出されるダンナとヨメの物語自体にインパクトのあるストーリー性がないのであれば、やはり全体として平板なものになってしまうように思います。

 ただ、元のお話にそうした題材がないわけではないようにも思われます。
 例えば、二人の子供の「ぺ~」の誕生ということもあるでしょう(注6)。



 とはいえ、この場面はもっと盛り上げが可能な気がするものの、映画では、あまり説明抜きにいきなり帝王切開のために手術室に入るヨメが映し出され、そして保育器内の赤ん坊の姿ということになってしまいます。

 また、結婚式の場面。区役所に婚姻届を提出することで済ませていた二人に(注7)、周りの人たちがサプライズとして結婚式をプレゼントするというものです(注8)。



 ですが、ギテー高橋周平)がうっかり口を滑らせてしまったことで、サプライズ効果は削がれてしまいます。まあ、別にそんなことがなくとも、連れて行かれた場所とか、用意された衣装などから、すぐに二人に気付かれてしまうことでしょう。とすると、この場面も、確かに病気が進行して座ったままのヨメが登場するなど感動的ではあるとはいえ、よくある入籍後の結婚式の域を出ないように思われます。

 さらには、ヨメの死も挙げられるでしょう(注9)。
 でも、ダンナは、退職する仕事の引き継ぎのために上京していて、慌てて福島に戻るものの、肝心なヨメの死に目には間に合いません。

 こうした盛り上がりの見られそうな場面がいともアッサリと描かれている上に、それらの場面をダンナと蘇っているヨメとが客観的に眺めて論評を加えるだけですから、全体として平板な感じが否めなくなってしまいます。



 これに対して、先に挙げた『想いのこし』では、死んだ母親役の広末涼子がポールダンスを披露するとか、そればかりか本田ガジロウ(岡田将生)というキャラクターを設け、死んでしまった4人が、彼を通じて「想いのこし」たことを実現してもらう、というストーリーにして、作品にインパクトを与えようとしています。

 本作は、ノンフィクションの原作があり、それに亡くなったヨメが蘇るというフィクションを付け加えたものですから、突飛なストーリー展開にする訳にもいかないのでしょう(注10)。
 でも、悲しいお話である原作を、コメディタッチの映画に仕上げているのですから、もう一工夫あればな、と残念な気がしたところです。

(3)渡まち子氏は、「切なくも可笑しい夫婦の物語は、“死”を終わりではなく、再生の第一歩として描くことでポジティブな後味を残してくれた」として60点をつけています。



(注1)監督は、『婚前特急』の前田弘二
 脚本は、『予告犯』の林民夫(前田監督も)。

(注2)後で、死んでいるヨメがダンナに、「実は死んでいるのは私じゃなくてあんたなの」と言うシーンがあり、その際この場面を思い出すと、観客は、あるいはそうなのかもしれない(さらには、もしかしたら、本作では、“生きていると思っている者は、実は死んでいるのだ”などといった“深遠な”思想が語られているかもしれない)と思ってしまいます。でも、これは監督の単なるジョークではないかと思われます。

(注3)出演者の内、最近では、佐々木蔵之介永作博美は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』、杉本哲太(本作では、ダンナのよき相談相手とのことですが、実際のところはダンナとの関係がよくわかりません)は『2つ目の窓』、ヨメの親友役の佐藤仁美は『ちょんまげぷりん』で、それぞれ見ました。

(注4)Wikipediaの『がんフーフー日記』のによります。
 なお、原作本は、ブログの文章をそのまま書籍化したものではなく、例えば、同ブログのこのエントリによれば、「書籍では、彼女の残したメールや日記から、その文章を大幅に追加し」、その結果「文章がヨメ側・ダンナ側の2視点になったことで、フーフ間の愛情・ズレ・確執・葛藤なども同時にあらわになってます」とのこと。

(注5)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、前田監督が、「林民夫さんが第1稿で書かれた脚本は、原作と違って、“亡くなったヨメと一緒に過去を振り返る”というフィクションが加えられてい」た、と述べています。

(注6)「川崎フーフ」の闘病ブログ「がんフーフー日記」の2009年9月28日付エントリが出産を取り扱っています。

(注7)「がんフーフー日記」の最初のエントリによれば、二人が入籍したのは2009年3月のこと。

(注8)「がんフーフー日記」の2010年5月6日付エントリが、5月3日に行われた草上結婚式を取り扱っています。

(注9)「がんフーフー日記」の2010年7月9日付エントリがヨメの死を取り扱っています。

(注10)例えば、ダンナがヨメの死に目に会えなかったことは、「がんフーフー日記」のこのエントリに述べられています。



★★★☆☆☆



象のロケット:夫婦フーフー日記

トゥモローランド

2015年06月26日 | 洋画(15年)
 『トゥモローランド』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)ジョージ・クルーニー(注1)が主演で、評判が良さそうなので(注2)、見に行ってきました。

 本作(注3)の冒頭では、フランクジョージ・クルーニー)が、「調子はどう?これまでに起こったことをお話します。それは未来についての物語」と観客に向かって話します。
 すると、若い女〔あとで、ケイシーブリット・ロバートソン)だと分かります〕の声がして「悪い話がしたいの?」と尋ねるものですから、フランクが「そう」と答えると、女の声は、「ハッピーな感じにしたら。話の順序を変えたらどう?」と言います。
 それで、フランクは「子供の頃の話。未来は良かった」と語り始めます。

 次の場面は1964年のニューヨーク万博。
 11歳の少年のフランクが会場の中に入っていきます。
 彼は、発明コンテストに出品するために、ジェットパックを作って持ってきたのでした。
 ただ、受付の男(ニックスヒュー・ローリー)から、「使えるのかい?目的は?」などと訊かれ、「一応は使えますが、飛ぶのは時間的にまだ。でも、飛べたら楽しいよ。やる気が湧くはずで、世界に役立ちます」と答えますが、「飛べないなら何の役にも立たない。またね」と受付を拒否されてしまいます。

 失意のフランク少年がベンチに座っていると、少女(アテナラフィー・キャシデイ)が近づいてきて、「T」マークのピン・バッジを手渡しながら、「振り向かないで、あっちを見ていて。20数えたら、私を追いかけてきて。誰にも気付かれないように。私は未来よ」と言うのです。



 そこで、フランク少年は、ニックスに付き従っているアテナの後を追って、同じように、「イッツ・ア・スモールワールド」のパビリオンに入り、ボートに乗ったりしますが、「T」マークのピン・バッジに光が当たると別の進路が開け、その先にはトランスポーターが待ち構えていて、それに乗ると未来都市(トゥモローランド)に連れて行かれます。

 それから、場面は現代となり、17歳の女子高生ケイシーが登場します。
 彼女もまた、ひょんなところで「T」マークのピン・バッジを手にします。



 さあ、それにはどんな意味があるのでしょうか、そして物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作で描かれる未来都市(トゥモローランド)は、よく見かける未来都市の域を一歩も出るものではなく、また相変わらず悪の支配者(トゥモローランドを支配する)がいて、それを倒して平和が訪れるという構図になっています。それに、現在の地球はこのままだと人間による環境破壊によって滅びてしまう、でも未来を信じてそれに自分たちで諦めないで立ち向かえば明るい未来がひらけてくるというおなじみのテーマが描き出されていて、全体として退屈な作品でした。

(2)とはいえ、本作には、クマネズミの興味を引く面白い場面がいくつかあります。
 例えば、フランクが、未来都市(トゥモローランド)から追放されてから隠れ住んでいる棲家(注4)の内部構造はとても興味深いものがあり、またそこをニックス提督の部下のアンドロイドが急襲するのですが、なかなか面白いアクションシーンです。
 また、フランクらは、その隠れ家をバスタブでできたロケットに乗って抜けだして、パリのエッフェル塔にまで行き、そこから今度はスペース・シャトルに乗り換えて未来都市(トゥモローランド)に向かいますが、バスタブのロケットで出発するところからエッフェル塔が二つに割れてロケットが打ち上げられるまでの映像はなかなか見応えがあります。

 でも、よく理解できない点がいくつかありました(もちろん、クマネズミの理解不足によるのでしょうが)。
イ)未来都市(トゥモローランド)は、「Plus Ultra」という組織が作り上げたとされ、その組織はトーマス・エジソンとかジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズ等によって始められたとされています。実に錚々たるメンバーながら(注5)、出来上がっている未来都市はよく見かけるもの(注6)の域を一歩も出るものではないような気がします。何年後の未来が描かれているのかわかりませんが、どうしてこんな古色蒼然とした感じが漂っているのでしょうか?



 なお、その都市は、一面の麦畑の向こうにそびえ立っているのですが、このチグハグさには何か意味があるのでしょうか?

ロ)フランクは、未来都市において、超光速のタキオンを使って過去と未来を見ることのできるモニターを作ったことによって、人類が破滅する未来を知ってしまいます(注7)。
 でも、ケイシーは、モニターは、未来の光景を受信するばかりでなく、発信もしていることを見抜き(注8)、地球の未来を救うにはモニターを破壊する必要があるとわかります。
 それで、フランクらは未来都市に向かうのです。
 でも、モニターに映っている通り、あと少しで地球が滅亡してしまうのであれば、そんな未来都市など存在するわけがなく、そして未来都市が存在しないのであれば破壊すべきモニターも存在していないのではないでしょうか?
 それとも、フランクらの行動によってモニターが破壊されて地球の破滅が回避されるということが予め予想されているのでしょうか?でもその場合には、モニターに地球の破滅が映しだされることもないはずです(そんな事態にならないのですから)。

ハ)あるいは、本作では、過去―現在―未来が単線的につながっているのではなく、それぞれがパラレルワールドとして存在しているということなのでしょうか?
 ケイシーが「T」マークのピン・バッジに触ると、向こうに未来都市が見える麦畑の中にいる自分を発見しますが、ピン・バッジがパラレルワールドの間を瞬間的に移動できる装置になっているということなのかもしれません(バッジが保有するエネルギーが小さいために、しばらくすると、元の場所に戻ってしまうのでしょう)。
 でも、パラレルワールドに未来都市があるというのであれば、ニックス提督は、どうしてフランクらの行動を妨害しようとするのでしょうか?ひいては、なぜ彼は地球の滅亡を願うのでしょうか(注9)?というのも、パラレルワールドに未来都市があるのであれば、異次元の世界の地球が“未来”にどうなろうとも、彼には関係がないように思えるからですが。

(3)渡まち子氏は、「本作は、決して分かりやすくはないし、パラレルワールドの誕生やその仕組みもはっきりしない。つまりこれは単純明快な子供向けSF映画ではなく、私たちはどこで道を誤ってしまったのか?これから先、どうすればいいのか?と自問できる大人にこそ必要な、夢物語なのだ」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「なにしろディズニーはこの映画で、テロリストの心さえ溶かそうとしている。テロリストを洗脳いや教育する映画。彼らはいよいよ映画で戦争すら終わらせる気なのか。そんなことを考えながら、大人のみなさんはこいつを見てみてほしい」として65点をつけています。
 藤原帰一氏は、「未来とは現実逃避の夢であり、夢がなければ生きてはいけないことを教えてくれる映画です」と述べています。



(注1)ジョージ・クルーニーは、最近では、『ゼロ・グラビティ』で見ました。

(注2)本作は、公開初登場で第1位でした。ただし、この記事によれば、最近の興行成績ランキング(6/20~6/21)では、前回のエントリで取り上げた『海街diary』が第3位、本作が第4位。

(注3)本作の監督は、『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』のブラッド・バード

(注4)劇場用パンフレット掲載の「ストーリー」では、ニューヨーク州ピッツフィールドとされています(ただ、ネットで調べると、ピッツフィールドはマサチューセッツ州にあるようですが)。

(注5)アメリカ人のエジソンだけでなく、クロアチア生まれの発明王ニコラ・テスラとか、フランス人のエッフェルやヴェルヌ、イギリス人のウェルズというように、各国の人たちで構成されています。

(注6)例えば、真鍋博氏が描いたイラストでしょうか。



(注7)それで、フランクは、未来都市を追われ、現代の社会に戻っているのです。ただ、ケイシーとアテネがやっとのことで彼の家に入ると、幾つものモニターに、地球の大変な様子が映しだされており、なおかつあと59日で地球が滅亡するとされているのです(ただ、モニターが破壊された後、フランクが「世界は1年前に終わるはずだった」と言っているのはよく理解できませんが)。

(注8)例えば、ケイシーが学校で受ける授業では、暗い未来ばかりを教師が語り、彼女が「対策は?」と尋ねても、誰も取り合ってはくれません。これは、モニターが発信する映像が直接人間の脳に送り込まれて、地球が滅亡するのが当然のことと思われてしまっているからでしょう。でも、そうだとしたら、ケイシーは、どうしてその影響を受けなかったのでしょうか(まあ、そういう人間だから、ケイシーはアテネによって選ばれたのでしょうが)?

(注9)ニックス提督は、「我々が、直接、人間の頭に破滅の未来を送り込んだら、人は、それを利用したんだ。世界中がこの世の終わりに酔いしれた。自分たちが行動しても、未来が良くなるとは思っていない。タイタニックが沈んだのは、沈みたかったからだ。悪いのはモニターじゃない、人間の方だ」などと言いますが、強弁にすぎないでしょう(自分で「未来」の映像を送り込んで人の意識を変えてしまっているのですから)。



★★★☆☆☆



象のロケット:トゥモローランド

海街diary

2015年06月23日 | 邦画(15年)
 『海街diary』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本年のカンヌ国際映画祭に出品された作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭場面は、ベッドで眠っている若い男と女。
 そこに電話が。
 メッセージを読んだ女(次女の佳乃長澤まさみ)が起き上がって、「呼び出し?」と尋ねる男(坂口健太郎)に、「ごめんね。大した呼び出しじゃないんだけど」と言って、キスをして男の部屋から出ていきます。
 マンションから出ると、前の道路の向こうには海が広がっています。
 その海沿いの道を佳乃が歩いているところで、タイトルクレジット。

 次いで、佳乃は大きな2階建ての木造家屋に玄関から入っていくと、三女の千佳夏帆)が現れ、「お帰り。泊まる時は連絡した方がいいよ」と忠告すると、佳乃は「流れでそういうことがあるんだ、大人には」と答えます。
 そして、長女の綾瀬はるか)が登場し、「遅い。肝心な時にいつもいないんだから」と怒ります。

 次の場面は、3人が食卓を囲んで朝食をとっています。
 幸によれば、3人を捨てて家を出て行った父親が山形で死んだとのこと。
 3人目の妻と暮らしていて、中学生の娘がいるようです。
 佳乃が「妹?」と言い、千佳が「お葬式、どうすんの?」と尋ねると、市民病院で看護師を務める幸は、「自分は夜勤があるから、あんたたち行って」と言います。

 信用金庫勤務の佳乃とスポーツ店勤務の千佳は、仕方なく山形に向かうことに。
 列車の中で、佳乃が「気が重い、15年も会っていないのだから」と言うと、千佳は「お父さんは優しかった、動物園に連れて行ってくれた」と応じたりします。

 列車が目的の駅「河鹿沢温泉駅」に着くと、女の子(四女のすず広瀬すず)が現れ、「遠いところお疲れ様です」と挨拶します。
 この四女が、3人の姉妹が住む鎌倉の家にやってきて暮らし出すことから映画の物語が展開していきますが、さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、是枝監督の前作『そして父になる』と同じように、普通の家族とされているところに、ポンと異質のものを投げ込んだ時に、人々の関係がどうなるのかが描かれているように思われます。ただ、全体としては何事も穏やかに流れていき、まるで鎌倉という場所がこの四姉妹をそっと包み込んでいるようで(注2)、人というよりむしろ鎌倉の描写に重点が置かれているかのごとくです(注3)。

(2)もう少し申し上げれば、是枝監督の前作の場合は、子供の取り違えというかなりショッキングな出来事が描かれていましたが、本作は腹違いの妹・すずを3人の姉妹が引き取るということで、家族の中に投げ込まれるものの異質さの度合いが、前作よりも随分と低下している感じがします。
 その上、四女が大変明るい性格の持ち主のように描かれていることもあって、迎え入れた3人の姉妹のそれぞれに引き起こされる事件も大したものにはならずに済んでいます。
 そのせいもあって、全体としてやや穏やか過ぎる感じがしないでもありません。でも、インパクトのある厳しい出来事を描く映画が多い中で、こうした作品は素晴らしい清涼剤になるのではないでしょうか?

(3)映画がゆっくりと展開されていくために、とりとめない連想をしてしまいます。例えば、
・本作では四姉妹が描かれることから(注4)、下記(4)で触れる渡まち子氏が指摘するように、過去何度も映画化された谷崎潤一郎の『細雪』が思い浮かびます。ただ、それを原作とする映画はどれも、洪水のシーンがあるなど(注5)、ずっと起伏の激しいストーリーだったように思います。
 とはいえ、例えば、本作では祖母の七回忌が描かれるところ、『細雪』の映画でも法事のシーンを見ることができます(注6)。

・本作のラストシーンのように、海岸にいる4人の女性という点からすると、『ペタルダンス』〔この拙エントリの(3)〕の方でしょうか(注7)。



・四姉妹が暮らす鎌倉の家では、食事はちゃぶ台でします(注8)。



 今どきテーブルを使わない家は珍しいと思いますが、四人姉妹の家が純日本家屋で畳の部屋ばかりですから仕方がないのかもしれません。案の定、佳乃が立膝をついていると、幸から怒られたりします。
 ちゃぶ台での食事風景は、時代設定が昭和の映画にはしばしば登場するところ、最近では 『海を感じる時』で、恵美子(市川由衣)と洋(池松壮亮)の二人がちゃぶ台を挟んで食事をしていました。

・市民病院に勤務する幸は、同じ病院の小児科医(堤真一)と不倫関係にあります(注)。



 はっきりとはしませんが、彼の妻は精神的に問題があって別居しているようです。こうした関係も様々な作品で描かれているところ、最近では『白河夜船』において、主人公の寺子(安藤サクラ)は、妻が交通事故によって植物状態にある岩永(井浦新)と関係を持っています。

 その『白河夜船』のラストでは、寺子と岩永が隅田川で打ち上げられている花火をビルの間から眺めるシーンがあり、本作でも、佳乃が勤務先の信用金庫のビルの屋上から同僚たちと花火を眺めるシーンがあります。

・佳乃は、恋人の学生(本作の冒頭に登場)に振られ、仕事一筋に生きると宣言し、上司の坂下係長加瀬亮)と江ノ電に乗って得意先周りをしています。



 その様子から、なんとなく、『海炭市叙景』で谷村美月と加瀬亮とが函館の市電に乗りあわせている場面を思い出しました(注10)。

・三女の千佳は、「うちのカレーと言ったら、おばあちゃんのちくわカレーなの」と言って、カレーを作ってすずと二人で食べます(注11)。



 カレーが登場する映画は多いでしょうが(注12)、最近作ならば『深夜食堂』の第3話「カレーライス」でしょう。

のトンネルを、四女のすずが、同級生の風太前田旺志郎)が漕ぐ自転車に乗せてもらって通り抜けるシーンが印象的です。すずは、「いっぱい咲いているじゃない!スゴーイ」と叫びます。
 満開の桜ならば数限りなく名作がある中で、最近では『あん』で描かれた桜は素晴らしいものがありました。

・すずは、仙台にいた頃サッカークラブに入っていたというので、千佳の勤務先のスポーツ店の店長(浜田三蔵)の口利きもあって、地元のサッカーチーム「湘南オクトパス」に入ることになります。



 すずが加入したチームの試合の模様が映し出されると、あまり感心しなかった作品ながら、『スマイル、アゲイン』を思い出し、「湘南オクトパス」の監督(鈴木亮平)は、ジェラルド・バトラーが演じるジョージ・ドライヤーに該当するのかな、でもそれでは野性味あふれるジェラルド・バトラーと明るくさわやかな鈴木亮平(今や体格では敗けないでしょうが)とでは対極的だな、などと思ったりしました。

(4)渡まち子氏は、「「そして父になる」の次は“そして家族になる”ストーリー。死や別れの先にある生の愛しさが、残像のように残る秀作だ」として80点をつけています。
 中条省平氏は、「舞台が鎌倉であることから小津安二郎の映画を連想する。父の葬儀の斎場の煙も明らかに『小早川家の秋』を示唆する。家族崩壊の危機は小津の根本的テーマだった。だが、人生の虚無を見つめる小津に比べれば、是枝には子供たちに託す希望の明るさが感じられる」として★4つ(「見逃せない」をつけています。)
 稲垣都々世氏は、「是枝作品は、往々にしてテーマが先行する。明確なコンセプトのもとに構成やせりふを作り込み、感性より理性や論理が前面に出る。しかし、今回はいつものスタイルとはちょっと違う。アピール感を抑え、ゆるさを許し、ふんわりした自然な空気を作り出そうとする」と述べています。
 藤原帰一氏は、「劇に起伏を持たせない一方、画面のつくりは精妙です。庭に咲く草花から季節を伝え、その花々を揺らす風までも感じさせる画面が美しい。そして暮らしが古風なんですね」と述べています。
 小梶勝男氏は、「今が旬の女優たちが演じる4姉妹は、生命力にあふれて実に魅力的だ。だが、光が強ければ影も濃いように、命の輝きが増すほど死や不在も色濃くなる。そのコントラストが、鎌倉の美しい四季の風景とともに、胸を打つ」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は、『そして父になる』や『奇跡』、『空気人形』、『歩いても、歩いても』の是枝裕和。
 原作は、吉田秋生の漫画『海街diary』(小学館)。

(注2)山形の「河鹿沢温泉」で暮らしていた時分、亡くなった父親がすずを連れてよく行った場所は、その眺めが鎌倉の景色と大層似ているとのこと(すずの話によれば、仙台にいた時分にもそのような場所があったとのこと)。
 なお、4月に見たNHK番組「ブラタモリ」では、辰巳用水の水源地の方から金沢市街を見る場面がありましたが、本作で映しだされる、山側から見た鎌倉市街の感じとやや似ているように思えました(扇状地めいた感じが類似しているのでしょうか)。

(注3)出演者の内、最近では、綾瀬はるかは『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』、長澤まさみは『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、夏帆は『箱入り息子の恋』、加瀬亮は『自由が丘で』、鈴木亮平は『予告犯』、病院の師長役のキムラ緑子は『駆込み女と駆出し男』、三姉妹の大叔母役の樹木希林は『駆込み女と駆出し男』、山猫亭の店主役のリリー・フランキーは『ジャッジ!』、風吹ジュンは『抱きしめたい―真実の物語』、堤真一は『駆込み女と駆出し男』、三姉妹の母親役の大竹しのぶは『悼む人』で、それぞれ見ました。

(注4)四姉妹については、例えば、このサイトが参考になります。

(注5)尤も、1983年版『細雪』(市川崑監督)では洪水のシーンは見られませんが。

(注6)このブログの記事には、1983年版『細雪』の法事のシーンの写真がいくつか掲載されています。
 なお、本作では、最初に、四姉妹の父親の葬儀の場面が描かれ、また後半では、皆がよく行った海猫食堂の店主(風吹ジュン)の葬儀の場面もありますが、葬儀の場面といえば、最近では『娚の一生』でしょうか。

(注7)尤も、本作では4人の絆が強まる明るくポジティブな場面となっていますが、『ペタルダンス』では、冬の海を前にしていたりするので、ずっと陰鬱な感じが漂っています。
 なお、海岸にいる4人が楽しく談笑するということでは、男性版ながら最近見た『予告犯』はどうでしょう。

(注8)原作の漫画においても同様です。
 ただ、いまどき、20代の普通の若者が長い時間正座などできるのでしょうか?

(注9)堤真一は、『孤高のメス』で医師・当麻の役を演じ、その際も、本作同様いともアッサリと赴任先の病院を辞めてしまいます〔その病院の看護師・浪子(夏川結衣)は、当麻に好意を持ちますが、恋愛関係には至りません〕。

(注10)尤も、映画の中で谷村美月と加瀬亮とは何の関係もないため、二人の間に会話はありませんが。

(注11)その際、千佳が、「私、お父さんのこと余り覚えていないの。すずの方が、いっぱい思い出あるでしょ。いつか教えて」とすずに言うと、すずは「釣りが好きだった。週末に一緒に行っていた」と応えるものですから、千佳は、自分も釣りが趣味なので「本当に!」と嬉しがります。
 別の機会ですが、仏壇の上に飾られているおばあさんの写真を見て、すずが「幸さんに似ている」と言うと、千佳が「姉の前で言わない方がいい。そう言われるのが一番嫌みたいだから」と注意します。
 さりげない会話の中で、姉妹たちの縦のつながりが暗示されています。

(注12)例えば、『転々』で小泉今日子が作るカレー。



★★★★☆☆



象のロケット:海街diary


予告犯

2015年06月19日 | 邦画(15年)
 『予告犯』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)生田斗真の主演作であり、また予告編で見ても面白そうな気がして、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の最初の方では、新聞紙で作った仮面をかぶった男(シンブンシ)が、「6時間のナイトパック1500円のこのタコ部屋の片隅から、俺が世界を変えてやる。明日の予告を教えてやる」などと喋っている動画が映し出された後に、タイトルクレジット。
 次いで、アジサンフーズの看板のある会社の倉庫らしきところに、窓ガラスを破って何者かが侵入し、油を撒きそれに火をつけるシーン。

 場面は変わって、警視庁のサイバー犯罪対策課。
 刑事の吉野戸田恵梨香)が、「もう一度見せて」と言うと、ディスプレイに「予告003」と写り、続いて、シンブンシが、「今回のターゲットは、アジサンフーズだ。食中毒事件を起こしながら、法律の不備だと逆ギレ会見した。俺がきっちり火を通してやる」と画面で言っています。
 そんな最中、別のTV画面にアジサンフーズの火事の様子が映し出されます。
 吉野刑事は「やってくれるじゃない!」と言い放ちます。



 さらに警察では、これまで投稿された関連動画を見ています。
 「予告001」でシンブンシは、「今回のターゲットは、飲食店のアルバイト店員。ゴキブリを揚げた写真をSNSサイトで発表。こんなグルメ君には、ご褒美として特製メニューを腹いっぱい食わせてやる」と言っていますし、「予告002」では、「今回のターゲットは大学生。彼は、同じ大学の学生が引き起こした強姦事件について「男にホイホイついていく女も悪い」などとつぶやいた。彼には特別な元気玉を注入してやろう」と言っています。
 そして、スクリーンでは、予告犯が予告したようなことがそれぞれ実際に引き起こされ、動画サイトで中継されています。

 さあ、シンブンシとはどんな人物で、一体何のためにいろいろな騒動を引き起こしているのでしょうか、………?

 本作には、派遣社員とかブラック企業、臓器売買、違法な廃品処分などなど、現代社会の先端的な問題が映画の中にこれでもかという具合に一杯つめ込まれてはいます。とはいえ、本作で描かれるようなメインのストーリーでは、TVドラマの中の1話くらいの感じしかせず、酷く拍子抜けしてしまいました(注2)。

 (以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)確かに、吉野刑事がゲイツ生田斗真)を追いかけるシーン(注3)は、『この愛のために撃て』とか『スウィッチ』を彷彿とさせるほど力のこもったものだと思いましたし、ラストシーンにまで至ると、本作の二人は広い意味でラブストーリーを演じているようにも思えてきます(注4)。

 それに、主犯格のゲイツについては、こうした事件を引き起こすに至る背景がかなり描きこまれています。

 ゲイツが派遣職員として働いていた職場はブラック企業であり、その社長(滝藤賢一)は人そのものかもしれません。
 そんなところで働いていたために、ゲイツは、とうとう胃潰瘍になって入院することになり、履歴書に2年間の空白期間が生じてしまい、まともな就職はできなくなってしまいます。

 ですから、ゲイツが社会に対して鬱屈するものを持っていて、「俺が世界を変えてやる」などと叫ぶのもよく理解できるところです。そして、そんな彼が、元のブラック企業に復讐するとか、社会を転覆しようとする凶悪なテロリストになるとかというのであれば、それも理解できるように思われます。
 でもそれでは、ある意味で酷く常識的であり、今更作品化するには平凡すぎると考えられたのでしょうか、社会に対する憎悪は内に秘められているにせよ、この作品で前面に描かれるのは、ゲイツの仲間に対する熱い友情の方です。

 あのような産廃業者のタコ部屋で共同生活をすれば、同室者の間に強い友情関係が生まれることもあるのでしょう(注5)。
 ただ、そうだからといって、生きているのならともかく死んでしまったヒョロ福山康平)の父親を皆でわざわざ探し出そうとするでしょうか(注6)?
 それも、実に迂遠とも思えるやり方によって?

 もちろん、本作のようなケースでは、取っ掛かりが何もないのかもしれません。
 失踪者の捜索願を警察に届け出るといっても、ヒョンの父親のフルネームなど何もわからないのですから(仮にわかっていたとしても、警察では単に書類を作成するだけのことしかしないでしょう)。
 でも、逆に、社会的な騒動を引き起こし、その騒動に国会議員を巻き込ませることによって、警視庁公安部を引き出し、その組織的な力で父親を探してもらう、などというシナリオを、どういう背景があって一介のプログラマーに過ぎないゲイツは考えついたのでしょうか?
 例えば、ゲイツのシンブンシ仲間に警察関係者がいるということであれば話は別です。
 でも、カンサイ鈴木亮平)は元ミュージシャン、メタボ荒川良々)はパチスロにはまった男、ノビタ濱田岳)はニートであり、とても警察関係の詳しい情報を持っているようには思えません。



 こんな状況では、たとえ、ヒョンの父親を探し出してその遺骨を手渡すことを願ったとしても、到底無理だと考えて諦めるのではないでしょうか?

 とにかく、予告犯として引き起こされた事件はいずれも嫌がらせとしかいいようがないくらいつまらないものながら(注7)、社会を大きく騒がせました(注8)。
 にもかかわらず、その挙句に、吉野刑事が、「そんな小さなことのために…」と言い淀んでしまうくらいのことしか起こらないのです!

 映画の中で、ネットカフェの店員の青山窪田正孝)が、取調べ刑事相手に、さも悟っているかのごとくに「大きなことじゃなくても、人は動く。それが誰かのためになると思えば」と言いますが、そんな箴言めいたことをまともに言われても、見ている方はしらけるばかりです。

(3)渡まち子氏は、「ネット上で予告犯罪を繰り返す集団と彼らを追う女性捜査官の攻防を描くサスペンス・スリラー「予告犯」。後半が少々しめっぽい」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「「予告犯」は、すばらしいアイデアとストーリーを兼ね備えた、邦画としてはなかなかの一本。だがディテールの弱さと演出の軽さが、取り扱っている社会問題の現実における重さとつりあっていない。それが最大のマイナス点である」として60点をつけています。
 読売新聞・編集委員の福永聖二氏は、「彼らなりに犯行目的はあるのだけれど、もっと大きな悪を相手にしなければ共感しにくい」と述べています。



(注1)本作の原作は、筒井哲也の漫画『予告犯』(集英社)。
 監督は、『ポテチ』や『みなさん、さようなら』などの中村義洋
 脚本は、『永遠の0』などの林民夫

(注2)出演者の内、最近では、生田斗真は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、戸田恵梨香は『駆込み女と駆出し男』、鈴木亮平は『TOKYO TRIBE』、濱田岳は『偉大なる、しゅららぼん』、荒川良々は『ジャッジ!』、窪田正孝は『カノジョは嘘を愛しすぎてる』、滝藤賢一は『るろうに剣心 伝説の最後編』、小日向文世は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』、小松菜奈は『渇き』で、それぞれ見ています。

(注3)劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、ロケ場所は六本木と渋谷川とのこと。

(注4)吉野刑事の小さいころのエピソードも描かれていて、現在の境遇はまるで違いますが、逆にゲイツに強く共感するところがあるのかもしれません。
 なお、ノビタと彼がよく行く中華調理店の店員(小松菜奈)との淡い関係も、微笑ましく描かれています。

(注5)まして、雇い主の産廃業者を皆で殺してしまったのですから、その絆は強いものとなるでしょう。
 なお、産廃業者がいなくなったことから、その家族から捜索願が出され、警察の捜査で現場の火事のことも判明し、…という具合にゲイツらに捜査の手が及ぶということは考えられないでしょうか(ただし、その死体をヒョンとは別の場所に埋めてしまっていたとも考えられます)?

(注6)父親に会い「父ちゃんと呼びたい」とのヒョロの願いを叶えてあげようとして、父親を探し出してヒョンの遺骨を手渡したとしても、子供を見捨てて日本に戻ってしまうような男は見向きもしないのでは、と考えてしまうのではないでしょうか?

(注7)「予告005」の場合、設楽木議員小日向文世)を殺害するという内容であり、レベルが上がっていますが、実際にはスキャンダルの暴露に過ぎませんでした(同議員の政治生命は絶たれますが)。
 ただ、ゲイツがいくらプログラマーでありハッキングができるとしても、設楽木議員のパソコンにスキャンダラスな情報が保存されていることをどうして知ったのでしょう?

(注8)「予告001」から「予告004」(ターゲットは、会社の採用面接をSNSサイトで実況報告をして笑っていた会社員)によってターゲットにシンブンシが与えた制裁は、シンブンシが糾弾する行為と同程度のものでしかないのではないでしょうか?常識的には、これでは、社会的な騒動を引き起こすでしょうが、人々の共感は得られないものと思われます。



★★☆☆☆☆



象のロケット:予告犯

駆込み女と駆出し男

2015年06月16日 | 邦画(15年)
 『駆込み女と駆出し男』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)『夏の終り』で好演した満島ひかりが出演しているというので、遅ればせながら、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の当初の時点は天保12年(1841年)(注2)。
 冒頭では、女義太夫ら十数人が腰縄でつながれ、市中を引き回された上に、日本橋の袂で3日間の晒しの刑に遭っています。
 老中水野忠邦の天保の改革で出された質素倹約令に反したためです。

 主人公の中村信次郎大泉洋)は、手拭いを頭に江戸の街を端唄を口にしながら歩いていますが、この晒しの刑を見ている人だかりの後ろから、お上による風俗取締りを批判する声を上げます。
 それを咎めた小役人が信次郎を捕まえようとするので、彼は急いで逃げ出します。
 ここで、タイトルクレジット。

 次いで場面は、舟着場の舟から荷を下ろす光景。お吟満島ひかり)が、帳面を見ながらチェックしています。
 その店の店先に回ると、ちょうど貸本屋(高畑淳子)が来ていて、本が並べられています。
 お吟は、「滑稽本ばかりだね」とつぶやきながら、女中たちに向かって「好きなのを持って行っていいよ」と言い、貸本屋に「馬琴は?」と尋ねると、貸本屋は、「28年間、八犬伝を書き続けています」などと答えます(注3)。

 それからお吟は、仏壇と神棚を拝んで、「お供はいらないよ」と言って店を出ていきます。
 お吟が現れるのは、高級座敷鮨の「いさご」。
 そこでは、浮世絵師の渓斎英泉山路和弘)(注4)が、芸妓の背中にエロティックな絵を描いていたりします。
 お吟は、旦那の堀切屋三郎衛門堤真一)の隣に座ると、その顔を見て「働き詰めに働いた男の顔」と言い、堀切屋が「いい顔かい?」と訊くと、お吟は「ええ」と答えます。



 そして、「ちょいと荷降ろしの様子を見てきます」と立ち上がり、出口で「いさご」と書かれた提灯を手にして、「六郷の渡しから鎌倉までどのくらいかかる?私は今晩ここに来なかった。いいね、おじさん」と言いながら立ち去ります。

 こうして鎌倉に急ぐお吟と、鉄練りじょご戸田恵梨香)とが途中で偶然に出会って、ともに東慶寺に駆け込もうとするのですが、さてその首尾や如何に、………?



 本作は、一方で、様々の女たちの東慶寺に駆け込む理由がどれも簡単なものではなさそうであり、他方で、鳥居耀蔵とか曲亭馬琴などの歴史上の著名人が登場もしますし、全体として随分と間口が広げられていて、とりとめのない感じがします。それでも、大泉洋扮する戯作者と戸田恵梨香の鉄練り女とのラブストーリーに満島ひかりの妾の物語が絡んでくる話と次第にわかってくると、そうしたとりとめのなさも逆に面白く思えて来るのですから不思議です(注5)。

(2)本作は、本作の原案とされる井上ひさし著『東慶寺花だより』(文春文庫)に収録されている「東慶寺は何だったのか」という井上ひさしの講演録にあるように、「女性のための幕府公認のアジール」である東慶寺を巡る物語です(P.441)。
 “アジール”について、井上ひさしは、「もともとは、ギリシア語」で、「日本語では、隠れ場所、聖域、尊い地域、保護区、治外法権の避難所といった意味にな」ると述べています(p.440)。
 そんなところから、一時は歴史学者を中心にこの言葉がよく使われるようになりました(注6)。
 ただ、今では余り言われなくなった感じがするところ、それは、松岡正剛氏がこの記事の冒頭で言うように、「いま、アジールが何かがわからなくなっている。世の中に逃げ込む場所がなくなりつつある。アジールはしだいに縮小してマンガ喫茶などとなり、さらには内面化して鬱病に転化したりもする」せいなのかもしれません(注7)。
 それにもともと、「治外法権の避難所」といった事々しい性格を持っていたのでしょうか?
 本作を見てもわかるように、外の一般の世界が、ごく一定部分(東慶寺においては「縁切り」)について、その力を及ぼさないようにするというだけのことであり(注8)、結局は外の世界に丸々依存して維持されているシステムではないかと思われます。
 その中においても、様々な秩序が維持され(注9)、一定の決まりがあり(注10)、結局は外の世界とそれほど違ったものでもないように思われます(注11)。
 本作では、ご政道に批判的な信次郎が逃げ込める場所、ご禁制のマリア像を隠し持てる場所などとして東慶寺(あるいは御用宿の柏屋)が描かれていますが、果たしてそんな大層な場所だったのでしょうか(注12)?

 とは言え、そうしたことなどどうでもいいことでしょう。本作は、歴史研究ではなく、歴史ファンタジーなのですから。
 とにもかくにも、本作で描かれる3人の人物に興味を惹かれます。

 まず、大泉洋が扮する中村信次郎ですが、本居宣長が国学者・歴史学者でありながら医者でもあったように、戯作者でありかつ医者でもあります。そんなところから、信次郎と100年ほど時代を遡るとはいえ、なんだか平賀源内を彷彿とさせるところがあるように思えてきます。
 平賀源内は多才の人であり、風来山人の名で春本の『長枕褥合戦』などを著した戯作者でもあっただけでなく、蘭学者の杉田玄白と親交がある医者でもありました(注13)。
 他方、信次郎も、まだいずれも駆出しながら、医者として鉄練りじょごの顔面の傷を治したり、戯作者として『蚤蚊虱の大合戦』(注14)を書いたりしています。
 この信次郎を大泉洋が演じるわけですが、一方で、自分が書いた戯作をものすごい早口で説明したり、清拙和尚麿赤兒)に医学的知識を試される場面(注15)で丁々発止のやり取りをしたりし、他方で、東慶寺に滞在する女が病気になった時の滑稽な治療の様子(注16)など、観客を笑わせる演技も十分です。



 『清須会議』での羽柴秀吉役といい、クマネズミには、大泉洋はむしろ時代物が似合っているように思われました(本数はごく少ないのですが)。

 その信次郎が診察し治療にあたることになるお吟は、演じる満島ひかり自身が言うように(注17)、いかにも「あだっぽい」女に描かれており、また満島ひかりもそれを実に巧みに演じているように思います。
 時代劇を演じる満島ひかりは『一命』で見ましたが、その時も極貧の生活で病に伏せる哀れな妻の役を見事に演じていました。
 彼女も、現代劇もさることながら、大泉洋と同じく時代劇に合っているようです。

 他方、鉄練りじょごですが、東慶寺で暮らすようになってからは、信次郎の指導を受けながら薬草の栽培・採集に努めています。こんなところは、本草学を学んだ平賀源内的側面を持っているように思えます(注18)。



 こんな鉄練りじょごを演じる戸田恵梨香は、あまり時代劇めいた演技はしておらず(注19)、とはいえ、じょごは、男の職場である鉄練りにおいて男以上の腕を持ち、なおかつ東慶寺では本草学を学んだりするのですから、むしろ近代的な雰囲気を持っているように思え、戸田の演技は、むしろじょごにふさわしいような感じがします。

 こうしたメインの3人の他に、本作では、つい最近『あん』で見たばかりの樹木希林(注20)が、男優がふさわしいと思える柏屋源兵衛に扮していますし、また山崎努曲亭馬琴役を演じたりしています。
 ストーリーの方で様々な話が綴られているところに、出演する俳優の方も数が多く多彩ですから、十分に楽しめる映画に仕上がっているように思いました。

(3)渡まち子氏は、「冒頭から長いセリフの応酬で、いかにも演劇風なのが最初は鼻についたが、大泉洋をはじめ、ワケ有り女を演じる戸田恵梨香、満島ひかりらの熱演にいつしか魅了され、143分はあっという間にすぎていった」として65点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「離縁を求めて行動を起こした女たちの姿がいきいきと描かれ、女優たちの好演もあってスピード感のある軽快な時代劇になった」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「登場人物の会話のリズムがいい。かなり早口で、最初は全部は聴き取れない。だが、江戸の雰囲気や話し手の勢いが伝わってきて、気にならない。このリズムが、役者たちも、それを追うカメラも、すべてを引っ張って生き生きと動かしているようにさえ思える」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「確かに、脇役の造形や展開など、いつもより脚本に粗さはあるが、全体のスピード感に溶け込んであまり気にならない。ここでは監督の映画への愛と知識がうまく機能し、過去への追従ではない、エネルギッシュで緊迫感みなぎる「らしさ」が濃厚に感じられる」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は、『わが母の記』や『RETURN(ハードバージョン)』の原田眞人

(注2)ラストの方は1843年。

(注3)曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、天保12年(1841年)8月20日に本編(第百八十勝回下編大団円)が完成します。

(注4)アニメ『百日紅』で葛飾北斎の家に居候をしていた善次郎がのちの渓斎英泉です。

(注5)出演者の内、最近では、大泉洋は『青天の霹靂』、戸田恵梨香は『アンダルシア 女神の報復』、御用宿柏屋番頭の妻役のキムラ緑子は『RETURN(ハードバージョン)』、堤真一は『神様はバリにいる』で、それぞれ見ました。

(注6)網野善彦著『無縁・公界・楽』(平凡社選書、1987年)の「無縁・公界・楽」の章では、戦国時代の「「無縁」「公界」「楽」という言葉でその性格を規定された、場、あるいは人(集団)の根本的な特質」が8項目にわたって述べられていますが、そうした戦国時代における“アジール”ともいうべき「場、あるいは人(集団)」の特徴の「すべての点がそのままに実現されたとすれば、これは驚くべき理想的な世界といわなくてはならない」、「まさしくこれは「理想郷」であり、中国風に言えば「桃源郷」に当たる世界とすらいうことができよう」と述べられています(P.125)。
 こんなところから、一定の歴史学者が重視したように思われます。

(注7)尤も、こうした研究によれば、「アジ―ルとしてのホームレス」という視点があるようです。

(注8)本作で描かれているところによれば、鳥居耀蔵北村有起哉)は東慶寺を潰してしまおうとしましたし(史実でしょうか?)、現に明治維新以降は、「駆け込み寺」としての役目は持ちませんでした(寺法は廃止され、尼寺でもなくなります)。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「豆知識」によれば、駆け込んだ女が支払う金額の多寡によって、寺の中での格付け決めらました。

(注10)劇場用パンフレット掲載の「豆知識」によれば、厳しい寺法が敷かれ、例えば男子禁制であり、病気になっても、原則、外には出られなかったりします。

(注11)むしろ、一般社会よりも一層厳しいかもしれません。
 網野善彦著『無縁・公界・楽』では、「一種の「牢獄」という見方も成り立ちうる」と述べられています(P.25)。

(注12)尤も、東慶寺には重要文化財の「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」があり、その箱の上面には「IHS」(イエズス会の紋章)が描かれています。ただ、これだけから、東慶寺が隠れキリシタンを匿っていたことにはならないように思われます。

(注13)ここらあたりは、Wikipediaの「平賀源内」の項によります。
 なお、本作の原案である『東慶寺花だより』の著者・井上ひさしは、平賀源内を主人公にした戯曲『表裏源内蛙合戦』を書いています!

(注14)『東慶寺花だより』(文庫版)のP.29~P.33にその滑稽本の内容が掲載されています。

(注15)『東慶寺花だより』(文庫版)のP.61~P.64に対応しています。

(注16)おゆき神野美玲)へのハチミツ浣腸の場面(これは原作では見かけません)など。
 なお、本作では、おゆきの妊娠問題で開かれる「大審問」が大きな見せ場となっているところ、『東慶寺花だより』にはそんな場面は書かれていません。こんなところもあって、同書は原作ではなく「原案」とされているものと思われます(ただ、「大審問」と言ったら、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」をイメージしてしまう人が多いでしょうから、言葉を変えた方がいいように思います)。

(注17)劇場用パンフレット掲載の「Interview」より。

(注18)『東慶寺花だより』(文庫版)に登場する「おきん」が元鉄練り職人ですが、本作のじょごとはかなり違った描き方がされています。
 なお、同書では鉄練りについて、「舟型の炉を築いて砂鉄と炭を入れ、炉の両端に取り付けたふいごから風を送り込んで炭を燃やし、その熱で砂鉄を溶かす作業のこと」とされています(P.108)。

(注19)劇場用パンフレット掲載の「Interview」で、戸田恵梨香は、「時代劇特有の所作とか、そういうものは今回まったくやらせてもらえなかった」と述べています。

(注20)ちなみに、本文で触れている松岡正剛氏は、その記事の中で、『あん』の主人公の徳江が長年入っていた施設のことを「同種の負の寄せ集め」の「強制的アジール」だと書いています。ただ、こんなことを言い出せば、網野善彦著『無縁・公界・楽』が述べていることですが、「幕府や一般初版において罪人を収容する牢獄そのものが、裏返された「自由」の場であったということも可能にな」り(P.28)、アジールの意味が混乱してしまうのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:駆込み女と駆出し男

新宿スワン

2015年06月12日 | 邦画(15年)
 『新宿スワン』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)園子温監督の作品であり(注1)、かつまた随分と評判が良さそうなので(注2)、映画館に行ってきました。

 本作(注3)の冒頭では、新宿の光景が映し出されます。
 主人公の19歳の白鳥龍彦綾野剛)が、「歌舞伎町一番街」と書かれたアーチの下をくぐって街の中に入っていきながら、「俺は人生の最底辺にいた。何も考えずに新宿にやってきた。新宿は、底辺からのし上がるのには一番の街だ。全財産は100円。帰りの電車賃もない」などとつぶやきます。



 そうこうしているうちに、街を歩いていたチンピラたちと殴り合いの喧嘩。
 龍彦は殴られて倒されますが、そこに立っていたのが真虎伊勢谷友介)。



 真虎は、チンピラたちに「もうそこら辺でいいんじゃない。後が面倒だから。こいつも俺のダチだ」と言い、龍彦に向かっても「今からダチだ」と言います。
 龍彦は、「放っておいてくださいよ。今から反撃すんだから」と強がりを言いますが、真虎は「バカじゃないの」と相手にしません。

 場面は変わって、龍彦は真虎から食事をおごってもらっています。
 龍彦が「なんで俺にこんなことを?」と不思議がると、真虎は「ダチと言ったから」と答え、更に「人生がなくなりかけて、プライドと言っていられなくなった、そんなヤツを探している。スカウトやんない?」と逆に尋ねます。

 外にでると、龍彦が「スカウトって、何の?」と尋ねると、真虎は「クラブのスカウト、でもそう簡単じゃない」と答えます。
 龍彦が「やってみる」と言って、そばを歩いている女の子の前に行って声をかけようとすると、真虎は「下手すると軽犯罪法で捕まるぞ」と警告します。

 こんな経緯で、龍彦は、真虎の下でスカウトになるのですが、果たして彼の前に待ち受けているものは、………?

 本作は、新宿歌舞伎町で暗躍するスカウトマンたちの争いを、今が旬な俳優を何人も投入して活写した映画で、これまでの作品で見られた園子温監督らしさは随分と引っ込んでいる分だけ面白さが前面に出てきて、1級の娯楽映画に仕上がっているなと思いました(注4)。

(2)本作における綾野剛の演技には目を見はりました。なにしろ、その前に見た『そこのみにて光輝く』や『夏の終わり』で落ち着いた文芸作品向けの演技(それぞれ素晴らしいものでした!)をしていたなと思ったら、本作では、金髪天パの原作そっくりの格好で登場し、殴り合いのアクションシーンまで演じるのですから(おまけに、33歳の彼が19歳の龍彦の役に扮するのです)!

 また、真虎役の伊勢谷友介は、『るのうに剣心 京都大火編』、及び『るろうに剣心 伝説の最後編』で四乃森蒼紫に扮し、人斬り抜刀斎(佐藤健)らと小太刀二刀流で必死に戦っていたなと思っていたら、本作では頭脳明晰なスカウト役を随分と冷静に演じていて、本来のいい味を出しています。

 さらに、龍彦と対峙する南秀吉に扮する山田孝之は、『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』の月原旬と似たような雰囲気の役柄ですが(その時は金髪でしたが)、龍彦と激しく争いながらも昔関係があったというその役を巧みにこなしています。



 もう一人、アゲハを演じる沢尻エリカも、『ヘルタースケルター』でのりりこ役とは役柄が異なるとはいえ(風俗嬢とモデル)、雰囲気は似ていて、なおかつ龍彦と手をつないで歌舞伎町の街を薄いものを羽織って裸足で走る姿は感動的ですらありました。

 なお、本作では、山城豊原功補)が社長のスカウト会社バーストと松方安田顕)が社長のハーレムとが歌舞伎町で勢力を張り合っていて、一応の境界線は敷かれていたものの、一触即発の状況でした。
 そんな時に、龍彦は、ハーレムの秀吉らに捕まって殴られた上に指を折られてしまいます。
 その事件をうまく膨らませてハーレムに乗り込んだ山城社長は、松方社長と直談判して、ハーレムを吸収合併することに成功します。
 こんなところを見ると、あちらの世界では、依然として勢力範囲拡大競争が行われ、ちょっとした事件がきっかけとなって、戦前の帝国主義的な戦争(領土の拡大を目的とするもの)が頻発しているのだな、という思いになります(注5)。

 そんなことはどうでもいいのですが、本作では、南秀吉関係の話は終わっているとしても、その他の話は終わっているとも思えず、また主人公の龍彦はまだ19歳ですからこの先の活躍もいろいろ想像されます。続編が期待されるところです。

(3)渡まち子氏は、「彼(龍彦)の“泥臭い熱さ”が、どこかヒロイックに見えてくるが、冷静に考えると、彼らは女性を喰いものにする類の男たちだ。群雄割拠の世界観は面白いが、共感を抱くことはできなかった」として55点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「綾野剛が、これまでの二枚目ぶりをかなぐりすててドン・キホーテ的な突貫青年を好演。龍彦をやたらに敵視するスカウト、秀吉(山田孝之)をはじめ、周囲は濃いキャラばかりで、欲望と策謀、バイオレンスたっぷりの世界を形成する」として★3つ(見応えあり)をつけています。
 外山真也氏は、「作家性の強い監督が我を捨てて職人に徹した時に立ち現れる、娯楽性と作家性のせめぎ合いが生むいびつな面白さが、本作にも確かに存在する」として★4つをつけています。



(注1)園子温監督の作品は、最近では、『TOKYO TRIBE』を見ています。
 なお、園監督の作品は、6月下旬に『ラブ&ピース』、7月に『リアル鬼ごっこ』、9月に『みんな、エスパーだよ!』が公開の予定で、この他にも『ひそひそ星』があるとかで、一体どうなっているのでしょう!

(注2)この記事によれば、「週末2日間で動員17万5,337人、興行収入2億5,232万4,500円を記録し、公開以来、5週連続1位を獲得していた『シンデレラ』からトップの座を奪った」とのこと。
 ただ、こちらの記事によれば、6月8日の時点では、『トゥモローランド』と『予告犯』に継ぐ3位に落ちています。

(注3)本作の原作は、和久井健氏の漫画『新宿スワン』(講談社)。
 なお、原作マンガは全38巻ながら、劇場用パンフレット掲載の「原作概要」によれば、「映画化の主なベースとなっているのは第1巻~第4巻の通称『秀吉編』」とのこと。

(注4)出演者の内、ハーレムの幹部役の金子ノブアキは『白ゆき姫殺人事件』、豊原功補は『寄生獣 完結編』、バーストの幹部役の村上淳は『さよなら歌舞伎町』、安田顕は『龍三と七人の子分たち』で、それぞれ見ました。

(注5)「ちょっとした事件」というのは、例えば、戦前の柳条湖事件とか盧溝橋事件とかが思い起こされます。

 なお、バーストとハーレムの抗争が戦前の帝国主義的な戦争と違っているのは、バーストの上には紋舞会〔会長が天野吉田鋼太郎)〕というヤクザ組織があることや(もしかしたら、戦前の国際連盟が相当するのかもしれません)、秀吉がクスリを取り扱って撹乱要因になっていること、などでしょうか。

 ただ、現時点で世界を見回してみると、領土拡張的な戦争が行われていることは稀なような気がします(ロシアによるクリミア併合はありましたが)。戦争が起きているのは、専ら宗教的あるいは民族的な理由によるもので、どれも内戦的な色彩を強く帯びているように感じます。



★★★★☆☆



象のロケット:新宿スワン

あん

2015年06月09日 | 邦画(15年)
 『あん』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)本作が、河瀬直美監督(注1)が制作し、第68回カンヌ映画祭「ある視点」部門のオープニング作品となったというので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、早朝、アパートの1室から千太郎永瀬正敏)が出てきて、階段を登り屋上に。そこでたばこを吸いますが、外は桜が満開。
 千太郎は、今度は階段を降り、どら焼き屋の「どら春」を開けて中に入っていきます。
 カーテンを開け、手拭いを頭に巻き、それからどら焼きの皮を作るのでしょう、ボウルでいくつも卵を割っていきます。



 ここでタイトルクレジット。

 次は、郊外電車の踏切の光景。
 主人公の徳江樹木希林)が歩いています。

 また画面が変わって、歩道橋の上で、女子中学生のワカナ内田伽羅)が「高校に行きたい」と母親に言うと、母親(水野美紀)は「高校の勉強じゃ食っていけない」と答えます。

 「どら春」では、千太郎がどら焼きを作り、女子中学生たちが腰掛けに座って、他愛ないおしゃべりをしながらどら焼きを食べたりしています。
 彼女らが帰った後、徳江が入ってきて、「表の紙にアルバイト募集ってあるけど、本当に年齢不問なの?あたしではダメですか?」と言います。
 千太郎が「おいくつですか?」と尋ねると、徳江は「満で76」と答えます。
 さらに、千太郎が「うちは安いですよ。700円」と言うと、徳江は「300円でいいのよ」と応じます。
 千太郎は、「ちょっと無理。腰悪くしますよ。案外、力仕事なんで」と、どら焼きを渡しながら断ると、徳江はそれを受け取って、「また来るわね」と言って手を振りながら立ち去ります。

 徳江は再度店にやって来て、「これちょっと食べてみて」と、あんの入ったタッパーを置いて帰ります。千太郎は、それを食べてみてその美味しさに驚き、結局徳江を雇うことになりますが、さあ、どうなることでしょう、………?



 この映画は、河瀬直美監督の初めて原作物とされていて、元ハンセン病の老女がどら焼き屋で働くことを巡るお話ですが、これまでの河瀬監督の作品と比べると、それが取り扱っている問題は大変重いにしても、かなり素直に映画の中に入り込める感じがしました。ただ、その分だけ、作品のメッセージ性が前面に出てきてしまって煩い感じがしてしまうのではとも思いました(注3)。

(2)本作には、映画からのいろいろなメッセージがアチコチに実にわかりやすく織り込まれているように思います。
 なにしろ、徳江が、ハンセン病を患ったために施設に送り込まれた年齢と同年代の女子中学生が「どら春」の常連ですし(注4)、さらには、裏に引っ込んでいた徳江が店の表に出てきて人々と接触するようになると、客足がぱったり遠のいてしまう状況が描かれたりします。
 さらには、公式サイトの「ストーリー」の冒頭に、大文字で「(本作は)たくさんの涙を超えて、生きていく意味を問いかける」とあり、さらに「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。……だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ」という主人公・徳江の言葉が掲げられてもいます。

 それだけでなく、河瀬監督がこれまでの映画で幾度となく描いてきた“自然と人間との調和的なつながり”(注5)といったものも、本作のあちこちに感じることができます。
 例えば、人間の問いかけに答えるかのような木の葉のそよぎ(注6)。
 また、徳江は、「あんを炊いている時の私は、いつも、あずきの言葉に耳を澄ましていました」などと言ったりします。



 それに、桜を見上げている時の徳江の嬉しそうな顔と言ったらありません。

 逆に言えば、前作『2つ目の窓』についての拙エントリでも申し上げましたが、いつも河瀬監督の作品に感じる“アレッ何だろうこれはといった謎めいた感じ”をほとんど持ちませんでした。
 逆に、映画から余りに一方的にはっきりとメッセージが伝えられると、観客の方では、なにも勉強をしに映画館に行くわけではないのですから、シラけた感じになるように思います。
 ただ、本作の場合は、そんな面が見えるとはいえ、河瀬監督以下のスタッフや樹木希林以下の出演者の実に真摯な取り組み方のゆえでしょう(注7)、素直に映画の中にアクセスできるように思われます。

 なお、まったくどうでもいいことながら、徳江の住処がある施設と「どら春」とは随分離れています(注8)。他方で、徳江は、あんを仕込むために日の出前にはもう「どら春」に来ています。交通機関はまだ動いていない時間でしょうから、どこか店の付近で寝てでもいたのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「柔らかい光をとらえた映像や、出演者の静かなたたずまいの演技が心に残るが、何よりも、差別のない社会を!と願わずにはいられない」として65点をつけています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「無知は誤解を生み、誤解は偏見とたやすく結びつく。だが、どんなに困難でも、差別をなくす努力を惜しんではならない。この映画を見た人たちが、そのように感じてくれるよう心から願う」と述べています。



(注1)河瀬直美監督の作品は、これまで『2つ目の窓』や、『朱花の月』とか『七夜待』などを見ています。

(注2)本作の監督・脚本・編集は河直美。
 原作は、ドリアン助川著『あん』(ポプラ文庫、2015)。
 なお、著者のドリアン助川氏は、河瀬直美監督の『朱花の月』に、明川哲也という名前で出演しています。

(注3)最近では、出演者の内、樹木希林は『そして父になる』、永瀬正敏は『まほろ駅前狂騒曲』、内田伽羅は『奇跡』、水野美紀は『俺はまだ本気出してないだけ』、「どら春」のオーナー役の浅田美代子は『0.5ミリ』〔真壁(津川雅彦)の姪役〕で、それぞれ見ました。

(注4)女子中学生の一人が、どら焼きの中に見つかった桜の花びらを指して「異物混入だよ、千ちゃん」と言うと、千太郎が「もう一個ずつあげるから帰って」と応える場面がありますが、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」が指摘するように、「この小エピソードが本作全体のトーンになっている」ようにも思われます。
 さらに言えば、ワカナが部屋で狭い鳥かごに入ったカナリアを飼っていることも、14歳で施設に入れられた徳江の状況を思い起こさせます(部屋で飼うことが許されず、ワカナは徳江に託しますが、むろん徳江はカナリアをスグに放してしまいます)。
 ただ、このカナリアを巡るエピソードについては、『2つ目の窓』についての拙エントリの(1)で申し上げたような、「河瀬監督が頭で思い描く観念的な図式に従って登場人物が動かされ台詞を喋っているような感じ」がしてしまうところです。

(注5)『2つ目の窓』についての拙エントリの(1)をご覧ください。

(注6)『2つ目の窓』についての拙エントリの「注15」をご覧ください。

(注7)劇場用パンフレット掲載の小池昌代氏のエッセイ「生命の湯気」では、「河直美の映画においてはしばしばそうだが、「演じる」ということが、ここでは豆の薄皮1枚ほどの幽かさで演技者たちの皮膚に被されている」と述べられています。
 また、千太郎役の永瀬正敏は、劇場用パンフレット掲載の「インタビュー」で、「河瀬監督の作品に出演されたみなさん、同じだと思いますが、現場に芝居を持って行っては駄目なんです。芝居ではなく、人を持って行かないといけない」などと語っています。
 こんなところを見ると、河瀬監督の演出法は、『やさしい女』についての拙ブログの(3)で触れたロベール・ブレッソン監督の方法(玄人役者の演技を排する)に、もしかしたら通じる面があるのかもしれません。

(注8)千太郎とワカナが徳江を訪ねて行くのにバスを使っていますから。
 それにもともと、老人が店まで歩いて通えるような近いところに施設があるとしたら、徳江の手を見て千太郎はすぐに気が付くのではないでしょうか(ただ、劇場用パンフレット掲載の「ストーリー」では、「変形した徳江の指の様子から、千太郎も薄々気づいてはいた。徳江がかつて、人には言いにくい病気を患っていたことを」と記載されていますが)?
 なお、千太郎は、徳江の「この桜は誰が植えたの?」という質問に対し、「ここで育ったんじゃないんで(知りません)」と答えていますから、あるいは施設にまつわる土地の噂を耳にしたことがないのかもしれません。



★★★☆☆☆




百日紅

2015年06月05日 | 邦画(15年)
 『百日紅―Miss HOKUSAI―』をTOHOシネマズ日本橋で見ました。

(1)本作の評判が良さそうで、かつまだ行ったことのない映画館(注1)を覗いてみようかという気もあって、日本橋まで足を伸ばしてみました。

 本作(注2)は、杉浦日向子の原作マンガをアニメ化したもの。
 冒頭では、大勢の人々が行き交う両国橋の真ん中にいるお栄(声:)が、「変チキなジジイがおりまして、北斎がオレの父」などとしゃべっていると、画面では、北斎(声:松重豊)が、箒のような筆で大ダルマの絵を描いたり、米粒に2匹の雀を描いたりしています。



 次いで、「文化11年(1814年)夏江戸」との表示。
 北斎の妻・こと(声:美保純)が住んでいる別宅に、「弁当買ってきた」と言いながらお栄が入ってきます。

 二人は弁当を食べながらしゃべります。
こと「おとっつあん、仕事減ってんだって?日々のおまんまどうしているのかと思って」。
お栄「筆2本。どうにかなってる」。
こと「金魚買って持ってきてくれたって?お猶(声:清水詩音)が、見えないのに見るって」。
お栄「見えるさ」。
お栄「おっかさん、オレこっちに住もうか?」。
こと「けど、おとっつあんが?」。
お栄「鉄蔵(=北斎)は、一人でも半分でも変わりない」。

 そして、庭に咲く百日紅の花が映しだされて、タイトルクレジット。
 さあ、このお話はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、葛飾北斎の娘で絵師のお栄(注3)が主人公のアニメ。



 元のマンガがしっかり描かれているために、なかなか見応えがあります。ただ、レベルの高いマンガをわざわざアニメ化する必要があるのかな、それでもアニメ化するのであれば何か新規な視角が必要なのではなど、いろいろ思えてきます。

(2)本作では、当時世界最大の都市であった江戸の賑わいが、両国橋を行き交う人々の活気あふれる姿などで描き出され、またお栄が描こうとしている龍が暴れたり、地獄絵からバケモノが出てきたり、北斎やお栄が見ている前で花魁の首が長く伸びたりと、アニメならではの映像をいろいろ楽しめます。

 ただ、本作において、隅田川の流れが「神奈川沖浪裏」に変化するところはなかなかのアイデアながら、既に原作でそれは芝居小屋の幕に描かれていますし(注4)、花魁の首が長く伸びる話も、原作に描かれているもの(注5)で十分な感じもしなくはありません(注6)。

 杉浦日向子の原作をアニメ化するにしても、定評のある原作漫画から物語を抽出するばかりでなく(注7)、少し違った視角から主人公のお栄を描くこともしてみてはと思ったりします(注8)。

 例えば、もっとお栄が描いたとされる浮世絵を前面に出してはどうでしょう(注9)?
 原作マンガでもそうですが、本作で取り上げられている絵(注10)は、お栄が描いたとされている「10点余り」(注11)の作品には入っていないようです。
 ただ、本作のエンドロールでは、お栄(応為)が描いた「吉原格子先之図」が映し出されます。



 この絵は、それまでの浮世絵とはかなり違っていて、西洋画の影響を随分と受けているように思われます(注12)。

 本作では、まるで江戸がそれだけで自存して他からの影響は何も受けていないかのごとく描かれていますが、本作が設定している文化11年なら明治維新まであと半世紀ちょっと、お栄と西洋画とは何かしらの接点があったのではないか(注13)、ひいては江戸後期の文化には西洋文化がかなり流れ込んでいるのではないか(注14)、などといった観点も出てくるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「アニメーションにしたことで、当時の江戸の庶民の生き生きとした暮らしや風俗が、ぐっと身近に感じられる。さらにアニメならではの演出は、お栄や北斎が描く絵がダイナミックに動きだすこと。物語も魅力的だ」として65点をつけています。
 稲垣都々世氏は、「アニメーションの特性を生かした映像も楽しめるが、江戸の風情や空気、そこに生きる人々の息吹をさりげなく表現したのが、この映画の主眼にして最大の功績だろう」と述べています。



(注1)TOHOシネマズ日本橋は、本年4月17日にオープンしたTOHOシネマズ新宿よりも1年以上前にオープンしましたが、足を踏み入れたことがないので、ちょうどいい機会だと思って遠出をしてみました。
 事前にあまり情報を持たずに、おそらく渋谷や新宿と同じような感じに違いないと思い込んで行ったものですから、銀座線の三越前駅を降りてからハテどこだろうとなりました。
 というのも、渋谷や新宿の場合、外観からすぐそれとわかるのに対して、日本橋の場合、「コレド室町2」の3階に入っていて、外観からではサッパリわからないからです。
 それでも、近くにいた警備員に聞いてようやくわかりました。

(注2)本作の監督は、『はじまりのみち』の原恵一
 原作は、杉浦日向子の漫画『百日紅』(ちくま文庫)。

(注3)葛飾応為。北斎(1760年~1849年)の三女。
 Wikipediaでは、「生まれた年は寛政13年(1801年)年前後で、慶応年間(1865年~1868年)に没した」と推定されています。
 他方、『北斎娘・応為栄女集』(藝華書院、2015.4)を編集した久保田一洋氏は、同書掲載の「応為栄女の諸伝」の中で、「応為の晩年がいつに当たるのかは分からないが、嘉永末(1854年ころ)から安政年間(1854年~1860年)に該当するだろうか」と述べています(P.139)。

(注4)文庫版「上」の「其の十四 波の女」。

(注5)文庫版「下」の「其の二十 離魂病」。

(注6)それに、本作で描かれる火事の場面は、原作漫画によっているのでしょうし(文庫版「下」の「其の十六 火焔」)、もともと「江戸の華」と言われたものですから描くのは構わないとしても、アニメ『Short Peace』〔第2話の「火要鎮」(ヒノヨウジン)〕の二番煎じの感を免れません。

(注7)本作の脚本を書いた丸尾みほ氏は、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、「とにかく原作が素晴らしいですし、話に大きく手を加える必要がないんです」と述べています。

(注8)例えば、新藤兼人監督の『北斎漫画』(1981年)は、葛飾北斎(緒形拳)とお栄(田中裕子)、それに滝沢馬琴(滝沢馬琴)との関係を描いていて、70歳のお栄も登場しますが、この作品は、北斎の春画を通して人間の「性」に焦点を当てているように思われます(何しろ、最後の方では、死の間際の馬琴の布団の中に全裸の田中裕子が潜り込んだり、何も身につけない樋口可南子が蛸と戯れる姿を北斎が描く様子が映しだされたりするのですから!)。

(注9)むろん、善次郎(声:濱田岳)、国直(声:高良健吾)、初五郎(声:筒井道隆)とお栄の男女関係にもっと焦点を当てて描き出すことなども考えられるでしょうが、クマネズミの好みからしたら、浮世絵自体の方に関心が向いてしまいます。

(注10)例えば、「地獄絵」(文庫版「上」の「其の九 鬼」)。

(注11)Wikipediaの「葛飾応為」の「作品」より。

(注12)少々応為と時代が重なる小林清親(1847年~1915年)の「九段坂五月夜」(1880年、錦絵)などを思い起こさせます。



 なお、下記「注13」で触れる小説『北斎と応為』を翻訳したモーゲンスタン陽子氏は、この絵について、「西洋画の影響を受けたはっきりとした色使いが特徴」と述べています(この記事)。

(注13)カナダ人のキャサリン・ゴヴィエ氏が書いた小説『北斎と応為』(彩流社、2014.6)では、「江戸にやって来たシーボルトとの対話」の場面が書き込まれているようです(この書評記事)。

(注14)例えば、司馬江漢(1747年~1818年)の洋画が著名です。



★★★☆☆☆


脳内ポイズンベリー

2015年06月02日 | 邦画(15年)
 『脳内ポイズンベリー』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)真木よう子(注1)の主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、いちこ真木よう子)が駅の階段を駆け降りてくると(注3)、ボタンが落ちてしまい、それを下にいた早乙女古川雄輝)が拾い、彼女に手渡します。
 いちこが「どうもありがとう」といったところで、タイトルクレジット。



 次いで脳内会議の光景。



 議長の吉田西島秀俊)が、「では多数決を取ろう」と言って、「(この男に)話しかける方が良いと思う人」と言うと、石橋神木隆之介)とハトコ桜田ひより)が挙手をし、「話しかけない方が良いと思う人」と言うと、吉田と池田吉田羊)が手を挙げます。
 吉田が、浅野和之)に挙手を促すと、岸は「私は記録係ですから。この男は早乙女亮一。フリーター男。飲み会で一度同席」と答えます。
 石橋が吉田に「なんで反対なの?」と尋ねると、吉田は「キャラじゃないから」と応じます。
 電車が接近してくるのがわかり、慌てて吉田が「もう一度決を取る」と言うと、今度は賛成が3人となります。
 岸が「少し接触してみても良いのでは」と言い、吉田も「賛成。多数派に従う」と言います。

 それで、場面は元に戻り、いちこは歩を進めて、早乙女に「あのう、こんにちは。この前はどうも。偶然ですね」と挨拶します。
 そこでお互いに話をしようとするのですが、電車が入ってきて騒音がすごく、何を言っているのかわかりません。
 でもとにかく、二人は食事をすることになって、それから、………?

 本作で描かれるような騒々しい会議は誰の脳内でも普通に行われていることかもしれませんが、こうした面白い構成をとることによって、二人の男の間で揺れ動く女心の状況が随分と巧みに捉えられているのでは、と思いました。さらに、主演の真木よう子は、『さよなら渓谷』や『そして父になる』でも大層好演でしたが、本作ではその可愛らしさがうまく引き出されているように思いました(注4)。

(2)いちこは、早乙女と一緒に牛丼屋で食事をした後、早乙女の部屋に行って結ばれることになりますが、出版社の越智成河)がいちこに好意を持っているようなのです。ありきたりの三角関係かもしれないとはいえ(注5)、この3人の関係がどうなるのか、なかなかおもしろくストーリーが展開されます。

 ただ、本作に問題点があるとしたら(こうしたファンタジー物についてあれこれ言ってみても、仕方ありませんが)、例えば次のようなことでしょうか。
イ)本作で専ら描き出されるのは女性の脳内会議であるにもかかわらず、その議長の吉田がなぜ男性なのでしょうか(更に言えば、石橋と岸も男性で、男性が過半数を占めているのはどうしてなのでしょうか)?
 とはいえ、脳内会議のメンバーは、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考を擬人化したキャラクター」にすぎません(注6)。それを男女のどちらに割り振ろうとも、それぞれが話す内容は性・ジェンダーを超えたものであり、余り問題ないかもしれません。
 でも、本作の場合、「衝動」のハトコが“ゴスロリ娘”(注7)とされていることには意味があるのではないでしょうか(例えば、早乙女の脳内会議における「衝動」としてハトコを想定できるでしょうか)?
 そして、他の4つの「思考」の意見を取りまとめて脳内会議の結論を下す役目の「理性」の吉田が男性であることにも何かしら意味があるように思えてしまいます。

ロ)その吉田ですが、「脳内会議をうまくまとめられずオロオロする議長」として描き出されているところ、その様子は、「自分に自信がなく優柔不断な主人公・いちこ」とウリ二つの感じがします(注8)。
 ということは、吉田の脳内にもさらなる脳内会議が設けられていて、いつも喧々諤々の議論がなされているということでしょうか(その脳内会議の「理性」も、さらにその脳内に会議を持っているかもしれません)?



ハ)そんな混ぜっ返しはともかく、よくわからないのは、脳内会議が紛糾し「限界MAX」状態になると登場する「黒いちこ」です(注9)。
 これは「本能」を表しているようでありながら(注10)、「衝動」のハトコとどこが違うのでしょう?なぜ、「衝動」とは別に「本能」なるものが現れるのでしょうか?
 それにもともと、「衝動」が脳内会議のメンバーとして「理性」の吉田のもとに置かれているというのも、よくわからない感じがするところです(注11)。
 ここは、「衝動」と「本能」を合体させ「情動」といったようなものとして、それと「理性」とを対立させたらどうか、とも考えられるところ、ただそんなことをしたら、脳内会議のメンバーが4人になってしまい(注12)、娯楽映画として随分と寂しい画面になってしまうことでしょう!

(3)渡まち子氏は、「本作では5つの擬人化した感情の内面を掘り下げるより、アラサー女性が自分の力で一歩前に踏み出す異色ラブコメを目指しているのだろう。最終的にヒロインが下す決断には、ちょっと胸がすく思いだった」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「よくできた舞台劇のような映画「脳内ポイズンベリー」は、恋愛ものでありながら主人公の悩める女子に男性でもたやすく共感できる、上手な作りになっている」として70点をつけています。



(注1)最近では、『まほろ駅前狂騒曲』で見ました〔多田(瑛太)が思いを寄せる女性の柏木役〕。

(注2)監督は、『キサラギ』や『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の佐藤裕市
 脚本は、『重力ピエロ』や『プリンセス トヨトミ』の相沢友子
 原作は、水城せとな同名マンガ(集英社:未読)。

(注3)この場面について、「真木よう子のおっぱいがはねる!」などと騒ぐ輩が随分といるようです!

(注4)出演者の内、古川雄輝は『まほろ駅前狂騒曲』、西島秀俊は『セイジ-陸の魚-』、神木隆之介は『るのうに剣心 伝説の最期編』で、それぞれ見ています。

(注5)いちこは30歳で、そのことを23歳の早乙女に言うと、彼が「えっ、30?うっそごめん、ないわー」と反応したものですから、いちこはフラれたものと誤解して急いでその場を立ち去り、家で泣き明かします。他方で、いちこが書く携帯小説を出版社で担当している編集者の越智(31歳)が、取材ということでいちこを誘って鎌倉に行き、突然いちこにキスしたりします。
 若々しく芸術家風で格好のいい早乙女と、堅実で誠実な越智との間で、30歳のいちこは激しく揺れます。

(注6)本作の公式サイトの「イントロダクション」より。
 「衝動」とか「記憶」が「思考」なのかどうかという点は、ここでは問わないことといたしましょう〔例えば、本文の(3)で触れる渡まち子氏は「5つの擬人化した“感情”」としています〕。

(注7)本作の公式サイトの「キャスト&スタッフ」より。

(注8)ここらあたりの引用も、本作の公式サイトの「イントロダクション」より。

(注9)例えば、最初に早乙女の部屋に行った時、いちこは乱雑に散らかった部屋を綺麗に片付けてから帰ろうとしますが、脳内会議は、このまますんなり帰るべきなのかどうかで紛糾してしまい、結局「限界MAX」状態になってしまいます。すると、突然「黒いちこ」が現れ、「あんたたち、騒いでいるだけで何もしていない。バッカじゃないか、寝てろ!」と叫び、机を叩くと、会議のメンバーは皆床に倒れてしまいます。
 そして、「本能」に乗っ取られたいちこは、早乙女に対し、「このまま帰るのは嫌。あなたのことを好きになった」などと喋り出すのです。

(注10)劇場用パンフレットの「COSTUME」では、「黒いちこ=本能」とされています。
 ただ、本作の場合(上記「注9」の続きになりますが)、「本能」が支配するいちこが、早乙女に対し、「私のこと好きでなければ帰ります」とか、「ちょっとだけ試してみたら?ダメだったら途中でやめてください」などと、かなり「理性」的な(ああだこうだ的な)物言いをするのです。
 でも「本能」と言ったら、例えば、『寄生獣 完結編』において田宮良子が見せるような有無を言わせない「母性“本能”」的行動(赤ん坊を突き落とそうとする倉森を一瞬に刺し殺して、赤ん坊を奪い取ります)を思い描いてしまいます。

(注11)たまたま、大井玄氏の『呆けたカントに「理性」はあるか』(新潮新書、2015.5)を読んでいましたら、次のような箇所に遭遇しました。
 「デカルト、カントは、理性が神から人間にだけ授けられた能力であって、他の動物には与えられていないと思っていました」(P.101)。
 「しかし、理性をそのように定義すると、重度の知的障害者や重度の認知症高齢者は人間ではなくなるという矛盾が生ずることに」なります(同)。
 これに対し、「「状況判断を行い生存に有利な行動をする能力」として理性を解釈し、その意味において、人間と同様に動物も「理性」をもっている、と断言したのが、イギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒュームでした」(P.102)。
 さらに、「デカルトとカントのもうひとつの間違いは、理性を使って意思決定するうえで、情動もかかわっている事実を無視したことでしょう」(P.129)。
 ここで「情動」については、「「快」「好き」という内部感覚」とか「「不快」「嫌い」という、感覚」、だけでなく、「行動も、さらにそれを起こしている生理的変化もすべて「情動」というのです」(P.60)。
 そして「ヒュームは、行為が、欲望や対人関係において生じる情動に左右されるのを見抜いていました。彼は、理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張し」ました(P.131)。

 こういう点からしたら、「衝動」あるいは「情動」が「理性」とは別物であるとする方が、説得力があるように思えます。
 〔なお、「理性」をめぐる議論は、経済学の新古典派の純粋理論が想定する“合理的な”経済人をめぐる批判にも類似するように思われます。素人ながら、クマネズミには、議論するフィールドがどの範囲まで取り扱っているのかによって見方が異なってくるのであり、正しいか間違っているかという問題ではないのでは、と思えるのですが〕

(注12)脳内会議のメンバーを4人とすると、決を取る場合2対2になって決められない事態となりかねません。ただ、「記憶」に投票権を与えないようにするとか、議長の「理性」は、多数決ではなく、「ポジティブ」、「ネガティブ」、「記憶」の意見を聞いた上、自分で総合的に判断するというようにしてみては、とも思うのですが。



★★★★☆☆



象のロケット:脳内ポイズンベリー