映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

トリック劇場版 ラストステージ

2014年01月31日 | 邦画(14年)
 『トリック劇場版 ラストステージ』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)TV版や映画版で見たことがある「トリック」シリーズの最後の作品ということで、映画館に行ってみました(注1)。

 本作の冒頭では、“サイキック・ハンター”でもある奇術師フーディーニが、死の訪れを前にして、「死後の世界があるなら、1年後に連絡をとる」と妻に言い残したものの、1年後に彼からの連絡はなかった、というエピソードが紹介されます(注2)。

 ついで本編です。
 日本科学技術大学の物理学教授・上田次郎阿部寛)は、講義の中でツングースカ大爆発のことを熱心に語ります(注3)。講義の後、ジムでトレーニングしている上田のところに、貿易商社の社員・加賀美慎一東山紀之)が訪ねてきて、仕事を依頼します。
 さらに上田は貿易商社に出かけて、その詳細を加賀美の上司の有田部長(石丸謙二郎)から聞くのですが、その話とは、自分たちの会社は「赤道スンガイ共和国」でレアアースを採掘しようとしているものの、採掘場周辺にいる原住民らが立ち退かず、おまけにジャングルに住む呪術師から呪いをかけられたというもの。
 上田は、2000万円の研究資金の見返りとして呪術師のインチキを見破ってほしい旨を依頼されるものの、今日が期限の呪いをかけられたという有田部長が、上田の目の前で死んでしまうのです。

 他方、“天才美人マジシャン”の山田奈緒子仲間由紀恵)のもとにも、50万円の仕事の依頼が。実に危険な脱出ショーと言われたところ、実際にはTVの「ドッキリ」番組でした。
 ギャラをもらえないは、周りから笑いものにされるはで、とても下宿(家賃滞納中)に居られたものではありません。
 そこへ上田から「近々海外へ行く用事があるが、君もどうか?」との電話。渡りに船とばかりに、彼女も赤道スンガイ共和国行きに同行することに。



 山田は、パスポートを取るために実家に戻り、書道教室を開いている母親の里見(野際陽子)と会ってから(注4)、上田と連れ立って、スンガイ=キン菅井きん)が「国民の母」として慕われている赤道スンガイ共和国に行き、呪術師ボノイズンミ水原希子)に出会ったりするのですが、はたして二人はそのインチキを見破ることができるのでしょうか、………?



 完結編ということで、マレーシアでロケを敢行したり、また映画のラストで、これまでの作品が早送りで回顧されたりしますが、作品自体のトーン(ゆるーい展開ぶり)はこれまでのものと何ら変わることなく、それでも、大好きな洞穴のシーンがふんだんに出てくるので、クマネズミにとり面白いことは面白かったものの、ラストの作品だからといって取り立てて言うべき点もありません。これで終わりといえば終わりでしょうし、また続編が作られても別にかまわないのではないでしょうか(注5)?

(2)本作については、「トリック」ドラマ第1シリーズ第1話(2000年7月7日放映)を見ないことには話しにならないと書いているレビュー記事を随分と見受けます。
 そこで、本作を見た後ながら、第1話を見てみることにしました(注6)。



 確かに、第1話の冒頭には、本作と同様に、奇術師フーディーニのエピソードが置かれており(「注2」参照)、また本作の「赤道スンガイ共和国」の「国民の母」であるスンガイ=キンは、第1話に登場する新興宗教「母之泉」の教祖ゴッドマザー・霧島澄子と同じ菅井きんなのです。さらにまた、本作の最後に奈緒子(らしき人物)が見せるマジック(糊付けされた封筒の中から100円玉を取り出す)は(注7)、第1話で、見破れないトリックを見せた者には30万円の賞金を出すという上田教授の前で山田が披露したものと同一のものです。
 でも、そんなことを予め知って映画を見るのと、知らないで本作を見るのとで、受ける印象にそれほど違いがあるようには見受けませんでした(まあ、本作のラストが、第1話の冒頭に繋がるというのであれば、円環はそれで閉じることとなり、本作の続編はモウ作られないだろうと思えてきて、感慨深いものを感じるのかもしれませんが)。

 さらに、何か関連があるかもしれないと思い、テレビ朝日の「トリック 新作スペシャル3」(1月12日放映)も、録画したものを本作の後に見てみました。



 同作は、これまで『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』などで見慣れている世界であり、舞台は「尾古溝村」の「水神家」(注8)。幸代(国生さゆり)、月子(藤田朋子)、華絵(飯島直子)の三姉妹が、先祖が遺した莫大な財宝を探しだそうとやっきになる過程で、次々と変死してしまいます。それを上田と山田のコンビが解明していくわけで、犯人は水神家に恨みを持つお手伝い(朝倉あき)だとわかります。
 ドラマの最後で、山田が上田に「次は南の島だな」などと言うところが本作との関連性をうかがわせるとはいえ、その他に繋がりめいた点はあまり感じられませんでした。

 それより何より、様々な「小ネタ」はアチコチにふんだんにばらまかれているとはいえ、同作のドラマとしての緊密な作り方に感心してしまいました。著名な推理小説を下敷きにしているからとも思われますが、やはり「トリック」シリーズは国内の村を舞台にした方が見る方も簡単にドラマの中に入って行きやすいのではないかとも思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「人気シリーズの14年間の集大成「TRICK トリック 劇場版 ラストステージ」。初の海外ロケでもユルユルの空気はそのまま」として55点をつけています。



(注1)『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』については、このエントリを御覧ください。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「トリックを読み解く4つのキーワード」の「1.フーディーニ」によれば、彼に関するエピソードは、「トリック」ドラマ第1シリーズ第1話と『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』においても紹介されているとのこと。

(注3)大学の講義の中で、自分のサンダルを掲げて「サンダルは正義だ」と上田が語りますが、「サンデルの白熱教室」を掛けていて吹き出してしまいます。

(注4)その際に、母親・里見と父親・剛三岡田真澄)との駆け落ちの経緯が語られますが、それがいわれている「山田奈緒子の出生の秘密」に関わることなのでしょうか?
 そういえば、本作で、これまでの「トリック」シリーズで仕掛けられていた様々な謎が全て解明された訳のものでもないような気がします(例えば、「奈子は霊能者に殺されるという予言」)。ということは「ラストステージ」の続編もありうるということでしょうか?

(注5)最近では、本作に出演する阿部寛については『カラスの親指』で、また仲間由紀恵については『武士の家計簿』で、それぞれ見ています。

(注6)このサイトで見ました。

(注7)劇場用パンフレット掲載に監督インタビューにおいて、堤幸彦監督は、この場合の「奈緒子はこの14年間くらいの近過去を失ってしまい、上田のことは覚えていませんが、手品など、もっと昔からやっていたことは記憶しているんです」と述べています。

(注8)2つとも横溝正史の『犬神家の一族』のパロディでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:トリック劇場版 ラストステージ

黒執事

2014年01月28日 | 邦画(14年)
 『黒執事』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『BECK』で見た水嶋ヒロが3年ぶりに映画復帰した作品ということでもあり、映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、2020年の世界は西と東に分断されていて、西側諸国は女王が支配し、世界統一を図るべく、対立する東側諸国に“女王の番犬”を送り込んでいた、などといった説明がなされます。
 ついで、東側の某国(注1)。高層ビル群を背景にした高速道路を車が走ってきて止まりますが、運転している男が見る間にミイラ化して息絶えます。
 さらに、場面は変わって、とある倉庫らしきところ。大勢の若い女達が次々に大きな木の箱の中に押し込められています。
 その中の一人で、縛られて床に投げ出されているのが幻蜂清玄剛力彩芽)(注2)。
 清玄は、その場を取り仕切っていた青木橋本さとし)に対して、「ミイラとなった者の多くが、お前と接触していた。知っていることを話せ」などと叫んでいたところに、執事のセバスチャン水嶋ヒロ)が、「お邪魔いたします。主人をお迎えに参りました」と登場し、清玄を取り押さえていた青木の部下たちをたちどころになぎ倒してしまいます。

 そこでタイトルクレジットが入って、清玄が、朝、目覚めるシーンへ。
 その際に、幻蜂清玄は伯爵であると同時に、大玩具メーカー・ファントム社の経営者であるとも説明されます。



 そして、庭で女王の秘書官・サトウ城田優)とチェスをしている際に、このところ各国の大使館員が何人もミイラ化して死亡する事件が起きていることにつき、彼から「女王陛下は解決を急ぐよう指示された」と告げられます。
 女王の番犬として清玄は、セバスチャンと共にこの事件に当たりますが、さてうまく解決に至るのでしょうか………?

 「連続ミイラ化怪死事件」を主人公たちが解明する過程で様々の裏切り行為が発覚してきたりして、なかなか興味深い物語になっているとはいえ、如何せんその設定にいろいろ難があるように思えて、映画の中にうまく入り込むことが出来ませんでした。

 ですが、主演の水嶋ヒロはアクションシーンが素晴らしく、またヒロインの剛力彩芽は男装と女装とをこなしてなかなかの演技を披露しており、さらにはヒロインの叔母・若槻華恵に扮する優香も新境地を開いているのではと思いました(注3)。



(2)本作は、評判の漫画作品(枢やな著スクウェア・エニックス刊)を映画化したものながら、Wikipediaで調べてみると、漫画とはどうも別の世界を描いているようです。

 漫画の舞台は19世紀末のイギリスとされていますが、外国が舞台の漫画作品をそのまま日本で実写化することは難しいのでしょう(注4)、本作では、キャラクターを日本人俳優が演じており、さらに近未来(2020年)の某国が舞台となっていて、物語も「完全オリジナルストーリー」とされています。
 無論、それが基づくものと映画とは全然違った作品であるとはいえ、ここまで様々の設定を変えて新しい物語にしてしまうと、元の漫画が原作とされるのはなんだかおかしな感じがしてしまいます。せいぜい原案といったところではないでしょうか?

 特に、主役の水嶋ヒロが演じる執事はセバスチャンという得体のしれない者であり、さらに彼がヒロインの幻蜂清玄(注)とどういう関係にあるのかはっきりしままに映画が展開されます。
 その点はサスペンス性があって構わないものの、結局セバスチャンの正体が悪魔(注5)であり、清玄と予め契約を取り交わしているという殊更な関係にあるというのであれば(注6)、今少しきちんとそのことを映画の中で描かないと(映画の中では科白の中で示唆されるくらいです)、見ている方にわけの分からなさが残ることになってしまいます(注7)。

 とはいえ、本作全体がすべてお伽話なのですから、あれこれつまらないことは言わずに、中心的に描かれる水嶋ヒロの映像、特にそのアクションシーンの凄さを愉しめばいいのでしょうが(注8)!

(3)渡まち子氏は、「悪魔の執事と雇い主が難事件に挑む「黒執事」。3年ぶりに映画に復帰する水嶋ヒロのアクションに注目」として55点をつけています。



(注1)登場人物は皆日本語を話すので、「某国」といっても日本以外には考えられません。そうだとしたら、100年後ならまだしも、わずか6年後の日本で貴族制(幻蜂清玄伯爵!)が復活しているのでしょうか?
 尤も、幻蜂清玄に爵位がないと、ファントム社の経営者だけの肩書になってしまい、それでは『謎解きはディナーのあとで』の宝生麗子と変わりがないシチュエーションになってしまうでしょうが!

(注2)原作においてセバスチャン・ミカエリスと並ぶもう一人の主人公シエル・ファントムハイヴ(Ciel Phantomhive)の Phantomhiveの意味が、「幻+ミツバチの巣箱」であるところから、「幻蜂」という姓にしたのでしょう。

(注3)加えて、『桐島、部活やめるってよ』に出演していた山本美月が、幻蜂家のメイドのリンの役で頑張っています(アクションシーンがあります!)。



(注4)劇場用パンフレットに掲載の「Production Notes」によれば、松橋プロデューサーは、「原作通り、19世紀のイギリスを舞台にしてしまうと、日本人でやることに無理が生じる」と語っています。

(注5)本作のラストで、清玄は、「人間より悪魔のほうが裏表がない」などと言ったりします。また、劇場用パンフレットに掲載されたコラム「完璧主義者でピュア―悪魔はなぜ美しいのか」において映画ライターの渡辺水央氏は、「人間のほうが「姑息で、残任で、醜悪で。悪魔よりよっぽど悪魔らしい」」ということを映画を見て感じたと述べています。
 でも、単なる揚げ足取りになってしまいますが、「悪魔よりも悪魔らしい」人間がいるとしたら、その人間こそが悪魔であって、そうではない悪魔は悪魔のまがい物とみなすべきではないでしょうか?
 なお、柳下毅一郎氏は、「この世界の悪魔って、いったいどういう能力を持っているだろう? 早く動けるだけの人間と互角に戦ってしまう程度のものなのか? そんな程度のもんが悪魔なの?」と述べたりしています。

(注6)本作からは、10年前に殺された両親の復讐を清玄が成し遂げるまで、悪魔のセバスチャンは執事として清玄をどこまでも助けるが、それが成就されたら清玄の魂を奪える、というような契約内容と想像されます。
 でも、そんな七面倒臭い契約は、セバスチャンにとってどんなメリットがあるのでしょう?
 本文(2)で触れるWikipediaによれば、原作では、人間の魂は悪魔の餌とされているようです。ですが、悪魔に縦横の力があるのなら、わざわざそんな契約を結ぶまでもなく、直ちに清玄の魂を食べてしまえばいいのではないでしょうか?
 尤も、本作のラストでセバスチャンは、「坊っちゃんの魂を今いただいても面白くありません。もう少し肥え太らせてから」と言うのですが(「肥え太らせて」というのは、身体的な意味なのでしょうか、それとも比喩的な意味なのでしょうか?)。

(注7)本作は、どうも続編を前提にして制作されている模様で、清玄の両親を殺した真の犯人、それに「連続ミイラ化怪死事件」の本当の黒幕がどういう人物であるか、結局は描かれないままで終わっています(特に、岸谷五朗扮する警察保安省外事局局長の猫磨は、かなり怪しい動きをするものの、その意味は明かされません)。でも、本作の続編なんて制作されるのでしょうか?

(注8)とはいえ、セバスチャンが元々悪魔であるところから、青木にピストルで額を撃ち抜かれても死なない体をしているというのであれば、その見事で華麗なアクションにどんな意味があるのかと思えてしまいます。何しろ、相手の攻撃を避けることなく自分の攻撃だけをすればいいのですから。でも、本作は、そのようには描かれておらず、レベルは高いもののあくまでも通常のアクションシーンとなっています。



★★★☆☆☆



象のロケット:黒執事

もらとりあむタマ子

2014年01月25日 | 邦画(14年)
 『もらとりあむタマ子』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)『苦役列車』で頑張っていた前田敦子が主演の作品で、なおかつ評判がなかなか高いこともあり、大層遅ればせながらも映画館に行ってみました。

 本作は、音楽チャンネルの「MUSIC ON! TV(エムオン!)」のステーションID(注1)から生まれたもので、四季に分かれていて、最初は「秋」。
 東京の大学を卒業して実家に戻っているタマ子前田敦子)が、朝、2階にある部屋のドアを叩く音でもぞもぞ動きます。
 舞台は「甲府スポーツ」で(注2)、父親・善次康すおん)が店の戸を開け、看板を表に出します。
 善次は早速仕事にとりかかっているところ、起きてきたタマ子は朝食のロールキャベツを食べ(どうやらギッチョのようです)、TVを付けます。
 さらに善次は、洗濯物を干していますが、その中にはタマ子のパンティとかブラジャーが混じっています。
 善次が部屋に戻ると、タマ子は、食べっぱなしでトイレに入り漫画を読んでいる始末。
 その後タマ子は、椅子に座りながらプリンを食べ、漫画を読み、昼寝という具合。



 夕方になると、善次は店を閉め夕食を作ります。
 二人で夕食を食べるのですが、TVニュースを見ながらタマ子が「ダメだな、日本は」と口にすると、善次は、「お前、どこか体悪いのか。少しは就職活動しているのか?何のために大学に行かせたと思っているんだ。日本がダメじゃなくて、お前がダメなんだ」と言います。これに対して、タマ子は「動くよ。私だって」と答え、善次がさらに「いつなんだ?」と尋ねると、「少なくとも今ではない」との返答。



 おおよそこんな感じで物語は次の「冬」(そして「春」から「夏」)に移っていきますが、さてタマ子と善次の関係はどのようになっていくのでしょうか、………?

 映画のメインの舞台は地方のスポーツ店で、その登場人物はごくわずかであり(専ら主役のタマ子とその父親・善次)(注3)、また何かことさらめいた起こることもない作品ながら〔タマ子が大学を卒業しても、何もせずに家でぶらぶらしている様子が主に描かれ、その中に父親の再婚話(注4)などがちょっとばかり嵌めこまれます〕、にもかかわらず(あるいは、だからこそかもしれませんが)、なんだか今の時代がとても上手く描かれているような気がして、なんとなく感動してしまいます。やっぱり映画は、お金をかけた大作だからといって良い作品になるものでもないな(例えば『人類資金』でしょうか!)、こうした小さな作品(78分)の方が返って良い印象を与えてくれるのだな、と改めて思いました。

(2)本作は、何はともあれ前田敦子の類まれなる演技が第一の見ものといえるでしょうが(注5)、なおまた脚本の良さも特筆すべきではないかと思います。
 例えば、タマ子は、写真館の息子で中学生の伊東清矢)と何故か気が合うのですが、ラストの「甲府スポーツ」の店の前で、アイスクリームを食べながらおおよそ次のような会話をします。
 タマ子「私、夏が終わったらここ出るから」、仁「どこ行くの?」、タマ子「まだ決めてない。バスケ、レギュラーになれそう?」、仁「微妙」、タマ子「彼女は?」、仁「別れた。自然消滅」、タマ子「そんなもんだな」。
 そして、仁は自転車に乗って去ってしまい、ひとり残されたタマ子は、背伸びをしてから「自然消滅って、久々聞いた」と言います。
 このシーンでは、ごく簡単な科白のやりとりの中にこの物語のここまでの展開が色々詰められていて(注6)、とても優れた出来栄えではないかと思いました。

(3)渡まち子氏は、「音楽番組から生まれた異色の人間ドラマ「もらとりあむタマ子」。ニコリとも笑わないぐうたらヒロインを演じる前田敦子のダメっぷりがいい」として65点をつけています。
 また相木悟氏は、「ゆる~い空気感ながら、一瞬たりとも眼が離せない怪作であった」と述べています。
 他方、前田有一氏は、「前田の演技力不足、役作り不足もあってすべてが芝居がかって見える」として35点しか付けていません。
 ですが、例によって〔『ジャッジ!』についてのエントリの(2)でも申し上げたように〕、前田氏は「世界設定が浮いているため、共感も教訓もないし、ドラマに深みもない」と述べていますが、どうしてどの映画からも「教訓」を引き出そうとするのでしょうか?入場料を払い時間を潰して見たからには、「教訓」くらい得られないと元が取れないとでも言いたいのでしょうか?
 また、つまらないことですが、「山下敦弘監督の映画は、物語に抑揚がなく突出したキャラクターも出ないオフビートな作風が持ち味」と前田氏が述べているところ、「オフビート」の本来的な意味合いは、「抑揚がない」ということではなく、「通常とははずれたところに強拍があること」(コトバンク)のはずですが。



(注1)シーズン・グリーティングID は、「秋の日のタマ子」(サンマ)、「冬の日のタマ子」(みかん)、「春の日のタマ子1」(ハト)、「春の日のタマ子2」(就職祝いの時計)、「夏の日のタマ子」(犬のツトムくん)からできています。
 いずれも同一のスタッフ(出演:前田敦子、監督:山下敦弘、脚本:向井康介、音楽:星野源)による30秒の作品であり、その内容は「前田敦子扮するタマ子という女の子を中心に、日常のひとコマを、季節感溢れるワン・シチュエーションで表現」しています。
 なお、本作のスタッフ(監督・脚本・音楽)もこれらの作品と同じです。

(注2)甲府が舞台の映画作品といったら、すぐさま『サウダーヂ』を思い出します。同作では、甲府駅の南側の商店街(今やシャッター街になってしまいましたが)が映し出されているところ、本作の「甲府スポーツ」は、甲府駅の北側(山梨大学の南側)に実在するようです(なお、このサイトの記事を参照)。
 ただ、マッタクどうでもいいことですが、公式サイトの「プロダクションノート」に「半径200メートル以内で展開するタマ子の世界」とあるものの、実在の「甲府スポーツ」から“半径200メートル以内”に、タマ子が2度ほど自転車で通りかかる「小さい駅」は見当たりません(1度目は友人だったマキ子が帰省したところに遭遇し、2度目はそのマキ子が東京方面の電車を駅で待っています)。

(注3)善次の別れた妻は東京にいるようですが、タマ子は時々連絡をとっていて、彼女がバリ島へ旅行に行くとの情報を善次に伝えたりします。また、善次の再婚話の進捗状況を母親に連絡するものの、母親の方は取り合おうとはしません。なんだかタマ子は、両親が再び元の生活に戻るかもしれないと甘い期待を抱いていたようなのです。
 また、タマ子には結婚している姉がいてお正月に帰省するのですが、母親同様音声のみになっています。

(注4)法事の相談に兄・啓介鈴木慶一)の家に善次と行った際に、タマ子は、兄嫁のよし子中村久美)が、アクセサリー教室を主催する曜子富田靖子)を善次に紹介したことを知ります。
 そこでタマ子は、まず中学生の仁をスパイとしてアクセサリー教室に送り込んで様子を探らせた挙句、自分でも教室に乗り込んで曜子と接触します。
 その際、父親のダメっぷりをいろいろ曜子に話すのですが、「一番ダメなのは、私に家を出て行けと言えないところですよ」と言うと、なんとその後の夕食時に、父の口から「夏が終わったら、この家を出て行け」と言われてしまうのです。
 タマ子は、曜子に言ったことがすぐに善次に伝わって、それを善次が自分に言ったのだとわかるのでしょうが、サテどのように対応するのでしょうか?善次が「今更他人と暮らすのは嫌だ」と言ってはいるものの、それは表向きで、実は曜子と大層親密な関係になっていることがわかったと思うのでしょうか、あるいはそんな口移しのことを言うような人間ではダメじゃないか、この縁談もうまくいかないのではと思うのでしょうか?

(注5)例えば、前田敦子の本作におけるトローンとした目つきを見たら、善次でなくとも、「もっとしっかりしろ!」とは叱れなくなってしまうのではないでしょうか?
 なお、前田敦子主演の黒沢清監督作品『SeventhCode』は、渋谷のシネクイントにて今月1週間限定で上映されたものの、残念ながら見逃してしまいました(ただ、シングルCD「セブンスコード」発売に合わせて、3月5日に、同作品もDVDで発売されるようです)。

(注6)タマ子の「私、夏が終わったらここ出る」との科白には、上記「注4」で触れたことが反映していますし、彼女が「バスケ」と言うのも、映画の冒頭付近で、仁が母親と一緒に「甲府スポーツ」にやってきてバスケットシューズを買ったことがあるからですし(特にその後、仁が一人で店にやってきて、タマ子と相談しながら注文内容を変更します)、さらに「彼女は?」と尋ねるのは、タマ子が買い物から帰る途中で仁が女子中学生と一緒にいるところを目撃していることからです〔その後、もう一度仁の家(写真館)の前でも二人に遭遇しています〕。





★★★★☆☆



象のロケット:もらとりあむタマ子

ジャッジ!

2014年01月23日 | 邦画(14年)
 『ジャッジ!』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)『ルームメイト』での演技がなかなか良かった北川景子が出演するというので、映画館に行ってきました(注1)。

 本作の冒頭は、「きつねうどんのCM」(注2)の撮影風景が描かれます。キツネの着ぐるみに広告代理店・現通の若手クリエーター太田喜一郎妻夫木聡)が入り、「腰の振りが甘い」などとダメを出されています。
 ただ、そのCMを巡っての会議で、スポンサーの方から、「すごく酷いCMだ。このネコをもっとネコらしくして」と要求されると、ベテランクリエーターの大滝一郎豊川悦司)は「大好評だ。ただ、簡単な直しがあった。明日まで、キツネをネコに直して」と喜一郎に伝えます。
 喜一郎は「そんなムチャな」と抵抗しますが、大滝が「ムチャはチャンスだ」と言って取り合おうとしません。仕方なく喜一郎は、猫の声を自分で入れたりして直しにとりかかります。
 そんなある日、喜一郎は、大滝から「自分の代わりに、サンタモニカ国際広告祭の審査員をやってきて欲しい」と言われ、さらに「(スポンサーの息子が制作した)「ちくわのCM」(注3)が入賞しないとクビだ」とも告げられてしまいます。



 やむなく喜一郎は、同僚の大田ひかり北川景子)(注4)に、同姓のよしみで一緒にサンタモニカに行ってもらいますが、さて広告祭における審査の結果はどうなることでしょうか、………?



 本作は、舞台設定を広告代理店とする着想が斬新で、そのCM作りの一端をかいま見させてくれるので興味深く、更に全体的にコメディとしてなかなかよくできており、笑いの場面がてんこ盛りであって、とても面白いと思いました。この映画を見た友人が言っていたのですが、「昔の三谷幸喜や宮藤官九郎の世界に入り込んだような感じ」となりました!

 主演の妻夫木聡は、このところ様々な役をこなしてきているところ、『清須会議』や本作のようなコメディでもなかなかの演技を披露していますし、ヒロインの北川景子も、『謎解きはディナーのあとで』と同様、持ち味を遺憾なく発揮しているなと思いました。

(2)本作においては、様々の固有名詞が架空のものとなっているにもかかわらず、どうして「トヨタ」は実名なのか(注5)、そしてCMクリエーター・木沢はるか鈴木京香)が所属する白鳳堂が制作した「トヨタ」のCMは、国際広告祭でグランプリを獲得できるほどクオリティが高いものなのか(随分とあからさまな擬人法を使っていて、気持ち悪いだけではないか)(注6)、などなど問題点が思い付きます。

 でも、こうした映画については、あれこれ詮索することなく、また下記の(3)で触れる前田有一氏のように教訓など汲み取る必要もなく、単純にお腹の底から面白がればいいのではと思いました。
 もとより、映画から何かしらの教訓を引き出すことは見る人の自由であり、他人がとやかく言うべき筋合いではないとはいえ、「中学生から見られる社会の仕組みムービー」と述べたり、「トヨエツをはじめとする幾多の悪人?たちが、魅力たっぷりに描かれているのもその主張と合致する。世の中は、善悪だけではない、絶妙なバランスで成り立っているのだと、この映画はその本質を伝えようとする」など前田氏は言うのですが、そんなつまらないことはこうした作品を見ずともわかりきった話なのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「思いがけない役で登場する豪華キャストが楽しい、笑いと驚きの娯楽作で、大いに楽しめる快作に仕上がっている」として70点をつけています。
 また、前田有一氏は、「ラブシーンや暴力シーンもなく、子供たちと一緒に楽しむ、ちょいと辛口のお仕事ムービーとして見事な出来映え。今週のイチオシとして推薦する」として85点をつけています。

 ですが、柳下毅一郎氏は、「ついに日本にもそれ(トム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』という映画)に匹敵するお手盛り映画が誕生した!正義と真実の使徒、裏工作と嘘が嫌いな電通マン!」と批判します。
 でも、本作は、CMディレクターの永井聡氏が監督、CMプランナーの澤本嘉光氏が脚本でCM界を取り上げている作品なのですから、作品自体がCM界のCMになっていて「お手盛り映画」となってしまうのも(注7)、当然といえば当然のことなのではないでしょうか(注8)!



(注1)予告編は、このサイトで見ることが出来ます

(注2)このCMは、このサイトで見ることが出来ます。

(注3)このCMは、このサイトで見ることが出来ます。

(注4)大田ひかりという名前をつけたことについて、爆笑問題の太田光の妻の太田光代氏が不満を漏らしているようです(この記事を参照)。

(注5)そういえば、「きつねうどんCM」の「エースコック」も実名でした(このサイトの記事を参照)!
 ただ、「ちくわ堂」の方は架空で、「鈴廣かまぼこ」が特別に作ったもののようです(このサイトを参照)。

(注6)と思って見ていたところ、本作で映し出されるトヨタのCMは実際のCM(博報堂制作による「HUMANITY」)であり、なおかつ賞(2006年の第53回カンヌ国際広告祭フィルム部門で銀賞)も獲っているとのことで、驚きました(ラストのクレジットに「劇中CM協力」として記載されています。なお、このサイトの説明によれば、同CMでは、「車のシート、シートベルト、エアバックなど、さまざまなパーツを人間に置き換えることで、細部までいきとどいたサービスやホスピタリティをユーモアたっぷりに表現しました」とのこと)!

(注7)主演の妻夫木聡は、劇場用パンフレットに掲載されたインタビューにおいて、窓際族のリリー・フランキー)から教えてもらった「カマキリのポーズ」を演じた際に、永井監督から「もうちょっとちゃんとカマキリをやってください」と言われたと語っていますが、これって本作の冒頭で喜一郎が「腰の振りが甘い」と言われたこととダブってしまいます。



 また、ヒロインの北川景子も、劇場用パンフレットに掲載されたインタビューにおいて、「映画というよりも広告の現場に近い感じ」とか「広告の素材としての役割を任されているのであれば、それは大きな役割で後裔なことですし頑張ろうと思いました」などと述べています。

(注8)このエントリ自体も、本作のCMとなってしまうことでしょう!




★★★★☆☆



象のロケット:ジャッジ!

武士の献立

2014年01月21日 | 邦画(14年)
 『武士の献立』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)昨年12月に和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたことでもあり久しぶりの上戸彩の主演作ということで映画館に出向きました。

 映画の冒頭では、武家屋敷の台所で料理を作る武士の姿が映し出され、「包丁侍」と呼ばれたと説明が入った後、加賀藩邸に場面が移り、臥せっている側室・お貞の方夏川結衣)に、女中の上戸彩)がお粥を「生姜の粥でございます」と差し出すと、それを食べたお貞の方が「うまい、誰に習ったの?」と尋ね、春は「お母様です」と答えます。
 ついで物語は10年後に飛び、藩邸で催された宴席で余興として出された「鶴もどき」―台所方の舟木伝内西田敏行)が作ったもの―に使われた具材を、春が事細かに言い当てます。



 そこで、伝内は春を息子・安信高良健吾)の嫁にと望みます。



 ですが、春は、1年前に離縁された身であり、かつまた安信が自分より4歳も年下であることや町人の出であることから固辞します。しかし、なおも伝内が懇願するものですから、春も折れて嫁ぐことに。
 春が加賀に出向くと、夫・安信は、包丁侍であることを恥じ、むしろ剣術の方を励んでいる有り様。足繁く、親友の今井貞之進柄本佑)が開いている道場「養心館」に通っています。姑の余貴美子)とはうまく行きそうですが、春はこの先、夫と上手くやっていけるのでしょうか、………?



(2)本作は、単に、包丁侍(主君とその家族の食事を賄う武士の料理人)というこれまでスポットライトを当てられてこなかった役職を取り上げただけでなく、加賀騒動までもストーリーの中に織り込んでいる点(注1)は評価できるものの、全体としてはイマイチの感じが残りました。

 というのも、本作は、昨年見たフランス映画『大統領の料理人』(フランス大統領府の大統領専用シェフに取り立てられた女性料理人のお話)となんだか似ているなと思えたのですが、どちらもいくつも料理が画面に登場するものの、本作においてはそれぞれの具体的なイメージが同作ほど把握できない感じでした。
 例えば、本作の始めの方で「すだれ麩の治部煮」が言われますが、どんな料理でどんな風に作るのかが映画ではわかりません。ましてラストの「饗応料理」は、「七の膳」まであったりして大層豪華なことは見て取れるものの、一々の内容は本作では描かれません(注2)。
 料理を一つのテーマとする作品でありながら(注3)、肝心の料理が抽象的な感じに思えてしまいます。

 また、本作はあくまでもフィクションであり、従って包丁侍の妻がどんなに活躍しても構わないとはいえ、やはり江戸時代という時代設定の下では、女性が全面に出過ぎてくると違和感のほうが先に立ってしまいます(それも、町家出身の娘が武家に嫁ぐのですから)(注4)。

 まあ、主演の上戸彩(注5)を中心に描くラブストーリーと捉え、その他のことはそのためのお膳立てにすぎないとすれば、これはこれで構わないとも思えるのですが(注6)。
 それにしても、共演の高良健吾は、映画のみならずTVにおいてもよく見かけるものです(注7)!

(3)渡まち子氏は、「食は昔も今も生きる基本。日本映画伝統の家族愛を描く作品だが、料理の腕の成長が夫婦として人間としての成長に重なる展開が共感を呼ぶ」として65点をつけています。



(注1)藩政改革派〔中心人物は藩主の側近・大槻伝蔵緒形直人)〕と守旧派〔中心人物は前田土佐守鹿賀丈史)〕との争い。藩政改革派の後ろ盾だった六代藩主・前田吉徳が死ぬと、守旧派が盛り返し、藩政改革派は粛清されてしまいます。
 その中で、安信の親友の今井貞之進も国を追われ、また前田吉徳の側室・お貞の方も藩主毒殺の嫌疑をかけられて囚われの身となってしまいます。

(注2)さらには、加賀騒動に関与し、幽閉されているお貞の方(その時は、出家して真如院)に春がお重を持っていくのですが、実に綺麗に作られていることはわかるものの、一つ一つがどんなものなのか、それぞれをどのようにこしらえたのかは映画を見ている方にはわかりません。

(注3)劇場用パンフレットの監督インタビューにおいて、朝原雄三監督は、「この作品の大きな見せ場は、やはり料理のシーンです」と言っているのですが。

(注4)例えば、春は、夫・安信が、今井貞之進らによる前田土佐守暗殺計画に参加しようとしているのを察知すると、その刀を持って屋敷の外に飛び出してしまい、安信の行動を妨害してしまいます。その結果、今井らは土佐守の手の者によって殺されてしまう一方で、安信は生き延びることが出来たのですが。
 なお、春は、浅草の著名な料理屋の娘とされています(家事で両親を亡くし、それで側室・お貞の方之女中となっていました)。

(注5)上戸彩については、レビュー記事を書いてはおりませんが、DVDの『テルマエ・ロマエ』で見みましたし(なお、このエントリの「注1」を参照)、TVドラマ『半沢直樹』はいうまでもないでしょう。

(注6)成海璃子は、親友・今井貞之進の妻で、安信が密かに思い続けていた女性・佐代の役ながら、セリフ回しがどうしようもない感じがしました(『書道ガールズ!!』や『シーサイドモーテル』では頑張っていたのですが。でもまだ22歳ですから仕方がないのでしょう)。

(注7)高良健吾については、最近の映画では『ルームメイト』で見ましたし、TVドラマでは『ハードナッツ! ~数学girlの恋する事件簿~』とか『書店員ミチルの身の上話』で見ました。




★★★☆☆☆



象のロケット:武士の献立

永遠の0

2014年01月17日 | 邦画(14年)
 『永遠の0』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)戦争物の映画は正直あまり見たくはないのですが、評判がとてもいいものですから、映画館に出向いてみました。

 物語(注1)は、司法試験に4回落ちている健太郎三浦春馬)が、姉の慶子吹石一恵)と一緒に、自分の血の繋がった祖父のことを調査するところから始まります。



 というのも、祖母の松乃(若い時分を井上真央)の葬儀の時に、二人は、目の前にいる祖父・賢一郎夏八木薫;若い時分は染谷将太)の他に、血の繋がった祖父・宮部久蔵岡田准一)がいて、彼は特攻で亡くなったと言われたものですから。
 時代の設定は今から10年前の2004年とされていますが、その時にしても終戦時からは60年近く経過していて、関係者は余り生存していません。数少ない生き残りを二人が訪ね歩くと、皆が一様に「宮部は海軍一の臆病者だった」と言うのです。
 それで二人は意気消沈してしまいます。
 しかし、井崎橋爪功;若い時分は濱田岳)に会うと、彼は「宮部小隊長のお陰で、娘とこうしていられる。あの時代に家族への愛という生き方を選べたのは、小隊長が臆病だったからではなく、むしろ強かったからだ」と言うのです。
 その言葉に意を強くして、二人は一層熱心に宮部久蔵のことを調べていくのですが、果たしてどんなことが明らかになるのでしょうか、………?

 ストーリーの展開の上でややおかしなところが見受けられるものの(注2)、以前見た太平洋戦争関係の映画と比べると、CGの技法が格段に進んだためでしょう、零戦や空母等が実にリアルに描かれていて、映画の中にすんなり入り込むことが出来ます。
 それに、主人公の宮部久蔵が、ありがちな熱血溢れる軍人として、あるいは単なる悲劇の英雄として描かれていないことも、この作品を受け入れやすくさせているように思います。
 ただ、あの時代に、元々職業軍人である彼が、“空気”を読むことに長けている普通の日本人ならばそんなに強くは持ち得ないような家族愛を第一とする考え方にどうしてなったのか、が映画の中で描かれていないために、その人物造形の仕方に疑問が残り、イマイチの感じは残るのですが(注3)。

 としても、岡田准一以下の俳優陣の演技はなかなかのものがあります。
 特に、主演の岡田准一はさすがの演技で、ラストのシーンは鬼気迫るものが感じられました。
 また、ヒロインを演じた井上真央も、実にしっかりした演技を披露します。



 脇役陣では、現代の景浦役の田中泯とつながるものがそれほど感じられないとはいえ、若い時分の景浦を演じた新井浩文が出色のように思います(注4)。

(2)本作については、小川榮太郎氏による『『永遠の0』と日本人』(幻冬舎新書、2013.12)が刊行されています(注5)。
 同書において小川氏は、最初にこの作品を見た時は、本作が「戦争や、軍人や、当時の軍部を、平和の今日の立場から見すぎている」ために(注6)、「期待は大きく裏切られ」、「失望したというより、見終わっての感想は憤りに近かった」と述べています(同書P.24)。
 ですが、二度目にこの作品を見たら、「先に違和感と思われた諸点」は、実は、「戦争から遠く隔たった現代日本人に、最後に、心に残る強い印象として、軍人の本当の姿を伝えるため」に作られた「トリックだった」ということに気がつき(注7)、「今度はすっかり魅了された」と書いています(同書P.29)。
 具体的には、映画の冒頭の特攻機突撃は、「死を媒介にして、彼がたった一人愛した女、松乃に繋がると共に、ラストシーンに繋がり、映画全体を宮部の特攻突撃による死で覆い、構造化する」が、この「構造化そのものが映画『永遠の0』の感動の最大の源泉なのだ」ということのようです(同書P.31)。

 さらに小川氏は、百田尚樹氏の原作と映画との関係についても、次のように語ります。すなわち、山崎貴監督は、一方で、「戦後的ヒューマンドラマの科白を多用し、原作に多数見られる、主人公・宮部久蔵の軍人らしい科白(注8)や、作者本来の戦争観を示す言葉(注9)を、注意深く全て省」きながらも、他方で、原作の「思想を映画によって最大限甦らせようと狙」って、「映画の構造や俳優の沈黙の演技に、最大限、原作の思想を語らせるという手法」をとっているのだと(同書P.165)。

 要すれば、小川氏は、原作が表している戦争観・軍人観―それを小川氏は評価します―が本作に構造的に読み取れることから、本作に「魅了」されたように考えられます。

 ですが、クマネズミの方は、小川氏とはマッタク逆に感じました。すなわち、本作における宮部の描き方は家族愛を強調していて、これまでの戦争物における特攻隊員の描き方とはかなり違ったものがあるな、それは新機軸として評価してもいいのかもしれないとクマネズミは思いましたが、反対にその冒頭及びラストの描き方には、これでは従来の特攻隊物と大差ないのではないのかと、違和感を覚えました(注10)。

 加えて、クマネズミには、小川氏が触れようとしない箇所が原作にあるのではと思いました。
 すなわち、原作のラストに置かれている「エピローグ」では、空母「タイコンロデガ」に対する宮部の特攻の様子が描かれているのですが、なんと宮部機は空母に体当たりをしたものの、「爆弾は破裂しなかった。不発弾だったんだ」と書き込まれているのです(原作P.572)。
 出発直前に賢一郎と交換した零戦「五二型」のエンジンが不調になったことからすると、宮部が乗り込んだ「二一型」に取り付けられた爆弾が不発弾だったことには、大きな意味があるのではないかと考えられるところです。
 少なくとも結果的に、宮部は、小川氏が強調する「出来る限り多くの敵を殺す」という「軍人の常識」を実現したのではなく(注11)、無用の殺生は行わないという「戦後的なヒューマニズム」を達成しているのです(注12)。

 こうなると、原作には一定のかっちりとした思想―小川氏が評価する戦争観・軍人観―があり、それを映画は構造的に表現しているとする小川氏の見立てそのものが、実際のところは怪しい感じになってくるように思われます。
 むしろ、原作も映画も、先の戦争についてその初期から終期にわたる色々なエピソードを描き出すことによって、様々な把握の仕方がありうるのだということを表現しているというようにも思えてきます。
 そして、そうやって与えられたものに従って先の戦争についてどのように考えるのかについては、映画や原作自体が方向性を与えているというよりも、あくまでも鑑賞者自身に任されているということではないでしょうか?

 と言っても、ここから先については無知蒙昧なクマネズミにとって難物至極であり、これまでと同様これからも、ああでもないこうでもないとグチャグチャ考え続けていかなくてはならないものと思っています。

(3)渡まち子氏は、「特攻で亡くなった祖父の真実を描く「永遠の0」。生真面目な映画だが零戦を美化していないところがいい」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「歴史を語り継ぐ意義、その中から浮かび上がる「生きろ!」というメッセージが心に届く良品であった」と述べています(『風立ちぬ』から「あなた、生きて」というメッセージを汲み取った作家・高橋源一郎氏のことを思い出してしまいました!←このエントリの「注12」を参照)。
 福永聖二氏(読売新聞編集委員)は、「期待するなと言う方が無理というものだし、その期待を決して裏切らない感動作である」と述べています。
 渡辺祥子氏は、「太平洋戦争下の空気を伝える難しさは近年の戦争映画を見るたびに感じさせられる。だが、ここでは当時の日本兵を想わせる小柄で鍛えられた体躯に凛々しい表情を持つ俳優たちが祖父の時代を演じ、現代の若者らしい体型の俳優が孫の世代を演じたことで違和感が消え、自然にドラマの世界に溶けこむことが出来た」として★4つをつけています。
 ただ、渡辺祥子氏が「当時の日本兵を想わせる小柄で鍛えられた体躯に凛々しい表情を持つ俳優たちが祖父の時代を演じ」としている点については、若い時分の井崎を演じた身長160cmの濱田岳には当てはまるにしても、景浦役の新井浩文は181cmですし、武田に扮した三浦貴大にしても178cmですから、よく理解できない感じがします。



(注1)原作は百田尚樹氏による同タイトルの小説(講談社文庫)。

(注2)例えば、アチコチで既に指摘されている点ながら、当初、健太郎らが宮部のことを調べると言うと、祖父の賢一郎は「それはいい、ぜひ調べてみろ」と答えるだけで、自分と宮部との関係等につき何一つ語らず、彼らが調べあげた後になってから詳しく語り出しますが、常識的には、健太郎らの調査をスムースにはかどらせようと、自分の持っている情報を最初に彼らに与えるのではないでしょうか?
 勿論、原作も同じような書き方になっていることですし、物語の構成上からすれば、最後になって判明する方がサスペンス性があって見る者にインパクトを与えるのは確かですが。

(注3)原作(P.283)では、父親が相場に手を出して失敗し自殺した後に母親も亡くなってしまい、天涯孤独の身となったため、やむなく海軍に入ったと、宮部は整備員に語ります。他に、幼い時分に囲碁を本格的に勉強していたことも語られますが、宮部の過去についてはそうしたこと以外にほとんど何も書き込まれておりません。
 そういえば、それほど宮部が家族愛のことを言うのであれば、原作でもそのことについて具体的な書き込みが十分になされているかと思いきや、本文の(2)で取り上げる小川氏の著書によれば、「文庫版570ページ以上の大作の中で、たった2カ所、合計3ページほど登場するに過ぎない」のです(同書P.168)。
 そんなあれやこれやから、この物語は、宮部久蔵という生身の一個人を主人公とするリアルな小説と見るよりは、むしろ宮部久蔵という名前は持つものの酷く抽象的な人物を通して太平洋戦争全体を語ろうしていると見るべきなのかもしれません〔小川氏は、「大東亜戦争そのものを主人公とした小説」だと述べています(同書P.167)〕。

 まして本作では、そんな宮部の過去のことは、妻との再会のエピソードを除いて何も描かれていないのですから、彼の抽象度は一層増しているのではと思いました。  

(注4)最近では、岡田准一は『天地明察』、三浦春馬は『東京公園』、井上真央は『謝罪の王様』、濱田岳は『はじまりのみち』、新井浩文は『さよなら渓谷』で、染谷将太は『リアル~完全なる首長竜の日~』で、それぞれ見ています。

(注5)小川氏の同書は、本作の他に、『風立ちぬ』と『終戦のエンペラー』も取り上げています。
 すなわち、『風立ちぬ』については、「素材が」、つい80年ほど前の史実」であるにもかかわらず、「宮崎は、残念ながら、この映画で歴史から逃げてしまった」と批判しますし(同書P.88)、また『終戦のエンペラー』についても、「俳優のみならず、脚本スタッフたちが、非常に重要な点についてさえ、「事実を徹底的に調べず」に、この映画を作ったこと」を厳しく非難します(同書P.115)。
 ですが、両作とも、歴史研究成果の発表の場ではなく、単なる娯楽映画でフィクションなのですから、小川氏のようなことを声高に言い募っても余り意味がないように思えるところです〔『風立ちぬ』については、岡田斗司夫 FREEexによる『『風立ちぬ』を語る』(光文社新書)が言う「この映画には、宮崎駿監督の自身の作家性が強く出ています」という見方(同書P.175)の方がまだしもの感じがします。といっても、今度は「作家性」自体にも疑問があるのですが、ここはそれを議論する場ではありません〕。

(注6)あるいは小川氏は、本作について、「戦争を現代風なヒューマンドラマに置き換え過ぎている」とも述べています(同書P.164)。

(注7)小川氏が「GUQのプレスコードから、書物はかなり自由になったが、映像作品はまだ完全に拘束されている」と指摘しているところからすれば(同書P.165)、山崎監督がこうした「トリック」を作りだしたと小川氏が言うのは、あるいはレーニンが『帝国主義論』を書く際に「イソップ的な――呪わしいイソップ的な――ことばで、定式化」したことに、もしかしたら対応させようとするからでしょうか?

(注8)小川氏は、例えば、原作P.225の「俺は自分が人殺しだと思ってる!」との宮部の言葉を引用します(同書P.182)。

(注9)小川氏は、例えば、映画では「太平洋戦争」と呼ばれている先の戦争に対して、原作の中ではありませんが、百田氏が「大東亜戦争」と呼んでいることを挙げます(同書P.166)。

(注10)本作では、空母の上空から真っ逆さまに突入する宮部の乗った零戦が、最後の最後にどうなるのかは描かれてはおりませんが、ラストの宮部の表情からすると、あるいは体当たり攻撃が成功して敵空母に大きな打撃を与えたのかもしれないと想像されるところです。
 現に、小川氏は、その著書で「その瞬間に敵艦は粉砕された」と述べています(P.62)。

 なお、ラストの宮部の表情について、山崎貴監督は、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」によれば、「いくつもの表情が同時に進行しているような表情をして欲しい」と演出したようですが、上記「注3」で申し上げたことからすれば、ここには、特定の一個人の表情というよりも、むしろ特攻で敵艦に体当たり攻撃をしたたくさんの隊員の表情が集約されているものとみなせるのではないかと思いました。

 さらにいえば、ラストのエピソードの前に、街を歩く健太郎の上空に零戦に搭乗した宮部が出現して敬礼をするシーンがありますが、これも、特攻で散ったたくさんの特攻隊員たちが現代の青年たちに送っている挨拶ともいえるのではないでしょうか?

(注11)「宮部は、敵戦闘機を撃墜した後、落下傘で飛行機から脱出したアメリカ兵を撃ったことがあ」り、「宮部は、自らは命を惜しみながら、敵に対しては、無防備な相手でも殺す」のであると小川氏は述べます(同書P.180)(これに対応するのは、原作のP.222~P.226)。

(注12)「この男の爆弾が不発でなかったら、我々の何人かは死んでいたかもしれない」と、米軍空母の乗組員の一人に作者は語らせているのです(原作P.573)。



★★★☆☆☆



象のロケット:永遠の0

麦子さんと

2014年01月14日 | 邦画(14年)
 『麦子さんと』をテアトル新宿で見ました。

(1)昨年11月に見た『ばしゃ馬さんとビッグマウス』の吉田恵輔監督の続けての作品ということで見に行ってきました。

 物語は、主人公の小岩麦子堀北真希)が、兄の憲男松田龍平)と二人で一緒に住んでいるところに(父親は3年前に亡くなりました)、ある日突然母親の赤池彩子余貴美子)が舞い戻ってきます。彩子は、麦子が生まれるとすぐに家を飛び出してしまったために、麦子には母親の記憶がありませんから、母親だと言われてもとても受け入れ難く感じてしまいます。
 にもかかわらず、憲男が女と同棲することになり家を出ると、家には麦子と彩子の二人きりになってしまいます。



 それでもなんとかやっていたところ、ある日彩子は急死してしまいます(実は末期癌だったのを隠していたのです)。そこで、麦子は、お墓に納骨するために母親の遺骨を持ってその郷里に行きますが、そこで麦子を待ち受けていたものは、………?

 亡くなった母親の若い時分の思いを娘が次第に理解していくというありがちなストーリーながらも、主役の堀北真希の好演や、脇を支える俳優陣の多彩さもあって(注1)、まずまずの仕上がりを見せている作品だなと思いました。

(2)前作の『ばしゃ馬さんとビッグマウス』と比べると、前作の主人公・みち代が脚本家志望一本なのに対し、本作の麦子はいろいろ挑戦している点が違いますが、二人ともうまくいかない(あるいは、うまくいきそうにない)点で共通しているでしょう。
 さらにまた吉田恵輔監督作品で特徴的な常識はずれの登場人物に関しては(注2)、前作のビッグマウスの天童と本作の彩子とが、もしかしたら共通するといえるかもしれません。なにしろ、天童は脚本を書く前から自信たっぷりな話し方をする男ですし、彩子は20年ほどして突如として「一緒に暮らせば、楽になると思って」などと言って麦子と憲男の家の中に入り込んでいくのですから。

 でも、そうは言っても両作の雰囲気はまるで違う感じです。
 前作は、10年以上東京でプロの脚本家になるべく頑張ってきたみち代が、ついに挫折して故郷に戻るという話なのに対して、本作は母親の死をきっかけにしてその故郷に行った麦子が、再び東京に戻って声優を目指して頑張ろうとする話で、ベクトルの向きが反対なのですから。

 それに、みち代と麦子とは一世代ほども歳の差があるのです。
 あるいは、みち代が故郷に戻らずにそのまま東京に残って、例えば元役者志望で介護士の松尾と結婚して子どもをもうけるものの、やはり上手く行かず家を飛び出してしまうということにもなれば、彩子と麦子の関係に似てくるかもしれません。
 とはいえ、『赤いスイートピー』を歌う松田聖子に憧れて歌手になろうと上京する彩子と、プロの脚本家になろうとして上京するみち代とは時代がまるで違い(30年以上の間隔)、仮にみち代の子どもがみち代の故郷に行くにしても、この映画のようなことは何も起こらないことでしょう!

 なお、細かいことを言えば色々問題点はあるでしょう。
 例えば、いくら母娘だからといって、見間違えるほど顔つきが似るものでしょうか(注3)?よく、娘の方には父親の要素が入り込むことが多いなどと言われますし。
 そういえば、本作において、麦子や憲男の父親はどこに行ってしまったのでしょう?ストーリー上3年前に死んだことになっていますが、その痕跡がマッタク感じられないのです。死んで3年もしたら、父親というものは完全に忘れられた存在になってしまうのでしょうか?

 それから、麦子は母親の遺骨を持って故郷に行くわけですが、それは父親が眠る小岩家のお墓がある田舎ではなく、母親の方の赤池家がある田舎なのでしょう。
 その場合、どうして母親の親類縁者などが登場してこないのでしょうか?母親の故郷で麦子の面倒を見るのは、彩子のことをよく知る同年輩の面々ばかりです(注4)。
 特に、麦子が埋葬許可証の届くまで過ごすのが、赤の他人のミチル麻生祐未)というのも唐突な感じです(注5)。常識的には、赤池家の誰かが面倒を見るものではないでしょうか(注6)?

 さらには、麦子が田舎を歩いている時の背景に中央高速が映るシーンがあります。仮に田舎が山梨県だとしたら、麦子は、埋葬許可証が届くのを田舎で数日待つということをせずとも、一旦東京に戻れたはずですが(注7)。

 でも、そんなあれこれはごくごく些細なことに過ぎません。
 本作は、突然家に現われた彩子に対し、「私、あんたのこと母親と思っていないから」との激しい言葉をぶつけてしまった麦子が、彩子が故郷の皆から愛された一人の人間であることを見出して(注8)、次第に彼女を母親として受け入れていくという物語であり(注9)、そのことを感じ取ると、つまらないことはどうでも良くなってきます。

 としても、23歳の麦子の携帯の相手の男性が憲男に過ぎず(注10)、また彩子が麦子のためにお金を残してくれたことを喜んでいるようでは、麦子の将来もまだまだであり、好きな彼氏ができ、さらには彩子がどういう経緯で父親と一緒になって自分を生むに至ったのかということに向き合わないと、麦子にさらなる飛躍は望めないような気もするのですが。

(3)渡まち子氏は、「不満点は多い。それでも娘が母を理解し、母親に対して素直になりたかった自分を発見する姿は、心温まる。オフビートな笑いの中にちょっぴり涙。ユルいムードを楽しんで見てほしい」として60点をつけています。
 また相木悟氏は、「チクリと毒の効いた内容ながら、心地良い余韻を残すハートフルな一品であった」と述べています。



(注1)最近では、堀北真希については『県庁おもてなし課』、松田龍平については『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』、余貴美子については『横道世之介』で、それぞれ見ました。



(注2)『さんかく』についてのエントリの(2)で触れましたように、吉田恵輔監督作品としては、これまで『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、『さんかく』、『純喫茶磯辺』のほかに、DVDで『机の中』を見てきましたが、今回の作品と合わせて、もうひとつ残っている『なま夏』をDVDで見てみました。
 この作品は、吉田監督が初めて監督・脚本・編集を担当したエロティック・コメディーで、どうしようもない中年男(三島ゆたか)の性態について、30歳の監督がどうしてこんなにリアルに描き出せるのかと感心しました。
 そして、この作品も、『さんかく』、『純喫茶磯辺』や『机の中』と同じように、常識はずれの男性主人公を中心に男女の変わった関係を描いているものといえるでしょう。
 その一方で、今回作品では母娘の関係に焦点が絞られていて、特異な男女関係はマッタク描かれておらず、前作『ばしゃ馬さんとビッグマウス』同様、少し残念な気がします。例えば、本作では、故郷のタクシー運転手から「彼氏は?」と尋ねられると、麦子は「今は特に」と答えるだけで、前作で多少は描かれていた男女関係の描写が後退してしまっています。



(注3)ただ、この間たまたまTV朝日の『徹子の部屋』を見ていましたら(1月10日)、その回に登場した檀ふみが自分の母親(脳梗塞で療養中)の写真を見せていましたが、まるで瓜二つのように似ているのには驚きました!

(注4)例えば、麦子を乗せて旅館まで行くタクシーの運転手・井本温水洋一)、その旅館の旦那(ガダルカナル・タカ)。

(注5)ミチルの勤務先が町役場だとすると、赤池家のお墓が設けられている霊園は町営のものでしょうか?ただ、田舎の場合、普通、各家はお寺の墓地にお墓を持っているのではないかと思うのですが(勿論、時代はどんどん変わっていることでしょうが)。

(注6)あるいは、彩子が無断で家を飛び出してしまったために、赤池家の親類筋とは縁が切れてしまっているのかもしれません。ただ、その場合には、埋葬許可証があるとしても、どこのお墓に入れるというのでしょう?

(注7)勿論、これは単なる言いがかりであり、本作の場合、ロケ地が山梨県都留市であっただけのことであり、麦子が降り立つ「五藤町」が山口県にあっても、あるいは鹿児島県にあっても何らおかしくありません!

(注8)例えば、麦子が「うるさい」と言って投げつけて壊してしまった目覚まし時計は、彩子が東京へ行く際にその親が持たせたものであることを、タクシー運転手・井本の話から知った時など。

(注9)例えば麦子は、母親(ふせえり)を突き飛ばした旅館の息子を詰ったり、また大阪に子どもを残して「五藤町」にいるミチルは、「いろいろ事情がある」と言ってその子どもに会おうとしませんが、それに対して麦子は、「そんなことは子どもと関係がない、どうして会ってやらないのか」と非難したりするようになります。

(注10)なお、突然家に飛び込んできた彩子に対して、一定の記憶を持つ憲男の方は(そればかりか、彩子からの仕送りを受け取っても来たのです)、表向きは「ババア」と言ったり、彩子が死んだことにつき「まあ、ざまーみろ、だよな」と言ったりしていますが、遺骨となった彩子に向かって涙を流しもするのです。



★★★☆☆☆



象のロケット:麦子さんと

ゼロ・グラビティ

2014年01月10日 | 洋画(14年)
 『ゼロ・グラビティ』を渋谷TOEIで見ました。

(1)いつもは躊躇する宇宙物ながら、サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーとが初共演とのことで、映画館に行ってきました。

 映画の冒頭では、地上600㎞の高さになると、温度は+250~-100ºCで、音を伝えるものはなく、気圧も酸素もないなどと説明されます。
 そんな厳しい環境の宇宙空間で、メディカル・エンジニアのライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)は、スペースシャトルから出てハッブル宇宙望遠鏡にかかわる作業をしています(注1)。また、バッテリーの交換をしている者も。



 さらにその周囲では、ベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキージョージ・クルーニー)が、宇宙遊泳記録をつくろうとプカプカ浮かんだり、ストーン博士を手伝ったりします(注2)。
 その時、地上のヒューストンから、「作業中止、至急地球にもどれ」との緊急連絡が。ロシアによって破壊された人工衛星の破片(スペース・デブリ)が猛烈なスピードで彼らの方に向かっているというのです。
 ですが、すでに時遅く、大量の破片が彼らに襲いかかり、ストーン博士は、スペースシャトルに取り付けられていたアームともろともに宇宙空間に放り出されてしまいます。アームとつながっていたベルトを外すと、彼女は回転運動を起こしてしまい、自分の位置が把握できません。
 そうこうするうちにコワルスキーが彼女を探し出し、急ぎスペースシャトルに戻ろうとします。
 でも、人工衛星の破片によりスペースシャトルも大破してしまったため、次の手として、国際宇宙ステーション(ISS)に行って、そこに接続されているソユーズを使おうとします。
 さあ、この帰還劇はうまくいくのでしょうか、………?

 登場人物が2人だけながら、次々に危機が彼らに襲いかかるために、最後の最後までハラハラのし通しでした。そればかりか、宇宙空間での映像が実に素晴らしく、リアリティーも迫力も十分感じられ、91分を大層堪能したところです。

(2)ですが、本作については、佐藤秀さんのブログ記事が指摘するように、様々な問題点があると思われます。
 加えて、邦題の「ゼロ・グラビティ」には少々違和感を覚えます。
というのも、重量(weight)がゼロ、すなわち無重量のことを無重力と呼ぶことがあるにせよ、重力(gravity)そのものはなくならないのですから、正確な言い方ではないわけですし(言葉の使い方の問題に過ぎませんが)、さらにストーン博士が地球に帰還するというこの映画のメインの話も、まさに重力があってこその話だからです(注3)。

 とはいえ、理系の知識の乏しいクマネズミは、本作を見ている最中は、それらの問題点はマッタク念頭に浮かばず、ただただその素晴らしい映像に見入ってしまいました(尤も、2Dによる上映を見たにすぎませんが)。

 さらにまた、本作に登場する2人の俳優の素晴らしさも言を俟たないでしょう。
 その主役はいうまでもなくストーン博士であり、それに扮するサンドラ・ブロックが熱演していてすこぶる感銘を受けました。



 でも、やはり共演のジョージ・クルーニーを忘れるわけにはいきません(注4)。
 あれだけの美男子でスタイル抜群にもかかわらず、ほとんど宇宙服を脱ぐこともなく、ヘルメットのガラス(注5)越しにしか顔を見せないで窮屈至極の演技するのですから(注6)!



 それだけでなく、彼の無駄話めいた交信内容は、ジョージ・クルーニーが話すことによって実に味があるものとなっています。
 例えば、ヒューストンの管制官に向かって、「1996年に42日間のミッションをした時、テキサスの上空を飛行するたびに、地上で妻が私のことを思って空を見上げていることが分かっていたので、6週間にわたってキスを投げ送っていた。ところが、エドワード空軍基地に降り立ったら、妻が弁護士と逃げ去っていたことがわかったんだ」と彼がしゃべると、管制官は「何度も聞いたよ」と切り返します。
 暫くして、彼が、「今回のミッションは、1987年の感謝祭の時と同じように嫌な感じがする」と言うので、管制官が「その話は初耳だ」として促すと、彼はニューオーリンズのバーボンストリートを歩いていた時のことを語り始めますが、その際中に作業中止の指令が飛び込むのです。
 その後様々な出来事があって、宇宙船ソユーズの中に一人取り残されたストーン博士は、コワルスキーを探して、「マット、どこにいるのか伝えて。ケープ・カナベラルを出発して以来、ずっとしゃべり続けてきたのに止めてしまったの?感謝祭の話の続きはどうしたの?」と無線で呼びかけますが、何の応答もありません(注7)。

(3)なお、本作を見ている時に思い浮かんだのは、本作と対極をなすような作品『アップサイドダウン』でした。
 同作の設定では、2つの惑星が逆向きにギリギリで接触する位置にあり、それぞれの住民はそれぞれの重力から逃れることが出来ないのです。主人公は、禁を破って反対側の惑星に入り込むのですが、そのままの状態では行動できないため、秘密裏に取得したその惑星の金属(「逆物質」と言われます)を体にまとって動き回ります。
 それでも最後には、実にあっけないやり方で主人公は反対側の惑星の恋人と一緒になることができるのですが。

 同作は、リアルな装いを凝らしている本作とは異なって、実際には起こりえないファンタジーの世界を取り扱っているとはいえ、本作とは正反対の方向から「重力」を描き出していて、それはそれで興味深いものがあります。

(4)渡まち子氏は、「ほとんどが宇宙服を来て素顔をさらさず、体を使っての演技も制限される中、熱演をみせたブロックとクルーニーのオスカー俳優2人の演技も絶品。存分に“遊泳する”ためにも、絶対に3Dで見てほしい作品で、映画好きなら見逃し厳禁の傑作だ」として、なんと95点をつけています。
 相木悟氏は、「ジェットコースター気分でスリルを楽しんで、帰りにはしっかりとした感動が胸に残る。これぞ映画的アトラクション・ムービーの正しい在り方といえよう」と述べています。




(注1)ヒューストンからの連絡では、データが何も送られてきていないとのこと。修理しなくてはなりませんが、それには後1時間かかるようです。ストーン博士は、この作業に時間をとられてしまってスペースシャトルに帰還するのが遅れ、ひいては大事故に結びついてしまったと悔やみます。

(注2)その際の会話で、ストーン博士は、スペースシャトルに乗船する前に半年ばかりの訓練を受けていることがわかります(但し、そのなかには休日が含まれていたようです)。

(注3)人工衛星が地球を回っているというのも、重力と遠心力とが打ち消し合っているからという説明と、重力によって人工衛星は絶えず地球に向かって落ち続けているという説明がなされているようですが、いずれにせよ重力がゼロというわけではありません。これは、宇宙船の中の状態にも当てはまるでしょう(例えば、このサイトの記事のQ8を参照)。

(注4)サンドラ・ブロックは、最近では『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』で見ましたし、ジョージ・クルーニーについては、最近では『ファミリー・ツリー』で見ました。

(注5)あるいは「バイザー」と言うのかもしれません。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、本作でそれはCGを使って描かれているとのこと。

(注6)ソユーズに入り込んだストーン博士が抱く妄想の中で、コワルスキーはヘルメットを外しますが。

(注7)コワルスキーの無駄話も、ミッションが初めてのストーン博士の緊張感をほぐすのに役立ったものと思われます。
 それまでのコワルスキーとの会話の中でも、ストーン博士は、次第に自分自身のことを話しています〔例えば、4歳の娘を失ってしまったこと(学校で鬼ごっこで遊んでいる最中に、滑って頭を打って)。この話を聞き出すにあたっては、先に話したコワルスキーの妻の話が伏線として効いている感じです〕。
 なお、ソユーズに乗り込んだストーン博士がグリーンランドのイヌイット族の漁師と交信する様を、地上の漁師の側から描いた映像が、スピンオフ動画になっています(この記事で当該動画とその概要がわかります)。




★★★★★☆




象のロケット:ゼロ・グラビティ

日本インターネット映画大賞の投票を巡って

2014年01月08日 | その他
 前回前々回は、第18回日本インターネット映画大賞への投票内容を掲載いたしましたが、今回はそれらを補足する事柄を若干申し上げたいと思います。

①事前のランク付けについて
 クマネズミは、今回初めて日本インターネット映画大賞に投票しましたが、1年間に渡り見た映画を、投票間際になってきちんと順位付けすることはなかなか難しいなと痛感しました。加えて持ち点30点を各作品に割り当てなくてはならず、四苦八苦したところです。

 実情を言えば、今回の選定にあたっては、各エントリにおいて予め★4つ以上付けているものをまず選び出し、その中から更に日本映画・外国映画おのおの10作品を選んでみました。
 ただ、昨年の場合、日本映画については全体で54作品についてエントリをアップした中で、22もの作品に対して★4つを付けていましたし、外国映画についても53作品の内、21作品です。
 まあ、いずれにしても40%ですから酷く面倒というには当たらないかもしれませんが、もう少し作業の手間を省けないものかと思いました。

 そこで、本年は★を6つに増やしてみてはどうかなと考えています。すなわち、
★★★★★★………最高!抜きん出て優秀(例えば、邦画の『演劇1,2』とか洋画の『ザ・マスター』クラスのもので、それぞれ年間1、2作)
★★★★★ ………かなり優秀(例えば、邦画の『さよなら渓谷 』、『そして父になる』などとか、洋画の『25年目の弦楽四重奏』、『愛、アムール』などといったレベルのもので、それぞれ年間3~5作)
★★★★  ………やや優秀(例えば、邦画の『地獄でなぜ悪い』とか洋画の『キャプテン・フィリップス』などが相当し、それぞれ年間6~8作)
★★★   ………普通(大部分の作品はこのランクに入ることになると思います)  
★★    ………良くない
★     ………箸にも棒にもかからないくらいダメ(実際には、公開される映画でそんな作品はめったにお目にかかれないと思います)

 要すれば、年間それぞれ10作程度の良い映画を選び出すという眼で映画を見ながらランキング付けをするということではないかと思います。

 勿論、年末になって1年全体を見渡してみないとなかなかランク付けは難しいとは思いますが、もとよりランク付けといっても、クマネズミの場合、客観的な基準があるわけではなく、その時々の気分に従って行っているに過ぎず、有り体に言えばお遊び半分のものですから、もしかしたらなんとかなるかもしれません。

②2013年のワースト映画について
 日本インターネット映画大賞では、一昨年まで設けられていた「ブーイングムービー賞」が昨年から廃止されてしまいました。

 言うまでもなく、どんな映画にせよ公開に至る作品であれば何かしらの長所を持っているはずであり、「ワースト」といって切って捨ててしまうのは随分と気が引けるところです。
 でも、褒める作品だけを並べるのでは、なんだか仲間内で褒め合いをしているような感じがして緊張感が薄れてしまいます。やはり、批判的な観点は必要なのではないでしょうか?
 そして、そもそもからいえば、ベストがあるのはワーストがあるからこそとも言えるでしょう。

 さらには、褒めている作品だけでなく貶している作品をも含めて全体を皆様にお示しすることによって、クマネズミの映画に対する傾向がより鮮明に出てくるかもしれません(「ワースト」作品として提示されるものから、むしろ貶している評者・クマネズミの短所が浮き彫りになることでしょう)。

 そこで、以下では、昨年公開された作品の中から「ワースト」と思えるものをいくつか書き並べてみることといたします(各エントリにおいて予め★2つ付けているものから選び出しました)。

イ)日本映画のワースト
【1位】『くちづけ
【2位】『人類資金
【3位】『藁の楯

 『くちづけ』は、感動を売りにしている新劇仕立ての画面構成に拒絶反応を起こしました。
 『人類資金』は、一応はグローバルで随分と大きなスケールの設定になっているものの、そこで物語られるお話が荒唐無稽すぎ、とても乗れたものではありませんでした。
 『藁の楯』も、邦画では珍しい大規模なカーアクションが見られるものの、その基本的な設定は果たして現実に成立するのだろうかなど、見ている途中からいろいろな疑問点が浮かんできてしまいます。

ロ)外国映画
【1位】『スマイル、アゲイン
【2位】『ベルヴィル・トーキョー
【3位】『悪の法則

 『スマイル、アゲイン』は、TVドラマでもこんな低調なホームドラマを放映しないのではというくらいの実に他愛のないつまらない作品でした。
 『ベルヴィル・トーキョー』は、男性側からするとなんとも他愛がない作品であり、なんだか映画学校卒業作品のような感じがしました。
 『悪の法則』は、主役級の俳優が5人も揃って出演しているにもかかわらず、映画はつまらなく、思わせぶりの会話の多い脚本に問題があるのではと思いました。




日本インターネット映画大賞―2013年度外国映画投票

2014年01月07日 | その他
 今回は、前回に引き続いて、外国映画についてです。

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『 外国映画用投票テンプレート 』

【作品賞】(3本以上10本まで)
「 ザ・マスター   」    7 点
「 25年目の弦楽四重奏 」  5 点
「 偽りなき者   」     4 点
「 愛、アムール  」     4 点
「 ハンナ・アーレント 」   3 点
「 愛さえあれば  」    2 点
「 きっと、うまくいく 」   2 点
「 カルテット! 人生のオペラハウス 」 1 点
「 タイピスト!  」    1 点
「 キャプテン・フィリップス 」   1 点
【コメント】
 昨年、フィリップ・シーモア・ホフマンが出演する2作で、その類まれな演技を見ることが出来たのは幸せでした。

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【監督賞】           作品名
[ ミヒャエル・ハネケ  ] (「愛、アムール」)
【コメント】
 高齢者を巡るドラマを描き出す冷厳な眼差しに圧倒されました。

【主演男優賞】
[ フィリップ・シーモア・ホフマン  ] (「25年目の弦楽四重奏」)
【コメント】
 本作での演技は、まるで実際に長年弦楽四重奏を演奏しているかのごとくに見事なものでした。

【主演女優賞】
[ バルバラ・スコヴァ ] (「ハンナ・アーレント」)
【コメント】
 女性哲学者を演じる姿に目を見張りました。

【助演男優賞】
[ フィリップ・シーモア・ホフマン ] (「ザ・マスター」)
【コメント】
 主演のホアキン・フェニックスの鬼気迫る演技以上に、彼の融通無碍な演技に惹かれました。

【助演女優賞】
[ トリーネ・ディアホルム ] (「愛さえあれば」)
【コメント】
 美容師でありながらウイッグを付けている中年女性を実に魅力的に演じています。

【ニューフェイスブレイク賞】
[ ラファエル・ペルソナ ] (「黒いスーツを着た男」)
【コメント】
 新人ではありませんが、本作で「アラン・ドロンの再来」と騒がれました。

【音楽賞】
「 25年目の弦楽四重奏 」
【コメント】
 ブレンターノ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの「「弦楽四重奏曲第14番」の演奏は素晴らしいものがありました。

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【私が選ぶ○×賞】
[ 脚本賞 ] (「ハンナ・アーレント」)
「マルガレーテ・フォン・トロッタ」
【コメント】
 実に考えぬかれた構成による映画を作り上げています。

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