映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ホワイトハウス・ダウン

2013年08月30日 | 洋画(13年)
 『ホワイトハウス・ダウン』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)ことさら暑い今年の夏なのでスカッとするアクション物がいいのではと思い、映画館に行きました。
 ホワイトハウスをめぐるアクション映画は、もう一つ『エンド・オブ・ホワイトハウス』も公開されているところ、そちらの主演がジェラルド・バトラーなので敬遠することとし(注1)、チャニング・テイタム主演の方を選んでみました。
 両作を比較することはできないものの、クマネズミとしてはまあ正解だったのではと思っています。何しろ大層面白い作品に仕上がっているのですから。

 本作は、一方で、ソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)が、ヘリコプターでワシントンDCの上空を飛び、他方で、それを下から少女が見ているところから始まります。
 大統領は、ジュネーブで中東和平に関する歴史的な演説を終えてホワイトハウスに戻るところであり、家族はパリに行っています。
 他方、少女は、議会警察官のジョン・ケイルチャニング・テイタム)の娘のエミリージョーイ・キング)で、11歳。



 この日は、大統領警護官の面接を受けるために、ジョンはホワイトハウスに入るのですが(注2)、エミリーも同行します。エミリーがホワイトハウスおたくであることを知っているジョンが、事前に2枚の入館許可証を取得していたというわけです(注3)。
 ジョンの面接ははかばかしくいかなかったものの(注4)、それが終わると二人は、ホワイトハウス見学ツアーに参加します。
 ツアーの一行は、途中でソイヤー大統領と行き交います。エミリーは大胆にも大統領に対しビデオを撮りながらのインタビューを敢行し、大統領も気さくに応じます。



 そんな中で、ホワイトハウスの東方にある国会議事堂のドームが、突然爆発します。
 それを合図に、ホワイトハウスも、潜入していたテロリストたちに占拠されてしまいます。
 さあ、ジョンやエミリー、そして大統領の運命は、……?

 もちろん、どんな結末になるのか観客は見る前からわかっています。主人公やエミリー、そしてアメリカ大統領が、ホワイトハウスを占拠するテロリストたちの犠牲になってしまうはずもありません。それでも、主人公たちは危機一髪の状況に次から次へと見舞われ、さらには様々の最新兵器が持ちだされ、挙句は芝生庭園の狭い場所でカーチェイスまでやってのけるのですから、見ている方は終始ハラハラドキドキしてしまいます。

 主人公を演じるチャニング・テイタムはあまり知的な感じがしないのが難ながら、若さあふれる風貌が随分と魅力的です(注5)。



 また大統領を演じるジェイミー・フォックス(注6)も、やや背が低いのが問題ではと思えるものの、その演技力には脱帽です(注7)。

(2)本作には、むろん様々な問題点があるでしょう。
 例えば、最後に明かされる黒幕が謀ったにしては、全体が随分と無茶な計画だなと思えます(注8)。
 また、テロリストが、事前に作業員として何人もホワイトハウスの中に潜入できたというのも不思議な気がします(注9)。
 さらには、ホワイトハウスを空爆すべく出撃した戦闘機の搭乗員が、地上に女の子を見て独断で爆撃をやめてしまいますが、いくら何でもそんなことがあるでしょうか(注10)。

 でも、それらのことは、次々に映しだされるハラハラドキドキの展開の中ではつまらないこととして、あまり気になりません。

(3)誠に些細なことながら、クマネズミが興味をひかれたのは、ホワイトハウスの地下道です。ジョンと大統領が逃げに逃げて、遂に地下道を通って外に出ようということになります。
 どうやらホワイトハウスにも、そこから外に抜け出だすことができる地下道が設けられているようなのです(注11)。
 これは、『アルゴ』でも、当初、テヘランの米国大使館がイラン民衆に占拠される直前、地下道を通って6人の館員が外に抜け出たのを思い起こさせます。
 さらには、『プリンセストヨトミ』で映し出された「真田の抜け穴」(エントリの「注3」をご覧ください)とか、『黒く濁る村』の地下通路〔エントリの(2)をご覧ください〕なども。

 尤も、本作の場合、ジョンと別行動をとった大統領がその地下道を進んでいくと、出入口の扉には爆破装置が施されていて、通ることができませんでしたが(注12)。
 でも、ジョンやエミリーは、ホワイトハウスというトンネルを辛うじて抜け出したら、そこは素晴らしい新世界が開けていたのではないでしょうか(大統領にしても、この事件を契機に、中東和平の実現に大きく踏み出すことができたようですし)!

(4)渡まち子氏は、「占領されたホワイトハウスでテロリストと戦うアクション大作「ホワイトハウス・ダウン」。大統領と落ちこぼれ警備員の格差コンビのバディ・ムービーだ」として60点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「脚本は冗談みたいなテキトーさで、ご都合主義と細部の整合性不足に満ちている」などとして40点しかつけていません。



(注1)すぐ前に見た『スマイル、アゲイン』で失敗したので。

(注2)ジョンは、議会警察官として下院議長(リチャード・ジェンキンス)の警護をしていますが、年来、大統領警護官になりたいと願っています。

(注3)ジョンは妻と離婚していて、時々娘と合うことになっています。実はジョンは、ある発表会にエミリーが出演するのを見るはずだったところ、失念してすっぽかしてしまい、エミリーの機嫌がよくありません。それで、ホワイトハウス入館証をうまく取得して、エミリーを宥めようとする魂胆もジョンにはありました。
 なお、こうした設定は、上記「注1」の『スマイル、アゲイン』でも同じようにとられています。アメリカでは、それだけ離婚が普通に見られる状況だということなのでしょう。

(注4)ジョンを面接したのは、大統領の次席特別警護官のキャロルマギー・ギレンホール)ですが、なんと彼女は、大学時代ジョンと恋人関係にあったのです。
 キャロルの面接試験では不合格ながら、ラストでは、ジョンは大統領直々に特別警護官にしてもらいましたから、ひょっとしたら昔の関係が復活するのかもしれません!

(注5)チャニング・テイタムが出演した作品としては、『親愛なるきみへ』と『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』を見ています(『パブリック・エネミ―ズ』にも出演していたようですが、印象に残っていません)。
 なお、彼の実体験に基づく映画『マジック・マイク』も公開中です。

(注6)ジェイミー・フォックスについては、主演作『ジャンゴ』を見ていますが、クマネズミの怠慢によりエントリをアップできませんでした。

(注7)その他、下院議長役のリチャード・ジェンキンスについては、最近では『キャビン』を見ました。

(注8)本作では、黒幕のさらなる背後に軍事産業があるような描き方になっていて、上記(4)で触れる前田有一氏も「テーマである軍産複合体批判」と述べています。
 ですが、軍事産業が事件の背後にあるとしても、本作におけるように、全世界を一瞬で壊滅させかねないことを計画するだろうか、という疑問が湧いてきます。というのも、大統領の核ボタンを作動させて核ミサイルを各地に落としたりしたら、その地は壊滅的な状況になるでしょうし、そればかりか、当然に他の国(ロシアや中国など)から核ミサイルが米国に向けて飛んでくるでしょうから、軍事産業を含む米国自体も消滅しかねないからです。
 軍事産業は、戦争が各地で引き起こされることは望むでしょうが、核攻撃までは望まないのではないでしょうか?自国も他国も存続していなければ、戦争自体がなくなってしまい、兵器に対する継続的な需要は生み出されないことでしょう!

 ただ、ここらあたりのことは、エンタメ映画にとっては全くどうでもいいことかもしれません。何か背後に「X」が存在しているということで十分なのでしょう。なにより、こうしたエンタメ映画に、前田氏のように社会的な「テーマ」を求めてもなんの益もないことでしょうから。

(注9)テロリストと内通して本件の実行部隊を統括する者が、ホワイトハウス内の高官という設定なので、なんでも可能なのかもしれません(ホワイトハウス内に備蓄されている武器を利用できたりもします)。ただ、何段階もの事前チェックがあるはずで、いくらトップダウンだからといって簡単なことではないのではという気がしますが。

(注10)これはエントリの(4)で触れる前田有一氏が指摘する点ながら、空爆機の搭乗員が地上で発見するのは、星条旗を振るエミリーなのですから、空爆ができなかったのも致し方ありません。なにしろ、エミリーは、上記「注3」の発表会では「旗振り」をやることになっていたのですから!
 また、同氏は、「懐中時計の伏線も、いくらなんでもそういう形で使うことはないよねと登場時に思った通りのオチ」と述べていますが、これもご愛嬌と思えばいいのではないでしょうか(妻から贈られたものながら、「リーンカーンの懐中時計だ」とソイヤー大統領は言います)。
 なお、ソイヤー大統領が、わざわざ「エア・ジョーダン」のシューズを履いていたりするなど、本作にはいろいろ面白い細工が施されています。

(注11)ケネディ大統領が、マリリン・モンローと密会するために使った地下道だとされています。

(注12)最後には、テロリストの一人がそこを通ろうとしてもろともに爆破されてしまいます。自分たちで仕掛けたにもかかわらず、どうして爆発させてしまったのかよくわかりませんが、慌てていたために誤操作をしてしまったのでしょうか?



★★★★☆



象のロケット:ホワイトハウス・ダウン
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スマイル、アゲイン

2013年08月28日 | 洋画(13年)
 『スマイル、アゲイン』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これは、タイトルに引きずられたのと、主演がジェラルド・バトラーだということで映画館に行きました。

 映画の冒頭では、有名プロサッカー選手のジョージ・ドライヤージェラルド・バトラー)が、ヨーロッパで活躍する様子がTVニュース風に描き出され、ただ暫くすると、彼がピッチに倒れ、「重傷か」といわれ、最後に「36歳で引退!」の記事が画面で踊ります。
 次いで、現在のジョージ(ヴァージニア州にある小さな町に住んでいます)の姿となります。
 彼は失業中で、なんとかサッカーのTV解説者になろうとしているもののうまくいかず、今暮らしている家の大家から、家賃の支払いを督促される有様。
 なぜジョージがその家にいるのかといえば、元妻ステイシージェシカ・ビール)が近くの家に住み、息子ルイスを養育しており、彼に1週間に1度会うため。



 ステイシーとは、サッカー選手時代にジョージが家庭を顧みなかったことから、離婚しているのです。
 ジョージとしては、ステイシーやルイスともう一度一緒に暮らしたいと願っています。



 ですが、どうやら、ステイシーの方は、近々別の男性と結婚するとか。
 さあどうなるでしょうか、……?

 本作に対しては、ホームドラマめいたものとは思いつつ、でも何かあるのではと少しは期待していたところ、そんな思惑は見事に外れ、何の盛り上がりもなく、TVドラマでもこんな低調なホームドラマを放映しないのではというくらいの実に他愛のないつまらない作品でした。
 ジェラルド・バトラーが『男と女の不都合な真実』といった凡作にも出演していることを思い出すべきでした(注1)し、ヒロインのジェシカ・ビールも今一でした(注2)。

(2)本作では、ルイスが所属する少年サッカーチーム・サイクロンズが重要な役割を演じます。ジョージが、そのチームのコーチを引き受けることになったりしますから。
 ところで、子どもたちのサッカーチームのことや、その子供たちの父兄とコーチとの関係を描いたものとして思い出す作品としては、『コッホ先生と僕らの革命』があります。
 ただ、同じように、コーチの宜しきを得てチームは重要な試合に勝つのですが、『コッホ先生と僕らの革命』では、むしろ子供たちの父親が問題を引き起こすのに対して、本作では、母親たちが障害となるのです。
 なにしろ、本作では、格好の良いジョージにまいってしまう母親が続出します。
 この母親たちのことがまずまず個性的に描かれているのが、この映画の取り柄といえるのかもしれません。
 例えば、
デニースキャサリン・ゼタ・ジョーンズ)は、昔のジョージを知る元TVキャスターで、コネを使ってジョージをTV局に解説者として送り込むことの見返りに、彼と親密な仲になろうとします(注3)。
パティヤマ・サーマン)は、金持ちで街の実力者でもある夫(デニス・クエイド)の妻ながら、ジョージのいない隙に、彼の家の寝室に潜り込んでしまいます(注4)。
バーブジュディ・グリア)は、離婚したことから心が癒えず、ジョージと話すと目に涙を浮かべるのです。それでジョージの家にやってきて、……(注5)。

 こういう積極的な女性たちの攻撃をうまく乗り越えて、ジョージはステイシーとの仲を以前のように取り戻すことができるでしょうか、といったところが盛り上がりのない本作の中では見所といえば見所といえるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「ストーリーはウェルメイドなヒューマンドラマで安心して楽しめる」として60点をつけています。




(注1)ジェラルド・バトラーについては、他に『完全なる報復』のDVDを見ています(それについては、このエントリの(2)で触れています)。

(注2)ジェシカ・ビールは『ヒッチコック』で見ていますが、ヒロインとしてはもう少し派手さがないと、という感じがします。

(注3)その話はとんとん拍子に進み、ジョージは、コネチカット州のTV局からOKをもらうのですが、……。

(注4)最初は、間違えて、ジョージの家の隣に住む大家の家に入り込んでしまいますが。

(注5)ジョージと関係を持つに至りますが、それで心が晴れたのか、最後には、ジョージの家の隣の大家と良い関係を持つに至ります。




★★☆☆☆




象のロケット:スマイル、アゲイン
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熱波

2013年08月26日 | 洋画(13年)
 『熱波』を渋谷のイメージフォーラムで見ました。

(1)本作は、ポルトガルの新鋭ミケル・ゴメス監督が製作した映画ということで、映画館に出向きました。

 映画はプロローグと2部から構成され、第一部は「楽園の喪失」、第2部は「楽園」と題されています。
 まず、プロローグでは、妻を亡くした探検家が、妻の死をみとった土地から離れるために、黒人を引き連れアフリカの草原を彷徨い、ワニがいる川に遭遇すると、その川に飛び込んでしまうという短いお話が描き出されます(注1)。



 続く第1部の舞台はリスボン(時は2010年:注2)、主人公は定年過ぎの女性・ピラールテレーザ・マドルーガ)。



 彼女はいろいろ活動をしているところ(注3)、隣人の老婆・アウロララウラ・ソヴェラル)が頭痛のタネ。お金が手に入るとカジノで全部すってしまい、ピラールが迎えに行くハメになったりします。何かというとピラールの家にやってくるので、おちおち休めないものの、アウロラが雇っているメイドのサンタイザベル・カルドーゾ)はよそよそしく(注4)、またアウロラの娘も全然やってこないため、ピラールはついつい心配してしまいます。
 そんなアウロラは、倒れて病院に運び込まれ亡くなりますが、最後にベントゥーラという男を探してくれとピラールに頼みます。
 ベントゥーラエンリケ・エスピリト・サント)が見つかったのは、アウロラが亡くなった直後。でも彼はピラールらに、自分とアウロラの間に起きた半世紀前の出来事について語り出します(その話が第2部となります)。

 第2部の舞台はアフリカのポルトガル植民地(モザンビークかアンゴラ)で、時は第1部よりも50年前、主人公は若きアウロラアナ・モレイラ)。
 アウロラは、父と一緒にアフリカに来ています(母親は、アウロラを産むとすぐに亡くなったとのこと)。その父も若死してしまったものの、残されたアウロラは、黒人の使用人などの間で自由奔放に育っていきます。
 そして、大学の時に知り合った男と結婚。彼女は夫を愛し幸せな結婚生活を営んでいました。
 そんなところに、若きベントゥーラカルロト・コッタ)が姿を表します。
 彼は、リスボンで出会ったマリオらとバンドを組んで演奏していたのですが、マリオがアウロラの夫と昵懇だったころから、アウロラの家に出入りするようになります。
 そして次第にアウロラとベントゥーラとの関係が抜き差しならぬものになっていきますが、さあどう展開するのでしょう、……?




 本作は、モノクロの2部構成になっているところ、プロローグや第1部を見ているときは、いったいどうしてこんなシーンが描かれるのだろうと幾分訝しい思いに囚われるものの、第2部に入ると物語が急激に展開し出し、最初の方との関係もわかってくると、映画全体に対して興味も湧いてきます。さらに、2つの部の時点の違いを際だたせるためでしょう、第2部はサイレント仕立てなっていたりするなど様々な工夫も凝らされていて、まずまず面白く見ることが出来ました。

(2)本作については、様々の映画評論家が論評を加えています。
 例えば、蓮實重彦氏は(注5)、本作の原題について、「いうまでもなく、F・W・ムルナウがロバート・フラハディの協力をえて撮った『タブウ』Tabu(1931)と寸分の違いもない神話的な題名」であると記し、さらに、「この作品は、ムルナウの『タブウ』から、その構成そのものをそっくり借り受けている」と述べています(注6)。
 確かに、そうした映画的教養を十分身につけたうえで本作を見る方が、本作を様々な角度から考えることが出来、面白さも一層増すことでしょう。
 なによりも、蓮實氏に言わせれば、「ムルナウも知らずに映画を撮ったり映画を論じたりすることなど、許されようはずもない」のですから!
 でも、元々、監督自身が、「冗談ではなく本心から言いますが、僕は知的な人間ではないので(笑)、映画を撮り始めるときにはすべてのことを計算し尽くしていたわけではありません」と述べているわけで(注7)、そうした知識がなく素で見ても、本作は十分に面白いのではと思いますし、実際もそうでした(注8)。

 ここで一つ思いつきを申し上げれば、プロローグでは、探検家の前に死んだ妻の亡霊が現れ、探検家が「自分は、妻が死んだ場所からできるだけ離れるために彷徨っている」と言うと、妻は「どれだけ離れようとも、心は囚われたままよ」と言うのです。
 また、第1部の最後の方では、アウロラは、ベントゥーラを探しだしてとピラールに頼みます。
 さらに、第2部では、ベントゥーラは、世界を回った挙句ポルトガルに戻ってきて、彼女の病気を知り、自分の住所を知らせます(尤も、彼女から返事はありませんでしたが)。
 こうしてみると、本作は、プロローグと2部から作られていますが、あるいは一面で、“記憶の持続”という点でつながりを持っているのでは、とも思えてくるところです。

(3) 上記の蓮實氏のみならず、次のような評論家も本作についてコメントしています。
 中条省平氏は、「じつに不思議な映画である。モノクロで、部分的にサイレント、前衛的な仕掛けも凝らされている。だが、難解な「アート的」作品ではなく、画面のすべてに、はかなく、あわれを誘う情感が満ち、主要な物語である強烈なラブストーリーをひき立てている。新しい鮮烈な才能が世界映画に登場したといえよう」と述べています。
 藤原帰一氏は、「植民地解放闘争に翻弄される男女なんて登場したら面白いけどウソになるところですが、そんな手練手管に訴えないで、白人にとって植民地時代は何だったのかをつかまえています。頭が良すぎて監督に先回りされるような苛立ちは残りますが、カメラが美しいので頭でっかちな印象は残らない。ひょっとしたら傑作かも知れないという余韻を残す、不思議な映画です」と述べています。
 粉川哲夫氏は、「老人の回想から浮かび上がるラブストーリーの形式を取りながら、そのミクロレベルの出来事が、ポルトガルのかつての植民地時代のけだるい、そしてアフリカを支配する上流階級の没社会意識のデカダンスな社会的気分をも照射する」と述べています。
 秦早穂子氏は、「ポルトガル20世紀の喪失の歴史に、在りし日の人間の感情、記憶を重ね、まばゆいばかりの映画を生んだ。人間が失ったのは、情熱でもあったろう」と述べています。




(注1)このプロローグを、第1部の主人公のピラールが映画館で見ているといった続き具合になっています。プロローグの雰囲気は、第2部そのものですから、映画全体を一つのものとして観客が理解しうるようになるというわけでしょう。

 なお、東大教授の大橋洋一氏は、そのブログに掲載されている論考において、プロローグの探検家は、アウロラの父親であって、プロローグと第2部は一体のものであり、その映画をピラールが映画館で見ているという構成だとしています(「冒頭の白人ハンターと、その娘の不倫話、すべてはピラールが見ていた映画、あるいはピラールがつくりあげた夢ということも言える」)。
 勿論、そういう見解は非常に興味深いとはいえ、第2部のラストの方では、ベントゥーラが最近のアウロラの状況につながる事柄まで語っているので、それが一概にピラールの夢物語だとも言えないのではと思います。

(注2)第1部の冒頭に12月28日と表示され、その終わりの方では1月3日と表示されます(途中で、2010年から2011年に変わります)。

(注3)たとえば、第1部の冒頭で、ピラールは、ホームステイをする女子学生マヤを迎えに空港に行きます。ただ、マヤだと思って声をかけた少女は、「マヤは来られなくなった」とピラールに告げるものの、向こうにいた別の少女から「マヤ!」と声をかけられると、急いでそっちの方に行ってしまいます。
 また、ピラールは、「Shame ONU」とか「Stop the Genocide」と書かれた横断幕の後ろで、人々に混じって叫んだりもします。

(注4)サンタは、時間が出来ると、『ロビンソン・クルーソー』(ポルトガル語訳)を読んだりしています(サークルか成人学級のようなものに参加しています)。

(注5)雑誌『群像』8月号掲載の「映画時評56」。

(注6)蓮實氏の文章は、「より正確にいうなら、「楽園」と「楽園の喪失」という原典の二部構成をあえて逆転させ、まず「楽園の喪失」を描き、それから「楽園」のできごとを語り、そこに無題の短い「サウダージ」風のプロローグをそえているのである」と続きます。
 なお、第2部の主人公のアウロラについても、「いうまでもなく、ムルナウの『サンライズ』(1927)のヨーロッパ公開時の題名だ」と記されています。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interview」。尤も、監督の言を真に受けてはならないのかもしれませんが。

(注8)少なくとも、クマネズミは、蓮實氏のように、「移動撮影の運動感が欠けている」などと言ってこの映画を切り捨ててしまうわけにはいかないのでは、と思っています。尤も、蓮實氏が言う「運動感」とは実際のところどんなものなのか、クマネズミはよくわかっていないのですが!



★★★☆☆



象のロケット:熱波
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きっと、うまくいく

2013年08月24日 | 洋画(13年)
 インド映画『きっと、うまくいく』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)インドで興収が歴代ナンバーワンを記録した大変面白い映画だと聞いて、是非見たいなと思っていたところ、なかなか時間が上手く合わなかったのですが、公開3ヶ月以上たって、ようやく映画館で見ることが出来ました。

 舞台は、インドで超難関大学のICE工科大学。
 その大学の寮で、ファルハーンラージューランチョーが同室になります。
 ただ、ファルハーンとラージューは落ちこぼれ組(注1)で、学期末試験は毎度やっとビリの方でクリアします。他方、ランチョーはずば抜けて優秀でいつも首席を占めていますが、決して真面目に勉強するわけでもなく、様々な騒動を引き起こします(それで、原題は「3 idiots」)。



 あるとき、ランチョーは、真面目を地で行くもののどうしても2番にしかなれないチャトゥルに悪戯を仕掛け、大勢の前で笑いものにしてしまいます(注2)。怒ったチャトゥルは、賭けをしようと言い出します。すなわち、10年後に大学の施設(給水塔)で再会し、その時どちらが成功しているかを比べて、誰が真の1番なのかを明らかにしよう、というわけです。
 その10年後、チャトゥルは、ファルハーンとラージューを電話で呼び出しますが、ランチョーは来ません。いったいランチョーはどうなってしまったのでしょうか、……?

 本作は、いつものインド映画のように歌と踊りが沢山入った作品ながら、置かれている境遇や性格がまるで異なる3人(注3)が大学で引き起こす様々の騒動が実に愉快に描き出されており、さらにはランチョーのラブストーリーまでも絡んできて(注4)、誠に楽しく大変素晴らしい映画だなと思いました。

 主役のランチョーを演じるアーミル・カーンは、実際には制作時に43歳くらいだったでしょうが、実に若々しい演技でとてもそんな歳には見えません!




(2)本作はコメディ作品にもかかわらず、「死」があちこちで顔を出します。
 例えば、ラージューは、学長の家に3人で悪戯をした際に捕まって、下手人はランチョーだと申し出れば退学を取り消すと言われ、窮地に立たされた挙句、学長室の窓から飛び降りて自殺を図ります。

 そのラージューの酷く貧しい実家では、父親が重い病にかかって寝たきりとなっています(ラージューが、なんとか大学を卒業してエンジニアとして大企業に高給で雇われることを、一家で願っているのです)。

 また、ランチョーのライバルとも目されたジョイ・ロボが、期末試験用の器械の制作がうまくいかず、提出期限の延長を願い出たにもかかわらず認められなかったことから、前途を悲観して寮の部屋で首をつって自殺してしまいます(注5)。

 さらに、これは仮病ですからここで挙げるのは少しためらわれますが、ファルハーンは、映画の冒頭、杳として行方がわからなかったランチョーが現れるとの連絡を、飛び立ったばかりの飛行機の中でチャトゥルから受け取ると、突然床に倒れこみ気絶してしまいます。飛行機は、やむなく離陸したばかりの飛行場に戻ります。

 でも、本作は、もちろん、そんなところで話を終わりとはしません。
 病院に運び込まれたラージューは、重体で意識不明の状態が続いていたものの、ランチョーら友人たちの強い励ましで回復し、今度は自信を持って人に接するようになっていきます(注6)。

 また、ラージューの父親は、いったん危篤状態となりますが、ことは急げとばかり、遅い救急車を当てにせずに、ランチョーがその父親を背中に背負ってオートバイに乗って病院に駆け付けたところ、一命をとりとめます。

 自殺したジョイ・ロボが途中まで制作していた「モニターカメラが取り付けられたクアドロコプター」は、ランチョーが完成させ学内を飛び回ります(注7)。

 ファルハーンは、飛行機から降ろされて空港施設に運び込まれると、なんと元気に立ち上がり、呆気にとられる周囲を空港に残したまま、待ち合わせ場所の大学に直行するのです。

 さらに、主役のランチョーが絡む「遠隔操作による出産」のエピソードが、これらに関連して出色の出来栄えといえるでしょう(注8)。

 こうした様々なエピソードに見られる共通点を探し出せば、かなり強引ではありますが、“死からの蘇生”ということになるのではないでしょうか?
 そして、こんなにも鮮やかな“死からの蘇生”の話を次から次へと見せられるものですから、観客の方は、見終わったあとに実に爽やかな感じに囚われてしまうのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「往年のインド映画の泥臭さを知るものには、随分と洗練されたものだと感無量だ。だが、笑い、涙、サスペンスにアクション、そして歌と踊りといった娯楽要素を、これでもか!とばかりに詰め込むインド映画のサービス精神は今も昔も変わらない。退屈とは無縁の170分間、間違いなくハッピーになれる」として70点を付けています。
 また、沢木耕太郎氏は、「確かにこの「きっと、うまくいく」はインド映画らしくないインド映画だった。しかし、その最後に、束(つか)の間であれ、世界を美しいものと感じさせてくれるという点においては、多くのすぐれたインド映画とまったく変わりないものだったのだ」と述べています。




(注1)といっても、学長に言わせると「10万人が受験して合格するのは200人」という超難関大学に入学しているのですから、極め付きの優秀な学生のなかでの“落ちこぼれ”に過ぎないのですが。

(注2)チャトゥルが大臣や学長を前にして行う演説の原稿を、ランチョーは、例えば「奇跡」を「強姦」に、「入金」を「乳頭」といった具合に密かに改竄してしまい(字幕から)、そうとは知らぬチャトゥルが例によって原稿を丸暗記して演説したからたまりません、聴衆は笑い転げるものの、大臣は怒って退去してしまいます。
 なお、チャトゥルはウガンダで育ったためヒンディー語が不得手で、そのために演説で喋った内容をよく把握できていなかったのでしょう(その原稿は、図書館の司書に予め作ってもらっていました)。

(注3)大雑把には、ランチョーは上流、ファルハーンは中流、ラージューは下層の出身というように設定されています。
 また例えば、ランチョーは、ファルハーンとラージューの成績が悪いわけについて、自分は機械が好きでたまらないのに、ファルハーンは動物写真の方に関心が向かっているからだし、ラージェーは臆病で将来を心配してばかりいるからだ、と言ったりします。

(注4)ランチョーが恋する相手・ピアカリーナ・カプール)が、激しく対立する“ウィルス学長”の娘なのですから、恋が成就するまでがなかなか大変です。

(注5)劇場用パンフレットに掲載されているヴィカース・スワループ氏のエッセイには、インドでは「近年、学生の自殺率が驚くほど増加しており、2010年には毎日平均20人もの学生が自ら命を絶ったといわれています」と述べられています。
 なお、映画のラストの方では、学長自身の息子(作家志望にもかかわらず、学長によって無理やりエンジニアを志望させられたとのこと)が自殺していることが、娘のピアによって明かされます。

(注6)就職の面接に際しても、ラージューは、面接官に阿ることなく自分の見解を述べたために、却って面接官に気に入られてしまい、無事に大きな企業にエンジニアとして就職することができました。

(注7)出来上がったクアドロコプターを飛ばしてジョイ・ロボの部屋をのぞいたところ、彼の自殺体を画面に発見するのです!

(注8)大雨の日に、学長の結婚している長女が産気づきます。ところが、大雨で道路に水が溢れ、救急車がやって来ません。そこに通りかかったのが、3人組。
 姉を大学寮のホールまで運び込んで、ランチョーは、病院にいた妹ピア(医者なのです)とネットで連絡をとり、画像を送りながらアドバイスを受けます。
 ランチョーは、途中で停電になると、車のバッテリーをかき集めて、なんとか電力を確保しますし、難産になると、掃除機を改造して子供を吸い出す器械をこしらえたりして、なんとか子供を取り上げます。
 でも、生まれた子供は、なかなか息をしません。下手をすると死んでしまいかねません。そこで、ランチョーは、魔法の言葉「Aal izz well(きっと、うまくいく)」を口にします。すると、子供が息をし出すではありませんか!

 なお、ランチョーの活躍ぶりを見ていた学長は、彼を嫌悪して退学を通告していたものの、それを取り消して、さらにはとびきり優秀な学生に与えるとしていた「宇宙でも使えるペン」をランチョーに与えます。




★★★★☆





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ペーパーボーイ

2013年08月21日 | 洋画(13年)
 『ペーパーボーイ―真夏の引力』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)印象的だった『プレシャス』の監督リー・ダニエルズの作品でもあり、ニコール・キッドマンが出演するというので、映画館に出かけてみました。

 本作の舞台は1969年のフロリダ。ジャンセン家でメイドだったアニタメイシー・グレイ)の語りによって物語は綴られていきます。
 主人公のジャックザック・エフロン)は、大学を中退し、小さな新聞社を営む父親の元に戻ってきて、新聞配達をしています(それで、タイトルが「ペーパーボーイ」)。
 ある日、大手の新聞社に勤める兄・ウォードマシュー・マコノヒー)が、同僚の黒人記者ヤードリーデヴィッド・オイェロウォ)と一緒に戻ってきて、4年前に起きた保安官殺しの事件に疑惑があるとのことで、調査に取りかかります〔容疑者のヒラリージョン・キューザック)は、物的証拠が紛失してしまっているにもかかわらず、死刑判決を受けているのです〕。
 ジャックは、ウォードたちの調査に、運転手などの雑用係としてかかわることになります。



 そんなウォードの事務所(父親のガレージ)に、ヒラリーの婚約者だというシャーロットニコール・キッドマン)が、新聞切り抜きなど関係文書の入った段ボール箱を持って訪ねてきます。
 彼女は、獄中のヒラリーと手紙の交換をする内に愛し合うようになったとのこと。
 でも、ジャックは、そんな彼女に一目惚れしてしまいます。
 ヒラリーの冤罪は晴らされるのでしょうか、ジャックとシャーロットとの関係はどうなるのでしょうか、……?

 情報を殆ど持たずに見たものですから、期待していた内容とは違って、ズッとグロテスクで衝撃的なストーリー展開や描写に驚いてしまいました。とはいえ、そうした部分を取り除いたら、マザコン青年が年上の美女に叶わぬ恋心を燃やすといったありきたりな話に過ぎないようにも思えるところ、登場人物のそれぞれが二面性を持っているなど(注1)、様々な事柄がギュッと詰め込まれていて、1時間50分弱の映画ながら、なんだか3時間近く見ていた感じになってしまいました。

 主演のザック・エフロンは『きみがくれた未来』で、またジョン・キューザックは『シャンハイ』で見ていますが、本作でもそれぞれ堅実な演技を披露しています。



 本作では、なによりニコール・キッドマンに圧倒されてしまいます。前に見た『ラビット・ホール』における抑制された演技の母親役とは打って変わって、ヒラリーと性的な関係を持つは、海でクラゲに刺されて気を失ったジャックに放尿するはで、奔放なシャーロットの役柄を見事に出しています。




(2)保安官殺人事件の容疑者で死刑判決を受けているヒラリーの身内が住む家は、フロリダのスワンプと呼ばれる湿地帯にあります。

 このスワンプのシーンは2度ほど描き出されます。
1度目は、ヒラリーのアリバイを確認するため、ウォードとジャックがスワンプに住む伯父のタイリーに会いに行きます(注2)。
2度目は、釈放されたヒラリーが連れていったシャーロットを救出するため、ウォードとジャックがスワンプに入ります(注3)。

 それにしても、このところ、こうした湿地帯が描き出される作品をよく見かけます。
 例えば、ルイジアナ州の湿地帯を舞台にした『ハッシュパピー』。
 そして、アルゼンチンのブエノスアイレス郊外の湿地帯を描き出す『偽りの人生』。
 特に、後者のラストのシーンは、本作のラストのシーンに通じるものを感じさせます(注4)。
 そういえば、『ハッシュパピー』でも、島で亡くなった父親の遺骸をボートに積んで流すシーンがありました。

 湿地帯には、人間の死に絡むものが何か潜んでいるのでしょうか(注5)?

(3)渡まち子氏は、「見終わったらグッタリと疲れるが、「プレシャス」で注目されたリー・ダニエルズ監督は、残酷な大人たちが本性をむき出しする世界をスキャンダラスなドラマで描いてみせた。やはり才人である」として65点を付けています。




(注1)例えばジャックは、離婚して彼を父親のもとに残して立ち去ってしまった母親を強く慕っていて、女性に対して自分の方から何かを言いだすことができないほど内気な性格ながら、他方で、大学生の時に、プールの水を無断で抜いてしまい、公共物損壊ということで大学から追放されてしまうのです。

 ジャックらの父親は、一方で、小さいながらも新聞社を経営しているものの、他方で無類の女好きで、今もエレンという女を家に引っ張り込んでいて、遂には編集長にしてしまいます。

 ジャックが恋い焦がれるシャーロットは、一方で、獄中の死刑囚と婚約するなど酷く変わった女でありながら、他方で、海で大変な目に遭遇したジャックを非常手段によって助けてくれたりもするのです。

 また、ジャックは、ウォードと黒人記者ヤードリーとの関係がよく飲み込めません。主体的に動いているのはウォードのはずながら、様々なことをヤードリーが命じていたりするのです。
 ですが、ウォードの変わった性癖(ゲイでM趣味)が明らかになるのは、バーでしたたかに飲んで、そこにいた二人の黒人と消えてから。暫くすると、ウォードは、裸で縛られて、顔面などを酷く殴られた瀕死の状態で発見されるのです。
 ヤードリーとも性的な関係にあるようです。

 そのヤードリーは、ウォードと関係がありながら、ヒラリーについて根拠が十分ではないにせよ何か新しそうなことが言える段階になると、うまく記事をまとめて本社に送ってしまい、その記事が認められてニューヨークの新聞社に引き抜かれます。

(注2)伯父のタイリーは、事件があった時間に、ヒラリーと一緒にいたことを証言します(ゴルフ場の芝生をはがしてディベロッパーに売ったと言います)。
 ただ、ジャックは、その家にいた男を、刑務所のヒラリーに面会に行った際、見たといいます(どうも、この一族には胡散臭いところがあるようです:よく調べると、ディベロッパーなど存在しないようなのです)。

(注3)ヒラリーの家にジャックらが行くと、シャーロットはすでに殺されており、またウォードもヒラリーに首を切られて殺されてしまいます。
 ジャックは、武器を手にしたヒラリーに追い詰められるものの、水泳部にいたことが幸いし、スワンプの水中にうまく隠れることで辛くも逃れます(ただ、スワンプには沢山のワニが生息しているはずにもかかわらず、水中のジャックが全然遭遇しないのは不思議に思いました!あるいは、ワニは昼行性のために、夜は安全なのでしょうか?)。

(注4)ジャックは、来るときに使ったモーターボートに、兄ウォードとシャーロットの死体を乗せて戻っていきますが、それはまるで『偽りの人生』のラストで、若い娘ロサが、アグスティンの死体を乗せて湿地帯を進んで行く光景と重なります(男女の関係が反対ではありますが)。

(注5)邦画で思い出すのは『のぼうの城』。
 城代・成田長親らが立て籠もる忍城は、石田三成軍によって水攻めを受けますが、元々湖の中の島の上に作られた城でした。この映画のクライマックスは、成田長親による死を覚悟した「田楽踊り」といえますから、やはり死が絡んでいるのではないでしょうか?

 と、ここまで来ると、ベックリーンの「死の島」まではあと一歩となるでしょう(同画については、拙ブログのこのエントリの(2)を御覧ください)!



★★★☆☆



象のロケット:ペーパーボーイ
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ワールド・ウォーZ

2013年08月19日 | 洋画(13年)
 『ワールド・ウォーZ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)昨年の『マネーボール』以降見ていないブラッド・ピットの映画だというので、見に行ってきました。

 映画の冒頭では、TVから、鳥インフルが広まり、イルカが大量死し、異常な行動をする人々が増えているなどのニュースが流れます。
 他方で、元国連調査員のジェリーブラッド・ピット)が、妻カリンミレイユ・イーノス)や娘二人が乗る車の中にいます。場所はフィラデルフィア、渋滞に巻き込まれたようでなかなか進みません。すると、前方で大きな爆発があったり、後ろから車が飛んできたり、トラックが暴走してきたりします。どうやら、全世界でゾンビが爆発的に拡大して、人間を襲撃しているようなのです。
 ジェリーは、やっとのことで車を郊外まで走らせることが出来ましたが、娘に喘息の発作がでてしまい薬が必要になります。
 ニューアークに出て、ようやく薬局で薬を確保するものの、ゾンビから家族を守るために、ビルの一室に隠れます。そこには、同じように身を潜めている家族がいます(注1)。
 他方で、ジェリーの元の勤務先(国連)から、「どうしても君の力が必要だから、なんとしてでも救助する」との連絡が入ります。
 ジェリーたちは、ゾンビらにぎりぎりまで追い詰められますが、ようやく身をかわして救助のヘリコプターに乗り込むことに成功します。
 着いた先は、同じようにして救助された人々でごった返す大西洋上に浮かぶ航空母艦。
 その船の中でジェリーは、国連次長から協力を要請されますが、国連を退職した身であり、今は家族を守ることが大事だからと言って拒否します。
 ですが、その場合には、家族共々艦艇から退去してもらわなくてはならないと指揮官から言われて、やむなくジェリーは協力することとし、気鋭のウィルス学研究者と一緒に、韓国のハンフリーズ米軍基地に向けて飛び立ちます。
 でも、そこもゾンビの襲撃を受けていて、ほうほうの体で次の目的地に向けて飛び立たざるを得ません(注2)。



 さあ、ジェリーらは人間世界を滅亡から救い出すことが出来るでしょうか、……?

 全体的には、まあ、『コンテイジョン』のゾンビ版とでもいったらいいのでしょうか。
 そちらは、新種のウィルスによる感染症がアッという間に全世界に広がるのを、米国の専門機関CDCの働き(ワクチンの開発)で食い止めるという話ですが、他方こちらは、正体不明のウィルスで全世界人々がゾンビと化して人間を襲うのを、元国連調査員・ジェリーらがなんとか防ぎ止めようとするというお話です。
 ただ、『コンテイジョン』の方は、マット・デイモン、マリオン・コティヤール、ジュード・ロウ、ケント・ウィンスレット、グウィネス・バルトロウなど主演級の俳優が次々に登場しますが、本作では、よく名が通っている俳優としてはブラッド・ピットくらいですから、彼が扮するジェリーが超人的な活躍をするのは目に見えています。
 それでも、無数のゾンビが襲いかかってくる有様を描き出しているシーン(注3)はなかなかの迫力があります。


 また、ブラッド・ピットも、さすが存在感のある演技を披露しています。



 なお、『ソウル・キッチン』や『ミケランジェロの暗号』などで目覚ましい活躍をしているモーリッツ・ブライブトロイが、WHOの研究所の単なる一研究員として出演しているのを観た時には驚きました(注4)。

 それに、『終戦のエンペラー』で主演のマシュー・フォックスも出演していますが、見終わってから劇場用パンフレットを見て知りました!

2)これは映画の出来栄えとはあまり関係ありませんが、正常な人間がゾンビに対応する仕方に、なんだか違和感を覚えてしまいました。

 というのも、この映画では、何らかの病原菌の感染によって、普通の人間がどんどんゾンビに変身するように描かれているからです(注5)。それも、狂犬病のように、単にゾンビに噛みつかれることによって、病原菌が感染してしまうようです(注6)。
 としたら検討すべきは、その蔓延を防ぎつつ、同時に、ゾンビ状態になった人間を元の通りに戻すことではないかと思ってしまいました。
 でも、この映画でなされていることは、鳥インフルの蔓延に際して、感染した鶏を急いで大量に殺して穴に埋めたのと同じように、感染してゾンビになった人たちを何でもいいからどんどん殺戮することでしかありません(注7)。

 こんな風に思うのも、本作で描かれるゾンビは、顔形がかなり変形しているものの全体的には通常の人間とほとんど変わりがなく、決して異様な「怪物」とは見えないからですが(注8)。
 でももしかしたら、ゾンビに噛まれて感染してから発症するまでの時間があまりに短く、そしてひとたび発症してしまったら、狂犬病と同様に、治療することが困難なのかもしれません(注9)。
 ただ、狂犬病の場合は、ウィルスによって脳神経組織が冒されてしまうために治療が困難になるようですが、本作のゾンビの場合そのようにも見えないので、あるいは治療が可能なのではとも思えるところ(注10)、あるいは希望しすぎなのかもしれません!

 とはいえ、襲いかかってくるものを問答無用で排除するだけでは、その先に何の希望も見いだせないのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「ゾンビ映画にしては、流血シーンは少ないので、ホラー映画ファンには物足りないかもしれないが、実態がつかめない悪に対する戦いという点で戦慄度はきわめ て高い。世界中がカオスに陥る圧倒的スケールのパニック・ムービーで、平和な日常と地獄が一瞬でくるりと入れ替わる空恐ろしいシミュレーションだった」として65点を付けています。
 また、前田有一氏は、「なによりオタク層を完全排除した作りは、家族連れやカップルにとっては安心安全。オマージュとエログロと内輪ウケを排除しても面白い映画を作れてこそ、本物である。そしてそのコンセプトがうまく定石外しになっている副次的効果もある」などとして70点を付けています。
 さらに、青木学氏は、「どのように して観客をゾンビで驚かすのかのリサーチはされているようで、その演出は古典的ですらある。ラストは続編を匂わせる終わり方をしているの だが、あるとしたら次こそ世界戦争の様相を呈するのだろうか」などとして80点を付けています(注11)。




(注1)ジェリーは、そこに閉じこもっていてはダメだと言って、一緒に行動するように言いますが、その家族は恐怖心の余り動こうとはしません。結局は、ゾンビに襲われてゾンビとなって、ジェリーたちを追いかけることになってしまいます。

(注2)この事態を救う手段を見つけ出してくれるだろうと期待されていた若手研究者は、その段階であっさり(銃の暴発で)死んでしまいます。

(注3)予告編で描き出されますが、大量のゾンビが壁を昇るシーンは、イスラエルがこうした事態を見越して設置した壁での有様です。イスラエル側では、壁を設けたことで安心して、歌舞音曲をかき鳴らして浮かれていたところ、そうした音に敏感に反応するゾンビが大量に各地から集まってきて、アッという間に高い壁も乗り越えてしまい、イスラエルは大混乱に陥ってしまいます。
 なお、劇場用パンフレット掲載の高橋諭治氏のエッセイ「ついに出現した、本格的なディザスター映画としてのゾンビ映画」では、「ゾンビの塔」とか「ゾンビの滝」と表現されています。

(注4)劇場用パンフレットには一切記載がありませんが、「IMDb」の「World War Z (2013)」の「cast」には「W.H.O.Doctor」として掲載されています。

(注5)上記「注3」の高橋氏のエッセイによれば、「21世紀型のゾンビ映画」におけるゾンビは、「かつての古典的なゾンビ」とは全く性質が違うようです。後者は、「プードゥーの呪い、宇宙からの怪光線、怪しげな化学物質などの影響によって墓場からむくむくと甦り、牧歌的なくらい動きがのっそりしていた」が、前者は「ウィルス感染者というれっきとした“生者”であり、一度死んで甦ったゾンビとは別物」だとされます。本作のゾンビも、この「21世紀型ゾンビ」の流れをくむようです。
 おそらく、「古典的なゾンビ」の例としては、マイケル・ジャクソンのPV『スリラー』があげられるでしょう(更には、例えば、『処刑山 デッド・スノウ』に登場するナチス・ゾンビ!)。
 そして、「21世紀型ゾンビ」を決定づけたのは、高橋氏によれば『28日後…』(2002年)とのことですが、クマネズミは見ておりません。
 なお、日本においてはゾンビ映画はあまり制作されてはいないようですが、例えば、『東京ゾンビ』(2005年)や『山形スクリーム』(2009年)などが公開されているところ(クマネズミは見ておりません)、それらは「古典的なゾンビ」の流れに連なるものだと思われます。

(注6)上記「注3」の高橋氏のエッセイが表現するところによれば、本作においては、「ゾンビに噛まれ、ウィルスに冒された人々はわずか12秒で人間ではない怪物に豹変し、車のフロントガラスを突き破るほどの勢いで猪突猛進を繰り返」します。

(注7)例えば、イスラエルでは、スタジアムに集まってきた無数のゾンビに対して、空から大型爆弾を投下して一気に殺してしまおうとします。

(注8)上記「注3」の高橋氏のエッセイが表現するところによれば、本作のゾンビは、「“音”に鋭く反応し、異様な奇声を発」し、「獲物を見失う」と「いったん“休眠状態”に陥る」のです。でも、高橋氏のいうようには「怪物」とは見えない気がします。
 なお、高橋氏のエッセイでは、本作において、「ゾンビが人間の生肉を貪り食うカニバリズム的な描写が一切盛り込まれていない。これは従来のゾンビ映画ではありえないこと」と述べられているところ、2002年の『28日後…』でもそうした表現はなされてはいないようです(同作のゾンビは、何も食べないで餓死してしまうようですから)。

(注9)Wikipediaの「狂犬病」の項によれば、狂犬病の場合、「発症すればほぼ確実に死亡する」とのこと。

(注10)凶暴性の増進や聴覚の異常な亢進とか、走る速度のアップ、それから致死性の病原体を持つ人間を瞬時に見分ける能力といった面を見ると、ゾンビになった人間の脳組織は、一部が異常に活性化されているものの、破壊されてはいないように思われるところです。
 なお、致死性の病原体を持つ人間を瞬時に見分ける能力が本作のゾンビには設けられていることから、ジェリーがゾンビ化の拡大を食い止める手段を見つけ出すことにつながっていきます。

(注11)ラストの「私たちの戦いはまだ始まったばかりだ」とのナレーションに対応するのでしょうか?




★★★☆☆



象のロケット:ワールド・ウォーZ
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シャニダールの花

2013年08月16日 | 邦画(13年)
 『シャニダールの花』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)この映画を制作した石井岳龍監督の前作『生きてるものはいないのか』を見たこともあり、映画館に行ってみました。でも、興行的には不振のようで、休日にもかかわらず6人ほどの観客でした。

 映画の最初に、「恐竜に食い荒らされた植物が、絶滅から免れるために花を生んだ。植物が花と種に小型化したために、餌が激減してしまい恐竜は絶滅した」というナレーションが入ります。
 次いで、製薬会社の研究所で働く研究者・大瀧綾野剛)が、新任のセラピスト・響子黒木華)を連れて研究所内を案内します。

 研究室では研究員が研究に勤しんでいますし、ゲストハウスには何人もの若い女性が暮らしています。女性たちは、胸に植物の芽が生えてきたことから、1億円の契約金と引き替えに、この施設で花が咲くまで生活します。
 他方で、研究所の所長(古舘寛治)は、胸から花を切り離す手術に立ち会います。切り離した花は特別な容器に入れられます。ただ、その手術を受けた患者は酷く苦しみだし、モニターの心電図が平坦になってしまい、電気ショックが与えられます。
 一体この研究所では何が行われているのでしょう、大瀧と響子はこれからどうなるのでしょうか、……?

 若い女性の胸に植物が芽生え、ついには花を咲かせてしまうという着想は凄く面白く、またその花を中心にして描かれる大瀧と響子のラブストーリーも興味深く、総じて、原因不明の大量死が次々に描かれる『生きてるものはいないのか』より本作の方が、ズッと滑らかに物語が展開しているという印象を持ちました。

 主演の綾野剛は、『横道世之介』とか『その夜の侍』などで見ているものの、主演作を見たのはクマネズミにとってこれが初めて。持てる魅力が上手く発揮されている感じで、これからも大いに活躍するものと思います。



 また、ヒロインの黒木華は、『舟を編む』(あとから辞書編集部に参加)や『草原の椅子』(主人公の娘)で見ましたが、本作も含めて、至極真面目で芯のある女性の役にはうってつけではないかと思いました。



(2)本作を見て当然に起こるのは、「シャニダールの花」とは本作において何を意味しているのかということでしょう(注1)。
 映画の中では、「ネアンデルタール人の墓にあった花」と説明されています(注2)。でもそれは、付けられた名前の由来であって、この花の持つ意味合いではありません。
 石井岳龍監督自身は、「花はエロスと死の象徴であり、それに侵される男女を見つめ直すことは、生命力の在り方をとらえ直すこと」と語っています(注3)。ただ、それではなんだかありきたりで(注4)、全般的・抽象的なのではと思えます(注5)。

 そこでまず、本作でおける「シャニダールの花」の特徴を見てみると、例えば次のようなものが挙げられるでしょう。
・若い女性の胸に、突然芽が出てきて花が咲く。
・ただ、女性なら全てこの花を咲かせられるというものでなく、どうやらかなり限られた女性だけに起こる現象のようです。
・芽が出てきたら全て花が咲くわけではなく、枯れてしまう場合もあります(その場合には、施設から退去させられます)。
・切り取られた花からは、画期的な新薬を作り出すことが出来るとされています(それで、製薬会社は、大金をかけて芽を持った女性を集めています)。
・花は咲かせたままにしておくと女性の命に問題があるとされ、適当な時期に切り離されますが、花を胸から切り離す手術を施すと、その女性が死に至る場合もあります。

 本作において、この「シャニダールの花」は何かを象徴しているのではと考えられるところ、こう様々の特徴を持っているとなると、ドンピシャで当てはまるものはなさそうながら、クマネズミは、とりあえずは「女性の女性たるところ」あるいは「純粋な愛の心」といったものではないかと考えてみました。
 映画の中のより具体的なケース(注6)を踏まえながらもう少し言えば、若い女性の場合、純粋に愛の心を育んでいればこの花を大きく咲かせることが出来ますが、嫉妬や憾みでその心が歪むと育ちが悪くなり、また愛の心がなくなってしまうとたちまち枯れてしまう、というように考えてみたらどうなのか、と思いました。

 とはいえ、ラストの光景を見ると(注7)、こんな解釈ではどうも狭すぎるようです。なにしろ、辺り一面に「シャニダールの花」が咲き乱れる光景が出てくるのですから。そうであれば、やはり、「花はエロスと死の象徴」とするありきたりな解釈でとどめておいた方が無難なのかもしれません(あるいは「解釈X」とでもしておいて、この先も何がXとして代入できるか考え続けるべきなのでしょう )。

(3)もう一つ、この映画を見て興味深いなと思ったことは、大瀧のアシスタントのはずの響子が中心的に能動的に動いていて、主役の大瀧は、むしろ響子にいいように動かされている感じがする点で(注8)、なんだか最近見た『さよなら渓谷』が思い起こされました。

(4)渡まち子氏は、「人の胸に寄生する不思議な花をめぐるミステリアスなファンタジー「シャニダールの花」。終末論的な物語が展開するが、基本はメロドラマ」として60点を付けています。




(注1)響子は大瀧に対し、「この花は何?それが一番大切じゃないの?何より花のことを知らなくては」と言います(大瀧は、それに対し、「我々の仕事は、花を育て摘み取ることだけだ」と言うのですが)。

(注2)響子がハルカ刈谷友衣子)に、「「シャニダールの花」は、ネアンデルタール人の墓にあった花で、心が発生した瞬間だという説がある」と言い、「胸に生える花は、人が初めて生んだ花だから「シャニダールの花」と名づけられた」と説明します。
 ただ、ラストの方で、研究所(そのときは既に閉鎖されていますが)の所長が、「その話は大嘘。ネアンデルタール人は、残忍で肉食。あいつらは、花に寄生されて滅んだんだ。あの花はマグマの力を持っている。兵器になる可能性があり、各国のスパイが狙っている」などと大瀧に話します。



 とはいえ、所長の話自体も大嘘のようにも思えます。
 Wikipediaの「ネアンデルタール人」の項の「埋葬」には、「R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見された。発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考える立場もある」と記載されています。
 なお、R・ソレッキーから送られてきた試料を分析したフランスの古植物学者のルロワ=グーランが書いた論文の翻訳を、このサイトで読むことが出来ます。

(注3)公式サイトの「Introduction」。

(注4)「花はエロスと死の象徴」と言われると、クマネズミはアラーキーの「花」の写真を思い出してしまいます。



 例えば、写真展「花緊縛」(2008年5月)に関する紹介文では、「「エロス(性/生)とタナトス(死)についていつも考えている」と荒木は言います。常にエロスとタナトスを表裏一体のものとして作品に抱え込む荒木は、本展にて、エロスとして“緊縛”を、タナトスとして“花”を用い、それらをひとつの作品のなかに共存させ、これまでに無いかたちで昇華させています」と述べられています。

(注5)なお、映画の中で響子は大瀧に対して、「みんな心に大きな穴を持っていて、大切なものを探して揺れている。花は心の絵なの」と言いますが、大瀧は「それは君の感傷的な解釈に過ぎない」と切り捨てます。

(注6)研究所のゲストハウスにいる女性について、簡単に見てみましょう。
ユリエ伊藤歩)の場合は、心を寄せていた大瀧が響子に関心が深いのを知ると、「何で先生は、私じゃなくて花にしか興味がないの!」と酷く暴れますが、結局は手術で花を切り離してもらうことになります。ところが、花が摘み取られた後、心臓が停止して死んでしまいます。
ミク山下リオ)の場合は、途中で芽が枯れてしまい錯乱して、他の女性の胸から咲きかかっている花をむしり取ってしまいます。
ハルカの場合は、研究所の施設に入りたくないと言っていたところ、響子の説得で翻意しそこで暮らすことになり、大きな花を咲かせます(ただし、その花を摘み取ってミクに手渡して倒れてしまいますが)。

(注7)「この花は、人を滅ぼす悪魔なのか、それとも人をどこかに導く天使なのか」と思い迷う大瀧の背後から響子が現れ(夢の中のようです)、「目が覚めたのか?」と問う大瀧に対して、「あなたが、今日、目が覚めたの」と言い、地面に咲く2つの花を指して「これが私、これはあなた」と言います。と周りを見ると、当たり一面に「シャニダールの花」が咲いており、大瀧は「僕たちはみんな花に戻る」とつぶやくのです。

(注8)響子は、密かに一人で研究室に潜り込んで「シャニダールの花」について調べるなど、自分でどんどん行動していくタイプのようです。
 響子が研究所に勤めてから暫くすると、彼女の胸にも芽が生えてきます。響子は、この芽を大事に育てて花を咲かせ、摘まないで種を得たらどうなるか見てみたいと強く望みますが、大瀧は、花は毒を盛っているから危険だとして、響子が寝ている隙に芽をナイフで切り取ってしまいます。すると、響子は大瀧に対して、「あなたは、自分が考えられることしか受け入れられない人だ。さよなら」と言って立ち去ってしまいます。



★★★★☆



象のロケット:シャニダールの花
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Short Peace

2013年08月14日 | 邦画(13年)
 アニメ『Short Peace』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)本作は、『AKIRA』で国際的に著名な大友克洋氏ら5人の監督が集まって制作した「オープニングアニメーション+4本の短編」から構成されています。

 例えば、最初の「九十九」は、江戸時代、箱根の山中の鄙びたお堂に入った男が出会う「付喪神」の話です。



 きれいな柄を持った着物が主人公の周りでうごめく様は、実写ながら、『ミクローゼ』で描かれる天拓楼での大立ち回りを思い起こさせました。

 どの作品も、いろいろな意味で日本的なものを描き出そうとしていて、一応の起承転結は備えているものの、どちらかと言えば、ストーリーというよりも、映像の美しさをとことん追求した作品のように思われ、その美しさに酔いしれていると、あれよあれよという間に68分が終わってしまいます。

(2)特に、大友氏が携わった2番目の「火要鎮」(ヒノヨウジン)は、日本の絵巻物や浮世絵の手法を取り入れて描いていて、日本のアニメはこんな風にも描けるのだといたく圧倒されました。



 ストーリーはいたって簡単。
 これも江戸時代の話で、商家の娘・お若と近所の松吉は幼馴染み。ただ、松吉は火消しに憧れていて、ついには親に勘当されてしまいます。お若は、松吉への思いを捨てきれずにいたものの、祝言の日が近づいてきます。一人鬱々として、部屋で扇子を投げる遊び(「投扇興」)をしていたところ、その扇子が誤って行灯の中に入ってしまい火が付いてしまいます。お若は、その火を簡単に消すことが出来たにもかかわらず、そのままにしておくと、火はたちまち燃え広がって、……。



 基本に描かれる火事は「明暦の大火」としながらも、「八百屋お七」の悲恋物語も取り入れたりして(注1)、非常に見応えのあるアニメとなっています。

 たまたま、書棚にあった大友克洋氏の『SOS大東京探検隊/大友克洋短編集2』(講談社、1996年)を開いてみたら、最後に「火之要鎮(Night Flames)」(1995年)が掲載されていました。あるいは、これが本作の元になっているのかもしれませんが、内容はかなり異なります。



 こちらの「火之要鎮」は江戸の長屋の話。「辰」の家で夫婦喧嘩からボヤ騒ぎがあり、これは長屋の皆が総出で消し止めたものの、今度は「富」の家で病気のかみさんが、旦那の浮気に堪えかねて自分の家に火を付けたからたまりません、燃え広がってしまい、火消しのお出ましとなります。

 絵柄はそれまでの写実的な手法によっているものの、同書の「あとがき」に、「フキダシの文字も当時のものを再現しようとした」とあるところ、それは、本作が「江戸の街の空気感の表現」に拘っているとされている点(注2)にも通じているように思われます。

(3)渡まち子氏は、「日本のポップ・カルチャーを引っ張るアニメーションが、真正面から“日本”をテーマにした。なかなかの気合を感じる作品である」として70点をつけています。



(注1)さらに、劇場用パンフレットに掲載の「第3章 火要鎮」の解説によれば、炎の描写に、「「伴大納言絵巻」で描かれた、応天門の火災の絵を参考」にしたりしているとのこと。

(注2)上記注に同じ。



★★★★☆



象のロケット:Short Peace
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謎解きはディナーのあとで

2013年08月12日 | 邦画(13年)
 『謎解きはディナーのあとで』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)TVドラマとして放映されていた時に毎週楽しんで見ていたものですから、映画館は女子高生などで一杯でしたが、見に行ってきました。

 本作は、大財閥のお嬢様で警察署の刑事でもある宝生麗子北川景子)と、彼女の執事として仕える影山櫻井翔)が、洋上を航行する豪華客船「プリンセス・レイコ号」にヘリコプターで追いつくというシーンから、物語は始まります。
 その船は宝生家の所有になるもので、二人は、船長・海原鹿賀丈史)や客室支配人・藤堂中村雅俊)らによって出迎えられます。



 話によれば、今回は船の最後の航海とのことで、麗子も18年ぶりで乗船します。
 また、船に設けられている舞台でジャズを歌っている女性・凛子桜庭ななみ)は、藤堂の娘だとされています。

 そんな船に、麗子の上司である風祭警部(椎名桔平)が、国立市からシンガポール市に寄贈される「Kライオン」を警備するために乗り込んでいることがわかったところで、事件が発生します。
 シンガポールの資産家レモンド・ヨーが、麗子達の見ている前で、何者かに殺されて海に投げ落とされたのです。不思議なことに、死体には、救命胴衣が着せられています。
 これを契機に船内では様々の事件が起きてしまいます。
 サア、本件を影山・麗子のコンビは解決できるのでしょうか、……?

 本作は、超豪華客船が舞台だったり、シンガポールのマーライオンやラッフルズ・ホテルなどが映し出されたりと、様々な観客サービスが凝らされて、さらにまたいつもの俳優に加えて鹿賀丈史とか中村雅俊、宮沢りえらも加わり豪華メンバーになっているものの、TVドラマの時のような歯切れの良さがなくなり、かなり間延びしている印象を受けました(注1)。
 でも、様々な人物が入り乱れ事件が起こり、いろいろな仕掛けが施されたコメディ作品なのですから、長くなるのも我慢しなくてはなりますまい。

 執事・影山役の櫻井翔は、本作ではTV版と違い、走ったり、麗子に抱きついたり、プールで浮かんだりするなど大活躍するところ、そつなくそれらをこなしています。



 ただ、宝生麗子役の北川景子の印象が、思ったより薄かったかなと思いました。これは、登場する場面は少ないものの、宮沢りえの大きな存在感によって影が霞んでしまったためではとも思えました(注2)。




(2)本作については、ただでさえ風祭警部の「ハイハイハイ」があるのに、さらに、高円寺兄弟(竹中直人大倉孝二)のシッチャカメッチャカや、大企業の御曹司(生瀬勝久)の大仰な身振りなどが加わって、うるささが倍増してしまっていることなど、いろいろツッコミを入れることが出来るでしょう(注3)。
 ただ、全体がコメディ作品と見なせますから、ゆったりとした気持ちで見ればいいのであり、一々そんなことを言い出してみても始まりません。

 クマネズミは、実を言えば、どんなシーンでお嬢様の麗子が「クビよ!」と執事の影山に叫ぶのかという点(注4)を一番期待して見に行きました。
 本作では、離れ島に流れ着いてディナーをとった後に、影山が、自分の推理をしゃべり出す前に、「失礼ながら、お嬢様の脳みそは難破船ですか?座礁してしまい働かなくなった脳みその鈍さに、SOS が必要でございます」などと言うと、麗子が5回も「クビよ!」と叫びます。
 この「クビよ!」のシーンは、本作では、ラストのシーンをも含めて2度も見られたのですから、そして本作はTV版のおよそ2倍の長さですから、それ以上は望む方が無理というものでしょう!

 ただ、この作品をコメディとすると、極悪人でもない犯人が殺人を2度も犯してしまう(注5)のはどうかな、という気がします(注6)。ですが、本作は、コメディ作品とはいえ、一応サスペンス映画でもあるのですから、それもまた致し方ないのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「毒舌執事と令嬢刑事コンビが殺人事件に挑む「謎解きはディナーのあとで」。初の劇場版ではアクティブな影山が新鮮だ」として55点を付けています。




(注1)途中の無人島で、執事の影山が一気に事件の謎を喋ってしまうのであれば、それまでの展開をもっと切り詰めてもいいのかもしれない、などと思いました。

(注2)例えば、北川景子と宮沢りえが、船内カジノで対決して、持ち前のお嬢様気質を発揮して大勝するというのはどうでしょうか(船内に影山が持ち込んだお金は10万ドルぐらいとし、それを北川景子が50万ドルとし、さらに影山が100万ドルにするというのでは)?

(注3)そもそも、犯人はレイモンド・ヨーを殺してしまう必要があったのでしょうか?例えば、レイモンド・ヨーとカジノで対決して、彼から大金を巻き上げるなどといった手段をとったらどうでしょうか?

(注4)丁度、TVドラマ「ガリレオ」シリーズで、天才物理学者・湯川学が、あたりかまわず数式を書き散らかすシーンに対応しているのでしょうか(劇場版の『真夏の方程式』には、その場面が設けられておらず、残念至極な気がしたところです)。

(注5)さらに加えれば、麗子を誘拐し身代金(100万ドル)を略取したこと、麗子を爆殺しようとしたこと(実際には、不発でしたが)、麗子と影山を洋上に投げ出したこと(ちゃんとした救命ボートでしたが)なども、罪状に付け加えられることでしょう。

(注6)犯人の裁判をどの国が行うのかによって課される刑は異なるでしょうが、本作の場合、死刑になる可能性もあるのではないでしょうか?
 本作ではどうやら、船が寄港したシンガポールの警察に犯人は引き渡されたようです。
 でも、そこでは留置されるだけであり、豪華客船スーパースターヴァーゴの船籍が、このサイトの記載によればパナマですから、刑事裁判管轄権は第一義的にはパナマなのかもしれません。ただ、パナマのような便宜置籍国は、自国に直接の被害が発生しているわけではないので、事件処理に総じて消極的なようです。
 他方、犯人及び被害者の一人は日本人ですから、日本の刑法は適用可能と考えられます(犯人については刑法第3条によって、被害者については刑法第3条の2によって)。とはいえ、もう一人の被害者レイモンド・ヨーは外国人(シンガポール人)ですから、シンガポールが管轄権を主張する可能性もあると思われます。
 いずれにせよ、関係する国の協議によって、裁判管轄権は決められることになるでしょう。
 なお、この件については、このサイトの記事が参考になると思います。



★★★☆☆



象のロケット:謎解きはディナーのあとで
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ニューヨーク、恋人たちの2日間

2013年08月10日 | 洋画(13年)
 『ニューヨーク、恋人達の2日間』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)このところ見る映画が総じて邦画の方に傾いてきているので、たまには気の置けない洋画でも見ようかということで映画館に行ってみました(注1)。

 本作の舞台は、ニューヨーク。主人公のマリオンジュリー・デルピー)はパリ出身の写真家、人気DJのミンガスクリス・ロック)と同棲しています。マリオンは、前の彼氏との間で出来た息子ルルを連れており、またミンガスにも娘ウィローがいます。
 そんな中で、マリオンは個展を開きます。
 さらに、その個展を見るべく、フランスから、マリオンの父親ジャノと妹ローズ、そしてローズの彼氏マニュまでもやってきて、マリオンたちの住むアパートに2日間滞在することに。



 狭いアパートに7人も一度に住むわけですから、騒ぎが起こるのは必定、サテどんな展開になるのでしょうか、……?

 本作には、個展の開催や子育てで大忙しのマリオン、自分の部屋でオバマ大統領の写真に向って架空インタビューをしたりするミンガス、微妙な問題にズバッと本音を口にしてしまうローズ(注2)、英語が分からないくせに好奇心旺盛なジャノ、マリオンの元彼で米国では認められないマリファナを吸うマニュ(注3)などなど、大層個性的な人物が次々に登場しながら、フランス人とアメリカ人とのカルチャー・ギャップなどが描かれていて、よくある話といえばそれまでながら、そして全体としては実に他愛ない話ながら、かなり愉快なコメディタッチのラブロマンスに仕上がっています。

 主演のジュリー・デルピーは、『ビフォア・サンセット』(2004年)などでお馴染みですが、本作の監督や脚本も手掛けていて、まさに八面六臂の活躍ぶりです。



 ミンガク役のクリス・ロックは、『恋愛だけじゃダメかしら?』でイクメンに勤しむ父親役を演じていましたが、本作では本領発揮です。




(2) 監督・主演のジュリー・デルピーは、『ビフォア・サンセット』を意識しながら本作を制作しているようです。
 劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、彼女は、「『パリ、恋人たちの2日間』の続編にしようと思った」が、「でも相手役は同じ男性じゃダメだと思った。それだと『ビフォア・サンセット』や『恋人までの距離』(1995年)と同じになってしまうから」と述べています。
 確かに、『ビフォア・サンセット』は『恋人までの距離』の続編であり、場所がウィーンからパリに移るだけで、主人公も相手役が両作で共通しています。
 本作も、前作とは場所がパリからニューヨークに移っていますから、これで相手役が同じになれば、二番煎じもいいところになってしまうかもしれません。
 それにしても、『ビフォア・サンセット』(及び『恋人までの距離』)は、フランス人女性セリーヌ(ジュリー・デルピー)とアメリカ人男性ジェシーとのラブストーリー(イーサン・ホーク)であり、本作(及び前作)でもフランス人とアメリカ人との関係が描かれていて、どうやらジュリー・デルピーは、自分のテーマとしてそこらあたりに焦点を当てているようにも思われます。
 としたら、今度は、フランス人とアメリカ人とが幽霊屋敷で出っくわすといったホラー映画に挑戦してみてはどうでしょう!

 なお、全体的に、戯曲の舞台を見ているような感じを受けました。
 勿論、フランスからやってきた連中を引き連れてニューヨーク市内に繰り出す場面も描かれているのですが(注4)、中心となるのは、マリオンとミンガスが暮らすマンションの一室。
 丁度いいタイミングで、ドアが開け放たれていろいろな人物が登場したり(注5)、大きなベルの音がして会話が中断する一方で(注6)、部屋のあちこちで人々が大声で話しこんだりしています。
 こんな感じの作品を最近どこかで見たなと思い付いたのは『くちづけ』。そこでも、「ひまわり荘」の談話室を中心に、様々な人が出入りし騒ぎまわります。
 とはいえ、劇場用パンフレット掲載の「Production Note」を見ると、本作は戯曲を映画化したものではなく、監督のジュリー・デルピーが、マニュ役のアレックス・ナオンと共同で脚本を書き進めていったとのことでもあり、また映画の内容がコメディとして面白ければ何の問題もありません。

(3)渡まち子氏は、「カルチャー・ギャップ、国際交流、男女の本音、働く女性の悩みに子育て、さらにはNYのアート界の裏話など、おしゃれ心を感じる楽しい小品に仕上がった」として65点を付けています。



(注1)本作は、『パリ、恋人たちの2日間』(2007年)の続編とのこと。

(注2)例えば、妹ローズは、マリオンの息子ルルについて、その歳にしては言葉が十分ではない、感情を上手く表せない、自閉症だと決めつけてしまいます。
 また、ミンガスが崇拝するオバマ大統領のスタッフを前にして、「オバマ大統領のノーベル賞受賞は間違っていた」などと蕩々とぶち上げたりします

(注3)マニュが密売人からハッパを購入するところを見ていたミンガスの娘ウィローが、別の場所でその真似をして騒ぎを引き起こします。

(注4)本作のラストが、セントラルパークの中にある城(ベルヴェデーレ城)での大騒ぎだったりします。

(注5)中でも傑作なのは、マリオンが脳腫瘍で余命3ヶ月だという話を聞いて登場した医者のエピソードでしょうか。この医者は、彼の妻の要請でやってきたのですが、彼女はエレベーターの中で、その場逃れのホラ話をマリオンから聞いたのでした。
 医者が登場したわけを知ったミンガスは、意地悪にも、マリオンに、「この間撮ったレントゲン写真があるはずだから、それを医者に見せたらいい」などと言って、事態をなお一層悪化させてしまいます。



(注6)インターホンが壊れているために、マリオンは修繕屋に電話するのですが、彼女の英語がなかなか相手に通じないようなのです。といっても、マリオンを演じるジュリー・デルピー自身は、『ビフォア・サンセット』(及び『恋人までの距離』)において、恋人のアメリカ人・ジェシーを相手に、延々と英語で話をするのですから、その英語力は並外れているものと思います(もう一人思い出すフランス女優といえば、アメリカ映画『陰謀の代償』に出演していたジュリエット・ビノシュでしょうか)!



★★★☆☆



象のロケット:ニューヨーク、恋人たちの2日間
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