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そして父になる

2013年10月10日 | 邦画(13年)
 『そして父になる』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)あちこちで流される予告編で本編を見た気になってしまい、わざわざ行くまでもないのではと思い始めたものの、これほど評判の作品ならばやはり見ておかなければと考え直し、映画館に行ってきました。

 映画の始めの方では、6歳の野々宮慶多のお受験風景が描かれ、父親・良多福山雅治)と母親・みどり尾野真千子)との一緒の面接で、慶多は「お父さんとキャンプに行って、タコ揚げをした」と答えますが、終わったあとで、良多が「パパとキャンプに行ったりしなかったよな?」と尋ねると、慶多は「塾の先生がそう言えって」と言います。
 家に戻るとみどりは、母親(樹木希林)に、「あとになって公立で苦労するよりも、今頑張っていた方がって良多さんが言うの」などと電話で話しています。
 夜になって職場から帰ってきた良多に対して、みどりは「もっと遅くなると思ってた」と急遽うどんを用意する一方、慶多も習っているピアノを披露します(どうもうまくありません)。
 そのあと自分の部屋で仕事をしている良多に対し、みどりは「今日は忙しいところをありがとう」と言うと、良多は「このプロジェクトが終わるとゆっくりできる」と答えますが、みどりは「6年間ずっとそう言っていた」と応じます。

 こんな細かい場面の積み重ねで、野宮家の中の様子が随分とわかってきます。
 大手建設会社に勤める良多は、仕事中心人間であり、自信に溢れていて、全てを自分の判断で処理しようとします。みどりは、そんな夫に甲斐甲斐しくついてきましたが、その母親同様、内心不満がたまっている感じです。また、子供の慶多も、おとなしい性格で自分の気持ちを内に抑えこんでしまうようです。

 そんな野々宮家に、慶多が生まれた前橋の総合病院から電話がかかってきて、物語が動き出します。
 信じ難いことに、病院で赤ん坊の取り違えがあり、慶多は実の子供ではなく、みどりが生んだ子供・琉清は前橋の斎木家〔父親・雄大リリー・フランキー)と母親・ゆかり真木よう子)〕で育てられていることが判明します。



 さあ、良多やみどりはどうするのでしょうか、………?

 ストーリー自体は予告編から想像されるものと殆ど変わりはなく単純そのものながら、実際に映画を見てみると、子供を交換するまでのそれぞれの家庭の様子、交換の手続き、そして交換したあとのことが、それぞれかなり繊細なタッチで入念に描かれていて(注1)、見る者を感動させ、そして、こうした厳しい場面に追い込まれたら自分の場合どんな風に判断すべきか考えさせられます(注2)。

 今が旬といった福山雅治は、『真夏の方程式』で見たばかりとはいえ、こうした地味な役も大層うまくこなしていて演技の幅の広さを感じます(注3)。



 尾野真千子も随分と売れっ子になりあちこちで元気な姿を見かけますが(最近では、『探偵はBARにいる2』で見ました)、本作の抑えた演技も印象的です。
 リリー・フランキーは、『凶悪』での悪役ぶりを見たばかりなのでいささか戸惑ってしまいますが、実に味のある演技をしています。
 真木よう子も、『さよなら渓谷』での渋い演技から本作での肝っ玉母さん的な演技まで抽斗の多い女優であることがわかります。

(2)とはいえ、違和感も覚えました。
 最初は、なんで父親が問題なのだ、子供の取り違えで一番傷つくのは母親ではないか(自分のお腹を痛めた子供と思っていたら、それが違っていたというわけですから:注4)、まずは「そして母になる」ではないのか、などと思ったりしましたが、本作は父親に焦点をあてているのだから(子供の取り違えを契機としながら父親のあり方を問うている作品ではないでしょうか)、これはこれで構わないのかもしれないと思い直しました。

 ただ、一方の当事者の良多が大手建設会社勤務のエリート社員で、都心の高級マンションの上層階で贅沢に暮らしているのに対して、もう一方の当事者の雄大は、前橋でしがない電気店(古びた平屋建ての店構え)を営んでいるという対立的な状況設定にすると、常識からすれば、人間的なのは後者だということになり、“そして父になる”のは良多の方だということに自ずとなってしまいます(注5)。
 これは現今のごく一般的な見方でしょうが(最近見た『エリジウム』や『アップサイドダウン』でも、「」の方で暮らす人たちは富裕で、かつ非人間的とされていて、対する「」で暮らす人間は、人間的ながらも、「上」の人間に搾取されているとされます!)、仕事に邁進する良多の生き方だって十分評価できるのではと思われ(注6)、何も雄大のようにいつも家にいて、子どもとタコ揚げをしたり、一緒に風呂に入ったり、おもちゃをハンダゴテで直したりするばかりが良い父親の条件ではないのではと思ってしまいました(注7)。



 それになんだか、一方の雄大は重厚長大時代を引き摺っている人、他方の良多はその後の軽薄短小時代の人のように見え、第二次産業から第三次産業へウエイトが移ってきている今に適合しているのは、雄大ではなく良多であり、彼が頑張って仕事一筋というのも当然ではないのか、少なくとも父親としては同レベルと見るべきではないのか、と考えるのですが(注8)。

(3)渡まち子氏は、「私生活でも俳優業でも父親の経験がない福山雅治だが、繊細で見事な演技を披露している。他のキャストも絶妙。子供たちの自然な演技もまた素晴らしい。複雑で深いストーリー、脇役に至るまで丁寧な人間描写、俳優の良質な演技を引き出す是枝監督の演出の上手さが光る、年間屈指の秀作だ」として90点もの高得点をつけています。
 また、前田有一氏は、「「6年間育てた息子を交換できるか」この一点シミュレーションで見せる「そして父になる」は、人間ドラマとしてもエンターテイメントとしても優秀で、この月に一本選ぶならコレ、レベルの出来のよさ。アイデアもいいし、イクメン時代の男性たちの共感を得られる題材だし、映画作りもうまい。見ていて単純に面白し感動もある。適齢期以降の男女、とくにカップルで見られる真面目な映画として貴重である」などとして75点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「共に暮らした慶多と新たな愛情が芽生える琉晴への想いに葛藤する良多とみどりの感情を、ドロドロとした展開なしに繊細かつ丁寧にすくい取り、子供をお涙頂戴のダシにせず、リアルな空気感を醸成する監督の演出力はさすがという他ない」等と述べています。




(注1)本作を制作した是枝裕和監督の作品としては、最近では、主演のペ・ドゥナが印象的な『空気人形』や、本作同様に子役が活躍する『奇跡』を見ています。

(注2)この映画に登場する病院側(小倉一郎:事務長でしょうか)は、できるだけ早く交換した方がいい、これまでの他の例でもそうだ、などと述べますが、それは事態の早期収拾を図りたい病院側の思惑が混じっているように思われます。
 良多の継母(風吹ジュン)が、「血なんて繋がらなくても情は湧くし、親子なんてそんなもの、私はそういうつもりであなた達を育てたんだけどな―、」と良多と彼の兄に対して言いますが、
 やはり6年間一緒に暮らしてきたことは重要な点ではないかな、と思います。
 とはいえ、良多は生みの母に会うために小さい頃家を飛び出したこともあるようで、またみどりも琉清と暮らし始めると、「琉清が可愛くなってきた、慶多に申し訳なくて、あの子を嫌っているようで」と言い出したりして、血の要素も見過ごしには出来ない感じです〔良多の父(夏八木勲)も、「親子ってのは血だ、人も馬と同じで血が大事なんだ」と言います〕。
 多分この映画の行き着くところもそうなるのではと想像するのですが、これまで通り野々宮家は慶多を、斎木家は琉清を育てることとし、ただ両家の交流は密にして、子供たちの理解を待つということではないのかな、と思うところです。

(注3)この映画を見る前に、『徹子の部屋』に出演した福山雅治を見たのですが、TVカメラが入り込んだ録音中のスタジオに置いてあったギターが、良多の部屋にも置かれていたのではと思われ、またその番組でカメラ好きであることを話していたところ、本作でも良多のデジカメが重要な働きをします。それに、良多が、自分の子供の頃の写真と琉清の写真を見比べるシーンがあるところ、その際に使われた写真は、同番組で映し出された福山の子供の頃の写真です。

(注4)劇場用パンフレット掲載の真木よう子のインタビュー記事の中に、「本編ではカットされてしまった台詞の中に、「男はどうせわからない。だって私たちはお腹を痛めて産んだんだから」というものがあ」った、とあります。

(注5)ラストの方でも、慶多に良多は「出来損ないだけど、パパだったんだよ!」と謝りますし、ラストでは雄大の電気店に皆が集まって家の中に入っていきます。
 全体として本作は、良多が雄大の子供の育て方をあるべきものとして評価する方向に向かっているように思えます。

(注6)忙しい仕事の合間を縫って、子供の入学試験に付き合ったり、父兄参観日にもでかけ、家では慶多のピアノ練習を聴いたりもしているのですから。

(注7)この点は、本文の(3)で触れる前田有一氏も触れているところです。 すなわち、同氏は、「福山雅治演じる野々宮は、私に言わせれば最初から十二分に良い父親である。物語的におさまりがいいとはいえ、わざわざ映画の中で「成長」する必要は感じない。そうした展開は下手をすると偽善的に見えてしまう。およそ親子愛というものは、多少のグダグダや親の至らなさを吹き飛ばす無条件の絆である。理想主義的かもしれないが私はそう思うし、わざわざ「立派な父親」にならずとも、必死にわが子を育てているありのままを肯定するメッセージのほうがより現代的で力強い」と述べています。
 ただ、こうした言い方では、リリー・フランキー演じる雄大の方が、「立派な父親」でありレベルが上であることを認めてしまうことにもなるのではないでしょうか?
 前田氏が言っていることは、今の良多で十分であり、何も雄大に「成長」することはないということでしょうが、でも、そうではなく、良多と雄大とは、父親という点から見ると、同じレベルなのだと考えられもするのではないでしょうか?

(注8)と言って、自分たちの世界は自分たちだけで動かしていけるといったような良多のこれまでの考え方を肯定するわけではありません。
 映画『エリジウム』や『アップサイドダウン』では、富裕層が壁を作って自分たちだけの世界を築きあげているように描かれていますが、それは難しいことではないでしょうか?
 良多は、宇都宮の研究所に行って自然界の奥深さにも気づきますが(セミが羽化するまでに10年以上かかることを知らないなんて!)、自分やその同類以外の者について、もっと大きく視野を広げて認識・評価していく必要があるのではと思います。



★★★★☆



象のロケット:そして父になる


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6 コメント

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どっちがいい? (sakurai)
2013-10-16 08:01:07
>リリー・フランキー演じる雄大の方が、「立派な父親」でありレベルが上であることを認めてしまうことにもなるのではないでしょうか?
わかりやすく比較するために、対照的な父親を持ってきたと思うのですが、もし自分が子供の立場で、どっちがいい?と聞かれると、どうでしょうね。
私ら(一緒ににしてしまいました。すいません)が子供の時の父親なんて、家にはいない、遊んでなんかくれない、企業戦士、そんなのが普通でしたから、父であろうとすることに悩む暇もなかったのでは。
この映画は、そんな父親であることを、気付くきっかけになった。かなりきつい状況ではあったけど・・という感じかもですね。
貴文を読んでそんなことを感じました。
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Unknown (クマネズミ)
2013-10-17 07:38:10
「sakurai」さん、TB&コメントをありがとうございます。
物語の縁取りを明確なものにしようとする観点から、是枝監督は、おっしゃるように良多とは「対照的な父親を持ってきた」のだとクマネズミも考えます。類似の環境にある家族をもう一組持ってきたとしたら、おそらく物語の面白さは消えてしまうことでしょう!
ただ、だからといって、最終的に良多が雄大の軍門に下るような話の運び方には違和感を覚えてしまうのです(「企業戦士」の家庭からだって、子供は立派に育っているのですから)。
それで、評点の方は★4つとしながらも、本文の方ではあれこれつまらないことを書いてしまいました。
でも、本作のような描き方をすることによって、本作を観ることが、自分らの父親は「父であろうとすることに悩む暇もなかった」(何しろ、目覚めているほとんどの時間は会社関係のことに使われていました!)のだと「気付くきっかけ」になる、との「sakurai」さんのご指摘は、誠に貴重なものだと考えます。
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記事を読んで・・・ (iina)
2014-02-28 10:28:03
やはり、クマネズミさんは、繊細な方です。
映画を観て、漠然となんとなく感じていることどもを、細々とつづられていますが、なかなか言葉につぐめないです。

手法として極端な対比をさせることで、浮かび上がせたい主体を映画で描くのですから、狙いは当たっているのでしよう。

また、クマネズミさんが戸惑っているように、演者は様ざまな作品に出ていますから、本来なら作品固有の誰も知らぬ者
であるのが最良だと思います、しかし、演者は限られた人たちから選ばねばならず、著名人であれば映画に脚光を浴びせ
人集めにつながりますから、やむを得ないことです。
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Unknown (クマネズミ)
2014-02-28 21:46:58
「iina」さん、コメントをありがとうございます。
本作における良多と雄大との関係は、おっしゃるように、「手法として極端な対比をさせることで、浮かび上がせたい主体を映画で描く」ために、実に上手く設定されていて、「狙いは当たっている」と思いました。
ただ、あまりにも上手く的を得ているがために、雄大の方が良多よりも父親として上なんだ、ということに簡単になってしまうと、それでいいのだろうかと思えてきてしまうのです。
また、リリー・フランキーについて、ごく短期間の内にあまりに違った性格の役柄を、それぞれ実に巧みに演じているものですから、「戸惑って」しまいましたが、おっしゃるように、「演者は限られた人たちから選ばねばならず、著名人であれば映画に脚光を浴びせ人集めにつながりますから、やむを得ないこと」であるのは間違いないところです。
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Unknown (ふじき78)
2014-07-13 22:44:13
「父親立派コンテスト」というタイトルでいいんじゃないか、と。

リリー父はコミュニケーションが密であり、福山父は疎である。それ自体は問題ではないけど、疎であり、子供の教育に大きく参画もしていないのに、「やっぱり」とか不満を口にするのは、家族という共同体の一員として良くないでしょう(「やっぱり」は血に対しての言葉だけど、ずっと教育が上手くいかない事を実感した上での言葉)。

リリー家族の育児に対しての最終目的は感情動物としての人間の形成であり、福山家族の最終目的は経済動物としての人間の形成である、ように思えます。但し、福山家族でそれを強く意識しているのは特に福山父だけであり、家族全体にコンセンサスが取れていないから混乱している。現時点ではリリー父の方が立派かな。家族全体で方向がはっきりしてるから。
そんな風に思います。
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Unknown (クマネズミ)
2014-07-14 21:39:30
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「育児」という観点から見れば、「リリー父の方が立派」なのでしょう。なにしろ、福山父は「子供の教育に大きく参画もしていない」のですから。
ただ、社会全体の観点から見れば、リリー父の“イクメン”ぶりが発揮できるのも、福山父のように仕事にまい進する父親が大勢いて日本経済を支えているからではないかと思うのですが?
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